聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマの信徒への手紙 8:23〜25

2019-06-30 22:43:30 | 聖書
2019年6月30日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:23〜25(新共同訳)


 パウロは 8:17「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」と述べたところから苦しみについて語り始めます。
 この罪の世にあっては、罪がもたらす苦しみに絶えず襲われます。そしてこの苦しみは、罪を犯した人間だけでなく、被造物全体をも巻き込んでいます。つまり全世界・全被造物が、神の救いを必要としています。そして全世界・全被造物が、神の救いの約束という希望に支えられています。
 この希望が単なる口約束ではないことを、神の救いの御業によって確認されてきました。旧約であれば、出エジプト、バビロン捕囚からの解放。新約においてはイエス キリスト。その生涯、特に十字架と復活。こうした出来事を通して、神は生きておられる、神はわたしと共にいてくださる、ということが確認されてきたのです。
 わたしたち一人ひとりにも、神さまがこのように導いてくださったと感じる出来事が起こってきます。聖書の言葉を聞いて信じただけではなく、神はわたしと共にいて導いていてくださる、それを確認する出来事が与えられ、神の約束が信じる者一人ひとりにおいて、希望となっていきます。神がわたしたちの希望となってくださっているのです。

 きょうの箇所で「霊の初穂」という言葉が出てきます。「初穂」と訳された言葉は、直訳すると「最初の実」となります。霊の最初の実というのは、聖霊が最初にもたらしてくださったものという意味です。聖霊が最初にもたらしてくださったのは、イエス キリストがわたしの救い主であると信じる「信仰」です。
 最初の実ということは、聖霊がもたらしてくださるものは信仰だけではありません。2コリント 3:18には「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とあります。わたしたちが救われた結果、主と同じ姿まで導かれていきます。そしてついには黙示録 21:3,4にあるように「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」との預言が成就するのです。

 わたしたちキリスト者は、これらのことを御言葉から聞いているので、「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んで」いるのです。

 神は忍耐深いお方です。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現(救いの完成)を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ 3:9)

 神が救いのために忍耐しておられるので、神はご自分の民にも忍耐して待つことをお求めになります。神の民は救い主イエス キリストの到来を長い時間待ちました。そして今は、キリストの再臨、神の国の到来、救いの完成を待ち望んでいます。
 神の民は罪の世にあって、苦しみうめきながら待っています。神の民は祈ります。「主よ、来てください(マラナ・タ)」と祈りつつ待ち望んでいます。ヨハネの黙示録は語ります。「“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。」「『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙示録 22:17, 20)

 主ご自身が「わたしはすぐに来る」と言われたので、代々のキリスト者は救いの完成を期待しました。しかし主の「すぐに来る」は、わたしたちが考える「すぐ」とは違いました。聖書は語ります。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(2ペトロ 3:8)だから神は、わたしたちに希望を持って生きるようにされたのです。

 24節は新共同訳では「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」と訳しています。間違いではありませんが、ここは新しい聖書協会共同訳のように「この希望のうちに救われている」と訳した方が良いように思います。なぜかと言いますと、「〜によって救われる」と言うとき、聖書は根元的に「キリストによって救われる」と言っているからです。この箇所では、希望がわたしたちの罪を贖い、救い出すのではなく、救いの希望を持って生きられるように、わたしたちはこの希望のうちに救われているのです。

 希望は将来において実現するものです。希望を与えられている者は、その成就を忍耐して待ち望みます。特にわたしたちキリスト者は「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」(2コリント 4:18)わたしたちは目に見えない神を信じ、目に見えるこの世ではなく、神の国・神のご支配を仰ぎ見ています。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント 4:18)そしてわたしたちは「目に見えるものによらず、信仰によって歩んで」(2コリント 5:7)いるのです。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ 11:1)わたしたちの救いのために、神と等しくあることに固執せず、人となられ、その命さえも献げてくださったイエス キリストにおいて確信し、確認するのです。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ」(ヘブライ 12:2)つつ、イエスご自身に支えられながら忍耐して待ち望むのです。

 イエス キリストこそ神の言葉です。旧約の言葉であるヘブライ語の「言葉」という単語(ダーバール)には「出来事」という意味があります。神の言葉は、語られると出来事となったからです。例えば、神が「光あれ」と言われると光が現れました(創世記1章)。ですからイエス キリストが神の言葉であると言うとき、単にイエスが神の御心を正しく伝えたというのではありません。イエス キリストこそ、神の言葉、神の約束の成就なのです。神の言葉が決して空しくないことの証し、出来事なのです。聖書は語ります。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ 55:10, 11)この神の言葉が本当であることの証しが、イエス キリストなのです。
 だからイエス キリストを仰ぎ見るとき、信仰が与えられ強められるのです。希望が与えられるのです。だからイエス キリストと共にあるとき、わたしたちは神を讃美することができるのです。

 ですから、イエス キリストと出会う、イエス キリストと共にあることがとても大切です。そのために神は主の日ごとに礼拝に招いてくださるのです。毎週、キリストと出会えるのです。礼拝を守らなければならない、礼拝に来なければならないと言うよりも、キリストに出会い、キリストの救いに与る恵みが毎週与えられているのです。罪の世で、傷つき、くじけ、倒れてしまうわたしたちのために、礼拝は備えられているのです。だから礼拝には、讃美がふさわしい、喜びがふさわしいのです。
 そしてわたしたちを礼拝へ招いてくださった神は、礼拝の最後に集ったわたしたちを祝福をもって送り出してくださいます。礼拝には、神の愛と恵みが満ちています。

 神が救ってくださるのです。父・子・聖霊なる神がわたしたちを救ってくださいます。身も心も、体も霊も、わたしたちを丸ごとすべて救ってくださいます。そして、神ご自身がわたしたちの未来となってくださいました。だからこそわたしたちは「この希望のうちに救われているのです。」(8:24 聖書協会共同訳)


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストにある揺るぎない希望を与えられておりますことを感謝します。この希望を見失うことがないように、聖霊を注ぎ、キリストと結び合わせてください。キリストと共に神の国への道を歩み行くことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 8:19〜22

2019-06-30 22:41:02 | 聖書
2019年6月2日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:19〜22(新共同訳)

 人は天地創造のときに、神から務めを与えられました。「神は・・祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。』」(創世記 1:28)これは「祝福して言われた」とあるように祝福の言葉です。この務めによって、神の祝福が地に広がるのです。「従わせよ」という言葉の強さに誤解されがちですが、神の御心によって治めるのです。人は、神にかたどって創られ、神と共に歩み、御心をなすように創られました。

 しかし、人は罪を犯してしまいました。その結果、神とは違う自分の善悪を持つようになってしましました。神の御心によって、地を治めることができなくなりました。これにより、地も人の罪のために苦しむようになりました。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」(創世記 3:17)それで被造物は「すべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」のです。

 わたしたちはまず、罪は自分だけの問題ではなく、周囲を罪に巻き込んでしまうことを知らねばなりません。十戒に「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出エジプト 20:5)とあります。男であれ、女であれ、神に背く者が影響力を持っている家庭においては、一緒に暮らす孫、ひ孫まで影響を受けるのです。例えば、一国の総理なり大統領なりが戦争を始めたとき、平和主義者であっても、その国に暮らしている者は戦争に巻き込まれるのと同じです。
 ですから、罪に巻き込まれている被造物も、救いの完成、神の国の到来を待ち望み、「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」日を望み見ているのです。「神の子たちの現れるのを切に待ち望んで」いるのです。

 救いの完成、神の国の到来は、創造のときの「よかった」が回復されるときです。創世記1章の天地創造の出来事において、神は創造されたものを見て、「良しとされた」つまり「よかった」と6回言われました。そして6日目に人を創造された後で「極めて良かった」と7回目の「よかった」が言われました。
 7は完全数と言われています。1〜10までの基本的な数の中で最大の素数、割ることができない完全な数字だからだと考えられています。7日間の創造、7回の「よかった」、創世記は神の創造が完全なものであったことをこうした形で表現しています。
 それが人間の罪によって壊されてしまいました。そこで神は、救いの御業をなし、創造のときの「よかった」を回復しようとされました。

 イザヤ書は、その救いの完成をこのように描きます。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ 11:6~9)これは一言で言えば、神が創られたものすべてが、共にあることを喜べるということです。これが神の「よかった」なのです。罪は共に生きることを破壊していきます。神はその罪からわたしたちを救い出し、神の「よかった」に与らせてくださるのです。
 ですからイエスも、主の祈りにおいてわたしたちが日々祈るように教えてくださいました。「御国が来ますように。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」

 きょうの箇所では一つ気になる箇所があります。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思によるものであり、同時に希望を持っています。」罪による虚無に服しているのが、被造物自身の意思ではないことは分かります。しかし、服従させた方、つまり神の意志によるものとはどういうことでしょうか。

 これと同じような表現が、この手紙の中に出てきます。11章のところにこう書かれています。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル)の不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼ら(イスラエル)も、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(ローマ 11:30~33)この箇所を丁寧に読むのは、説教がこの箇所まで進んだときにすることにしまして、大事なのは「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだった」ということです。
 神がなさることで、理解しがたいことは、その時その時でたくさんあります。「なぜですか、神さま」と叫ばずにはいられないこともあります。わたしたちは神の御心を理解し尽くせませんが、聖書は、神がなさるすべては「すべての人を憐れむため」だと語ります。なぜならば、イエス キリストが来られたことによって「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ 3:16)ことが明らかになったからです。「神が御子を世に遣わされたのは・・御子によって世が救われるためである」(ヨハネ 3:17)ことが証しされたからです。
 ですからここでも「同時に希望も持っています」と語るのです。虚無に服従させた方の意思は、すべての人を憐れむことであり、イエス キリストによって世が救われることだからです。だから希望があるのです。

 先ほど、罪は周りを巻き込み、影響を与える、と言いましたが、罪に勝利した神の救いの御業は、それ以上です。先ほど引用した十戒では「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われています。罪が3,4代なのに対して、神の慈しみは幾千代です。わたしは3代前までしか知りません。千代となったらどれくらい時を遡ればいいのでしょうか。ルカによる福音書の言い方に倣えば「そして神に至る」(ルカ 3:38)となるのでしょう。わたしたちは皆「そして神に至る」系図の中に生きています。

 またイエスは、マタイによる福音書でこう言われました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42)
 わたしの両親も弟もその家族もキリスト者ではありません。けれど、わたしはその未信者の家族から冷たい水一杯以上のものを受けてきました。今は近くにいなくて、わたしが受けたことに報いることはできませんが、主イエスご自身がこのいと小さきわたしに代わって報いてくださるのです。
 わたしたちがイエス キリストを信じるとき、信じたわたし一人が恵みを受けるのではありません。神の恵みは、罪とは比べものにならないほどに大きな影響力を持ち、周囲を神の恵みに巻き込んでいくのです。

 だからわたしたちは、希望を持っています。神の御心に、神の御業に希望を持っています。救いの完成、神の国の到来に希望を持っています。このわたしがキリストと同じ姿に変えられるのです。罪から解放されて、愛することができるのです。赦すことができるのです。イザヤが預言したように、共にあることを喜び、神の「よかった」に満たされていくのです。
 聖書は語ります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒 16:31)だから愛する者も主に委ねて、安心して信じるのです。

 真理はわたしたちを自由にします(ヨハネ 8:32)。恐れから解放します。そしてイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)と言われます。真理であるイエス キリストこそ、わたしたち、そして全被造物を「滅びへの隷属から解放」し、「神の子供たちの栄光に輝く自由」に与らせてくださるお方なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストを通してわたしたちに希望を与えてくださることを感謝します。わたしたちはこの罪の世に捕らわれがちで、あなたをしばしば忘れてしまいます。どうか聖霊を注ぎ、キリストの救い、恵み、希望でわたしたちを満たしてください。どうかキリストを通してあなたの御心を知り、救いの御業に仕えていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 3:8〜11

2019-06-23 17:14:38 | 聖書
2019年6月23日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:8〜11(新共同訳)


 適切な表現ではないかもしれませんが、わたしにとって神を信じることは勇気のいることです。わたしはそう信仰深くないので、絶えず疑いが生じます。
 そのわたしがきょうの箇所を読むと、最初に感じるのは「風は思いのままに吹いてませんから。気圧の高い方から低い方に吹きますから。風が強くなるのも、台風が来るのも、天気予報を見たら分かりますから」ということです。わたしは素直に聖書を読むことができません。素直に聖書を読める人がうらやましくなります。

 きょうの本論からは外れますが、科学でいろいろなことが分かって説明できるようになりました。しかし罪の問題は解決しません。わたしが愛せない、赦せない、共に生きることに苦しんでいる。死に囚われて死から自由になれない。科学はわたしを罪から救い出しません。それは超能力なども同じです。念じただけでスプーンが曲げられようが、空中浮遊ができようが、罪からは自由になれません。

 こんなふうに風の話で躓いてしまうわたしに対して、キリストを信じているわたしが語りかけます。「イエスは、当時の世界観の中で生きるニコデモが分かるように、語りかけておられる。そもそも新しく生まれるという信仰の話が伝わるように語られているのであって、風が吹く原理を教えようとしておられるのではない。それを分かってる?」
 そういう過程を経て、ようやく聖書が伝えようとしている事へと向かえるようになります。わたしにとって聖書を読むということは、なかなか面倒くさいことなのです。

 本論に戻ります。人目を忍んで訪ねてきたニコデモに対して、イエスは即座に言われます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」この言葉にニコデモは衝撃を受けます。ファリサイ派の一員として神に喜ばれるように律法を守ってきたのに、当然神の国に入れられると信じて律法を守ってきたのに、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われるとは。さらにイエスは言います。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ここには律法の「り」の字も出てきません。

 ニコデモはまじめな信仰者です。まじめだからこそわざわざイエスを訪ねてきました。イエスに教えを請うて、さらに神を正しく理解し、正しく従おうと願っています。
 わたしたちはこのようなまじめで熱心な信仰を、評価し賞賛しがちですが、人の目にどのように見えようと、人の信仰には罪があります。信仰であっても、罪があります。まじめな信仰は、神を自分の信仰、また自分の論理に閉じ込めがちです。わたしたちは神を捉えきることはできませんが、まじめな信仰は神を理解し尽くしたかのような錯覚に陥りがちです。
 ですから、イエスが自分の理解を超えることを語ると混乱してしまいます。イエスに対する最初の答えが「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」で、次の答えが「どうして、そんなことがありえましょうか」です。ニコデモの混乱ぶりが分かります。
 しかし、これこそがイエスがニコデモに示そうとしていたことだと言えます。イエスは言います。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」わたしたちは、神が分かっていないことを自覚しなくてはなりません。そうでないと、熱心な信仰でありながら、自分の理解、自分の考えに閉じ込めることのできる偶像を作り出してしまうことになります。

 神学の用語で「啓示」という言葉があります。神がご自身のこと、ご自身の考え、計画を教えてくださることです。キリスト教は啓示の宗教です。自らの修行で悟るのではなく、神の啓示、神の言葉によって神へと導かれていく宗教です。自分で悟るのではなく、神に導かれて気づかされるのです。信仰生活をする中で、聖書や様々な出来事を通して、神の御心に気づかされます。
 イエスは、ニコデモに気づいてほしいのです。自分が新しく生まれることも、霊の働きのことも知らなかったということを。つまり、イスラエルの教師であり、ファリサイ派の一員であり、最高法院の議員であっても、神のことを知らない。人間の理性や論理で、神を捉えきることも神を語り尽くすこともできない。イエスはニコデモに、そしてわたしたちにそのことを気づいてほしいのです。
 だから、わたしたちは神の声、神の言葉に聞くのです。いつも聞くのです。何度でも聞くのです。聖書は語ります。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ 6:17)「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ 1:18)

 イエスご自身もここで言われます。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。」
 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」のです。イエス キリストこそ神の言葉です。

 ここで「わたしたち」と言われているのは、イエスとその弟子たちのことです。イエスは天の父を示されます。そして弟子たちはイエス キリストを証しします。そしてキリストの弟子たちは、イエス キリストを証しし続けました。今に至るまで証しし続けています。

 わたしたちもニコデモと共に知らねばなりません。イエス キリストに聞くのでなければ、神を知ることはできないのです。イエス キリストに聞くのでなければ、わたしたちは自分の知性・論理で偶像を作り出してしまいます。

 聖書にこう書いてある、だけでは不十分です。荒れ野の誘惑で、悪魔は聖書の言葉を使ってイエスを誘惑しました(マタイ 4:5~7、ルカ 4:9~12)。しかしイエスはそれを聖書の言葉で退けられました。イエス キリストに聞くのでなければ、聖書の言葉からでも神から離れていきます。福音書に出てくる律法学者やファリサイ派、長老たちがそうでした。わたしたちはイエス キリストを通して、父・子・聖霊なる神を知るのです。キリストと結び付かない聖書理解は、神へと正しく導きません。

 イエスは、わたしたちを思い込みから解放し、キリストと出会い、神を知ることへと導いてくださいます。わたしたちも聖書を通してキリストに出会っていくとき、父・子・聖霊なる神ご自身を知り、その救いに与り、新しい命へと導かれていくのです。そのためにわたしたちは、主の日ごとに礼拝へと招かれ、聖書に聞き、キリストに出会い続けていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストを通してわたしたちに出会ってくださることを感謝します。真の神であるあなたを知るのでなければ、わたしたちは偶像を作り出してしまいます。どうかわたしたちの限られた知性・理性にあなたを閉じ込めようとするのではなく、キリストに出会って、あなたの限りない愛と恵みに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

愛されて生きる、赦されて生きる

2019-06-16 22:01:48 | 聖書
2019年6月16日(日) オープンチャーチ(特別伝道礼拝)
聖書:ローマの信徒への手紙5:6~11


 きょうは、聖書における大切なテーマ「愛」と「赦し」について話しをさせていただきます。

 聖書には、「愛」と「赦し」という言葉が何度も出てきます。しかし、それがどういう意味かと聞かれたなら、悩んでしまいます。

 聖書が告げる「愛」とは「共に生きようと願う思い」です。「あなたと共に生きていきたい」という思いです。ですから「愛する」というのは、「共に生きるために、相手を大切にする」ということです。

 「好き」というのは感情ですが、「愛」には意思があります。
 例えば、募金のことを考えてみましょう。遠く離れた国で飢餓のために多くの人々が苦しんでいる。その人たちのことが好きかと聞かれても、顔も知らないし、言葉を交わしたこともないので分かりません。しかしその人たちが苦しんでいていいとは思わない。小さな事でも自分にできることがあれば、協力したいと思う。ここには愛があるのだと思います。

 ところで、神はなぜ愛しなさいと言われるのでしょうか。
 それは、人が、愛である神にかたどられて、愛する者・愛される者として造られているからです。「神は愛」(1ヨハネ 4:16)であり、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記 1:27)と聖書は告げています。これは、わたしたちの根幹にある事柄です。だから人は、信仰のあるなしに関わらず皆愛さずにはいられないし、愛されることを求めているのです。
 夫婦には夫婦の愛があります。親子には親子の愛があります。友達との間の愛もあれば、共に働く仲間との愛もあり、広くは郷土に対する愛、国に対する愛、世界に対する愛、人類に対する愛があります。人は「愛」である「神にかたどられて」「愛する者」「愛される者」として命を与えられているのです。

 しかし、罪が愛を妨げています。すべての人は、罪を抱えており、愛することができずに苦しんでいます。
 聖書に、人が初めて罪を犯してしまう場面が出てきます。人が最初に犯した罪とは、食べることを禁じられていた木の実を食べてしまうことでした(創世記 2章)。その禁じられた木の実は「善悪の知識の木の実」でした。とんでもない悪いことをしたのではなく、食べるなと言われていた木の実を食べただけなのです。
 ですが、善悪の知識の木の実を食べたことで、人は自分自身の善悪を持つようになりました。善悪の知識を持つことの何が悪いのかと思われるかもしれません。しかし、人は「自分の」善悪の知識を持つようになってしまったのです。
 それは、神の御心とは違う善悪です。神の御心とは違う善悪を持つようになった人は、神から自由になって、自分の思うままに生きていきたいと思うようになりました。一々神にこうしなさい、こうしてはいけないと言われるのが煩わしくなりました。自分は善悪をちゃんと知っている、困ったときには呼ぶからその時助けてくれればいい、そんな困ったときにだけ助けてくれる都合のいい神、自分の願い事を聞いてくれる神を求めるようになりました。
 さらに、善悪の知識が違ってしまったのは、神と人との間だけではありません。人と人との間も違ってしまいました。一人ひとりが自分の善悪の知識を持ってしまったのです。その結果、どうしたいのか、どうすべきなのかといったことが、違ってしまい、理解し合えない現実、対立し争う現実が生じてきました。
 これは、個人から世界まで覆っています。夫婦であれ、親子であれ、善悪の知識が同じで考えや判断に違いがないなどということはありません。日本の政治がどうあるべきか、世界の平和のためにどうしたらいいのか、皆意見が違います。自分の善悪を通すために、様々な力を使うようになりました。暴力から経済的圧力、社会的地位による圧力など様々な力を使うようになりました。それが時には殺人や戦争という悲劇を引き起こしてしまうことになってしまったのです。

 罪は、愛が求める共に生きる関係、絆を破壊します。
 そこから新たに生きていくために必要なのが「赦し」です。赦しがなければ、関係は壊れていくばかりです。
 赦すことが目指しているのは、新たに共に生きること、和解です。赦しは、新たに生き始めるためのものなのです。重荷となり、わたしを苦しめる過去から自由になって、新しく生きるためのものです。

 神が、愛すること、赦すことをお命じになるのは、生きることに喜びと希望が伴うためなのです。ですから、愛と赦しは、生きることを支えるなくてはならぬものなのです。

 しかし、大きな問題が残っています。わたしは愛せないし、赦せないのです。そして、おそらくこれは、わたし一人の問題ではなく、多くの人に関わる問題ではないかと思います。

 神は、罪ゆえに愛せない悲しみ、赦せない苦しみからわたしたちを救うためにひとり子イエス キリストを救い主として遣わしてくださいました。聖書は告げます。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)

 罪によって壊れ傷ついている関係を回復し、愛によって関係を結び直すためにイエス キリストは世に来られました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」くださいました。そして、わたしたちが神の愛を受けて生きられるように「罪を償ういけにえとして、御子(キリスト)をお遣わしに」なったのです。(1ヨハネ 4:10)「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ 1:14)

 きょうの聖書の言葉をもう一度お聞きください。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。…わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ 5:6~10)

 実に神の方が、わたしたちとの関係を大切に思っていてくださったのです。わたしたちが不信心で、罪人で、敵であったときに、神はわたしたちと和解し、共に生きようとしてくださっていたのです。このためにまさしく命を懸けてくださいました。神はわたしたちと和解し、関係を新たに築き、共に生きようとしてくださっているのです。神はわたしたちを愛するが故にひとり子を遣わしてくださいました。
 ですから、わたしたちはイエス キリストを知るとき、安心して神の愛を受けられるのです。イエス キリストは、自分を裏切る者を弟子として受け入れてくださる方です。自分を殺そうとしている者たちに神の国の奥義を語られるお方です。十字架の上でまで、自分を嘲る者たちを執り成すお方です。この方がわたしたちを知っていてくださるのです。この方が、わたしは救われないのではないか、という不安から救い出してくださいます。わたしたちはイエス キリストによって、神の愛を知り、赦しを知って、新しく生きることができるのです。親の愛に包まれて生きる子どものように、神の子とされて、神の愛と赦しを受けて生きていけるのです。

 神はひとり子イエス キリストによって、わたしたちとの確かな関係を築いてくださいました。例えて言うなら、神とわたしたちとの関係は十字架の縦の棒です。天と地を結ぶ縦の関係です。それに対して人と人との関係は十字架の横の棒です。そして、神との縦の関係が定まると、それに基づいて隣り人との横の関係も定まります。イエス キリストの十字架はまさに神との縦の関係、隣り人との横の関係を新しくするためのものでした。その二つの関係が命と愛に満ちたものとなるためにキリストは十字架を負われたのです。

 愛すること、赦すことは、愛される経験、赦される経験をしていく中で覚えていく事柄です。愛された経験の少ない人は、どうしたら愛せるのか分かりません。赦された経験が少ない人は、赦されることの大切さに気づけません。人が生まれてから大人になるまでに長い時間がかかります。それには、神の深いご配慮があるのだろうと思います。自分の力で生きていくことはできず、多くの愛を注がれ、与えられ、たくさん赦されて人は育つのです。
 そしてわたしたちは生涯、神の大きな愛と赦しの中で、常に新しく、愛されて生きる喜び、赦されて生きる慰めを味わい、知っていくのです。これはもう十分経験した、もう必要ないという事柄ではなく、生きている限りいつも必要なことなのです。

 神は、わたしたち一人ひとりが愛せるように、赦せるように、尽きることのない愛を注ぎ、限りない赦しを与えていてくださるのです。
 神が、わたしの愛となり、赦しとなってくださいました。

 今や、家庭から世界に至るまで、個人個人から国家間に至るまで、あらゆる関係がきしみ悲鳴を上げています。関係が新しくされることをすべての人が必要としています。
 神は、人が人として生きるために欠かせない、愛されて生きる関係、赦されて生きる関係をキリストによって与えてくださっています。
 この愛と赦しに満ちた関係の中で新しく生き始めることへと、神は今招いてくださいます。是非、この神の恵みを受けて、愛の喜び、赦しの慰めによる新しい人生を歩み始めて頂きたいと願います。


ハレルヤ


父なる神様
 あなたは、わたしたちと共に生きることを願い、愛をもってわたしたちを創り、罪に苦しむわたしたちに赦しと更なる愛を注いでいてくださいます。
 どうか今、あなたの愛と赦しの中で、わたしたちを新しく生きる者とし、わたしたちに与えられている一つひとつの関係を祝福してください。あなたにあって、共にある日々を、喜ぶことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。アーメン

ヨエル書 3:1〜5

2019-06-10 07:58:07 | 聖書
2019年6月9日(日) 聖霊降臨節 主日礼拝
ヨエル書 3:1〜5(新共同訳)

 きょうは聖霊降臨節です。イエスの弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まったことを記念する日です。
 聖霊降臨節はペンテコステと言いますが、これはギリシャ語で50番目を表す言葉で、50日目を表します。イエスが復活された日から50日目に、弟子たちに聖霊が降ったと聖書は記しています。(使徒1~2章)ですから、聖霊降臨節は復活節から50日目、7週間後に祝われます。

 聖霊降臨の時、弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに他の国々の言葉で福音を語り始めました。それを聞いた人々はとても驚きましたが、中には「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って嘲る者もいました。その人に対して「そうではない」とペトロが語り出しました。その時、ペトロが引用した聖書の箇所がきょう読みましたヨエル書3章の御言葉でした。
 ペトロはこの時、聖霊降臨の出来事がヨエル書に記された御言葉の成就であることを知ったのです。
 「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」
 その後というのは、ヨエル 2:18以下に記されている、主が民を愛し憐れんで、救いのための偉大な業をなしてくださった後のことです。救いの出来事の後で、主はすべての人にご自身の霊を注がれると約束されたのです。
 つまり、ヨエル 2:18以下はイエス キリストのことを指し示していて、イエスの地上での業が全うされ、天に昇られた後、3:1以下に記されているように、神が聖霊を注がれることが預言されていたのです。

 霊という言葉は神秘的な響きを持っています。霊とは一体何でしょうか。この霊と訳されるヘブライ語ルーアハは、風とか息とか空気のように目に見えないものの動き・働きを表す言葉です。
 霊の働きと、風や息には共通するところがあります。霊は神の御心のままに働きますから風のように自由です。そして息をすることによって命あるものが生きているように、霊はわたしたちを神の命で満たし、神と共に生きるものとするのです。
 わたしたちは目に見える体と目に見えない心とが息をすることによって、一人の命ある存在として一体となって生きています。同じように神の霊は、目に見えるわたしたちと目に見えない神とを一つに結び合わせ、神の命に生きる者とするのです。この目に見えるものと目に見えないものとを結び合わせる、というのが霊の働きです。そして聖霊は、神と結び合わせ、神の命に生きる者としてくださるのです。
 神は、わたしたちを罪から救った後に、神と共に生きていくように、ご自分の霊を注ぎ、わたしたちをご自分と一つに結び合わせてくださいます。

 「あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」
 神の霊は区別なく注がれます。子どもたち、老人、若者、奴隷。男女の区別なく、年齢の区別なく、身分の区別なく、救いに与る者には皆、注がれます。神が愛しておられるすべての者が、霊によって神と一つに結び合わされるのです。
 霊が注がれると預言をし、夢や幻を見ると言われています。預言は、言葉を預かると書きます。一般に使われる未来をあらかじめ語る予言とは違い、神の言葉を語るのです。神を知るのに年齢や人生経験は関係ありません。子どもであっても救いの恵みの中で神を知る者は、神を証しします。そして、社会的な地位や能力も関係ありません。奴隷だから神を知ることができないなどということはありません。
 これはかつて出エジプトを指揮したモーセが願ったことでした。モーセは言います。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(民数記 11:29)

 人は、罪により神の御心が分からなくなってしまいました。そして、人は自分の思いに囚われてしまい、自分の思いが実現し、自分の願いがかなえば幸せになれるという幻想に捕らえられてしまいました。
 わたしたちが罪の悲しみから救われるには、再び神の思いを知るようにならなければなりません。そして、神の思いを知らせ、神と結び合わせてくださるのが聖霊です。聖書は「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(1コリント 12:3)と言っています。わたしたちは聖霊の働きにより、イエス キリストを知り、神の御心を知り、神ご自身を知るのです。

 夢や幻を、神はこれからどのような歩むべきか示すのに用いられました。老人も夢を見ます。人生が終わりに近いからもう見る夢なんてない、というのではありません。神の国で新しい命に生まれ変わるまで、わたしたちは神に導かれ、進み行くのです。思いをはせるべき神の国に至る道が目の前に開き示されています。
 若者は幻を見ます。箴言では「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」(29:18)と言われています。どのように生きるかという幻がなければ、聖書の言うとおり人は堕落していってしまいます。「今さえよければ」では滅びに向かっていってしまいます。何にでも挑戦でき、いろいろな可能性が広がっているように思える若者にも、神の導きが必要です。
 神は救いを必要とするすべての者に霊を注ぎ、ご自分と共に生きる者としてくださいます。

 それと共にこう言われます。「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。」
 救い主が再び来られる終わりの日に、最後の審判が行われます。その日に向けて、人間の罪はいよいよあらわになり、この世に望みを置く者には、この世がいかに危うく頼りにならないかが示されます。ここで描かれているのは、戦争と天変地異だと言われています。地の支配者になろうとする人間の罪があらわになっていく中で、支配しようと思っていた地が揺らぎ、崩れだすのです。そしてわたしたちは今、そういう時代に生きているのです。

 人は、命も、賜物も、そしてすべてのものが与えられたものであることに気づかねばなりません。与えられているものなのに自分で思い通りに支配できると思うとき、人は大切なものを失ってしまいます。

 「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」
 しかし、罪があらわになり、頼りにしていたものが危うくなっても、なお救いの道は備えられています。最初に出てくる「しかし」が大事です。慌てふためくような事態の中にあっても、もうダメだと思えるようなときでも、「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。わたしたちの救いはどこにあるのか。神ご自身こそ、わたしたちの救いです。わたしたちを愛し、どのような罪の中にあるときにも諦めることなく呼び求めくださる神ご自身こそ、わたしたちの救いなのです。

 そして神は、罪の世に逃れ場を用意してくださいます。エルサレムは、神の民イスラエルの都であり、シオンはエルサレムが立つ丘の名前です。エルサレムという名前は、平和の町という意味です。イスラエルに神との平和に与る町エルサレムを用意してくださったように、今わたしたちには神のもとに立ち帰り、神の平和に与る場所として、教会が用意されています。教会は、神の霊を受け、神の平和に与る場です。霊に導かれて神の言葉が語られ、聞かれる場です。共に神の御名を呼び求める場であります。

 パウロもローマの信徒への手紙の中でヨエル書を引用してこう語っています。「聖書にも『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。・・すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」(ローマ 10:11~13)
 主を信じる者は誰も失望しないのです。主を呼び求めるすべての人を、神は豊かに恵まれます。誰一人として「わたしは無理だ。救われない」と諦める必要はありません。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハネ 3:17)なのです。「神は・・独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ 3:16)にイエス キリストをお遣わしくださったのです。

 今、自分自身、そしてこの世に向けられている目を、神へと向けましょう。神を知ることができるように聖霊を祈り求めましょう。神は聖霊を注ぎ、代々の聖徒たちを導いてこられました。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ 11:13)のです。

 聖霊は、キリストの命の恵みでわたしたちを満たしてくださいます。そして聖霊に導かれ神の許に立ち返っていくとき、神が愛しておられる兄弟姉妹たちに出会っていくでしょう。その時、イザヤが預言した霊の注がれる日が現れてきます。「ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。/そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。/正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。/わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。」(イザヤ 32:15−18)


ハレルヤ


父なる神さま
 今年も、あなたが聖霊を与えてくださることを心新たに覚える聖霊降臨節へと導いてくださり、感謝します。聖霊により、あなたと結ばれ、あなたの命に新しく生きるあなたの民、あなたの子としてください。どうか救いの恵みの中で、あなたの平和に生きることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン