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聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 12:11〜13

2020-10-18 17:48:43 | 聖書
2020年10月18日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:11~13(新共同訳)


 救いは、神と共に生きるところにあります。神がわたしたちに求めておられることは、神と共に歩みなさい、救いにふさわしく歩みなさい、ということです。12:1では「あなたがたのなすべき礼拝」という言い方をしていますが、その意味するところは「キリストの救いに与った者としてふさわしい仕え方をする」ということです。
 「ふさわしい」という言葉は、信仰生活を考える上で大切な言葉だと思います。救いにふさわしく歩み、恵みにふさわしく仕えるのです。

 わたしたちはキリストの救いに与ったので、キリストがなされた務めを担います。キリストの務めは大きく3つあります。神の言葉を伝える預言者の務め、神の御心に従って治める王の務め、神との関係を執り成す祭司の務めです。これをキリストの三職、3つの職務と言います。ここでは6節以下で預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善が挙げられていました。それぞれキリストの三職に分類することのできる務めです。そしてこれらの務めを担うためには愛が必要です。
 聖書では「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)と言われています。そしてわたしたちはその愛である神にかたどって造られました(創世記 1:27)。わたしたちは神の愛を受けていくとき、神の愛に導かれてキリストの務めを担っていくのです。わたしたち自身の内から愛を絞り出すのではありません。そうではなく、尽きることなく注がれる神の愛を受けて仕えていくのです。

 聖書には様々な規定がありますが、その中にはわたしたちが仕えることに疲れきってしまわないように、わたしたちを守り、神と共に歩ませるためのものもあります。
 安息日の規定などはまさしくそのための規定です。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出エジプト 20:10)この戒めにより、奴隷も家畜も寄留者も守られるのです。
 出産については40日間の清めの期間が定められ、「その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。」(レビ 12:4)と定められています。誰も「神が命を与えてくださったのだから、すぐにでも神に感謝を献げに行きなさい」などと言うことはできないのです。罪人の熱心が、出産を終えた女性を苦しめることがないように神の戒めが守っているのです。

 わたしたちは仕えていくとき、神の御許で十分に休み、神の愛を受けることが必要です。その上で神から受けたものに「ふさわしく」仕えるのです。このことを忘れてしまうと、わたしたちの信仰はどんどん律法的になり、聖書の勧めは努力目標へと変わっていってしまいます。
 ですから、聖書の勧め・戒めを読むときには、気をつけなくてはなりません。真面目で熱心な人ほど、勧めや戒めを律法的な重荷にしてしまいます。

 そこできょうの箇所ですが、実はここの文章、原文では9〜13節が一つの文章になっています。これをそのまま翻訳しますと、長すぎますし、読みにくいので、短く区切って訳しています。
 その際、原文には書かれていない動詞を補っています。新共同訳聖書を見ますと、きょうの箇所には「仕えなさい」「祈りなさい」「努めなさい」と勧めが出てきますが、原文では「〜なさい」に当たる言葉はありません。
 9節で「愛には偽りがあってはなりません」を「愛は偽善ではありません」と命令の意味ではなく読んだ方がいいのではないかと申し上げましたが、ここも命令の意味ではなく、神の愛に導かれている指標として読んだ方がいいように思います。どういうことかと言いますと、自分がそうできていないときには、頑張るのではなく、自分にはもっと神の愛が必要であることを知って神の前に静まるのです。

 きょうの箇所は、9節に続いて「愛は偽善ではありません」だから「このようであるのです」という意味でつながります。
 11節「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」ここは原文では「熱心さの点では怠惰ではなく、霊においては燃え、主に対しては僕のように仕え」と書かれています。
 「熱心さの点で怠惰ではない」というのは「嫌々・渋々やるのではない」ということです。嫌々・渋々やっているときは、恵みにふさわしく神の愛に導かれてやれていない、ということです。
 その場合、わたしたちは疲れています。休息が必要ですし、神の愛を受けて癒される必要があります。神の許に立ち帰って、静まって神の愛を受けなくてはなりません。
 もう一つわたしたちが考えなければならないことがあります。イエスがマルタに言われたように、それがただ一つの必要なことではなく、思い悩み・心を乱す多くのことである可能性です。罪人の信仰の熱心は、しばしば思い悩み・心を乱す多くのことを増やしていきます。信仰と善意で、なくても大丈夫なものを増やして、自分で重荷を重くし、疲れてしまいます。特に教会では礼拝を献げる安息日なのに、教会に来て疲れて帰るということがあります。気が乗らない、何でこんなことをしているのかと思うときには、それが本当に必要な業なのかを問うてみることは、必要なことだろうと思います。

 「霊に燃えて」とあります。霊は神とつながる働きをします。今、祈り会で読んでいる詩編には「わたしの霊はなえ果て」(詩編 143:4, 142:4)という表現が出てきます。霊がなえ果て、神とのつながりが弱まっては主に仕えることができません。わたしたちは聖霊が与えられるように祈ることが必要です(ルカ 11:13)。わたしたちの霊が燃えるためには、神がご自身の息・聖霊を注ぎ与えてくださることが必要です。祈りの勧めは次の12節に出てきます。

 12節「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」原文では「希望を喜ぶことにおいて、苦難を耐えることにおいて、祈りに熱心な」とあります。
 わたしたちが未来に向かって生きるのには、希望が必要です。希望があってこそ、苦難を耐え忍ぶことができます。そして希望は神から来るものです。神の御心、神の救いの御業が希望をもたらします。聖霊がわたしたちを救いに与らせてくださるところに希望が生まれます。
 先ほども言いましたように、聖霊を求めて祈ることが大切です。ですがこれは、祈らなければならないと言うよりも、神と共に歩むために必要な祈りを、神は恵みとして与えてくださっている、わたしたちは祈ることができる、というようにわたしは受け止めています。

 13節「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」というのは、原文だと「聖徒の必要のために提供し、よそ者への愛を実践して」となっています。
 これは、この手紙が書かれた時代状況を考慮する必要があります。まだキリスト者は少数者で、迫害される立場でした。迫害を受けて、住んでいた土地を離れ、同じ信仰のキリスト者を頼りに逃れてきている人たちのことが言われています。今日で言うと「難民」に当たる人たちです。そのことが、この手紙が書かれた時代には、教会の大切な課題でした。そして今も数多くの難民がいます。わたしたちが覚えなければならない課題の一つです。

 聖書、特に旧約には、寄留者として生きた人たちが登場します。アブラハムも、ヤコブも、ヨセフも、モーセも、ダビデも皆寄留者でした。そしてわたしたちもまた寄留者です。聖書は「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ 3:20)と言います。旧約の戒めには「あなたがたも寄留者だったのだから〜しなさい」と命じられているものがあります。寄留者であることは、神の御心を理解し、戒めを行うために必要な経験でした。罪の世にあって生きていく場所を持てずにいる人たちのために、神があなたがたにしてくださったようにあなたがたもしていくのだ、ということが言われているのです。まさに神の務めを担う行為です。

 パウロは、教会において神の愛を分かち合っていけるように勧めをします。それが神の憐れみにふさわしい神の民のあり方、仕え方だと勧めているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたが与えてくださった救いにふさわしく仕えさせてください。あなたが祈りを与えてくださいましたから、聖霊を求め祈りつつ歩ませてください。どうか父・子・聖霊なるあなたとの交わりに内に歩み、仕えていくことができますように。あなたの愛を分かち合い、共に与る喜びをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 143:1〜6

2020-10-15 15:52:01 | 聖書
2020年10月14日(水) 祈り会
聖書:詩編 143:1〜6(新共同訳)


 きょうは143篇です。これもまた神に助けを求める祈りです。そして七つの悔い改めの詩篇の一つに数えられています。ちなみに他の六つは 6, 32, 37, 51, 102, 130篇です。

 1節「賛歌。ダビデの詩。」
 この詩篇もダビデの名が記された詩篇です。
 「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。」
 詩人は祈りが神に聞かれることを切に求めます。
 「あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。」
 主がわたしの祈りを聞いてくださること、答えてくださることを求めます。それは、神のまことと恵みの御業が、詩人の信仰を支えているからです。神がわたしたちの応答を求めておられるように、わたしたちも神が答えてくださることを必要としています。

 2節「あなたの僕を裁きにかけないでください。」
 詩人は神に裁かれることを恐れています。神を信じているからこそ、命の源である神に裁かれるのを恐れています。
 なぜなら「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません」ということを詩人は知っているからです。

 時々「旧約の信仰と、新約の信仰は違う。旧約は律法を守ることによって自分で正しくあろうとする。新約とは違う」と言う人がいますが、それは誤りです。今見ましたように「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません」とはっきり言っています。そしてこの箇所だけでなく、例えば列王記上 8:46にも「罪を犯さない者は一人もいません」と書かれていますし、詩編 130:3でも「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう」と言われています。
 そして律法を守れないからこそ、様々な贖いの規定が定められているのです。旧約も新約も、わたしたちが皆罪を抱えていること、罪は贖われなければならないこと、救いが必要であるという信仰は同じです。

 3節「敵はわたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようとします。」
 ここで言われている「敵」は、具体的な誰かと言うよりも、詩人を陰府へと導こうとする罪の力ではないかと思います。人々を神に逆らわせ、神に従う者を妨げ、抑圧させようとする罪そのものではないかと思います。まさしく罪は「わたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようと」するものです。神が祝福をもって与えてくださった命を奪い去ろうとするものです。

 4節「わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。」
 前回も申し上げましたが、霊の働きはつながることです。わたしたちは神にかたどって造られています。ですから神とつながることが、わたしたちを命で満たす大切な点です。
 それが詩人は今、自分の霊がなえ果てていると言うのです。つまり、神とのつながりが弱まっているのを自覚しています。ですから神に従って生きていこうとする詩人の心は挫けます。

 5節「わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。」
 詩人は、わたしたちと同じことをします。わたしたちが聖書から、神がなされた救いの御業を聞いて、その一つひとつから、神の御心を聞き、神の愛と恵みを受け取るように、御手の業を思いめぐらし、神が救いの神であることを確認するのです。

 6節「あなたに向かって両手を広げ/渇いた大地のようなわたしの魂を/あなたに向けます。」
 詩人は神を求めます。かつて祈りは、天を仰ぎ、手を差し伸べ、神に向かって自分を開いて祈りました。詩人は、神だけが渇いた大地のような魂を潤すことができることを知っています。
 イエスはサマリアのシカルで、名も知られぬ女性に言われます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ 4:14)
 実は、両手を広げ、魂を向けて待ち望んだ詩人に、神が与えてくださったのがイエス キリストでした。イエス キリストが、この詩人の祈りを満たしてくださったのです。イエス キリストは詩人の祈りに応えるため、肉体を取り、人となってきてくださいました。罪に怯え、死を恐れる詩人に命の水を与えるため、十字架を負い、命を献げてくださいました。イエス キリストだけが、死を打ち破り、復活し、永遠の命を与えてくださいます。
 詩人は、イエスを見ることはありませんでした。しかしイエスは、代々の聖徒たちの救い主・助け主として来てくださいました。神に望みを置いたすべての聖徒たちは、イエス キリストによって救われるのです。

 この祈りが聖書に収められているのは、旧約の御言葉がイエス キリストを指し示している一つの証しであると思います。イエス キリストがもたらす救い、命、そしてイエス キリストご自身によって、旧約と新約は一つに結び合わされ、世の終わりまで神を証しし続けていきます。だからわたしたちは旧約の御言葉からも新約の御言葉からも聞いていくのです。

 自分の罪、裁きを恐れる人は、是非この143篇を繰り返し読み、祈って欲しいと思います。きっと神がわたしたちの救いの道を備えてくださっていることに気づかせて頂けると思います。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人と共にあなたに望みを置いて祈ります。あなたが救いのために与えてくださったイエス キリストで、わたしたちを満たしてください。わたしたちが罪の世にあって感じる渇きを癒してください。あなたへの信仰が弱まり薄れるとき、わたしたちは虚無に飲み込まれてしまいます。御言葉によりあなたと出会い、あなたの救いで満たしていってください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 6:22〜27

2020-10-11 15:27:37 | 聖書
2020年10月11日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:22〜27(新共同訳)


 イエスはガリラヤ湖の近くで、集まってきた大勢の人たちに対して、五つのパンと二匹の魚で人々を満たすという「しるし」を示されました。
 ヨハネによる福音書は、この場所がどこなのか記していません。おそらく知らないのでしょう。この五千人の給食と言われる出来事は、4つの福音書すべてに書かれていますが、ルカによる福音書だけがベトサイダという地名を記しています。ヨハネによる福音書は、4つの福音書の中で最後に編纂された福音書だと考えられていますが、ヨハネはルカによる福音書を知らなかったのだろうと思います。
 ヨハネはこの場所の地名を知らなかったので、22〜24節は少々くどい説明になっています。

 五千人の給食の場に集まった人々は、夜の間に弟子たちとイエスがそこを離れてカファルナウムに行ったのを知りませんでした。翌日になり、人々はイエスと弟子たちがいないことに気づきます。
 この場所にイエスと弟子たちは二艘の舟で来られたのでしょう。小舟が一艘しか残っていなかったので、弟子たちが舟で出かけたのだと気づきました。
 そこにティベリアスからの舟が来たので、それに乗ってイエスを探してカファルナウムに向かいました。

 23節では、ティベリアスから舟が近づいてきたことを書くのに「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ」と少しくどい書き方をしています。
 前にもヨハネによる福音書は、最後の晩餐の場面で配餐と食事が描かれておらず、弟子たちの足を洗われたことを書いているので、五千人の給食で祝福と配餐・食事を描いている、と理解する人もいるということを申し上げました。この少々くどい書き方を見ると、やはりヨハネには五千人の給食に最後の晩餐の恵みを重ね合わせている意識があるのだろうと思います。
 新共同訳は1〜15節の小見出しを「五千人に食べ物を与える」としています。他の訳で見出しを付けているものは「パンを増やす」としています。しかしヨハネは単なる奇蹟ではなく、イエスが救い主であるしるしであると理解し、それを伝えようとして「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」と表現を選んでいるように思えます。

 イエスを見つけた人々はイエスに尋ねます。「ラビ(ユダヤ教の教師に対する敬称)、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねます。しかしイエスはそれに答えません。人々が今、気づかねばならないことはそれではないからです。
 イエスは言われます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

 「はっきり言っておく」の「はっきり」は「アーメン」という言葉です。わたしたちが祈りの最後に言う言葉です。ヘブライ語で「真実」という意味があります。イエスが「アーメン」と言って語りかけられるときは、救いの御業の奥義とも言えることを語られるときです。
 アーメンと一語だけの場合と、アーメンアーメンと二語重ねて言われる場合があります。新共同訳ではアーメンと一語のときもアーメンアーメンと二語のときも「はっきり言っておく」と訳しています。しかし新しい聖書協会共同訳はアーメンを「よく」と訳します。アーメンと一語のときは「よく言っておく」、アーメンアーメンと二語のときは「よくよく言っておく」とアーメンが一語か二語か分かるようにしています。

 イエスは「しるしを見たからではなく」と言って、自ら五千人の給食がしるしであることを明らかにしておられます。しるしは、イエスが救い主であることを指し示します。さらに言えば、福音書はイエスがモーセのような預言者であることも告げています。モーセがそうであったように、イエスは民を約束の地へと導くのです。しかしそれは、地上の国ではなく、神の国へと導くのです。けれど人々はそのしるしに気づかず、パンを食べて満腹することに心が向いています。
 そこでイエスは言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
 「朽ちる」という言葉が使われていますが、朽ちるだと腐ってしまうというイメージを与えてしまうかもしれません。ここは食べたらなくなってしまう食べ物ということを言っています。食べたらなくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい、とイエスは言われたのです。
 そして、永遠の命に至る食べ物こそ、人の子があなたがたに与える食べ物である、と言われます。

 35節からこの永遠の命に至る食べ物について、イエスは語ります。「わたしが命のパンである。」51節「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」58節「このパンを食べる者は永遠に生きる。」イエス キリストご自身が、永遠の命にいたる食べ物なのです。
 そして、永遠の命に至る食べ物、命のパンであるイエス キリストを頂き、イエス キリストによって命が育まれるしるしが聖晩餐です。

 わたしたちの教会では、信仰告白をして、この聖晩餐に与ります。
 信仰は、注がれる恵みを受け取る手です。手で救われるのではなく、与えられる恵みによって救われるのですが、神は、救いを与えようとする神に応答して信じて受けることを求めておられます。永遠の命に至る食べ物のために働くとは、信じて聖晩餐に与り、キリストご自身に与れるように、キリストを求め、神を求めていくことを指しています。

 聖晩餐の理解は、教派によって違います。ローマ カトリック教会とも違いますし、ルター派教会(ルーテル教会)とも違います。わたしたちの教会は、宗教改革者カルヴァン以来の改革派教会の伝統に立つ教会ですので、信仰をもって聖晩餐に与るとき、十字架で命を献げられたイエス キリストの恵みが〈 聖霊 〉によって与えられ、イエス キリストご自身の命に与ると理解しています。
 ただ与れば、御利益があるのではなく、イエス キリストがわたしの救い主であるという信仰をもって与ることが大切です。

 では本当にイエス キリストは救い主なのでしょうか。
 それに対して、イエス キリストこそが永遠の命に至る食べ物であることの保証として、「父である神が、人の子を認証された」とイエスは言われたのです。
 「人の子」は、イエスが自分を指して言われる言葉です。
 「認証する」という言葉は「印章を押す、はんこを押す」という意味です。王の命令には、王の指にはめられた印章の押印があって有効なものと認められていました。
 ですから「父である神が、人の子を認証された」というのは、父なる神がイエス キリストを救い主として認めたしるしがある、ということです。

 では、父なる神が押された印章とは何なのでしょうか。福音書の編集者ヨハネは、イエス キリストの生涯、その言葉と業、そして十字架と復活が、イエスが父が遣わされた救い主であることのしるしだと理解したのだと思います。
 このヨハネによる福音書は「しるし」を大事に考え、他の福音書よりも多く「しるし」という言葉が出てきます。ですがそれだけではなく、イエス キリストご自身、救い主としての生涯、その言葉と業、特に十字架と復活が、天の父がイエスを救い主として遣わされた証しであると理解しているのだと思います。だからヨハネ 20:31にはこう書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 ヨハネは、この福音書を通して皆さんがイエス キリストに出会うことを願っています。イエスが救い主であるしるしに気づくことを願っています。共にイエス キリストの救いに与り、喜びを共にしたいと願っているのです。

ハレルヤ

父なる神さま
 あなたがご自身の言葉とされた聖書を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストのしるしに気づき、救いに与ることができますように。あなたがキリストを通して与えてくださる永遠の命を喜ぶことができますように。信仰から信仰へ、恵みから恵みへ、キリスト共に永遠の命の道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 142:1〜8

2020-10-08 14:29:11 | 聖書
2020年10月7日(水) 祈り会
聖書:詩編 142:1〜8(新共同訳)


 きょうは142篇です。この詩編もまた神に助けを求める祈りです。

 表題に「ダビデが洞穴にいたとき」とあります。表題にダビデがどのような状況にいたかを示す言葉があるものはいくつもありますが、「洞穴」が出てくるのは142篇と57篇の二つです。そしてダビデが洞穴にいる場面も、アドラムの洞穴(サムエル上 22章)とエン・ゲディの洞穴(サムエル上 24章)の二つです。どちらの場面かを決める具体的な手がかりは詩篇の中にはありません。

 表題にマスキールとありますが、これも今では何を意味するのか分かりません。単語は「理解する」という意味のヒスキールという単語の分詞なので、教訓詩と訳しているもの(岩波書店版)もありますが、表題にマスキールとあるものが必ずしも教訓詩ではないので、現状では意味は分かりません。

 また表題には「祈り」とあります。同じく表題に祈りとあるものがいくつかありますが、詩篇はどれも祈りなので、なぜわざわざ祈りとあるのか分かりません。

 詩人は神に向かって叫びます。2〜3節「声をあげ、主に向かって叫び/声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。/御前にわたしの悩みを注ぎ出し/御前に苦しみを訴えよう。」詩人は主の憐れみの御業がなされることを求めています。

 4節「わたしの霊がなえ果てているとき/わたしがどのような道に行こうとするか/あなたはご存じです。/その道を行けば/そこには罠が仕掛けられています。」
 霊の働きはつながることです。詩人は自分の霊がなえ果てていると言います。つまり、神とのつながりが弱まっているのを自覚しています。そして、そのような自分がどんな風に歩んでしまうかを神は知っておられることを詩人は知っています。「だから今の自分がこのまま歩めば、罠にかかり、神から離れてしまうことを、神よ、あなたはご存じです」と語りかけるのです。そして「あなたの助けが必要な状況です」と訴えるのです。

 5節「目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく/逃れ場は失われ/命を助けようとしてくれる人もありません。」
 右は支持や支援を表します。詩編 121:5には「主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」という表現が出てきます。
 詩人は訴えます。「今、自分を支援してくれる友もなく、逃れ場もありません。命を助けてくれる人もありません。神よ、ご覧ください。わたしにはあなたの他には誰もいません。」

 詩人は神に訴えます。6節「主よ、あなたに向かって叫び、申します/「あなたはわたしの避けどころ/命あるものの地で/わたしの分となってくださる方」と。」
 詩人は「わたしにはもう何もありません。誰もいません。しかし主よ、あなたがおられます。あなたこそわたしの避けどころ、わたしの受けるべき分です」と神に呼びかけます。
 聖書には「嗣業」という言葉があります。(聖書協会共同訳からはなくなりました。)神から与えられ、家族が受け継いでいくものです。出エジプトの後、約束の地に導き入れられて、レビの一族以外は一族の嗣業の土地が与えられました。しかしレビ族は、神への献げ物から受けるものが与えられました。レビ族は、イスラエルが信仰によって生きるしるしとされたのです(民数記 18:20)。「わたしの受けるべき分」とはこの嗣業を表しており、詩人が神によって生きること、神こそが自分に与えられている、自分は神に依り頼むことを表しています。

 詩人は諦めることなく重ねて訴えます。7〜8節「わたしの叫びに耳を傾けてください。/わたしは甚だしく卑しめられています。/迫害する者から助け出してください。/彼らはわたしよりも強いのです。/わたしの魂を枷から引き出してください。」
 「枷」という言葉は、訳によっては「牢獄」としているものもあります。実際に詩人が捕らえられているのか、詩人の窮地を表す比喩なのかは分かりません。

 余談になりますが、「枷」を「獄」と訳して「ひとや」と振り仮名をしている訳があります(フランシスコ会訳、岩波書店版)。讃美歌 112番の 2節に「悪魔のひとやを うちくだきて」という歌詞があります。最初に赴任した磐田西教会で、クリスマスイブ讃美礼拝のしおりを作ったとき、わたしはこの「ひとや」を悪魔が打ち込む一本の矢だと思って「一矢」と変換してしおりに歌詞を書きました。それを高校で国語の先生をしておられた80歳近くの方から勘違いをしていると教えて頂きました。

 詩人は最後に自分の願いの根底にあるものを神に訴えます。8節「あなたの御名に感謝することができますように。/主に従う人々がわたしを冠としますように。/あなたがわたしに報いてくださいますように。」
 8節後半は、新共同訳と最近の翻訳(聖書協会共同訳 2018、新改訳2017、フランシスコ会訳 2011、岩波書店版 2004)とで訳が違いますが、きょうはご一緒に読みました新共同訳に沿って話を致します。
 詩人は神に感謝したいのです。自分が信じてきた神に感謝したいのです。そして共に主に従う聖徒たちから認められたいのです。だから、神にこそ報いてもらいたいのです。

 人によっては最後の祈りに引っかかる人がいるかもしれません。「なんだ、人から認められたいのか。人の評価が大事なのか。人から評価されるために、神に報いてもらいたいのか。」パウロも「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」(ガラテヤ 1:10 口語訳)と言っているではないか。

 人には程度の差はあれ「信じてやってきたことが無駄であって欲しくない」「周りの人に認められたい、評価してもらいたい」という思いがあるだろうと思います。
 神がこの祈りを神の言葉とされ、聖書に収められたのは、このような思いを神に祈ってもよいということなのだと思います。
 罪は自分を隠そうとします。エデンの園でアダムとエバが罪を犯した後も、木の間に隠れて神から身を隠そうとしました(創世記 3:8)。しかし神は「隠す必要はない」と言ってくださっているのだと思います。

 誰にも言えない思い、しかし神の民は、神には聞いて頂ける、受け止めて頂けるのです。神の前では罪を隠す必要がない、信仰を装う必要はないのです。神は知っていてくださいます。だから神の前では、ありのままの自分でいてよいのです。そして神にこそ求めるのです。神はわたしたちの不十分な祈りを受け止め、わたしたちを救いへと導くために必要な導きでもって応答してくださいます。
 だからわたしたちは祈ります。危機の時も、そうでないときも、神に祈ります。旧約の詩人たち、代々の聖徒たちと共に神にこそ祈り求めるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 代々の聖徒たちと共に祈ります。わたしたちの祈りに耳を傾けてください。憐れみをお注ぎください。わたしたちの避けどころとなり、わたしたちを助けてください。どれほど文明が進み、社会が変わっても、わたしたちの罪は変わりません。千年経とうと、二千年経とうと変わりません。わたしたちにはあなたの救いが必要です。どうかわたしたちを罪から救い出し、あなたの御国に生きるあなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 12:9〜10

2020-10-04 17:48:58 | 聖書
2020年10月4日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:9~10(新共同訳)


 救いは、神と共に生きるところにあります。神がわたしたちに求めておられることは、神と共に歩みなさい、救いにふさわしく歩みなさい、ということです。12:1では「あなたがたのなすべき礼拝」という言い方をしていますが、その意味するところは「キリストの救いに与った者としてふさわしい仕え方をする」ということです。
 日本キリスト教会は、宗教改革以来の改革派教会の伝統に立つ教会です。その改革派教会の信仰告白の一つであるハイデルベルク信仰問答ではこう言われています。問32「なぜあなたが「キリスト者」と呼ばれるのですか。」答「わたしは信仰によってキリストの一部となり、その油注ぎにあずかっているからです。」
 わたしたちキリスト者、そしてキリスト教会は、キリストの務めへと油注がれ、聖別されているのです。前回の箇所では、キリストの務め・賜物として、預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善が挙げられていました。これらはキリストの三職、三つの職務と呼ばれるものに属する務めです。キリストの三職は、預言者・王・祭司です。預言者は語る務め、王は治める務め、祭司は執り成す務めと言われています。ここでは、預言者の務めには預言と教え、王の務めには勧めと指導、祭司の務めには奉仕と施し・慈善が当たるでしょうか。
 きょうの箇所では、これらすべての務め、そしてキリスト者の生き方を支える愛について語っています。

 9節「愛には偽りがあってはなりません。」
 実は、原文は「愛」という単語と「偽善ではない」という一つの単語との二つの単語だけで、動詞はありません。ですから元の文章には「あってはならない」という禁止の意味はありません。ですので、わたしはそのまま「愛は偽善ではありません」と理解した方がいいのではないかと思います。
 「偽りがあってはなりません」と言われると、「わたしの愛は偽りだらけだ」とか「偽りを減らすように努力しなくては」とか、聖書が言おうとしていることとは別の方向に思いが反応してしまうのではないかと思います。ここでは、あなたの愛について反省しなさいとか、努力しなさいということを言おうとしているのではありません。ですから「愛は偽善ではありません」と理解した方がいいのではないかと思います。
 そして偽善という言葉は、仮面をかぶるという意味です。だから、愛していないのに、愛しているふりをすることがここでの偽善です。愛は偽善ではないので、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛の内に、互いを愛し、敬意を持って互いに相手を立てていきます。
 何より神が一人ひとりを愛しておられ、キリストは命まで献げてくださいました。その主の御心が成るように、与えられた賜物を愛をもって用い仕える、それが愛によって共に生きるということです。

 当たり前のように「愛」という言葉を使ってきました。当然「愛とは何ですか」という問いがあるだろうと思います。聖書には「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)とあります。聖書に記された神の御言葉と御業に触れていくとき、わたしたちは神の愛に気づかされていきます。
 わたしは聖書を読むと、神の愛とは「共に生きようとする思い」なのだと思います。罪のため神と共に歩めなくなった罪人のために、救いの御業をなし、ついにはイエス キリストを与えてくださり、神と共に生きられるようにしてくださる、この「共に生きようとする思い」こそが神の愛なのだと思います。

 実は、わたしたちが今当たり前のように使っている「愛」という言葉が今のように使われるようになったのは、明治になってからだと言われています。昭和5年に発行された『日本伝道めぐみのあと』(ト部幾太郎 編集)に収められている山本秀煌(やまもと ひでてる)「伝道の草分」という文章にはこう記されています。「今でこそ愛といふ言葉は崇高な立派な言葉であるが、それも昔はさうでなく、一種の低い賤しい意味に用ゐられたものである。尊い意味で云へば愛は上級のものが下級のものを憐れむといふ義で、君が臣を愛し、親が子を愛すと云ったが、臣から君へ対しては忠、子から親に対しては孝、弟から兄に対しては悌、上長に対しては敬で、愛といふ言葉は用ゐなかった。・・又低級の意味ではそれは専ら男女間の神聖ならぬ卑しい関係を指示したものだ。さういふ次第から私共は愛といふ言葉を用ゐることに躊躇した。」
 すんなりと「愛」という言葉が使われたのではないことが分かります。
 では明治以前、キリシタン時代には「愛」はどう理解されていたのかといいますと、「御大切(ごたいせつ)」だったそうです。愛とは、相手を大切にすることだという訳です。これも大事な理解であろうと思います。
 ではどのようにして「愛」という言葉が積極的なよい意味で用いられるようになったのでしょうか。これは中村正直が訳した『西国立志編』という本で、キリスト教の精神を要約した言葉として「敬天愛人 天を敬い、人を愛する」という言葉を使ったのが大きな要因の一つではないかと思います。中村正直は、貴族院議員も務めた人物で、明治天皇にも洗礼を受けるように勧めた人だそうです。そして中村正直は、西郷隆盛の友人でした。西郷隆盛が残した『南洲遺訓』(彼は号として南洲と名乗っていた)にも「敬天愛人」という言葉が出てきます。実は彼、主君 島津斉彬から漢文の聖書を贈られており、聖書を教えていたこともあるそうです。
 こういうことがあって、明治政府の人間には「敬天愛人」という言葉が知られていたのだろうと思います。先程引用した「伝道の草分」には「恐らくは明治五年制定の三条の規則なるものの第一条に、敬神、愛国と有るのが、愛の字の用法の変りはじめではないかと思ふ」とあります。
 少々説明が長くなりましたが、わたしたちが今使っている「愛」という言葉の基には、聖書があり、神の愛があることを心に留めておいて頂ければと思います。

 聖書に戻ります。
 神の愛には偽善はありません。神は本気でわたしたち罪人を愛しておられます。独り子イエス キリストを遣わすほどに愛しておられます。
 ですから、その神の愛を受け、救いに入れられ、神と共に生きるようになったわたしたちは、悪を憎み、隣人に悪を行いません。悪とは、神の御心に反すること。神が望んでおられないことです。
 それに対し「善から離れず」の「善」は、神の御心です。「離れず」は、のり付けをするという言葉です。のり付けするということは、本来はくっついてはいないということです。罪人は神の御心とくっついてはいないのです。では何によって神の御心にのり付けされるのでしょうか。それは聖霊とキリストによってです。聖霊によってキリストを知り、キリストと結び合わされて、神の御心を知り、神の愛を知り、善悪を知るのです。

 そしてキリストに結ばれたわたしたちには、神の家族、主にある兄弟姉妹として兄弟愛の絆が与えられました。神がご自身の民として選ばれたこと、キリストがこの人のためにも十字架に付かれたことに敬意を払い、その人に与えられた賜物が神の栄光のために用いられるために互いに仕えるのです。
 「優れた者と思いなさい」という言葉は、「先に導く、先導する」という言葉です。おそらく翻訳者は「先導する」ということで「露払い」をイメージしたのでしょう。露払いは「貴い人の先に立って道を開くこと」ですから「相手を優れた者と思う」という訳になったのだろうかと推察します。ここでは、賜物が用いられるときに、先に状況を整え、神の栄光が現されるように導くことを表しています。ですから、出会いを備えられた神の導きを覚えて、互いに敬意を払い、お互いが神の栄光のために用いられるように、仕えていくのです。

 ですから、ここで言われている「愛」は、神の愛であり、神の愛に満たされ導かれていく愛です。だから愛は第一に神から受けるのです。愛は愛されることによって知るのです。わたしたちは愛である神にかたどって造られました。だからわたしたちには、神の愛が必要なのです。神に愛されることが必要なのです。わたしたちは神の愛を受け、神を喜ぶために礼拝へと招かれています。礼拝において神に出会い、神との愛の交わりで満たされていくために招かれているのです。

 神の愛には偽善はありません。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:10)神の愛に満たされたなら、神の愛がわたしたちを導きます。だから、マルタのように心騒がせることなく、マリアのように主の御前で静まっていて大丈夫です(ルカ 10:38~42)。神に従い行くすべてがイエス キリストの愛の内にあります。神は、わたしたちの生きるすべてをイエス キリストを通して与えてくださっています。

 神の愛には偽善はありません。信じて大丈夫です。ご覧なさい。この方です。イエス キリストです。この方に出会うとき、神の愛が分かります。そしていつもキリストに出会えるように、わたしたちは礼拝に招かれているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 惜しみなくわたしたちに愛を注ぎ与えていてくださることを感謝します。どうぞわたしたちをあなたの愛で満たしてください。あなたの愛に導かれ、あなたの御心をなさせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン