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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

詩編 144:3〜4

2020-11-05 23:36:26 | 聖書
2020年11月4日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:3〜4(新共同訳)


 この詩編は、1~2節で神を讃えます。そして3~4節で、神が顧み、愛してくださる人間について語ります。
 単なる独り言(モノローグ)ではなく、神の御前で、神を思い、神と比べながら語ります。神の確かさに対して、人間のはかなさを語ります。

 1~2節で神を喩えます。「岩、支え、砦、砦の塔、逃れ場、盾、避けどころ」。神の確かさを喩える言葉です。一方人間は、「息、影」というはかなさを表す喩えです。

 3節「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。/人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。」
 「人間とは何ものなのでしょう」。色々な人が語るこの哲学的表現の中で、一番有名なのが「人間は考える葦である」(パスカル)という言葉でしょう。
 ですが詩編は「人間は考える葦である」のような積極的な答えを出しません。4節「人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影」。

 詩人の人間観、人間理解の核としてあるのは「神との関係、神とのつながりがあってこその人間」という理解です。旧約の中で語られ、理解されてきた人間です。
 神にかたどって造られた人間。創世記 1:27「神は御自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。/男と女に創造された。」神の息が吹き入れられて生きるようになった人間。創世記 2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
 「神との関係、つながりがあってこその人間」なのです。詩編 94:17「主がわたしの助けとなってくださらなければ/わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。」

 この旧約の人間理解に立って詩人は語ります。3節「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。」
 「親しまれる」とありますが、元の言葉は「ヤダー」という言葉で、普通「知る」と訳すので、多くの訳は「知るとは」(聖書協会共同訳)「知っておられる」(新改訳2017)「み心に留められる」(フランシスコ会訳)「知り」(岩波書店版)「知ってくださる」(月本昭男)と訳しています。聖書で使われる「知る ヤダー」という言葉は、自分のこととして深い関心を抱く(岩波書店版 注)という意味合いを持っています。新共同訳はその意を汲んで「親しまれる」と訳したのでしょう。

 人は神にかたどって造られています。けれど4節「人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。」息も影もはかなく実態のないものを表します。現在では、科学的に息には酸素や二酸化炭素という実態があり、その分子が存在しますが、二千数百年前に生きた詩人には、息は実態のないはかないものでした。
 しかし神は存在の源。すべてのものは神が造られました。目に見えるもの、形あるものだけでなく、愛や真実、契約の源。永遠から永遠まで存在する方。まるで人間とは真逆な存在。それなのに、人に深い関心を抱かれ、愛を注ぎ、契約を結び、共に歩んでくださる。詩人は「人間とは何ものなのでしょう/人の子とは何ものなのでしょう」と問いかけながら、実は「神とは一体何ものなのか。神とは真逆のような人間を顧み、深い関心を持って知っていてくださる、愛してくださる神とは何ものなのか」と神について問いかけているようです。

 先に、詩人の人間観、人間理解の核としてあるのは「神との関係、神とのつながりがあってこその人間」という理解だと申し上げました。詩人は、神が確かであることを知っており、神が自分の味方でいてくださることを知っています。だから詩人は、人間のはかなさと向かい合いことができます。認めることができます。だから、自分が罪人であることも受け入れることができます。神が人間の存在の基、根源であり、どんな時にも支えてくださるからです。
 それだけでなく、詩人の信仰、詩人の祈りの基でもあります。神がいてくださるので、未来が見えない世界で、はかなく弱い自分であっても、生きる希望が持てるのです。聖書は告げます。申命記 33:27「いにしえの神は難を避ける場所/とこしえの御腕がそれを支える。」

 だからでしょうか。人のはかなさを語っているのに、この詩篇の言葉には、未来への光が感じられます。神ご自身が光であってくださるからです。
 実に、神はわたしたちのすべてとなって、わたしたちを支えていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたがわたしたちの主であってくださることは、大きな驚きです。わたしたちがどのようなときも、あなたがわたしたちの基であってくださり、わたしたちのすべてを根底から支えていてくださることに気づかせてください。どうかあなたの許で未来を、神の国を仰ぎ見させてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 12:14

2020-11-01 15:37:41 | 聖書
2020年11月1日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:14(新共同訳)


 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」
 原文でこの文章の最初の言葉は「あなたたちは祝福しなさい」です。原文が書かれたギリシャ語では、動詞に「あなたたち」という代名詞が含まれるので、一語で「あなたたちは祝福しなさい」と書かれています。「祈りなさい」という言葉は原文にないので、新しい聖書協会共同訳では「祝福しなさい」と訳されています。

 「祝福する」とは何をすることでしょうか。祝うという漢字が入っていますが、お祝いするとはちょっと違います。祝福するというのは、幸いを祈るということです。(だから新共同訳は「祈りなさい」と加えたのかもしれません。)ギリシャ語の「祝福する」という言葉は、語源的には「良いこと」を「言う」という言葉です。
 ここで相手にとって「幸い」って何?「良いこと」って何?という問いが出てきますが、キリスト者の場合、神の恵みと導きを祈り求めるということになるでしょうか。

 ところで、なぜ神は「祝福しなさい」と命じられるのでしょうか。それは、神が祝福されるからです。神が祝福されるので、神にかたどって造られ、神から地を治めるように務めを託されたわたしたちには、祝福することも務めとして与えられているのです。
 信仰の父祖アブラハムは、神から祝福の源とされ、すべての人を神の祝福に与らせる務めが与えられました。創世記 12:2~3「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(新しい聖書協会共同訳は「祝福の源」を「祝福の基」(口語訳)に戻しました。)
 祝福は、アブラハム以来、神の民の務めなのです。
 だから新約でもこう言われています。1ペトロ 3:9「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」
 テロの時代と言われて久しく、今も世界の各地で血が流され、憎悪の連鎖が作り出されています。その憎悪の連鎖を断ち切るのは、神の祝福です。わたしたちは祝福を受け継ぎ、すべての人々が祝福に与るために召されたのです。祝福の連鎖を作り出すために召されたのです。礼拝も最後は祝福です。神の御前に集った民を、神はいつも祝福をもって送り出してくださいます。

 ただ「祝福しなさい」と言われているのを忘れてしまうほど強い言葉が「迫害する者のために」という言葉です。重ねて「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と言われます。この言葉を聞いただけで「無理!」と拒否したくなります。
 ただこれも根拠は神にあります。イエス キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ 5:44)と言われました。そして十字架の上でイエスは祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ 23:34)キリストが命をかけられた救いにふさわしく、キリストに倣って道が示されます。

 ただし「呪ってはならない」を律法的に捉えないように気をつけなくてはなりません。なぜならこのように書いたパウロ自身が呪っているからです。ガラテヤ 1:8「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」1コリント 16:22「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」
 ですからここで言われているのは「呪いを避けなさい」という強い勧めです。
 呪いは、陰府へと引きずり込む重しのようなものです。それは神の国へと導く救いにはふさわしくないものです。この呪いを打ち消すのが、祝福なのです。
 この罪の世にあって、理不尽な出来事、危険をもたらすような出来事に対して、怒りを禁じ得ないことがあります。その時には、わたしたちの罪を負ってくださったイエス キリスト、そして神に、怒りや呪いたくなる思いを受け止めて頂くのです。旧約の詩編を見ると、神の裁きを求める祈りがいくつもあります。旧約の民も、神に怒りや呪わずにはいられない思いを受け止めて頂きながら歩みました。

 最初に祝福するというのは、幸いを祈るということですと言いました。元の言葉では「良いこと」を「言う」という意味があると言いました。そうすると、相手にとって「幸い」って何?「良いこと」って何?という判断が出てきます。聖書的に言うならば「それは救いに与ること」であろうと思います。
 そして救いを願うとき、悔い改めも必要になってきます。救いを願うときに、裁きを願うこともあるでしょう。

 かつて矢内原忠雄というキリスト者がいました。矢内原は東京帝国大学の教授でしたが、1937年(昭和12年)盧溝橋事件の直後、『中央公論』に民主主義の理念を先取りした「国家の理想」と題する評論を寄稿します。これが大学の内外で矢内原攻撃の材料となってしまいました。そして同年10月1日、矢内原は「神の国」という題で講演をします。そこで矢内原は南京事件を糾弾し「一先ずこの国を葬ってください」という一言を発します。それを矢内原は個人で出していた『通信』にも掲載します。そして同年12月に、事実上追放される形で東京帝国大学教授を辞職します。
 わたしはこの矢内原の言葉も当時の日本という国に対する祝福の言葉、日本の幸いを願い、神のよき導きを求め、日本に対して良い言葉を語る祝福であったと考えています。

 既に報告しましたように、大会 靖国神社問題特別委員会は総理大臣に対して「日本学術会議会員推薦者6名任命拒否の撤回と謝罪を要求します」という抗議文を出しました。矢内原忠雄が大学を追われたのと同じような状況がもう目の前に来ています。かつての戦争の際には、礼拝に官憲が立ち会い、牧師の説教を一言一句確認し、政府に不都合なことが語られたときには逮捕され取り調べを受けました。それは過去の話ではなく、近い将来の話かもしれなくなってきました。

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」わたしは迫害と言えるようなことを経験したことはありません。けれど、迫害を知らずにすむかどうかは怪しくなってきました。

 神は、迫害に対して呪いではなく、祝福で報いていくことを教えられました。わたしたちは本物の救いに共に与れるように、祝福を祈ります。悔い改めを求め、裁きを求め、神の国の到来を求めながら、祝福を祈ります。
 救いはイエス キリストが歩まれたその跡に現れます。キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(1ペトロ 2:23~24)
 だから神はわたしたちに言われます。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちが祝福を語れるように、わたしたちをあなたの救いで満たし、祝福で満たしてください。あなたは祝福を受け継ぐために、わたしたちを召されましたから、あなたの祝福を豊かにお注ぎください。どうかわたしたちを試みに遭わせず、迫害に遭わせず、悪から呪いから救い出してください。どうかあなたの栄光の光でわたしたちを包み、導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 144:1〜2

2020-10-29 10:46:58 | 聖書
2020年10月28日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:1〜2(新共同訳)


 この144篇は「王の詩篇」と呼ばれる詩編の一つです。王の詩編と呼ばれるものは全部で10篇あって、他には 2, 18, 20, 21, 45, 72, 101, 110, 132篇が王の詩編と呼ばれるものです。

 1節「【ダビデの詩。】主をたたえよ、わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を」
 これも表題に「ダビデの詩」とあります。表題にダビデと出てくると、ダビデ自身の祈りだと言う注解者でも、この詩篇についてはそうは言わないようです。それはこの詩篇が他の詩篇の引用が多いからです。8, 18そして104篇からの引用があるようです。中でも18篇とよく似ています。18篇を元に他の引用を入れて、神を讃美するために新たに編纂されたと理解されているようです。
 「主をたたえよ」詩人は人々を讃美へと導きます。
 「わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を」2節「わたしの支え、わたしの砦、砦の塔/わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ/諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。」様々な喩え、言葉を用いて、神がどのようなお方であるかを表現し、神を讃えます。言葉を重ねることで、神の豊かさを表そうとしています。このような表現は、ウェストミンスター信仰告白や大教理問答の神についての表現(神と三位一体の項目)にも反映されています。

 2節の最初に出てくる「支え」は、前回も出てきた「ヘセド」という言葉です。他の訳では「慈しみ」「恵み」などと訳されています。ヘセドは、契約関係の中で助けるまた愛することを表します。神の民を愛し助けてくださる神を表す言葉として使われています。
 2節最後の行の「諸国の民」は、写本が分かれているようです。最近の日本語訳はどれも「私の民」となっています。王が治め導く対象が誰なのかが、翻訳者の理解で変わってきます。新共同訳の理解だと、神の国を完成させるメシア的な王が、諸国の民を治め導くという理解になるでしょう。

 守ってくださる方としての表現は「岩」「砦」「逃れ場」などと言われます。
 一方、神の民を導く方としての表現は「わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方」「諸国の民をわたしに服従させてくださる方」と言われます。

 「闘うすべ/戦するすべ」と言われます。旧約には異邦人と戦う場面がいくつもあります。現代では、この闘いを霊的な闘いとして解釈されることが多いと思います。けれど先程名前を出しましたウェストミンスター信仰告白の第23章「国家的為政者について」の項目では、一般に「正義の戦争」と言われる事柄が述べられています。
 23章2項にはこうあります。「キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる。」
 日本キリスト教会では、わたしが神学校に入学して(1986年)以降、この問題について論じられたことはありません。日本キリスト教会憲法 第2条(信仰の規範)の3項で、日本キリスト教会信仰の告白は、ウェストミンスター信仰告白で言い表されている信仰も継承している、と言われていますが、現在ウェストミンスター信仰告白の内容について論じられることはありません。
 わたしが神学校で授業を受けたある先生は「正義の戦争なんか受け入れられるの?」と言われたことがありました。おそらく受け入れられないだろうと思います。多分多くの牧師・長老たちは、日本国憲法 第9条「戦争の放棄」の立場だろうと思います。
 そしてプロテスタントの教派の中には、戦争・暴力を完全に否定するメノナイト、ブレザレン、クェーカーといった歴史的平和教会と呼ばれる教派もあります。

 それにも拘わらず、わたしは正義の戦争はあり得ると考えています。
 一つは、現実に戦争があるからです。わたしが最初に行った福島伝道所の松谷好明牧師が、ウェストミンスター信仰告白の学びをしてくださった際に、正義の戦争の項目があるために、いつもそれは正義の戦争なのかという問いかけがなされ、国家権力が暴走しないように議論がなされると話されたことが記憶に残っています。
 もう一つは、現実にヒトラーが登場し、多くのユダヤ人が強制収容所で殺されたという事実です。ユダヤ人は、ヒトラーが失脚するか寿命が尽きるまで殺され続けなければならないということなのかという疑問です。あの現実の中で、ナチスドイツと戦ったことを否定するのだろうか、強制収容所に連れて行かれてしまう人たちを前にして一切の戦争を否定する絶対平和主義を唱えるのかという疑問です。

 先ほども言いましたように、わたしの考えは今の日本キリスト教会においては少数です。もしかしたらわたし一人かもしれません。けれど、今回引き合いに出しましたウェストミンスター信仰告白は、世界の長老制の教会で最も多く採用されている信仰告白です。平和主義のキリスト者は多いと思いますが、戦争を完全に否定する絶対平和主義の立場に立つ人が多数ではないだろうと思います。

 旧約の時代、戦争は神の民と異邦人との間で起こりました。しかし今は違います。ヨーロッパで紛争が起きれば、キリスト者同士で戦うことになります。第一次世界大戦も第二次世界大戦でもそうでした。ユーゴスラビア紛争もそうです。ヨーロッパ内部だけでなくとも、今やキリスト者は世界中にいます。
 詩篇の時代、自動車も飛行機も、インターネットもありませんでした。文明は進み、社会は変化しました。しかし詩篇の時代から二千数百年が過ぎても、戦争はなくなりません。戦争に関わる国では、自国の勝利を願う祈りが献げられていることでしょう。戦場には、従軍牧師が連れて行かれ、戦闘の勝利を祈り、兵士の安全を祈っていることでしょう。
 イエスは言われました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ 5:44)きょうのような箇所を「旧約の限界」と言って過ぎ去る人もいますが、そんなことを言っても戦争はなくなりませんし、勝利を願う祈りがなくなることもありません。
 戦争の問題は、今もまだ神学的、教義学的な課題だろうと思います。

 神は聖書を救いの歴史として書かれました。聖書において、歴史を理解するということは歴史を神の側から理解することです(A.ヴァイザー)。そして神は、この祈りを神の言葉とされました。わたしたちはこの祈り、この聖句からどのような神の御心を聴くのでしょうか。
 牧師や神学者が考えて、正解を出してくれるのではありません。神は、神の民一人ひとりが神の声を聞いて従うようにと、聖書を通して語りかけておられます。

 世界の様々なニュースを知ることのできる時代になりました。気持が重くなり憂鬱になるニュースが多く、ニュース自体聞くことが嫌になります。それでも耳に入ってくる目に留まるニュースがあったときには祈って頂きたいと思います。
 わたし自身は、きょうのような祈り・神への期待は、最終的には神の救いの御業の前進ための祈りへとつながっていくのだろうと思います。救いの御業の前進、神の国の完成を求めることへとつながっていくと思うのです。わたしたちは、それぞれが置かれた場所、直面している問題を祈ることを通して、救いの御業の前進、神の国の到来を求めていくのだと思います。そして神の国が到来するとき、わたしたちに与えられた約束、神が涙をことごとくぬぐい取ってくださり、悲しみも嘆きも労苦もない未来が成就するのです(黙示録 21:4)。そのために祈る務めが、神の民には与えられているのだと思います。


ハレルヤ


父なる神さま
 この罪の世にあって、わたしたちはあなたに願うこと、聞いて頂きたいことが数え切れないほどございます。そしてあなたは、教会・あなたの民を御心をなすためにお用いになります。どうかわたしたちにあなたの御心を明らかにお示しください。喜びをもってあなたに従い、仕えることができるようわたしたちの信仰をお導きください。どうか救いの完成へ向けて、御業を推し進め、御国を来たらせてくださいますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 6:28〜29

2020-10-25 17:17:36 | 聖書
2020年10月25日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:28〜29(新共同訳)


 イエスは自分を探してやってきた人たちに言います。「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6:27)
 そこで人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。命は神が与えてくださるもの。永遠の命もまた神が与えてくださいます。人々は、神から命を与えて頂くために、神の御心に適う業は何かと尋ねます。
 イエスは答えて言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
 イエスは「自分を信じることが神の業である」と言われます。

 わたしたちは毎週「信じます」と告白し、信仰という言葉を当たり前に使います。しかし何故、信じることが神の業なのでしょうか。何故永遠の命を得るのに信じることが求められるのでしょうか。

 聖書は「罪によって死が入り込んだ」(ローマ 5:12)と言います。聖書が告げる最初の罪が創世記 3:6~7に記されています。聖書が記す最初の罪は、食べるのを禁じられていた善悪の知識の木の実を(創世記 2:17)食べることでした。
 善悪の知識の木の実を食べると、善悪の知識が身に付きます。ただしそれは神の善悪とは違うわたしたち一人ひとりの善悪です。この結果、人は神に従い、神と共に歩むことができなくなりました。神が言われることよりももっと良いと思えること、また神が言われることが自分にとって都合が悪い、良くないと思えることが出てくるようになってしまったからです。

 こうして人は、神の許に留まることができなくなってしまいました。人は自分の人生・自分の命を、神から離れ、自分の善悪に従って歩むようになったのです。命の造り主であり、命の源である神から離れていくその先は、死でありました。
 聖書はこの神から離れることを罪と言います。信仰がなくても立派な人はいます。尊敬できる人はいます。しかし罪のない人はいません。誰もが死に囚われています。歴史上の偉人であっても、聖人と呼ばれる人であっても、罪がもたらした死に囚われています。神の善悪と全く同じ善悪を持つ人、神の御心と全く同じ思いを持っている人は、一人もいないのです。

 人は自分の善悪を持ってしまったが故に、神の言葉を信じられなくなりました。「もっとこうした方がいいじゃないか」「なんでそんなことをしなければならないのか」という思いが常に湧いてきます。個人の自由が尊重される時代になればなるほど「わたしの人生はわたしのもの。わたしの好きに生きる」となって、罪に歯止めがかかりません。

 罪によって神が信じられなくなりました。神と共に生きられなくなりました。だから神の救いの御業は、信じることの回復なのです。

 信じることは、わたしたちの命に関わることです。もしわたしたちが、何も信じられなくなったとしたら、親も兄弟も友達も、社会も世界も、そして自分自身も信じられなくなったら、生きていくことはできません。
 お金も信用できない、お金を預ける金融機関も信じられない、売っている物の値段も信じられないとなったら、わたしたちは社会生活をすることができません。
 実にわたしたちが生きていくことの土台には、信じること・信用があるのです。信じることは、わたしたちが生きていくためになくてはならない必要なことの一つです。

 それが罪によって壊されてしまいました。噓をつく、だます、裏切るなど信じることを傷つけ、壊してしまうことが罪によって世に入ってきてしまいました。

 そのような罪の世で罪を抱えて生きるわたしたちのために、神自らが信じられる存在となって、信じることを回復してくださるのです。
 聖書に記された出来事は皆、神は真実であり、神は信じることのできるお方であることを証ししています。そして神は約束の成就として、独り子イエス キリストを救い主として世に遣わしてくださいました。
 ヨハネによる福音書は、イエス キリストを神の言葉として紹介します。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ 1:1,14)
 神の言葉は出来事となります。旧約の出来事、神の約束が、イエス キリストにおいて成就したこと、神の言葉は出来事となることを、ヨハネによる福音書は証ししているのです。だからヨハネによる福音書は、福音書を編纂した目的をこう記しています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ 20:31)

 ヨハネによる福音書、そして聖書は、イエス キリストへの招きの言葉です。イエス キリストに出会い、神の真実を知り、神を信じて生きることへと招いています。信じることを通して、神と共に歩み、永遠の命に生きることへと招いています。
 イエスは言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ 20:27)


ハレルヤ


父なる神さま
 どうか聖書を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストによりあなたの真実を知ることができますように。どうかあなたを信じることの幸いに与らせてください。キリストを信じ、あなたを信じ、永遠の命に生きる者とさせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 143:7〜12

2020-10-22 13:06:42 | 聖書
2020年10月21日(水) 祈り会
聖書:詩編 143:7〜12(新共同訳)


 神に助けを求める143篇の後半です。
 多くの願いが記されています。7節「答えてください」「隠さないでください」8節「聞かせてください」「教えてください」9節「助け出してください」10節「すべを教えてください」「導いてください」11節「命を得させ(てください)」「引き出してください」12節「絶やしてください」「滅ぼしてください」

 祈りは3つの要素からなります。一つは「神への感謝」もう一つは「神への讃美」そして三つ目は「願い」です。
 この中で一番多いのが「願い」です。感謝も讃美も大体一言で終わりますが、願いは自分への願いも、他者の執り成しも沢山出てきます。神に分かって頂きたい、聞いて頂きたいと思うせいか、ああも言い、こうも言い、言葉が重なっていきます。
 詩人も多くの願いを神に求めます。

 7節「主よ、早く答えてください」わたしたちにとって無視されることはとても辛いことの一つです。神を信じている者にとっては、神が祈りに応えてくださらないと信仰が絶えそうになります。「やっぱり神はいないのか」といった諦めに捕らわれてしまいそうになります。
 「わたしの霊は絶え入りそうです。」詩人は神とのつながりが切れてしまいそうな危機を感じています。
 「御顔をわたしに隠さないでください。」「顔を隠す」という表現は「忘れる」「棄てる」を意味しており、神が関係を断たれることを示す表現です。詩人は神との強いつながりを求めています。
 「わたしはさながら墓穴に下る者です。」詩人は自分の滅びが目の前にあるように感じています。

 8節「朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。」夜が明けて、闇が消えていくように、見えなかったものが見えるようになるように、今は見えない神の慈しみが失われていないことを聞けるようにと祈ります。
 「あなたにわたしは依り頼みます。」危機の中で詩人は、信仰を手放さず、神の許に踏みとどまろうとします。
 「行くべき道を教えてください」。詩人は求めます、神と共に歩む道、神の国に至る道を。それが滅びを逃れる道であると詩人は信じています。
 「あなたに、わたしの魂は憧れているのです。」詩人は神に手を伸ばし、神を求めます。原文は「わたしはあなたへと魂を掲げます」となっています。魂を掲げるは「切望する、思いを寄せる」ことを表します。新共同訳はそれを「憧れている」と訳しました。ここを読んでわたしは「果たして自分は神に憧れているだろうか。イエス キリストに憧れているだろうか」という思いが浮かびました。

 9節「主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。」詩人は、神の民がそう信じてきたように、神こそ我が逃れ場と信じて神に助けを求めます。

 10節「御旨を行うすべを教えてください。」8節では「行くべき道を教えてください」と祈りました。神の御心を行い、神と共に歩む。そこにこそ自分の救いがあることを詩人は知っており、それをこそ願います。
 「あなたはわたしの神。」詩人の存在を支える言葉です。この言葉と対になるのが2, 12節の「わたしはあなたの僕」です。「あなたはわたしの神です。そしてわたしはあなたの僕です。」ここに詩人のアイデンティティーがあります。これが詩人の信仰の核となるものです。
 「恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。」神の霊が豊かに注がれ、神とのつながりが確かにされることを詩人は願います。神とのつながりこそが神の恵み深さを表すものであり、それがあるとき、詩人は平安に歩み行くことができます。人の目には困難に見えるときも、安らかな地にあることができます。アブラハムが行き先を知らされないまま従うように召し出されて以来、神の民が寄留者のように神に従い歩んだときもそうでした。

 11節「主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。」「恵みの御業」とありますが、これはツェダカーという単語で、普通は「義、正義」と訳される言葉です。旧約の中で大切な言葉の一つです。新共同訳は「義」と訳したのでは分かりづらいと判断したのでしょう。聖書に出てくる「義」は関係の正しさを表す言葉です。夫婦、親子、家族、友人、そして神との関係の正しさを表す言葉です。詩人は、神との関係の正しさが整えられるとき、自分も災いから救い出され、命が守られると信じています。

 12節「あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。」不思議な表現が出てきます。「慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。」「慈しみ」という言葉と「敵を絶やしてください」という言葉が釣り合わず違和感を感じます。この「慈しみ」という言葉、ヘブライ語で「ヘセド」という言葉ですが、契約関係の中で助けるまた愛することを表します。これも旧約の中で大切な言葉の一つです。「契約関係の中で助けるまた愛する」だからこの言葉に続くのが、「わたしはあなたの僕なのですから」という言葉なのです。神に向かって「あなたとわたしの間にはそういう関係がありますよね。あなたはわたしの神で、わたしはあなたの僕です」と訴えているのです。
 神は、詩人の、そしてわたしたちの怒りや憤りも受け止めてくださいます。「敵を絶やしてください。ことごとく滅ぼしてください。」この言葉、この祈りが聖書に収められているのは、神がこれらの思いを受け止めてくださるということです。神は罪を抱えたわたしたちが、罪の世で生きており、罪ゆえの理不尽な痛み・悲しみを負いながら生きていることをご存じです。神は「赦しなさい」と教えておられますが、詩人のこの祈りに「そんな風に祈ってはいけないよ」とは言われません。神はわたしたちの怒り・悲しみも含めたすべてを受け止めてくださいます。わたしたちは神の前で信仰深く装うのではなく、ありのままのすべてを受け止めて頂けるのです。

 この143篇の祈り・願いの根本にあるのは、10節「あなたはわたしの神」と2, 12節の「わたしはあなたの僕」という言葉、そこで表現されている「あなた=神」と「わたし」の関係なのです。そしてその関係を表す言葉としての1, 11節の「ツェダカー」「恵みの御業=義」と8, 12節の「ヘセド」「慈しみ」です。
 わたしたちにとっても、信仰が意味ある内実のあるものであるためには、神とわたしとの関係が重要です。神とわたしの間に「ツェダカー・義」があり、「ヘセド・慈しみ」があるのかがとても大事です。実にそれを与えるため神はイエス キリストをお与えくださいました。

 自分という存在の危機に、この詩篇は祈られました。わたしたちに与えられている信仰はきれい事や建て前ではなく、命を存在を救う本物の救いを受けるための恵みなのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人と共にあなたに望みを置いて祈ります。どうかあなたとの関係が確かなものとされますように。あなたの義と慈しみで満たされますように。あなたの義と慈しみを与えるために来てくださったイエス キリストで満たされますように。どうかあなたご自身がわたしたちを支えるために自らを差し出してくださり、父・子・聖霊なるあなたとの交わりの中に入れられていることを深く知ることができますように。どうかあなたの栄光が豊かに現されますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン