聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 6:60〜66

2021-02-21 15:09:55 | 聖書
2021年2月21日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:60〜66(新共同訳)


 イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ 6:53~55)

 教会員の皆さんであれば「あぁ聖晩餐で示されている事柄だなぁ」と思われると思います。
 ヨハネによる福音書は特に、キリストと一つにされる、新しく生まれるということを明らかにしようとしています。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ 3:3)キリストと一つにされて、キリストの命に生きるという、救いの秘義を明らかにしようとしています。

 しかし、イエスがなされたしるしを見て、イエスに従ってきた弟子たちの多くが躓きます。
 ここで気づかされることがあります。6章の始め、五千人の給食の出来事から「群衆」と言っていたのが、6:41では「ユダヤ人」と言い、それがきょうの6:60に来ると「弟子たち」に変わります。そして、この話の最後は「多くが離れ去り・・イエスと共に歩まなくなった」です。
 これは、しるしを見て集まってきた人たちが、イエスの話や業に惹かれ、イエスに従うけれど、肝心のところで躓き、離れていくことを表しています。

 彼らはイエスの救いの秘義とも言える話を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやき始めます。
 教会員の皆さんにとっては、聖晩餐に与る中で当たり前になっているかもしれませんが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。・・わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」という話は、実にとんでもない話です。言葉通り受け止めれば、人の肉を食べ、血を飲むということです。とても正気の沙汰とは思えません。弟子たちがつぶやくのも仕方ないように思います。

 けれどイエスは、弟子たちがつぶやいているのに気づいて言われます。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・。」
 この言葉は、わたしたちの考えと神の考えの違いを示しています。つまり、わたしたちが罪を抱えていて、神の思いを理解できないことを表しています。
 イエスは以前、自分を訪ねてきたニコデモに対して「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言われました。イスラエルの教師であっても、新しく生まれるという神の御心は理解できないのです。
 だからこれが分からないなら、このことの次に起こること、神のご計画を理解できるのだろうか、というイエスの思いを表しています。

 わたしも40年近く聖晩餐に与っています。牧師になって30年近く聖晩餐の司式をしてきましたから、慣れてしまっていますが、この説教の準備をする中で思い出しました。そもそもイエスが救い主としてこられ、十字架に掛かるということが長い間理解できませんでした。なぜ神はそんなことをしなければならないのか。神が全能であるならば、自分のひとり子の命を献げるなどということをしなくても、罪人を救えるのではないかと思い、キリストの十字架が理解できませんでした。自分のひとり子を十字架に掛けて殺すなどというそんな残酷な神を、世界の人々は信じているのか、とても正気だとは思えない、そんな風に考えていました。神の思い、神の計画を理解できなかった自分が、かつて確かに存在していました。

 罪は、神とは違う思いを抱くことですから、神がなされることに対して、どうしてそんなことが必要なのですか。なぜこうなさるのでしょうか、と理解できないことだらけです。自分が信仰を持ってからも、いろいろなことに出会う度に、なぜ神さまこんなことが起こるのでしょうか、あれほど神さまの導きを祈ってきたのに、どうしてこんな苦しいことに遭わなければならないのですか。神さまの導きが理解できないことだらけでした。
 けれど、わたしたちをお造りくださったのも神の御心であるならば、わたしたちをどのようにしてお救いになるか、わたしたちにとって何が必要なのか、どうしたらわたしたちが救いに入ることができるのか、それは神だけがご存じのことです。わたしたちは自分の理性を駆使して、こうしたら上手く行くんじゃないか、こんなことをなくったって、こうしたらもっと上手に苦しまずにうまくやっていけるのじゃないだろうか、そういうことをしばしば思います。それと同じようなことを、イエスから救いの秘義を聞いた人たちも感じたのです。

 イエスはさらに続けます。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
 ヨハネによる福音書は、福音書を編纂する中で、霊、新しく生まれること(新生)、そして永遠の命ということを伝えようとして記事を選んでいるように思います。先程も引用したニコデモの出来事でも4章のサマリアの女性の話でも出てきます。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)「水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(3:5)「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)
 イエスは言われます。「命を与えるのは霊である。」ここで言われている命は、罪によって死に至る命ではなく、神と共に生きる永遠の命のこと、神の国に入ることのできる新しく生まれた命です。
 この命に対しては肉は役に立ちません。今わたしたちの周りではアンチエイジングということが言われ、いくつになっても若々しくあることの方が関心を集めています。けれどどんなに若々しくあっても、この世の肉の命は死に至ります。肉の命は、罪による死に囚われています。
 死を超える神の命を与えるのは霊なのです。霊の働きは、結び合わせることです。聖霊は、神と結び合わせてくださいます。イエス キリストと結び合わせ、キリストの救いと復活の命に与らせ、神と共に生きる神の子としてくださいます。イエスは「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われました。それはイエスが語られた言葉は、それを信じ受け容れる者を、神へと導き、永遠の命に与らせることを言っています。
 さらに受け入れられたイエスの言葉は、キリストご自身をわたしたちの内に住まわせ、わたしたちを神の愛に根ざす者としてくださいます(エフェソ 3:17)。
 イエス キリストこそ、わたしたちを神へと導く活ける神の御言葉です。

 ここの一連の言葉で言われているのは、わたしたちが十字架の罪の贖いに与り、復活に至ること、キリストと一つになることによって霊の命に新しく生まれること、普段の食事が血肉となり、日々の命を支え育むように、イエス キリストの命を指し示すパンとぶどう酒(液)を頂くことを通して、聖霊なる神がイエス キリストご自身と結び合わせてくださり、イエス キリストの命に生きる神の子とされていることです。イエスは、救いの核心、救いの秘義をお語りくださったのです。

 しかし自分の罪に気づかない者、自分の思いに囚われていることに気づかない者、あるいは命と未来は神の許にあることに気づかない者は、神の言葉、神の業を受け入れることができません。
 イエスが言われた「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」という言葉は、自分が今どこに立っているのかを気づかせようとしている言葉です。信じられない状態にある自分自身の姿に気づかせようとしておられます。
 イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられます。しかしそれでも、この一連の言葉を命へと導くためにお語りくださいました。この者は信じないから、この者は裏切るから語っても無駄だと考えて、語らないのではなく、今は信じないことを、そして自分を裏切ることを知っていてもなお、イエスはお語りくださいます。
 そのようにしてイエスがお語りくださったからこそ、十字架の前で逃げ去った弟子たちは聖霊降臨の後、イエスの語っておられたことに気づいて、あぁ自分たちが分からなかったとき、理解できなかったとき、信じられなかったときから、主はお語りくださっていた、その事に気づいて、イエスが語ってくださっていたことを語り継いでいったのです。

 そしてイエスは言われます。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 自分の命、自分の人生、自分が考えるように生きる、とまるで命が自分の所有物であるかのように思っている間は、罪と死から自由になることはできません。わたしたち罪を抱えている罪人は、神の憐れみを求める方へと思いの向きを変えて頂かなくてはなりません。わたしは信じる、わたしはこう信じる、という自分が主体の信仰ではなく、自分自身を神に委ね、自分の信仰も神に導いて頂くのです。

 イエスが救いの核心、救いの秘義とも言える話をしたために、弟子たちの多くが離れ去り、イエスと共に歩まなくなりました。彼らは、まだ罪に気づけず、命と未来が神の許にあることが分かりませんでした。
 わたしたちは、信じない者から信じる者にパッと変わる訳ではありません。わたしはずっとイエスがなぜ十字架にお掛かりにならねばならなかったのか、なぜ神がひとり子を遣わすという仕方で救いをなさらなければならなかったのか、理解できずにいました。信仰をもって歩み始めてからも、なぜこのようなことがわたしの人生に起こるのか、神に祈り求めつつ歩んでいるのに、なぜこんな苦しみを経験しなければならないのか、神の御心が分からないことがたくさんありました。それでも、主はこのわたしに語り続けてくださいました。分からない理解できないときにも、語り続けてくださったから、理解できる時へと導かれてきました。そして今もまだ途上にあります。わたしの願いの一つは、神の御心が自分の思いになることですが、罪の世にあって生きる間は、なかなかそうはいきません。けれども一日一日、一つひとつの出来事を通して、神はわたしにお示しくださいます。あぁ主よ、そうだったのですかと、気づくように導いていてくださいます。イエスは自分の許を離れていく者、自分を裏切る者をもお見捨てにはなりません。その救いを願って、語り続けてくださいます。

 そしてイエスは本物の救いを与えようとされました。いつも、誰に対しても、イエスは本当にその人を救う救い、神へと立ち帰らせ、神と共に生きる本当の救いを差し出しておられます。丁度聖晩餐において、「取って食べよ」とパンが差し出され、「この杯から飲め」と杯が差し出されるように、わたしたちを本当に救う救い、イエス キリストご自身を差し出していてくださいます。イエス キリストこそ、わたしたちの救いであり、わたしたちの命なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 共に生きることを願ってわたしたちを造り、罪を犯してなおひとり子を遣わしてまで、わたしたちを命へと導いてくださり、感謝します。御子はその命のすべてを与えてくださり、わたしたちを御子の命に生きる者としてくださいました。あなたの救いの恵みは、わたしたちの思いを超えて、理解し尽くすことはできません。主がわたしたちのために備えてくださった聖晩餐の恵みを通して、あなたへと思いを馳せ、命を望み見ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 149:1〜4

2021-02-19 23:35:23 | 聖書
2021年2月17日(水) 祈り会
聖書:詩編 149:1〜4(新共同訳)


 きょうは149篇の前半です。
 この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)があります。

 きょうは4節まで読みます。
 新共同訳では、3節と4節の間で1行あけて、区切りとしています。これは読みやすくするための訳者の配慮で、ヘブライ語の原文は1行あけてはいません。
 これは訳者の判断なので、訳者が変われば、判断も変わります。新しい聖書協会共同訳、新改訳2017、岩波書店版は、4節と5節の間で1行あけています。フランシスコ会訳は、ヘブライ語の原文と同じく、1行あけるということはしていません。

 1節「新しい歌を主に向かって歌え。」
 「新しい歌」というのは、時間的に新しいということではありません。この「新しい」は、生き生きとしている、今生きていることを表します。古くて枯れてしまっている、さび付いて動かないではなく、生き生きとしている、命が通っている様を表しています。
 「新しい歌」という表現は、詩編には6箇所あります(33:3, 40:4, 96:1, 98:1, 144:9, 149:1)。詩編以外では、イザヤ 42:10と黙示録 5:9, 14:3に出てきます。
 詩人は、主が救いの御業をなし、自分たちの前におられることを感じています。主が救いの御業をなしていてくださる。その主に応えて、生き生きとした信仰、讃美をもってわたしたちも主の御前に立とうと呼びかけています。

 1節「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」
 「主の慈しみに生きる人」はこの149篇に3回出てきます(5, 9節)。148篇の最後(14節)にも出てきます。2節のイスラエルやシオンの子は、この「主の慈しみに生きる人」を表しています。
 この「主の慈しみに生きる人」はハシディムという言葉で、ヘセドという言葉から派生した言葉です。ヘセドは「契約における確固とした愛」を意味しています。わたしはなかなかヘセドの意味合いを把握できず、「契約における確固とした愛」を何度も繰り返しながら考えます。
 翻訳も様々で「忠実な」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波書店版)とか「敬虔な」(新改訳2017)とか「信実な」(月本昭男)など、ヘセド、ハシディムの意味合いを伝えようとしているのが感じられます。

 2節「イスラエルはその造り主によって喜び祝い」
 造り主なる神、特に聖書の神を知ることは、自分の存在の意味を知ることです。神がわたしを愛しておられ、わたしと共に生きることを願ってわたしを造られたことを知るからです。
 今は「神なんか信じてないよ」と簡単に言える時代ですが、もし造り主なる神が存在せず、自分も他の人たちも、世界もただ偶然に存在しているだけだと言うなら、その存在には何の意味もないということです。すべては偶々(たまたま)なのですから。生きていることも、苦難に遭うことも、死ぬことも偶々で意味はないということです。「神なんか信じてないよ」と言っている人は、果たしてそのことを理解して言っているのだろうかといつも疑問が浮かんできます。
 造り主なる神を知っている人は、自分の存在の根源を知り、自分が愛されている、求められている存在であることを喜ぶことができるのです。

 2節「シオンの子らはその王によって喜び躍れ」
 神が自分の王であってくださることを知る者は、神が自分の人生、日々の歩みに責任を持ってくださっていることを知ります。神の平安(シャローム)がその人を包みます。
 3節「踊りをささげて御名を賛美し/太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。」
 神の平安は、喜びを増し加えます。その喜びは、讃美へ、歌へ、踊りへと進んでいきます。昔、誰の言葉か忘れてしまいましたが「歌を生み出さないものは、文化にはならない」という言葉を聞いて「そうか」と思いました。
 讃美も、福音派の若者を中心に多様になってきました。福音時報の記事を見て、日本キリスト教会の礼拝でも God bless you などの讃美歌が歌われていることを知りました。わたしたちの教会でも信仰が生きているからこそ、生きた讃美が溢れ出てくるといいなと願っています。
 踊りについても、最近これも福音派の教会などでゴスペルフラが行われています。フラダンスで讃美するというものです。フラダンスは動作に意味があるので、神を讃美する振り付けをして、踊るというものです。
 「太鼓や竪琴を奏でて」 太鼓はタンバリン(新改訳2017)としている訳もあります。皆で讃美するために、楽器というものが作られた初期の頃から、楽器が讃美に用いられていたことが分かります。
 讃美によって、神を喜んでいた古の神の民の姿が伝わってきます。わたしたちも、教会に集まったときにだけ讃美するのではなく、生活のいろいろな場面で、讃美できるようになるといいなと思います。

 4節「主は御自分の民を喜び/貧しい人を救いの輝きで装われる。」
 民が讃美し、神を喜ぶとき、神もご自分の民を喜ばれます。讃美は、民も神も共に喜ぶ恵みの時です。
 「貧しい人」とありますが、新しい訳では「苦しむ人」(聖書協会共同訳)としています。聖書学者の月本昭男氏は「虐げられた者たち」と訳しています。どんな状況にあっても、神を喜ぶ民を、神は救いの輝きで装ってくださいます。
 この信仰は、新約の山上の説教(マタイ 5:3~12)につながっていく信仰ではないかと思います。

 神はわたしたちが、救いの喜びで満たされ、讃美しつつ神と共に歩むことを願っておられます。教会に集う皆さんお一人おひとりが、救いの恵みに満たされ、神を喜ぶ者となられることを心から願っております。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちが、あなたの喜びで満たされ、讃美しつつ歩めるようにと、救いの業をなしてくださいます。どうか導かれて、あなたの御前に集う一人ひとりが救いの恵みで満たされますように。今、苦しみの中にある者も、御言葉に導かれあなたを仰ぎ、望みを抱くことができますように。どうかあなたと共に喜び合う者としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 13:8〜10

2021-02-14 18:02:55 | 聖書
2021年2月14日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 13:8〜10(新共同訳)


 8節「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」
 なぜこのような表現がここで出てくるかと言いますと、7節に「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」とありますが、ここは原文に近い訳だと「すべての人に対して負債を返却しなさい」(岩波版)という表現なので、この表現に合わせて言われています。

 13章は、12:17「すべての人の前で善を行うように心がけなさい」からの流れで、善を保つために、神は権威を立てられたことが語られました。神の御心に応えるために、神の民も善をなすため世の権威に従います。その権威を維持するために、税も納めるという話になり、7節「自分の義務を果たしなさい(負っているもの(負債)を納めなさい)」(田川健三訳)という話になりました。

 「負っているもの(負債)を納めなさい」という表現が出たので、今度は8節で「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」という言い方が出てきた訳です。

 今、8節に至るまでの流れを確認しましたが、きょうの箇所はちょっと不思議です。
 「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」ということは、愛し合うことは借りがあっても構わないということです。
 しかもその言葉の後に来るのが「人を愛する者は、律法を全うしているのです。」一体何を言っているのでしょうか。

 この箇所を理解するには「愛する、愛」ということと「律法」の意味を理解しなくてはなりません。
 まず最初に「愛する」について考えてみましょう。「愛する」という言葉は、日常でも使うので、国語辞典に載っています。見てみると、三つの説明があります。一つは「愛情を抱く」。もう一つは「コーヒーをこよなく愛する」という表現のように「好きで親しんでいる」。三つ目は「かけがえのないものとして、大切にする」。「学問を愛する」とか「自然を愛する」のように(新明解国語辞典)。
 けれど、聖書が示している「愛」は少し違います。聖書が示している「愛」は「共に生きていく意思」を表しています。神が「わたしはあなたを愛している」と言われるとき、「わたしはあなたと共に生きていきたい」という神の意志がそこに込められています。
 この意思があるところが、「好き」という感情と違うところです。聖書が「愛しなさい」と言っても、「好きになりなさい」とは言わないのは、この意思の部分が大切だからです。
 信仰は決断、意思を求めます。洗礼を受ける決断、信仰告白をする決断、神と共に生きていく決断を求めます。
 好きという感情は、気分や出来事の影響を受けて短時間で変化することがありますが、愛するという意思は、もっと落ち着いた生き方の基本となるものです。
 愛は、共に生きる生活を造り出していくエネルギーになるものです。

 一方「律法」ですが、わたしたちがよく使うのは「法律」という言葉であって「律法」ではありません。しかし律法と訳された言葉「ノモス」というギリシャ語は、「法」という意味の普通の単語で、特別な聖書の専門用語ではありません。訳によっては、律法という言葉を使わず、ノモスを全部「法」と訳しているものもあります。律法という訳を使っているものは、法律一般と区別して、神が与えられた戒めを律法という言葉で表しています。

 さてその律法ですが、神は何のために律法をお与えになったのか。それは、罪の世にあっても、神と共に生きるため、神の下で共に生きるためです。この「共に生きる」は、聖書の柱となっているメッセージです。
 「共に生きる」ための律法であることを、罪人はしばしば忘れます。律法学者やファリサイ派の人たちは、自分が正しいことを確認するため、また自分を誇るために律法を守ります。自分のために守るのであって、そこに「共に生きる」ためという感覚はありません。その勘違いをイエスは「偽善者よ」(マタイ 6:2, 5, 16他)という言葉で示されたのです。

 愛は、共に生きることを造り出すエネルギーであり、律法は、共に生きることの道筋を示すものです。ですから、愛と律法はよく合うし、つながっているのです。それを言っているのが9節です。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」そして、共に生きることを願う愛は、隣人に悪を行わないのです。

 だから、共に生きようとする愛だけが、律法の願いを果たすのです。それをパウロは「愛は律法を全うする」と言っています。8節と10節で二度言っています。

 では最初に「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」と言われているのは、どうしてでしょうか。それは、愛は返すことができないからです。
 愛は貸し借りなしにはなりません。親に受けた愛を返したら、借りのない正しい親子関係になれるのではありません。神に愛を返したら、貸し借りなしの対等な関係になれるのではありません。愛は、返してもらうために愛するのではありません。だから愛は、受けるもの、借りでいいものなのです。愛は、受けて喜ぶもの、受けて感謝するものです。

 神は愛です(1ヨハネ 4:8, 16)。その神にかたどってわたしたちは造られました(創世記 1:27)。もう一度確認しますが、愛は共に生きようとする意思です。共に生きようとする思いの源は、神ご自身です。そして、その神にかたどってわたしたちは造られました。共に生きるものとして造られました。これは人間の本質です。ですから、神を知っている者も知らない者も、神を信じている者も信じていない者も、愛を求めます。共に生きることを求めます。
 その人間の本質が、罪によって傷ついています。神はその傷を癒すために、愛を注ぎ続けてくださいます。神の愛を信じられるまで注ぎ続けてくださいます。ひとり子を遣わすほどに愛を注いでくださいます。
 では、神の愛を信じたから、それが止まるかと言うと、止まりません。母の胎に命が誕生したときから、注がれ続けています。だから、神の愛こそ、受けて喜ぶもの、受けて感謝するものです。
 そして、人は愛されることによって、愛を知るのです。そして愛された者は、愛するのです。だから、人は愛される者、赦される者として幼児期を過ごすのだと思います。愛されること、赦されることを経験して、人生は始まるのです。わたしは、そこに神の御心があるのだと思います。そして礼拝において、わたしたちは生涯、神の愛を受けていくのです。
 だから愛に関しては、借りのある者として生きるのです。そして、どう愛したらいいんだろうと考えるわたしたちに、神はその道しるべとして、律法を与えてくださいました。

 皆さんが、律法に触れられるときには、共に生きることを願っておられる神の愛を感じて頂きたいと願っています。「人を愛する者は、律法を全うしているのです。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちをあなたにかたどってお造りくださり、愛に生きる者として創造してくださいました。そしてあなたご自身が、尽きることのない愛を注ぎ続けてくださいます。どうかわたしたちが、あなたの愛を喜んで受ける者、感謝して受ける者であることができますように。そしてあなたの愛に満たされて、愛する者として律法に聞くことができますように。どうかわたしたちを、あなたの愛を分かち合う恵みで満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 148:7〜14

2021-02-11 12:17:04 | 聖書
2021年2月10日(水) 祈り会
聖書:詩編 148:7〜14(新共同訳)


 きょうは148篇の後半です。
 この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)があります。

 1節の2行目に「天において」とあります。そして7節に「地において」とあります。後半は、地にあるものたちに讃美を呼びかけています。この詩篇は、神が造られた世界の天においても、地においても、讃美で満たされ、世界がすべて神を喜ぶことへと導こうとしています。

 7節「地において  主を賛美せよ。/海に住む竜よ、深淵よ」
 地にあるものの最初になぜ「海に住む竜」が言われているのか。それは「海に住む竜」が地にあるもので最初に創造されたものとして記されているからです。
 創世記 1:20~23に五日目の創造が記されていますが、そこでは水の中の生き物、空の鳥が創造されます。1:21を見ますと「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに・・」とあります。7節の「海に住む竜」は創世記 1:21の「大きな怪物」を表しています。
 この「海に住む竜」を注解書を見ますと、「原始の混沌を象徴する海の怪物」(月本昭男)と記されています。そして詩編やイザヤ書を引用して、神が竜、ラハブ、レビヤタンといった創世神話に出てくる怪物を打ち破られたことを記している箇所を示しています。(例えば、詩編 74:13「あなたは、御力をもって海を分け/大水の上で竜の頭を砕かれました。」、イザヤ 27:1「その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。」、イザヤ 51:9「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ。/奮い立て、代々とこしえに/遠い昔の日々のように。/ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは/あなたではなかったか。」)
 深海調査船がある現代と違い、古代の人たちにとって、海は混沌の象徴でした。これらの表現は、混沌も神の御手の内にあるという信仰の告白です。創世記 1:2には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と言われています。創世記1章は、混沌の世界に神は語りかけ、神が見て「よかった」と言われる世界を造られていったことを表しています。ですから7節は、創造の始め、五日目に造られた竜も、混沌の象徴である深淵も、神を讃えよという呼びかけです。

 8節「火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ」
 後半は、前半と違い、一つひとつに「主を賛美せよ」を付けていません。
 神が造られた自然、そのあらゆる姿が神を讃えるようにと語ります。
 「御言葉を成し遂げる嵐」という表現があります。嵐はできることなら出会いたくないものです。海を航海している最中に嵐と出会ったら、死を覚悟しなければなりません。しかしその嵐に対しても、詩人は「御言葉を成し遂げる」と語ります。人間にとって喜ばしくないものも、人間の思いを超える神の御心があり、それを成し遂げるという信仰です。
 最近の福音時報(日本キリスト教会の月刊誌)などで、新型コロナウィルスがもたらした良い面を指摘する文を見かけるようになりました。詩人は、神が造られたすべてのものに神の御心があり、神が造られたすべてのものは神を誉め讃え、神の栄光を現すようにという信仰を持っています。
 『こどもさんびか 改訂版』113番2節に「おおじしんも あらしも いなびかりも/つくられた方に 助けもとめる」という歌詞があります。わたしはこの歌詞にあまりピンときてなかったのですが、今回148篇を読んで、自分の信仰がまだまだ小さいことを思わされました。
 すべての造られたものは、神の御手にあり、神を誉め讃える喜びに与れるのです。(ローマ 8:19~21「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。・・被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」)

 9節「山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ」山も丘も植物も。
 10節「野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ」動物も鳥も。
 11節「地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ」地にあるすべての民も、世を治める務めに立てられている者たちも。
 12節「若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。」幼き者も、若き者も、年老いた者も、男も、女も。
 13節「主の御名を賛美せよ。/主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。」
 「主の御名はひとり高く」は、主の祈りの「御名が崇められますように」(御名が聖とされますように 聖書協会共同訳)(マタイ 6:9)と同じ内容を示しています。主の御名は他の名前と同列に並べることができないのです。すべてを造り、治め導いておられる主の御名は、特別なのです。そして、信仰の目が開かれ、神の御業に気づかされた詩人の目には、神の「威光は天地に満ちている」のです。

 14節「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。/それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。/主に近くある民、イスラエルの子らよ。/ハレルヤ。」
 「角」は力の象徴です。ある聖書の註では、この角を「民の繁栄」と理解する者もいるし、「メシア的意味」に理解する者もいる、と言っています(フランシスコ会訳)。
 詩人がこの詩篇を詠ったときは、バビロン捕囚からの国の復興、角は「民の繁栄」を表していただろうと思います。しかし今、この詩篇が詠われてから二千数百年の時を経て、イエス キリストの十字架と復活を知るわたしたちにとって、「角」は単に神の民の繁栄ではなく、メシア的意味を持っているだろうと思います。

 イエスは、ヨハネによる福音書で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:14~15)と言われました。ここで「上げられる」というのは、十字架を指しています。
 「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、出エジプトの最中、民が神とモーセに向かって「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか」と文句を言ったとき、神は「炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出」ました。民が悔い改めたので、モーセが神に執り成し祈ると、神は「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」と言われました。そこで「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(民数記 21:5~9)という出来事のことです。
 イエスはこの出来事を示して、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と言われました。罪を抱え、死に囚われているわたしたちが、わたしたちの救いのために祈りを献げてくださったイエス キリストの十字架を仰ぐとき、罪と死から救われることを言っておられます。
 それはまさに詩人が語った「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉」という言葉が指し示している事柄です。

 詩人は自分の讃美がイエス キリストの十字架を指し示しているとは知りません。しかし、この詩人の讃美をご自身の言葉として聖書に収めてくださった神は、ご自身の救いの御業を指し示す言葉としてくださいました。

 神の御業は天地に満ちています。神の栄光も天地に満ちています。神はご自分を示されるのに、創世神話も、そこに登場する想像上の生き物もお用いになります。当時の世界観の中で生きる古代の人たちに分かるように、語りかけてくださいました。
 そして、ご自分への讃美を、詩人が思うより遥かに広く豊かに用いてくださり、今この詩篇を読むわたしたちには、イエス キリストの救いを指し示す言葉として語りかけてくださるのです。
 詩人の言葉は、時を超え、すべての聖徒たちに向けて語られます。「主に近くある民、イスラエルの子らよ。/ハレルヤ(主を讃美せよ)。」


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの造られた世界が讃美で満たされますように。あなたの栄光が満ちあふれますように。代々の民と共にわたしたちもあなたを指し示し、讃美へと招くことができますように。あなたと出会う一人ひとりが救いの喜びで満たされますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 6:52〜59

2021-02-07 15:52:35 | 聖書
2021年2月7日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:52〜59(新共同訳)


 イエスは言われました。「わたしが命のパンである。」(6:35, 48)そして「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6:51)と言われます。

 そこでユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始め」ました。

 教会員の皆さんは「これは聖晩餐のことだな」と思われたのではないかと思います。
 イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:53~56)

 わたしたちが食事をし、食べた物が消化され、血肉となり、自分と一つになって命を支えるように、イエス キリストの血肉に与り、命に与り、キリストと一体になるとき、キリストの命、永遠の命を頂くのです。そして、わたしたちはキリストの命の内にあり、キリストもわたしの内にいてくださり、キリストと共に生きるようになるのです。パウロも、ガラテヤの信徒への手紙で「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ 2:20)と言っています。

 これは奇跡です。罪人であり、この世では必ず死を迎えるわたしが、キリストと一つに結び合わされ、罪を赦され、罪から清められて、キリスト共に生き始めるのです。神の御心よりも、自分がこうしたいという思いに引きずられるのに、キリストを信じ、キリストの救いを求め続けるのです。終わりの日にキリストが復活させてくださる未来を見つめ信じる、新しい命を生き始めるのです。

 ヨハネによる福音書は、イエスと弟子たちとの最後の晩餐を記していません。21:25では「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と書いています。福音書の編集者ヨハネは、書き切れないエピソードの中から、その目的に適うエピソード、構成を考えて福音書を編集したのです。その目的を「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ 20:31)と述べています。
 編集者ヨハネは、聖晩餐へと続いていく事柄を、最後の晩餐ではなく、五千人の給食(6:5~13)と呼ばれる出来事から続くこの箇所で、聖晩餐が指し示す救いの恵みを明らかにしようとしているのです。

 実は、ヨハネによる福音書が示す聖晩餐の内容は、危険なものでした。迫害の時代、カタコンベと呼ばれる地下墓地などでひっそりと集まっていた頃、聖晩餐から噂が拡がっていきました。キリスト教徒は、人の肉を食べ、血を飲む秘密の儀式をしているらしい。どうやらキリスト教徒は、人を食べるらしい、という噂です。人々はキリスト教徒を警戒し、偏見が増していきました。
 聖晩餐は、日本キリスト教会の式文でも「洗礼を受けていない者、まだ信仰告白をしていない者は与ることができません」と記されているとおり、未信者は与れないので、かつては日本でも、礼拝が終わって未信者が帰った後、信者だけで守っていたこともあります。

 ハイデルベルク教理問答では、問75から聖晩餐について語りますが、「どのようにしてキリストの十字架を思い起こし、確信させられますか」という問いにこう答えます。「イエスご自身が、十字架につけられた体と流された血をもって、永遠の命へとわたしの魂を養い、潤してくださる。主のパンと杯を奉仕者の手から受け、実際に味わうのと同様に確実である。」この答えは、キリストの体と血が、わたしたちを永遠の命へと養うことと、それが確実であることを聖晩餐は証ししていると言っています。

 聖書の中心のメッセージは、神と共に生きる命です。それが、罪のために神から離れて、死に囚われてしまいました。この罪と死から解放されるには、キリストに罪を贖って頂き、いつも神と共にあるキリストと一つに結び合わされて、キリストと共に生きるのです。

 だからイエスは言われます。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」
 イエスこそ「天から降って来たパン」なのです。イスラエルの「先祖が(出エジプトの荒れ野で)食べた」ものとは違います。食べたのに「死んでしまった」ものとは違います。荒れ野で食べたマナは、イエス キリストを指し示すものでした。イエスこそ「命のパン」です。「このパンを食べる者は永遠に生きる」のです。

 教会は、この命のパン、イエス キリストを差し出すのです。教会が与えることのできるもの、神から託されているものはイエス キリストなのです。イエスご自身が「さぁ、取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。罪が赦されるようにと流されるわたしの血、契約の血である。」とご自身の命を差し出されるので、教会は、イエスを信じる者にイエス キリストを差し出すのです(マタイ 26:26~28)。

 聖晩餐は、信仰はなくても、与れば御利益があるというようなものではなく、パンはパン、ぶどう液はぶどう液ですが、イエスを救い主と信じる者に、聖霊が働いてくださり、イエス キリストの体と血、キリストの命で清め満たしてくださるのです。聖霊なる神が、イエス キリストの命によって、わたしたちを永遠の命へと育んでくださるのです。

 聖晩餐は、罪ゆえに神を信じきれないわたしたちにキリストの救いの確かさを確認させてくださる恵みです。今、感染症のため、配餐ができないのはとても残念なことです。しかし今言ったように、聖晩餐は聖霊なる神の働きを指し示すものなので、パンとぶどう液に与れないとキリストの救いに与れないということではありません。
 ユダヤ人は、紀元70年にローマによって神殿が破壊されて、儀式による信仰から御言葉による信仰へと移行しました。以来およそ二千年、流浪の民になってもユダヤ人は信仰に生きてきました。
 いずれパンと杯を分かち合う日がくることと思います。しかし今は、神の言葉に導かれて、永遠の命を仰ぎ見る時なのだと思います。
 きょうこの御言葉を聴いた皆さんの中で、イエス キリストの言葉が活きて働きますように。キリストと結び合わされ、神へと立ち帰り、永遠の命に生きることができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに命のパン、イエス キリストを与えてくださったことを感謝します。キリストは、他の何かではなく、ご自身を、その命をわたしたちに与えてくださいました。命はあなたから、そしてイエス キリストから来ます。わたしたち一人ひとりの前に差し出されているキリストの命、永遠の命を感謝して、喜んで受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン