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ローマの信徒への手紙 8:19〜22

2019-06-30 22:41:02 | 聖書
2019年6月2日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:19〜22(新共同訳)

 人は天地創造のときに、神から務めを与えられました。「神は・・祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。』」(創世記 1:28)これは「祝福して言われた」とあるように祝福の言葉です。この務めによって、神の祝福が地に広がるのです。「従わせよ」という言葉の強さに誤解されがちですが、神の御心によって治めるのです。人は、神にかたどって創られ、神と共に歩み、御心をなすように創られました。

 しかし、人は罪を犯してしまいました。その結果、神とは違う自分の善悪を持つようになってしましました。神の御心によって、地を治めることができなくなりました。これにより、地も人の罪のために苦しむようになりました。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」(創世記 3:17)それで被造物は「すべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」のです。

 わたしたちはまず、罪は自分だけの問題ではなく、周囲を罪に巻き込んでしまうことを知らねばなりません。十戒に「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出エジプト 20:5)とあります。男であれ、女であれ、神に背く者が影響力を持っている家庭においては、一緒に暮らす孫、ひ孫まで影響を受けるのです。例えば、一国の総理なり大統領なりが戦争を始めたとき、平和主義者であっても、その国に暮らしている者は戦争に巻き込まれるのと同じです。
 ですから、罪に巻き込まれている被造物も、救いの完成、神の国の到来を待ち望み、「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」日を望み見ているのです。「神の子たちの現れるのを切に待ち望んで」いるのです。

 救いの完成、神の国の到来は、創造のときの「よかった」が回復されるときです。創世記1章の天地創造の出来事において、神は創造されたものを見て、「良しとされた」つまり「よかった」と6回言われました。そして6日目に人を創造された後で「極めて良かった」と7回目の「よかった」が言われました。
 7は完全数と言われています。1〜10までの基本的な数の中で最大の素数、割ることができない完全な数字だからだと考えられています。7日間の創造、7回の「よかった」、創世記は神の創造が完全なものであったことをこうした形で表現しています。
 それが人間の罪によって壊されてしまいました。そこで神は、救いの御業をなし、創造のときの「よかった」を回復しようとされました。

 イザヤ書は、その救いの完成をこのように描きます。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ 11:6~9)これは一言で言えば、神が創られたものすべてが、共にあることを喜べるということです。これが神の「よかった」なのです。罪は共に生きることを破壊していきます。神はその罪からわたしたちを救い出し、神の「よかった」に与らせてくださるのです。
 ですからイエスも、主の祈りにおいてわたしたちが日々祈るように教えてくださいました。「御国が来ますように。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」

 きょうの箇所では一つ気になる箇所があります。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思によるものであり、同時に希望を持っています。」罪による虚無に服しているのが、被造物自身の意思ではないことは分かります。しかし、服従させた方、つまり神の意志によるものとはどういうことでしょうか。

 これと同じような表現が、この手紙の中に出てきます。11章のところにこう書かれています。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル)の不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼ら(イスラエル)も、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(ローマ 11:30~33)この箇所を丁寧に読むのは、説教がこの箇所まで進んだときにすることにしまして、大事なのは「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだった」ということです。
 神がなさることで、理解しがたいことは、その時その時でたくさんあります。「なぜですか、神さま」と叫ばずにはいられないこともあります。わたしたちは神の御心を理解し尽くせませんが、聖書は、神がなさるすべては「すべての人を憐れむため」だと語ります。なぜならば、イエス キリストが来られたことによって「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ 3:16)ことが明らかになったからです。「神が御子を世に遣わされたのは・・御子によって世が救われるためである」(ヨハネ 3:17)ことが証しされたからです。
 ですからここでも「同時に希望も持っています」と語るのです。虚無に服従させた方の意思は、すべての人を憐れむことであり、イエス キリストによって世が救われることだからです。だから希望があるのです。

 先ほど、罪は周りを巻き込み、影響を与える、と言いましたが、罪に勝利した神の救いの御業は、それ以上です。先ほど引用した十戒では「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われています。罪が3,4代なのに対して、神の慈しみは幾千代です。わたしは3代前までしか知りません。千代となったらどれくらい時を遡ればいいのでしょうか。ルカによる福音書の言い方に倣えば「そして神に至る」(ルカ 3:38)となるのでしょう。わたしたちは皆「そして神に至る」系図の中に生きています。

 またイエスは、マタイによる福音書でこう言われました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42)
 わたしの両親も弟もその家族もキリスト者ではありません。けれど、わたしはその未信者の家族から冷たい水一杯以上のものを受けてきました。今は近くにいなくて、わたしが受けたことに報いることはできませんが、主イエスご自身がこのいと小さきわたしに代わって報いてくださるのです。
 わたしたちがイエス キリストを信じるとき、信じたわたし一人が恵みを受けるのではありません。神の恵みは、罪とは比べものにならないほどに大きな影響力を持ち、周囲を神の恵みに巻き込んでいくのです。

 だからわたしたちは、希望を持っています。神の御心に、神の御業に希望を持っています。救いの完成、神の国の到来に希望を持っています。このわたしがキリストと同じ姿に変えられるのです。罪から解放されて、愛することができるのです。赦すことができるのです。イザヤが預言したように、共にあることを喜び、神の「よかった」に満たされていくのです。
 聖書は語ります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒 16:31)だから愛する者も主に委ねて、安心して信じるのです。

 真理はわたしたちを自由にします(ヨハネ 8:32)。恐れから解放します。そしてイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)と言われます。真理であるイエス キリストこそ、わたしたち、そして全被造物を「滅びへの隷属から解放」し、「神の子供たちの栄光に輝く自由」に与らせてくださるお方なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストを通してわたしたちに希望を与えてくださることを感謝します。わたしたちはこの罪の世に捕らわれがちで、あなたをしばしば忘れてしまいます。どうか聖霊を注ぎ、キリストの救い、恵み、希望でわたしたちを満たしてください。どうかキリストを通してあなたの御心を知り、救いの御業に仕えていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン