聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 20:19〜23

2020-05-31 21:30:01 | 聖書
2020年5月31日(日)主日礼拝  聖霊降臨節
聖書:ヨハネによる福音書 20:19〜23(新共同訳)


 その日、すなわち週の初めの日の夕方。これはイエスが復活された日曜日の夕方のことです。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。
 金曜日にイエスが十字架に付けられ殺されました。安息日である土曜日があけて、ユダヤ教の指導者たちが今度はイエスの弟子たちを捕らえ、殺そうとしているかもしれません。彼らは人目につかないように注意をはらい、家の戸の鍵もかけていました。
 すると、そこへイエスが来て真ん中に立たれて「あなたがたに平和があるように」と言われました。恐れに捕らわれ、全く平和ではない弟子たちに語りかけられました。そして、釘打たれた手と槍で刺されたわき腹とをお見せになりました。十字架に掛けられ葬られたイエスが、死を打ち破り復活されたのです。閉ざされた扉も、鍵も、妨げることはできません。

 「平和があるように」とイエスは言われます。新約はギリシャ語で書かれています。ここではギリシャ語で平和を表す「エイレーネー」という言葉が使われています。しかしイエスが話しておられたのはギリシャ語ではありません。最初期にキリストが伝えられたのは、ギリシャ語が共通語として語られる世界でした。ですから新約はギリシャ語で書かれました。しかしイエスが話しておられたのはおそらくアラム語でした。アラム語というのは、かつてシリアやメソポタミアで紀元前1000年ごろから紀元600年頃まで広く話されており、現在でもレバノンなどで話されている言葉です。ですがイエスがこの場面で語られたのは、ヘブライ語のシャロームだろうと思います。シャロームは挨拶の言葉として日常使われていましたので、ここでイエスが使われたのはヘブライ語のシャロームであろうと思います。シャロームは、相手の平和を祈る好意と祝福を表す挨拶です。しかし、イエスのこの言葉は、単なる挨拶ではなく、文字通り平和をもたらすために語られたのです。

 聖書においてこの平和という言葉は、神との正しい関係にあるものに約束されたものでした。
 イエスが弟子たちの真ん中に来られて「あなたがたに平和があるように」と言われたとき、手とわき腹とをお見せになりましたが、これは今目の前にいるのが間違いなく彼らの知っているイエスであることを証しすると同時に、イエス キリストの裂かれた肉、流された血、すなわちキリストご自身の命によって罪が贖われ、神との平和がもたらされる証しなのです。
 十字架へと進み行かれるイエス キリストを見捨てて逃げ去るより他なかった弟子たちの所へ、キリストご自身が来てくださって「あなたがたに平和があるように」と語り、招いてくださるのです。平和はキリストのもとにあり、キリストから注がれるのです。この平和は、キリストが命をかけてわたしたちのために獲得してくださったものです。逃げ去り、おびえている弟子たちにも差し出され、招かれます。どんな罪や弱さをも超えてキリストの平和は差し出されているのです。そしてイエスご自身にわたしたちは招かれているのです。

 聖晩餐は、その目に見えるしるしです。キリストの肉と血がわたしたちの前に差し出され、キリストご自身の命によって平和が差し出され、平和へと招かれているのです。ローマの信徒への手紙にはこうあります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ローマ 5:1~2)「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」(ローマ 5:10~11)
 弟子たちは主を見て喜びました。イエスが死を打ち破って復活され、平和を告げてくださいました。イエスは弟子たちを恐れから平和へと導かれました。

 その弟子たちにイエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 もう一度その事柄を確認するようにイエスは「平和があるように」と言われました。そしてそれに続く言葉は、キリストの平和に与る者はキリストの務めを担うことを明らかにしました。聖書における平和は、神との正しい関係にある者に約束されたものだと申しました。神との正しい関係にある者は、神と共に生き、神の御業に仕える務めに召されているのです。

 しかし、イエスのもとから逃げ去るしかなかった弟子たちにキリストの務めが担えるのでしょうか。
 たとえ復活のキリストに出会い、キリストを捨てて逃げたことを心から反省し、悔い改めたとしても、弟子たち自身の力によるのだとしたら担えないと言うほかはありません。神の務めを担うのは、人間の善意や良心、真心によってできるものではありません。神と共に歩み、神に用いられ祝福して頂くのでなければ、なすことのできない務めです。だからイエスは、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのです。

 聖霊なる神は、キリストとわたしたちとを一つにし、キリストの恵みをわたしたちのものとし、神と結び合わせてくださいます。創世記には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2章7節)とあります。神の息、神の霊を受けて、神にかたどられて造られた人は生きるものとなりました。キリストの救いがなされ、キリストの新たな命に生き始めるときにも神の霊、聖霊が注がれるのです。
 わたしたちはキリストに出会い、キリストを通して父なる神の愛を知り、父なる神がキリストの名によって遣わされる聖霊(ヨハネ 14:26)を受けるのです。こうして父・子・聖霊なる神の交わりの中に入れられ、神と共に歩みつつ神の務めを果たすのです。

 イエスは「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言って、イエスご自身が託され担われてきた救いの務めを弟子たちに託します。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」罪の赦しの務めが弟子たちに託されました。
 これは神の民に託された第一の務めです。神の民がするのでなければ、誰もすることがない神の民固有の務めです。何が罪なのか、どこに救いがあるのかを明らかにし、人々がキリストの平和に与っていけるようにしなければなりません。この務めが弟子たちに託され、今教会に託されているのです。
 この務めを担うためには、務めを担う者自身キリストの平和に与らなくてはなりません。キリストを仰ぎ、キリストの傷を見、「あなたがたに平和があるように」と言われるキリストの声を聴いて、差し出された平和を受け取って招きに応えなければなりません。聖霊を注いで頂かなくてはなりません。

 イエスは「あなたがたに平和があるように」と二度念を押すように言われました。神の平和の内に生きよ、神と共に生きよ、とイエスは招いておられます。平和はものではありません。共に生きる関係の中に平和は生まれてきます。イエスは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ 5:9)さらに多くの人を平和に与らせるために、イエスは平和をつくり出す務めを託して弟子たちを遣わされるのです。

 命も救いも平和も、すべてはキリストから生まれます。そしてイエスは「受けよ」と言われます。イエスは十字架を負い、命さえも与えてくださいました。息を吹きかけ聖霊を与えてくださいます。わたしたちを神の子とし、神を父と呼べるようにしてくださいました。イエスはわたしたちの喜びのためにすべてを与えてくださいます。だからイエスが与えられる務めもまたわたしたちの喜びのためなのです。
 祈りつつ仕えていきましょう。イエスが与えられた務めは、わたしたちの力で成し遂げられるものではありません。神と共に歩み、神が祝福してくださるところで出来事と成っていきます。神は今も生きて働いておられます。代々の聖徒たちと共にわたしたちも「主は生きておられる」と讃えつつ仕えるのです。わたしたちは神の証人、神の恵みの証し人として神の平和の中に招き入れられたのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 この年も心新たに聖霊が注がれる恵みを覚えることができて感謝します。あなたが与えてくださる恵みを受けて生きることができますように。与えられた務めをそれぞれが祈りつつ担っていくことができますように。どうかあなたの平和をもたらし、あなたに在る喜びに与らせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

5/31から通常の礼拝に戻ります

2020-05-30 15:11:22 | 日記
 新型コロナウィルス感染拡大に伴って、礼拝に集うのを控えてもらい、集会を休会にしてきましたが、5/31(日)から礼拝に集ってもらう通常の礼拝に戻します。
 この間、礼拝説教も通常の続きではなく、『はじめてのカテキズム』を用いた説教を行いましたが、通常の礼拝に戻すのに伴い、以前からの続きのヨハネによる福音書とローマの信徒への手紙の説教に戻します。
 また機会があれば、カテキズムによる説教をしてみたいと思います。

聖句による黙想 6

2020-05-27 12:13:48 | 黙想
申命記 6章 4, 5節(聖書協会共同訳)


聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。


 イエスが最も重要な掟としてあげられた第一の戒めである(マタイ 22:35~40)。
 神がわたしたちに求められることの根本は、神を愛することである。
 では、愛するとはどうすることだろうか? 聖書では「共に生きること」である。神は、罪を犯して神から離れていくわたしたちと共に生きるために救いの御業をなしてくださる。神がわたしたちを愛していてくださる。共に生きてくださる。だから、わたしたちも神を愛し、神と共に生きるのである。


ハレルヤ

はじめてのカテキズム 問い6 その3

2020-05-24 17:57:22 | カテキズム
2020年5月24日(日)主日礼拝  
聖書:創世記 1:27〜28
   ローマの信徒への手紙 8:19〜23(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。つまり、聖書はどんなことを言っているのかをまとめたものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは先週に続き問い6に記されている内容「どのように愛するのか」について聖書に聞きたいと思います。

 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 カテキズムは、神の子とされるという恵みに対して、愛することがふさわしいと語ります。カテキズムでは、神を愛するのに三つのことを語ります。神を礼拝すること、人を愛すること、そして被造物を大切にすることです。きょうは三番目の神さまがお造りになったものを大切にすることに思いを向けていきましょう。

 この「神さまがお造りになったものを大切にする」ということを、教会では「被造物の保全」という言葉で言われます。一般の社会では「環境問題」という言葉で語られます。
 日本において環境問題の発端となったのは公害であろうかと思います。明治27年(1894年)の河川法には公害という言葉が出てくるそうです。広く意識されるようになったのは1950年代中頃に大きく問題となった水俣病からだろうと思います。これが1970年代に入りますと、オゾンホールによる皮膚癌の心配や温暖化による海面上昇など世界規模で環境問題が論じられるようになり、環境保護・環境保全活動が活発になされるようになりました。

 こうした中、キリスト教界でも1970年代になると被造物の保全という言葉で教会の課題として環境問題が取り上げられるようになりました。
 教会がその際意識したのは、神が人を創造された後で言われた創世記 1:28「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」という言葉です。
 「支配する」は強い印象を与える言葉です。ですがこれは神の御心に従って治める・管理するという意味です。聖書に「神の国」という言葉が出てきます。この国という言葉は、支配するという動詞から派生した言葉です。ですから神の国というのは、神が治め給うところという意味です。神は世界をご自身にかたどって造られた人間に神の御心に従って治める務めを託されたのです。

 ですが、それに気づいたのは環境問題が起こってきてからだと思います。それまでは、自然は自分たちが支配していいもの、無限の財産と思ってきたように思います。
 被造物の保全は大切なことに気づかせてくれました。先程引用した創世記 1:28が最初に語られたとき、そして最初に文字として記されたとき、おそらく今日のような被造物の保全などということは意識にありませんでした。中世のアウグスティヌスも宗教改革者カルヴァンも今日わたしたちが考えるような意味で被造物の保全を考えてはいませんでした。環境問題がなかったからです。長い間意識もされず、神の御心に気づくことがないまま通り過ぎてきても、神の言葉は必要なときにちゃんと語りかけてくださるのです。今、理解できないからと言って神の言葉を「意味はない」と捨ててしまってはいけないのです。必ずその御言葉を必要する後の世代がいることを覚えておかなくてはいけません。

 被造物の保全を考える上で心に留めておきたいのは、ローマ 8:19以下です。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」これを書いたパウロも2000年前の人ですから、現代のような環境問題はありません。一体何を思ってこの言葉を書いたのか不思議ですし、パウロを用いて語られる神の御心の深さを思わずにはいられません。いずれにしても人間の罪のために被造物も苦しんでいるのです。罪は周りを巻き込み、影響を与えます。罪は自分一人の問題ではありません。時に被造物の苦しみは、災害となって現れてきます。被造物に責任があることを気づかされます。
 神は世界をお造りになったとき「良しとされた」と何度も記されています(創世記 1:4, 10, 12, 18, 21, 25, 31)。世界は神の喜びと共に造られました。人はこの神の喜びですべてのものが満たされるために治めるのです。古くからの教会の言い回しに倣えば「御名の栄光が現れるように」世界を治めるのです。

 また被造物の保全は、神が教会の外から問いかけられることを教えます。20世紀は教会の外から二つの大きな問いかけがなされました。一つは共産主義です。
 教会の関心が魂の救い、天国のことが主であった時代に共産主義は大きな衝撃を与えました。このことから解放の神学も生まれるようになり、世界的な教会会議では経済の公平の問題が取り上げられるようになりました。
 もう一つが被造物の保全、環境問題です。
 聖書でも、神がアッシリアや新バビロニアを用いて裁きを行い、北イスラエルそして南ユダを滅ぼされたことが記されています。神は教会の外、神の民の外側からも問いかけ、悔い改めを求められるのです。

 被造物の保全については、自然科学との関わりで、教会は相反する二つの非難を受けてきました。一つは、キリスト教会のせいで、特に中世、自然科学の発達は大きく妨げられた。キリスト教会がなければ、今ある問題も100年前に解決していた問題かもしれない、といったような非難がされます。これと反対に自然保護に関わる人たちからは、キリスト教は近代自然科学の発達を後押しし、環境破壊に協力してきたと非難されます。
 ここでこれらの問題を深めることはできませんが、近代、特に20世紀以降、教会は魂の問題、精神の平安といった目に見えない心の問題だけでなく、肉体、経済的な生活、自然環境といった目に見える世界の問題に対しても責任ある態度が求められるようになってきました。そういった状況の中で、教会は神が教会の外の存在を用いて裁かれ、問いかけられたことに気づかされ、また福音が世界に宣べ伝えられていったときに、ローマの社会の中で、具体的な様々な課題を受け止めながら教会を形成し、福音宣教に仕えてきたことに改めて気づかされました。
 そして子どもたちに聖書の教えを伝えるためのカテキズムにも「神さまがお造りになったものを大切にすること」被造物の保全が今や書かれるようになったのです。

 神は創造のときの喜びが、世界に満ちていくように世を治めていってほしいと、人に務めを託されました。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」わたしたちは神が造られたすべてのものと主にある喜びを分かち合うのです。
 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは良かったと整えられた世界にアダムとエバを置いてくださいました。そしてわたしたちにその世界を治める務めを与えてくださいました。どうかこの世界があなたの喜びに満ちた世界へと進んでいけるようにわたしたちを導いてください。あなたがお造りになったすべてのものとあなたの祝福を分かち合うことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

聖句による黙想 5

2020-05-21 19:52:19 | 黙想
ローマの信徒への手紙 5章 6~11節(新共同訳)

 キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。


 神はキリストにおいて、わたしたちに対する愛を示された。わたしたちは、キリストによって、義とされ、救われ、和解させて頂いた。
 イエス キリスト、この方こそ救いのただ一つの根拠である。


ハレルヤ