聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 3:8〜11

2019-06-23 17:14:38 | 聖書
2019年6月23日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:8〜11(新共同訳)


 適切な表現ではないかもしれませんが、わたしにとって神を信じることは勇気のいることです。わたしはそう信仰深くないので、絶えず疑いが生じます。
 そのわたしがきょうの箇所を読むと、最初に感じるのは「風は思いのままに吹いてませんから。気圧の高い方から低い方に吹きますから。風が強くなるのも、台風が来るのも、天気予報を見たら分かりますから」ということです。わたしは素直に聖書を読むことができません。素直に聖書を読める人がうらやましくなります。

 きょうの本論からは外れますが、科学でいろいろなことが分かって説明できるようになりました。しかし罪の問題は解決しません。わたしが愛せない、赦せない、共に生きることに苦しんでいる。死に囚われて死から自由になれない。科学はわたしを罪から救い出しません。それは超能力なども同じです。念じただけでスプーンが曲げられようが、空中浮遊ができようが、罪からは自由になれません。

 こんなふうに風の話で躓いてしまうわたしに対して、キリストを信じているわたしが語りかけます。「イエスは、当時の世界観の中で生きるニコデモが分かるように、語りかけておられる。そもそも新しく生まれるという信仰の話が伝わるように語られているのであって、風が吹く原理を教えようとしておられるのではない。それを分かってる?」
 そういう過程を経て、ようやく聖書が伝えようとしている事へと向かえるようになります。わたしにとって聖書を読むということは、なかなか面倒くさいことなのです。

 本論に戻ります。人目を忍んで訪ねてきたニコデモに対して、イエスは即座に言われます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」この言葉にニコデモは衝撃を受けます。ファリサイ派の一員として神に喜ばれるように律法を守ってきたのに、当然神の国に入れられると信じて律法を守ってきたのに、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われるとは。さらにイエスは言います。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ここには律法の「り」の字も出てきません。

 ニコデモはまじめな信仰者です。まじめだからこそわざわざイエスを訪ねてきました。イエスに教えを請うて、さらに神を正しく理解し、正しく従おうと願っています。
 わたしたちはこのようなまじめで熱心な信仰を、評価し賞賛しがちですが、人の目にどのように見えようと、人の信仰には罪があります。信仰であっても、罪があります。まじめな信仰は、神を自分の信仰、また自分の論理に閉じ込めがちです。わたしたちは神を捉えきることはできませんが、まじめな信仰は神を理解し尽くしたかのような錯覚に陥りがちです。
 ですから、イエスが自分の理解を超えることを語ると混乱してしまいます。イエスに対する最初の答えが「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」で、次の答えが「どうして、そんなことがありえましょうか」です。ニコデモの混乱ぶりが分かります。
 しかし、これこそがイエスがニコデモに示そうとしていたことだと言えます。イエスは言います。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」わたしたちは、神が分かっていないことを自覚しなくてはなりません。そうでないと、熱心な信仰でありながら、自分の理解、自分の考えに閉じ込めることのできる偶像を作り出してしまうことになります。

 神学の用語で「啓示」という言葉があります。神がご自身のこと、ご自身の考え、計画を教えてくださることです。キリスト教は啓示の宗教です。自らの修行で悟るのではなく、神の啓示、神の言葉によって神へと導かれていく宗教です。自分で悟るのではなく、神に導かれて気づかされるのです。信仰生活をする中で、聖書や様々な出来事を通して、神の御心に気づかされます。
 イエスは、ニコデモに気づいてほしいのです。自分が新しく生まれることも、霊の働きのことも知らなかったということを。つまり、イスラエルの教師であり、ファリサイ派の一員であり、最高法院の議員であっても、神のことを知らない。人間の理性や論理で、神を捉えきることも神を語り尽くすこともできない。イエスはニコデモに、そしてわたしたちにそのことを気づいてほしいのです。
 だから、わたしたちは神の声、神の言葉に聞くのです。いつも聞くのです。何度でも聞くのです。聖書は語ります。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ 6:17)「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ 1:18)

 イエスご自身もここで言われます。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。」
 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」のです。イエス キリストこそ神の言葉です。

 ここで「わたしたち」と言われているのは、イエスとその弟子たちのことです。イエスは天の父を示されます。そして弟子たちはイエス キリストを証しします。そしてキリストの弟子たちは、イエス キリストを証しし続けました。今に至るまで証しし続けています。

 わたしたちもニコデモと共に知らねばなりません。イエス キリストに聞くのでなければ、神を知ることはできないのです。イエス キリストに聞くのでなければ、わたしたちは自分の知性・論理で偶像を作り出してしまいます。

 聖書にこう書いてある、だけでは不十分です。荒れ野の誘惑で、悪魔は聖書の言葉を使ってイエスを誘惑しました(マタイ 4:5~7、ルカ 4:9~12)。しかしイエスはそれを聖書の言葉で退けられました。イエス キリストに聞くのでなければ、聖書の言葉からでも神から離れていきます。福音書に出てくる律法学者やファリサイ派、長老たちがそうでした。わたしたちはイエス キリストを通して、父・子・聖霊なる神を知るのです。キリストと結び付かない聖書理解は、神へと正しく導きません。

 イエスは、わたしたちを思い込みから解放し、キリストと出会い、神を知ることへと導いてくださいます。わたしたちも聖書を通してキリストに出会っていくとき、父・子・聖霊なる神ご自身を知り、その救いに与り、新しい命へと導かれていくのです。そのためにわたしたちは、主の日ごとに礼拝へと招かれ、聖書に聞き、キリストに出会い続けていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストを通してわたしたちに出会ってくださることを感謝します。真の神であるあなたを知るのでなければ、わたしたちは偶像を作り出してしまいます。どうかわたしたちの限られた知性・理性にあなたを閉じ込めようとするのではなく、キリストに出会って、あなたの限りない愛と恵みに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン