■真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年
(一部転載)
記者(鴨野)が取材した桑江良逢氏は大正十一年、沖縄県首里生まれ。戦時中、内南洋メレヨン島部隊の中隊長として、部下百人を指揮するが、食糧の補給を絶たれ八十二人を失った。引き揚げてから八十二人の全遺族に、お詫(わ)びの手紙をしたためた。それだけでは気持ちが収まらず、四カ月かけて東北、北海道方面に「弔問の旅」に出る。引き留める部下にこう語った。「ご遺族が怒り、悲しみに包まれている時だからこそ行く、殺されてもよい」と。
その旅の途中で、沖縄戦で祖母、母、下の弟が戦死していた、という便りを受け取った。
その時の心境を桑江氏はこう語った。
「心の底では、愛する家族の死は人間として悲しいことです。しかし、その一方で、かけがえのない家族を亡くした人たちに合わせる顔がようやくできたな、と半分は嬉(うれ)しかった。これは、そういう立場に立った者でないと分からん心境です……」
昭和四十七年、陸上自衛隊第一混成群(現第一混成団)の初代群長として赴任した沖縄では、県知事の許可が出ない中、離島の患者搬送のために、己の職を賭して自衛隊機の出動を命じた。彼もまた、気高き武士道の体現者である。
黄文雄著『命がけの夢に生きた日本人』 (青春出版社)には戦前、海外で活躍し尊敬された探検家、博物学者、医者、言語学者、軍人など三十六人が生き生きとした筆致で描かれている。「戦前=悪」というレッテル張りには、もう「賞味期限切れ」の烙印(らくいん)を押す時ではないのか。
(一部転載)
記者(鴨野)が取材した桑江良逢氏は大正十一年、沖縄県首里生まれ。戦時中、内南洋メレヨン島部隊の中隊長として、部下百人を指揮するが、食糧の補給を絶たれ八十二人を失った。引き揚げてから八十二人の全遺族に、お詫(わ)びの手紙をしたためた。それだけでは気持ちが収まらず、四カ月かけて東北、北海道方面に「弔問の旅」に出る。引き留める部下にこう語った。「ご遺族が怒り、悲しみに包まれている時だからこそ行く、殺されてもよい」と。
その旅の途中で、沖縄戦で祖母、母、下の弟が戦死していた、という便りを受け取った。
その時の心境を桑江氏はこう語った。
「心の底では、愛する家族の死は人間として悲しいことです。しかし、その一方で、かけがえのない家族を亡くした人たちに合わせる顔がようやくできたな、と半分は嬉(うれ)しかった。これは、そういう立場に立った者でないと分からん心境です……」
昭和四十七年、陸上自衛隊第一混成群(現第一混成団)の初代群長として赴任した沖縄では、県知事の許可が出ない中、離島の患者搬送のために、己の職を賭して自衛隊機の出動を命じた。彼もまた、気高き武士道の体現者である。
黄文雄著『命がけの夢に生きた日本人』 (青春出版社)には戦前、海外で活躍し尊敬された探検家、博物学者、医者、言語学者、軍人など三十六人が生き生きとした筆致で描かれている。「戦前=悪」というレッテル張りには、もう「賞味期限切れ」の烙印(らくいん)を押す時ではないのか。