潔淨精微、易之教也

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唯心と唯物 ― 中国易文化についての雑談

2009-01-31 01:38:51 | Weblog
今までの世界の哲学には大きく分類したら二種類で分けることができます。唯心論と唯物論というものである。
宗教を代表としての唯心論と西洋科学を代表としての唯物論は数百年の間に論戦、戦って、今現時代では西洋科学を代表としての唯物論の方がリーダしているのは事実です。
しかしこの事実ができた基礎は何千年で神権社会に主導している宗教現象を代表としての唯心論の認識を積み重ねた質変であり、「無」から急に唯物的な認識ができません。
人類の認識の過程に「無」から「有」の間に唯心と唯物の二段階があると老子思想の精華の一つである。
唯物なら皆さん理解しやすいけれども、唯心が一体どんなものか理解しにくくて、ちょっと不適当かもしれませんが、イメージでいうと、唯物の角度から見ると、数学の範囲にすべての数学的に証明できないものは唯心の部分です。ですからある意味で言うとすべての「公理」「公設」(無条件で正しいとの認識)が実は唯心によるのもので、唯物的なものではありません。
例えば:数学の非欧幾何が出る前に「1+1=2」が絶対正しいと認識されたんだけど、非欧幾何が出たら、“「1+1=2」が正しい”という認識も絶対な真理ではなくなるでしょう。それと同じ、非欧幾何の中にいつくかの「公理」も実は「1+1=2」と似ているもんです。それはまた数百年後に認識されると思います。
単純にいうと、認識の過程にまずは唯心の結果、その次は唯物の発展、そして一段階になったら、また唯心、また唯物……
これは人類の認識が必然な通る道です。

ここで一つの問題が目の前にあった。
認識が無限なことですが、その無限な認識をどうしたら‘終点’まで到達できるのかの問題です。これは西洋科学にあるすべての問題より大きいテーマです。唯心→唯物、そしてまた唯心→唯物……のような積み重ね……つまり、この発展の道の‘方程式’がどう表現する問題です。
西洋科学の角度はこの問題に意識もしません。意識をしても入手の解決のドアもありません。

易思想は唯心と唯物を分けて見るものではありません。
老子曰:「故常無欲,以觀其妙,常有欲,以觀其徼。」
無欲という部分が人自体から離れる状態で、唯心の段階です。
有欲という部分が人が自己中心から見出す状態で、唯物の段階です。
そして老子は唯心と唯物が向く方向も解説していただいた。まとめて言うと「道が内に探し、行が外に表す」とのお話でした。その中に‘道’というのが本質のイメージ(公理、唯心)で、‘行’というのは外見と反応のイメージ(証明できる結果、唯物)です。理論上のシミュレショーで表現してみたら陰陽と五行の関係がその一つです。
易思想により、唯心から唯物までの通路が表示できるけれども、唯物から唯心までの通路が表示できないことが分かります。つまり人間の認識の方向が時間と空間と同じような一方通行です。
「陰陽の模型が本質としたら、必ず五行の形で表現が出てくる」
去年に縁がある方に陰陽と五行の間に転換する時の精密の計算方法を教えたので、それよって陰陽から五行までの流れが逆転できないことをはっきり理解できるでしょう。陰陽が裏の内容で、事の見えない部分です。五行が表見える表現です。陰陽から五行までの道が一本しかないけれども、五行から陰陽までの無二の道がなく、無限な可能の道があるということが見えます。
陰陽から五行までの計算方法も唯心と唯物の間の関係を見る時の一つの基本工具です。

仏教によく「大智慧」というんですが、その大智慧というのは一体何でしょうか?
―→「大智慧」とは‘唯心+唯物’という人の思想発展の全程の角度からの話で、一番の根元である。

雑談ですが、易を代表としての中国文化に興味を持っていただいた日本の研究者と愛好者の皆さんに中国文化への認識と理解にすこし力なれれば嬉しいです。