聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 5:41〜47

2020-08-30 15:26:16 | 聖書
2020年8月30日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:41〜47(新共同訳)


 イエスは、自分に敵対し、殺そうと狙っているユダヤ人たちに向かって語ります。41節「わたしは、人からの誉れは受けない。」
 これは、罪人におもねることをしない、という意味です。イエスは人々を神へと立ち帰らせ、神を讃美しつつ歩めるようにと来られたのですから、悔い改めた民の誉れは拒まれません。
 ですから続いて「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」と言われます。神への愛は、神に従う愛、神と共に歩む愛です。神が主であって、民は僕です。
 現代社会においては、民主主義が重んじられます。けれど教会においては民が主になることはありません。民は僕であって、主は神なのです。

 罪は、信仰でさえも自分のために神を利用するものに変えてしまいます。ユダヤ人たちはそれに気づいていませんでした。
 ユダヤ人たち、ユダヤ教の指導者たちは、自分たちこそが律法の理解者であると誇りと自信を持っていました。自分たちは分かっていると思っていました。本来、神に背を向けてしまった罪人は、神を知ることができません。神がご自身を啓示してくださるから知ることができるのです。
 だからわたしたちは絶えず神の御前で「お示しください」と祈り求めなくてはならないのです。けれど指導者たちはそれを忘れてしまいました。誇りと自信に満たされていました。だから父の名によって遣わされてきたイエスを受け入れませんでした。神は自分たちの専売特許で、自分たちの考えとは違うイエスに心を開くことはありませんでした。(43節)

 イエスは43節「ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる」と言われます。これは、神に依って立つのではなく、世に属し、この世で名声を得て、自分の名を掲げてくる者は受け入れるという意味です。そして44節「互いに相手からの誉れは受ける」のです。これは今に至るまで世に属する者たちの特徴です。世はこの世の力を持つ者・成功者を賞讃します。そして彼らの求めるものは、自分が評価され、賞讃されること、自分が認められることです。
 けれど、唯一の神からの誉れは求めないのです。それは、この世の誉れと比べて手応えがなく、実感がないからです。神に褒められているかどうかよく分からないし、神に褒められるよりも、人から認められ褒められる方がずっと嬉しいし、実感があるからです。ユダヤ人たちは「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」(ヨハネ 12:43)のです。

 ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしたのは、イエスが、ユダヤ人たちが持つ世の誉れを奪い取っていく危機を感じたからです。そして、自分たちが神の誉れを求めていないこと、神に依って立つ者ではないことをイエスが暴いてしまうことを恐れたからです。

 では何故、神からの誉れ、神の祝福を求めなければいけないのでしょうか。
 それは、神の誉れを求めなければ、罪人は人の誉れを求めて神から離れていってしまうからです。人からの誉れを求めるとき、わたしたちは人の顔色をうかがうようになり、自分を見失っていきます。神以外のものの機嫌をうかがって生きるとき、自分の人生の価値を失います。
 ただ神だけが、独り子を遣わしてまでわたしたちを死から救い出し、命へと導かれます。わたしたちの命、そしてわたしたちと共に生きることに独り子の命をかけるほどに意味があることを証ししてくださるからです。

 一方イエスは、唯一の神からの誉れを求めていたのでしょうか。それはこの福音書が証ししたいことの一つです。8:50「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」8:54「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父」であるとはっきり言っておられます。
 そして聖書は、神へと立ち帰り、神に喜ばれ祝福されることが大切であると語ります。神の御許に立ち帰り、神との交わりの内に生きるのです。愛と信頼、そして喜びに満ちた神との交わりの中で歩んでいくのです。

 しかし、ユダヤ人たちは自分たちに託された務めを、自分を喜ばせるために曲げてしまいました。彼らを神に「間違っている」と訴えるのはイエスではありません。彼らが頼りとしているモーセ、彼らが信じ従っていると思っているモーセが、彼らを神に訴えるのです。45節「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。」
 それは何故か。それは46節「モーセは、わたし(イエス)について書いているから」です。だから「モーセを信じたのであれば、わたし(イエス)をも信じたはず」なのです。
 モーセは言います。申命記 18:15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」
 イエスはこのモーセが語った「わたしのような預言者」こそわたし(イエス)のことであると言っているのです。イエスは「もしモーセを信じ、彼の言葉をちゃんと受けとめていたなら、モーセが語っていたのがわたし(イエス)であることを知ったはずだ」と言われるのです。
 モーセが神から受けたこと、そして語ったことは、イエス キリストにおいて成就し実現しています。しかし47節「モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 結局、罪人は神の言葉をすべて受け入れるのではなく、自分が好むものだけを受け入れるのです。都合の悪いところは、避けて触れないようにしてしまいます。

 人は誰しも人から認められ、褒められるのはうれしいものです。ですが、それが第1となり、それが自分の行動の基本になってしまうと神から離れていってしまいます。まずは、そうできるかどうかではなく、神に祝福されることが第1であることをちゃんと理解して、自分の課題として祈り求めていくことが大切です。そのように整えて頂くことを神に祈り、神に委ねていくのです。
 自分でそうあらねばと意識してしまうと、わたしたちはどうしても律法主義に陥っていきます。だから頑張ってそうあらねばとするのではなく、本来人は、神と共に生きるように造られたのだ、と理解して、神に導きを祈り求めていくのです。わたしたちは「祝福を受け継ぐために」(1ペトロ 3:9)召されたのです。だからわたしたちは、神が与えてくださっている礼拝、祈り、讃美、交わり、御言葉の学びを通して、神に整えて頂くのです。
 わたしたちの希望は「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによる」(2コリント 3:18)という約束がこの身になることなのです。

 そして、牧師としてのわたしの目標の一つは、皆さんが神の祝福を求め、受けることができるように御言葉を正しく取り次いでいくことです。皆さんお一人おひとりが終わりの日に、放蕩息子のように父に抱きしめられ「さぁあなたのために宴を用意した。あなたは死んでいたのに復活し、わたしの許に帰ってきた」といって祝福されることを願っています。

 わたしたちに必要なすべては、神から来ます。救いも命も、愛も赦しも、信じることも共に生きることも、そして祝福も神から来ます。皆さんお一人おひとりが、神へと思いを向け、神が与えてくださる恵みを受けて、命の道を歩んで行かれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかあなたへと思いを向けさせてください。あなたの誉れを求める者、喜ぶ者としてください。あなたとの親しい交わりに生きるあなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 138:4〜8

2020-08-27 14:00:40 | 聖書
2020年8月26日(水) 祈り会
聖書:詩編 138:4〜8(新共同訳)


 新バビロニアが南ユダを滅ぼして、詩人を始め多くの人たちがバビロニアの首都バビロンに連れて行かれました。
 第1回の捕囚からなら60年、第2回からなら50年の月日が流れました。人生の大半が過ぎ去る年月です。ですがそれも終わる日が来ました。ペルシアの王、キュロス2世が新バビロニアを滅ぼし、捕囚解放の勅令を出したのです。

 詩人は神に感謝を献げます。どれほどこの日を待ち望んだことでしょう。
 詩人は神を誉め讃える中で、幻を見ます。
 4節「地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。/あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。」
 今、詩人の前には「地上の王は皆、あなたに感謝をささげます」というような現実はありません。そして今に至るまでありません。これは終わりの日の幻です。
 神の民は、終わりの日の救いの完成を望み見、仰ぎ見つつ歩みます。神は、長い間捕囚からの解放を願い求めてきた詩人に、解放の知らせを聞いたとき、神に感謝をしに帰ってきた詩人に、幻を与えてくださいました。
 今も聖晩餐を守るとき、式辞で「終わりの日に与る主の祝宴を予め告げるものであります」と告げられ、終わりの日に代々の聖徒たちが喜び集う主の食卓を思い描きつつ聖晩餐に与ります。救いの出来事は、今この時の救いだけでなく、救いの御業が完成する未来をも示すのです。
 この幻は、他の詩編や預言者にも与えられています。おそらく同じ時代の人ではないかと思います。
詩編 102:16「国々は主の御名を恐れ/地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。」
ミカ 4:2「多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。」

 今引用したミカ書にも「道」が出てきました。詩人も「道」について語ります。5節「主の道について彼らは歌うでしょう/主の大いなる栄光を。」
 主の道は救いの道。栄光は、聖書においては神が救いの神であることが現れること。主の道を行くとき、人々は神が救いの神でいてくださることを経験し知るのです。

 6節「主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。」
 詩人は、捕囚からの解放を通して神を知ります。神は天の高みにおられます。けれど、低くされている者を見ていてくださいます。捕囚の民を忘れることなく見ていてくださいました。そして遠くにいましても、高ぶる者を知っておられます。神に用いられたことなどつゆほども知らず、自分の力を誇るバビロニアは、今度はペルシアによって砕かれてしまいました。

 7節「わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。」
 詩人は祈ります。神が命を得させてくださるようにと。これはただ生きているというのではなく、神との交わりがある命、神と共にある命です。神がわたしと共にいてくださる。神はわたしを見捨てることも見放すこともなさらない。神はわたしの救いの神である。ということを信じることのできる命です。
 右は力の象徴です。使徒信条でも、天に昇られたイエスは、神の右に座しておられる、という表現が出てきます。神ご自身の御手の業、救いの御業によって神と共に生きることができますようにと祈ります。

 そして祈りは確信に至ります。8節「主はわたしのために/すべてを成し遂げてくださいます。」
 詩人は、神がこのわたしのために、わたしの救いのために御業をなしていてくださることを知ります。この信仰をパウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ 8:28)と言っています。

 詩人は祈ります。「主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。」
 詩人は、神こそ救いであることを実感しています。神に望みを置いて生きてきてよかった。信仰を与えられてよかった。主に在る喜びが、願い・祈りに至ります。「主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。」
 「御手の業」には解釈が二通りあります。原文は複数形のようです。複数形であれば、諸々の神の救いの御業を表します。ただ単数形の写本も多くあるようです。ヨブ 14:15には「御手の業であるわたし」という表現が出てくるので、単数形の場合は詩人本人を表し「これからもわたしから手を離さないでください」という意味になります。6節からの流れで言えば「いと小さきわたしを手放さないでください」という祈りになるでしょうか。

 詩人は幻の中で、低くされた者が顧みられる神の国を見ます。大国アッシリアもバビロニアもなくなりました。ペルシアもなくなります。
 神はイザヤを通してこう語られます。「わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ 57:15)
 詩人もイザヤもまだ知りませんが、へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させるために、神は独り子イエス キリストをお遣わしになります。詩人が見た幻も、イザヤに与えられた預言も、イエス キリストにおいて実現し成就していきます。神の言葉は虚しくなることがありません。
 詩人は、バビロン捕囚からの解放において神を経験し、心新たに神を知ります。ご自身の民を慈しみ、救いの御業をなされる神。その約束を信じて大丈夫な真実の神。全世界の民、すべての国の王を救いへと導く神。神を知るとき、民には讃美が与えられます。神の民は、歌いつつ救いの道を歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 終わりの日の幻、救いの完成を仰ぎ見させてくださることを感謝します。あなたの見せてくださる幻が出来事なることを信じることができますように。御言葉を通して、忍耐深くあなたを信じて救いの道を歩ませてください。わたしたちにも讃美の歌声、讃美の喜びをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 11:33〜36

2020-08-23 15:18:10 | 聖書
2020年8月23日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 11:33~36(新共同訳)


 人は時間をかけて成長していきます。信仰も同じです。パウロは、復活のキリストが出会ってくださるという劇的な体験をして回心しました。けれど、これで神の御心のすべてが分かった訳ではありません。回心の後、パウロはアラビアに行き、3年間主に従う準備の時を過ごしました。それからエルサレムに行き、ペトロや主の兄弟ヤコブに会いました。そしてシリアやキリキア地方で伝道を開始します(ガラテヤ 1:17~21)。

 神の導きによって一つひとつ経験をし、神の御心、神のご計画を考えさせられてきました。アジア州で伝道しようと考えていたときも、聖霊によって禁じられました。ビティニア州に入ろうとしたときも、イエスの霊がそれを許しませんでした。その後パウロは、マケドニア人が「来て、助けてください」という夢を見て、神が召しておられると確信しました(使徒 16:6~10)。かつて回心を経験することになったダマスコに行くときもそうでしたが、パウロは神のために熱心であろうとしていました。しかし神は、パウロの熱心ではなく、神にご計画があり、それに従わなければならないことをパウロに示されました。

 このローマの信徒への手紙も長い手紙です。どれほどの日数を掛けて書いたのでしょうか。おそらく書きながら、言葉を探す中で、気付くこともあったでしょう。おそらくきょうの箇所がそういう箇所だと思います。

 パウロが「あぁそうだったのか」とはっきり気付かされたのが、32節です。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」
 パウロはユダヤ人です。ベニヤミン族の出身で、ファリサイ派の薫陶を受けたユダヤ人の中のユダヤ人です(フィリピ 3:5~6)。この頃は、イスラエルこそ神の選びの民、イスラエルは救いへと導かれ、異邦人は救いの対象外だと思っていました。それが復活のキリストによって回心させられ、異邦人の使徒としての務めを与えられてからは(ローマ 11:13)、神が異邦人も救おうとしておられることを知りました。
 そしてまだ行ったことのない、会ったことのないローマの信徒たちのためにこの手紙を書こうと思い立ち、長い時間をかけて書きました。わたしたちの手にしている聖書で25ページにも及ぶ手紙です。パウロは新しくキリストを信じたきょうだいたちが自分が陥ったような間違いに陥ることがないように、3〜8章でキリストを信じることを通して与えられる神の義について丁寧に語りました。9〜11章では、パウロが心にかかるイスラエルの救いについて書いてきました。
 まだ会ったことのないローマの人たちにきちんと伝わるように丁寧に考え語ってきました。救いについて考え、裁きについて考え、選びについて考えました。ファリサイ派時代の信仰、キリストに出会ってからの歩み、神によって伝道の道がふさがれ、自分が思っていたのとは違う道へと導かれたこと、色々なことを思い起こし、神の御心を思い巡らしました。

 そして最後導かれた思いが32節でした。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」これはパウロにとって驚くべき考えでした。それが33節の「ああ」に表れています。何と神はすべての人を憐れもうとしておられるのです。
 パウロはずっと神に選ばれた者と選ばれていない者、神に喜ばれ祝福される者と裁かれる者というように、人を分けて理解してきました。しかし神は、すべての人を憐れもうとしておられる。憐れむために御業をなし、すべての人を不従順に閉じ込められました。
 パウロは何度も何度も繰り返し問いかけ考えたことでしょう。「そんなことがあるのだろうか」。そして、その度に思い起こしたことでしょう。キリストを理解できなかったこと。伝道の計画も神の計画とは違っていたこと。自分の確信も熱心も神の御心とは違っていた。神を理解し尽くすことはできない。自分の考えで神を包み込むことはできない。33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」32節「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。
 「神の富」とは、神が与えようとしておられる救いの恵みの豊かさを現しています。そしてそれを与えるための神のご計画を「知恵と知識」と言っています。神の救いの恵み、それを与えるための神のご計画は、余りに豊かで余りに深い。一体「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」か。

 ここに至って、パウロは何度も読み、よく知っている旧約の言葉が自分に向けて語られた神の言葉であることに気付きます。34~35節「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」これらはイザヤ 40:13、ヨブ 15:8, 41:3から引用し、まとめたものです。誰も主の御心を知り得ず、誰も主の相談相手になって助言することもなく、誰かが先に主に与えるなどということもなかった。自分は既に聞いていた。知っていた。でも主の御心を自分は理解していなかった。それなのに自分は分かっているとずっと思い込んでいた。そのわたしために、神はキリストを遣わしてくださった。キリストは十字架を負ってくださった。復活してくださった。そしてこのわたしに出会い、回心させてくださった。使徒としての務めを与えてくださった。

 パウロは圧倒されます。すべての存在の根源である方が、すべての人を憐れもうとされる神が、迫ってきます。まるで今、パウロには神の御業が見えているかのようです。それが36節です。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」
 実はこの箇所、動詞がありません。「一切は神から、神により、神へと」(田川建三版)あるいは「すべてのものは彼から、彼によって、そして彼へと」(岩波書店版)となっています。翻訳をした人たちは、パウロの似た表現、例えば1コリント 8:6などを参考に補って訳したのでしょう。

 すべては神から、神によって、そして神へと導かれていきます。その神の御業、そしてそれを願われる神ご自身の前に立つとき、パウロには讃美の言葉しかありません。「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。

 聖書で「栄光」は、神が救いの神であることが現れること、明らかになることを表します。神以外に神はなく、神以外に救いの御業をなしてくださる方はありません。救いは神なしには起こりません。神がその栄光を現してくださり、とこしえまでも救いを求める者が神を仰ぎ見、神に出会うことができますように。すべての人を憐れもうとしておられる神の思いを知ることができますように。自分に神の救いは必要ないと拒絶してしまう罪が拭い去られ、清められますように。

 神の御心が明らかになるとき、独り子を遣わしてまですべての人を憐れもうとされる神の御心が明らかになるとき、パウロは自分が、神の民が、イスラエルもキリストの教会も、語り尽くすことのできない神の救いの御業のただ中に入れられていることを知ります。神の救いのご計画、そして救いの恵みは、パウロの欠けも弱さも愚かさもすべてを包み込んで神の喜びで満たしていきます。
 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」


ハレルヤ


父なる神さま
 計り知ることのできないあなたの愛と救いのご計画を、わたしたちに知らせてくださる恵みに感謝します。パウロが繰り返しあなたを知っていったように、わたしたちも生涯あなたと新たに出会い、喜びをもってあなたを知っていくことができますように。どうかあなたがすべての人を憐れもうとしておられることをすべての人が知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 138:1〜3

2020-08-20 10:48:08 | 聖書
今週も臨時で詩編の説教を、おまけ付きで上げます。

2020年8月19日(水) 祈り会
聖書:詩編 138:1〜3(新共同訳)


〈 説教 〉
 おそらく詩人は、今バビロンにいます。バビロン捕囚でエルサレムから連れてこられました。捕囚の民は今、浮き立っています。南ユダを滅ぼし、自分たちをバビロンに連れて来た新バビロニアがペルシャのキュロス2世によって滅ぼされたからです。捕囚の民にとっては胸のすくような思いであったろうと思います。

 それだけでなく、キュロスは勅令を発して、イスラエルを始めバビロニアによって強制移住させられていた民に帰国の許可を出したのです。
 もう第1回の捕囚から60年、第2回からでも50年の月日が流れました。詩人は一体何歳なのでしょうか。20歳で連れてこられたとして、第1回なら80歳、第2回でも70歳です。故国を思いながらバビロンで生涯を終えた者もいたでしょう。バビロンで生まれ故国を知らずに育った者もいるでしょう。もうエルサレムに戻ることなど考えることもなく一日一日を過ごしていたのでしょうか。

 おそらく、捕囚の民は、収拾の付かないような大騒ぎになっただろうと思います。
 そんな中、詩人は神の御前に進み出ます。詩人は、他のイスラエルに優って神が御業をなしてくださったことを感じていました。
 神が預言者たちを立ててくださったので、国が滅びたことも、捕囚に遭い異国の地で暮らすことになったことも、自分たちの罪によるものであり、神の御業であることを理解はしてきました。それでも月日が経つ中で「主よ、いつまでですか」と祈り、10年20年と経つ内に次第に諦めの思いも強くなっていったことでしょう。

 それが突然の解放の知らせ。詩人は思います。「主は生きておられる」。主の真実に圧倒されるような思いで、詩人は感謝と畏れをもって御前に進み出ます。
 「わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます。」
 「聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。」
 エルサレム−バビロンは約2,000km離れています。しかもエルサレムの神殿は、バビロニアによって破壊され瓦礫の山です。詩人は記憶の中の神殿を思い起こし、全てを超えて神の御前にひれ伏します。
 神の慈しみと真実は何も変わっていませんでした。詩人は、神に満たされて讃美し告白します。あなたの御名はわたしたちの喜び、あなたの御言葉はわたしたちの支え。「神よ、あなたはすべてにまさって/御名と仰せを大いなるものとされました。」(聖書協会共同訳)

 救いの出来事の中で、神が自分と繋がっていてくださることを覚えます。
 「呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え」てくださいます(聖書協会共同訳)。
 神は救いの神、生命の神。神は生きる希望と力を与えてくださいます。御言葉も祈りも讃美も、神と共に生きるための恵みの賜物です。
 詩人は、捕囚からの解放によって、慈しみとまことの神を、新たな信仰と共に知る喜びを感じているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 変わることのない真実であり続けてくださることを感謝します。わたしたちはあなたほど忍耐強くなく、待ち続けることができません。どうか呼び求めるわたしたちに答え、魂に力を与えてください。どうかあなたの救いの御業を見ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン



〈 簡単な聖書研究 〉
 1節
「ダビデ」
  表題に「ダビデ」とあるのは150ある詩編の半数近く。
  ダビデはイスラエル王国 第2代の王。
  表題に「ダビデ」とあるものはダビデの作と考えられてきたが、聖書学の進歩
 と共に、ダビデ自身のものというよりも、ダビデの苦難に(逃亡生活、家族の
 問題)イスラエルの苦難、自分の苦難を重ね合わせながら、またダビデの信仰
 に倣って神に祈り讃美したと考えられるようになってきた。
  内容から見て、138篇はバビロン捕囚解放前後に歌われたものではないか。


「神の御前で」
 「神」と訳するもの(新共同訳、聖書協会共同訳)、
 「神々」と訳するもの(岩波版、月本昭男)
 「御使いたち」と訳するもの(新改訳2017、フランシスコ会訳)がある。
 訳されたのは「エロヒーム」という単語である。通常「エロヒーム」は「神」と訳される。なぜ訳が分かれるのか。共同訳を見ると「神の前で、あなたを」となっている。神を讃美しているのに、神とあなたは違うのだろうか?という疑問が出てくる。さらに「エロヒーム」という形が複数形である。だから「神々」とも訳せる。また70人訳(旧約のギリシャ語訳)は「御使いたち」と訳している。


 2節
「その御名のすべてにまさって/あなたは仰せを大いなるものとされました」
 新共同訳は、原文に沿った訳。しかし日本語としては意味不明。神が自分の名のすべてにまさって、自分の仰せをおおいなるものとした、というのは意味が分からない。
 他の訳は意味が通るように読み替えをしている。どれがいいかは判断しづらい。
 聖書協会共同訳「あなたはすべてにまさって/御名と仰せを大いなるものとされた。」
 新改訳「あなたがご自分のすべての御名のゆえに/あなたのみことばを高く上げられたからです。」


 3節
「解き放って」
 原文にないので、なぜこういう訳が入ってきたのかは不明。この詩篇がバビロン捕囚からの解放前後のものと理解し、詩人の祈りに「答え」解放して(解き放って)くださったことへの感謝の詩篇だと判断したのかもしれない。翻訳は一番最初の解釈である。


〈 聖書について 〉
 キリスト者、特にわたしたちプロテスタント、あるいは福音主義のキリスト者にとって聖書はとても重要です。
 「聖書のみ」は宗教改革の第一原理とも言うべきものです。
 現在、この聖書は何を指すかと言えば、旧約はヘブライ語聖書、新約はギリシア語聖書です。その聖書も、原典つまり元々の書物が書かれてから数百年後の写本があるだけで、例えばパウロ直筆のローマの信徒への手紙は現存しません。聖書学者による本文校訂の作業を経て、ヘブライ語聖書、ギリシア語聖書の底本が作られ、それを元に日本語訳が作られていきます。
 今わたしたちが使っている新共同訳聖書は、旧約がビブリア ヘブライカ シュトットガルテンシアというドイツ聖書協会が作成した底本、新約がギリシア語新約聖書(修正第三版)という聖書協会世界連盟の底本を使用しています。
 最新の聖書協会共同訳では、旧約はビブリア ヘブライカ クインタを新たに追加して用い、新約は修正第三版だったのが修正第五版になりました。
 こういったヘブライ語聖書、ギリシア語聖書の底本を用いて、日本語に翻訳されていきます。
 きょう見ましたように、現在、公同教会の主日礼拝で用いられている聖書が何種類かあります。そして同じ箇所の翻訳が違います。完全な翻訳、完璧な聖書というものはありません。
 わたしたちは、不完全な人間、そして不完全な人間の言語を用いて、ご自身とその御業を宣べ伝えられる神の大いなる御心の前に、身を低くし「お示しください、お語りください」と祈りながら聖書から聞いていくのです。
 不思議なことに、訳によって違いがあり、完璧な翻訳などないにも関わらず、使徒信条で告白されるような父・子・聖霊なる神とその救いの御業について公同の教会は一致しています。それは、今の諸教会だけでなく、代々の教会も一致しています。罪を抱えた不完全な人間を導き、救われる神の御業が現れているように思います。
 聖書だけでなく、教会も、わたしたち一人ひとりの歩みも、インマヌエルの神が共にいてくださり、導いてくださるからこそ、安心して信じ、従うことができるのです。

ヨハネによる福音書 5:37〜40

2020-08-16 19:06:31 | 聖書
2020年8月16日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:37〜40(新共同訳)


 ヘブライ語の「言葉」という単語には「出来事」という意味があります。これは「神の言葉は出来事となる」ことからきています。創世記1章の天地創造の記事を見ると分かります。神が語られるとそれは出来事になりました。
 そしてヨハネによる福音書は「イエス キリストが言葉である」と言います。ヨハネ 1:1「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ヨハネ 1:14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」イエス キリストにおいて神の御心が出来事となりました。イエス キリストこそまさしく神の言葉です。
 ですから、神が旧約において語った救い主の預言、それがイエス キリストにおいて実現し成就したことが、イエス キリストの証しです。

 イエスは、自分を憎み、殺そうと狙っているユダヤ人たちに語ります。「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」
 天の父が、イエスがキリスト=救い主であると証しをしておられます。旧約の預言がイエスにおいて成就しています。しかしユダヤ人たちはイエスを信じません。イエスがなしておられる業を認めません。父が証しをし、語っておられるのに、それを否定します。それでは父の声を聞くことはできません。父を仰ぎ見ることもできません。どんなに学んでいても、それは父の御心とは結びつかない律法主義になってしまいます。

 イエスは14章のところで「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われます。それに続いてこう言っておられます。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」これを聞いたフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と言うと、イエスは答えてこう言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(14:9~11)
 父と子は一つなのです。イエスを信じるとき、天の父を信じるのです。イエスに従い行くとき、父と共に生きるのです。

 イエスはユダヤ人に語りかけます。39~40節「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
 ユダヤ人たちは「聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究して」います。聖書の中に永遠の命に至る秘密が記されていると考えていたのでしょう。他にも聖書には隠されたメッセージがあると考えて、いろいろなことが言われてきました。
 けれどイエスは言われます。「聖書はわたしについて証しをするものだ。」これこそが聖書を読む鍵なのです。聖書から神の声を聞くための鍵なのです。イエス キリストこそ、パウロが「ぜひ知ってもらいたい」(ローマ 11:25)と言っている神の秘められた計画なのです。
 この福音書の編集者であるヨハネは、この福音書を書いた目的をこう書いています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ 20:31)
 イエス キリストこそが、神が約束された救い主であり、わたしたちの命なのです。

 聖書は、神の御心と(救いの)御業を語ります。神はわたしたちを罪から救い、共に生きたいと願っておられます。聖書が語るのは、わたしたちを救いたいと願っておられる神ご自身と、神と共に生きる命です。この二つがイエス キリストにおいて現されています。
 だからこそイエス キリストは神の言葉なのです。神ご自身を現し、神の御心を現す神の言葉なのです。次いでイエス キリストを証しする聖書が、神の言葉です。旧約はこれから来られるイエス キリストを指し示しています。新約は既に来られ、救いの御業を成し遂げられたイエス キリストを証ししています。そして、聖書を解き明かしつつイエス キリストを「見よ、あの方だ」と指し示すのが説教です。

 神はイエス キリストにおいてわたしたちと出会おうとしておられます。イエス キリストにあって神を知ってほしいのです。救いに与ってほしいのです。命を得てほしいと願っておられます。神は招いておられます。待っておられます。それなのに、40節「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
 聖書を学び、研究しても、聖書が証しするイエス キリストに出会い、信じるのでなければ、救いに与ることはできません。永遠の命には至りません。父なる神のわたしたちを救おうとする御心は、イエス キリストにおいて出来事となり、実現したのです。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:9~10)

 主の日の礼拝に集い、説教を聞く皆さんが、説教を通して聖書が語っていることを理解し、聖書が指し示すイエス キリストに出会えますように。キリストに出会い、父なる神、聖霊なる神を知り、救いに与り、永遠の命に至りますように。神と共に救いの道を雄々しく歩み行くことができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの言葉であるイエス キリストをお遣わしくださり、感謝します。聖書の証しを通して、あなたの御心が、どのように成就したのか、イエス キリストにおいてどう実現したかを知ることができますように。どうかイエス キリストに出会い、キリストを通してあなたを知ることができますように。あなたと共に生きることができますように。どうかあなたが御子を通して与えてくださる命に与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン