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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

詩編 148:1〜6

2021-02-04 00:50:45 | 聖書
2021年2月3日(水) 祈り会
聖書:詩編 148:1〜6(新共同訳)


 きょうは148篇の前半です。
 この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)とあります。
 ハレルヤが「主を讃美せよ」という意味だと分かると、「主を賛美せよ」という言葉が何度も言われていることに気づかれると思います。日本語に訳されている「賛美せよ」も、最初にカタカナで書かれている「ハレルヤ」と同じ「ハーラル」(讃美する)という動詞が使われています。

 1節の2行目に「天において」とあります。そして7節に「地において」とあります。
 1~6節は天における讃美が語られ、7節以下は地における讃美が語られます。そして11~12節は人の讃美、13~14節は主の民の讃美が語られます。
 この詩篇は、神が造られた世界の天においても、地においても、讃美で満たされ、世界がすべて神を喜ぶことへと導こうとしています。
 讃美は、神を讃えて、神の栄光を証しする行為です。詩編102:19には「主を賛美するために民は創造された」(新共同訳)という言葉があります。讃美は神の民の務めであり、神にふさわしいものです。
 わたしが神学校で習った時(30年前)には、出エジプトを喜び讃える出エジプト15章のミリアムの讃歌(20~21節)が一番古い聖書の記事だと言われていました。ただ聖書学も日進月歩で今もそう考えられているか定かではありません。けれど讃美は、神の民の歩みの初期からあったものであろうと思います。

 1節「天において」「高い天で」
 天は、神がおられる世界を表します。人が住む地に対する天です。人の手が届かない高みを指し示します。
 2節「御使いらよ、こぞって」「主の万軍よ、こぞって」
 天使とその軍勢も皆、讃美へと誘われます。
 3節「日よ、月よ」「輝く星よ」
 天体、天を飾るものたちも、讃美に招かれます。
 4節「天の天よ」「天の上にある水よ」
 天の中の天、最も高い天、そして雨として降る天の上にある水も、神が造られた世界のすべてのものが神を讃えることを詩人は願っています。すべてのものは神によって造られたのですから。5節「主は命じられ、すべてのものは創造された。」
 6節「主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。」この節は「主は掟を与え、天の被造物は掟を逸脱することはない」という意味です。つまり、神は自然の理を造り、与えられたということです。

 この詩篇は、神の創造の御業を思いめぐらしながら、讃美しています。
 神の創造の御業は、創世記1:1~2:3で語られます。この箇所はバビロン捕囚で、バビロニアの創世神話に触れて、触発されて語られたと言われています。それは、バビロニアの神々が世界が造ったのではなく、唯一の真の神が祝福をもって造られたことを表す信仰告白であると言われます。科学的なことを伝えようとしているのではなく、信仰をもって神の創造の御業を語っています。
 1:1~2:3は、混沌から神の言葉によって命の秩序が造られていく様が表現されています。創造は7日間でなされます。七日目は安息の日ですから、創造自体は6日間でなされます。この箇所が書かれた紀元前一千年頃は、7も6も完全数だと考えられていました。7は、1と7以外割る数字を持たない特別な数という意味で完全数と考えられていました。逆に6は、1でも2でも3でも6でも割ることのできる特別な数という意味で完全数と考えられていました。創造の記事は、完全数を用いることにより、創造の御業が完全であることを表そうとしています。
 6日間で世界が造られてきますが、これは、3日と3日に分かれます。一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。
 一日目、光が造られます。四日目、太陽と月の創造が語られます。光と太陽が別々に語られます。一日目の光は、光そのものです。古代のイスラエル人がそのような感覚を持っていたことに、驚きを感じます。
 二日目、水が分けられます。天の水と地の水です。五日目、空の鳥と海の生き物が造られます。
 三日目、地が造られ、植物が造られます。六日目、地に生きる生き物、そして神にかたどられた人間が造られます。
 このように、一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。これらは、神が語られる前は、地は混沌であったのに(創世記 1:1)、神の言葉によって命の秩序が造られ、神の「よかった」(良しとされた)が繰り返され、造られた世界には神の祝福が満ちていたことが表されています。

 そして今、聖書は「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」(ローマ 8:19)と語ります。被造物も神の救いに与り、神の祝福に満たされること、創造のときの喜びが回復することを待ち望んでいます。
 マルコによる福音書は復活の主イエスの宣教命令をこう書いています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)
 神の救いの御業は、全被造物に及びます。そして148篇は、天と地にあるすべてのものを讃美へと招きます。

 148篇はその形から見て、会衆を讃美へと招くのに用いられた詩編のように思います。「主を賛美せよ」という呼びかけは、神を証しする神の民の務めです。教会に集うお一人おひとりが、その信仰生活・教会生活において、神を讃美せずにはいられない神との出会いをされますようにと祈ります。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの造られた世界が讃美で満たされますように。代々の民と共にわたしたちもあなたを指し示し、讃美へと導くことができますように。あなたと出会う一人ひとりが救いの喜びで満たされますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 13:1〜7

2021-01-31 17:21:03 | 聖書
2021年1月31日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 13:1〜7(新共同訳)


 ローマの信徒への手紙は、教会の歴史にその名を留める人たちに大きな影響を与えてきました。アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ジョン ウェスレー、カール バルト。それぞれの回心であったり、救いの理解について影響を与えてきました。

 そんなローマの信徒への手紙ですが、きょう読みました箇所は、疑問が投げかけられるところです。紀元392年、ローマ帝国においてキリスト教が国教化されると、教会は政治権力と結びつくようになっていきます。そしてきょうの箇所、特に13:1は、教会が国家権力と結びつき、時に教会自体が政治権力となることの正当化のために用いられてきました(田川建三『新約聖書 訳と註 4』p.305)。
 そのこともあって、きょうの箇所では抵抗権が語られ、政教分離について語られることも多く、解釈の歴史について書かれた本も出版されています(宮田光雄『国家と宗教 ローマ書十三章解釈史=影響史の研究』『権威と服従 近代日本におけるローマ書十三章』)。

 では1節から読んでいきましょう。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」
 元々聖書には章や節はありませんでした。きょうの箇所は前からの続きで書かれています。直前で語られたのは「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12:21)です。きょうの箇所でも3節「それなら、善を行いなさい」と言われます。ここは善を行うことの勧めの流れで語られています。ですから、この流れを無視して、この箇所だけを抜き出して論じるのは適当ではありません。ですから、善を行うことを勧めようとして「上に立つ権威に従うべきです」と語っているのです。だから4節「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」と言われています。
 この「善を行う」は、ここの流れにおいては「権威に従うべき」よりも上位にある勧めです。「善を行う」は「権威に従う」の前提です。善を行わないで権威に従うのではないのです。

 その上でもう一度見ていきたいと思います。「上に立つ権威」とあります。そしてわたしたちが知っているとおり、最も上に立つ権威は神ご自身です。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」です。
 神によって立てられたものには、託された務めがあります。ここでは「善を行わせる」と言われています。権威には、神から委託された務めがあります。
 日本キリスト教会信仰の告白でも「教会はキリストのからだ・・主の委託により正しく御言(みことば)を宣べ伝え・・」と、委託ということが言われています。
 権威を託されているもの自体、神の御心の下にあります。「権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」権威は神の定めを果たすことが前提とされています。神の定めが最優先事項であり、神の定め・神の御心を無視して権威ある者が好き勝手やることは許されません。

 1節に「従う」という言葉が出てきます。この「従う」という言葉、元の言葉は「ヒュポタッソー」(ギリシャ語)という言葉です。このヒュポタッソーという言葉はヒュポとタッソーからなっていまして、ヒュポが「下に」という意味で、タッソーが「定める」という意味です。ですからここでは特に「神の下に定める」という意味でヒュポタッソーという言葉が用いられています。その意を汲んで、ある人はこの1節をこう訳します。「あらゆる人は、上に立つ権威に従いなさい。もし、神の下になければ、それは権威ではなく、存在しているそれらのものは神の下に定められているからです。」(宮平 望『ローマ人への手紙 私訳と解説』)

 聖書の語る善は、神の善、神の御心です。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。・・善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」世の権威に対する神の御心ははっきりしています。世の始めに神が人に地を治める務めを託されたのは、神の御心に従い、神と共に世を治めるためです。神の御心により、創造の時に繰り返し言われた神の「よかった」が世界を満たしていくように仕えるのです。(参照:創世記 1章)

 世の権威は、喜び生きる命の秩序を保つために、剣も託されています。そして神の民は、世の権威の怒りを逃れるという消極的な理由ではなく、神の御心に従い委託に応えるという良心のために従います。

 そして世の権威を維持するために税も納めます。新共同訳では「貢」と「税」と訳していますが、新しい翻訳(聖書協会共同訳)では「税金」と「関税」というように訳しています。その細かい違いは、当時のローマの在り方に詳しくないわたしにはよく分かりません。
 「義務を果たしなさい」は、「負っているもの(負債)を納めなさい」というのが元の文の意味です。負っているものには税金、関税、畏れ敬うことが挙げられます。その一番の元にあるのは、神が世を治める務めを託されたことです。世を治める務めを維持していく責任がわたしたちに与えられています。

 イエス キリストの福音は、今も古びることなくわたしたちの意識を変え、世を新しくしていきます。けれど変わるには、時があります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト 3:1)
 けれどその時を待ちきれなくなることもあります。もっと社会が変わるべきだという強い意見を抱く人もいたことでしょう。実際、教会では奴隷をどのようにするかという問題、女性の地位の問題などが議論されていました。しかしパウロは、自分の経験を踏まえて勧めます。彼はローマ帝国が整備した道を歩き、ローマが整備した港を利用して伝道しました。ローマの法律に守られて伝道しました。ローマは異邦人の国であり、神の言葉を受け容れてはいません。それでもパウロは、ローマが神によって建てられ、神の務めを果たしていると受け止めていました。

 そして時とともにこの箇所も何度も読まれ、解釈され、聞かれてきました。そして始めに言いましたように、抵抗権と共に語られ、政教分離と共に語られるようになりました。そしてこれからも、社会が変化する中で新しく聞かれることでしょう。
 しかしどのような時代になっても「(神の)善を行いなさい」「(最も)上に立つ(神の)権威に従いなさい」というメッセージは語られ、聞かれ続けていくだろうと思います。
 わたしたちは礼拝に連なり、神の言葉に聞く中で、神が世を造られ、導かれるその御心を聞き続け、神の御心がなるように、神の栄光が現されるように、信仰をもって、また良心をもって仕え歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの義が行われ、御心がなされていくようにと、あなたは務めを託され、権威をお与えになります。あなたが変わらずに義が行われることを願っておられることを覚えていくことができますように。わたしたち一人ひとりも、教会も、あなたの権威に従い、御国の栄光のために仕えていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 147:12〜20

2021-01-28 11:02:19 | 聖書
2021年1月27日(水) 祈り会
聖書:詩編 147:12〜20(新共同訳)


 きょうは147篇後半です。この詩篇は3部構成で、1~6節、7~11節、12~20節の3つの部分からなります。3部とも最初に讃美をして、それからその理由を語るという構成になっています。きょうは3部を読んでいきましょう。

 12節「エルサレムよ、主をほめたたえよ/シオンよ、あなたの神を賛美せよ。」
 詩人はイスラエルの首都であるエルサレムに語りかけます。シオンというのはエルサレムが建っている丘の名前です。エルサレムもシオンも、イスラエルの民を象徴する言葉として使われています。
 エルサレムは、紀元前586年第2回のバビロン捕囚の際に新バビロニアによって破壊されました。およそ50年後、紀元前539年、ペルシャによって新バビロニアが滅ぼされた後、捕囚の民は解放され、帰国が許されました。エルサレムの再建、神殿の再建も許され、紀元前517年頃には第2神殿と呼ばれる神殿も完成しました。
 2節には「主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる」とエルサレムの復興が詠われています。12節は、罪ゆえに裁かれていたイスラエルを憐れみ、赦しを与え、新たな歩みへと導かれる主を讃えるようにと詠います。

 13~14節「主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし/あなたの中に住む子らを祝福してくださる。/あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくださる。」
 詩人は「平和を与えてくださるのは主である」と詠います。10節では「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない」と語りました。おそらく詩人は、イザヤの言葉を聞いていたのでしょう。「災いだ、助けを求めてエジプトに下り/馬を支えとする者は。/彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。」(イザヤ 31:1)けれど為政者たちは預言者の言葉に耳を傾けず、大国との同盟関係によって国を守ろうとしました。そして滅びました。
 その現実、神の裁きを覚えて詩人は13~14節を詠います。平和は主が与えてくださり、平和は主の許にあると。

 15~18節「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。」
 神は地に平和をもたらすためにお語りになります。
 「羊の毛のような雪を降らせ/灰のような霜をまき散らし/氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。/御言葉を遣わされれば、それは溶け/息を吹きかけられれば、流れる水となる。」
 詩人は詩的な表現を用います。地上に降る雪、霜、氷塊は、神から地に与えられる神の言葉を表しています。神を信じ、神と共に歩むのでなければ、神の言葉は雪や霜、氷のように誰もその冷たさに耐えることができません。つまり、人の力では神の言葉、御言葉を守ることはできず、罪が増し加わるばかりです。
 国が危機に直面する時代に預言者たちが語ったことは、武力により頼まず、神を信じ神に依り頼みなさいということでした。「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」(イザヤ 30:15)これは今日のことで言うならば「日米同盟に頼らず、神を信じ静かにしていなさい」というようなことです。おそらく今日でも預言者の言葉、すなわち神の言葉に聞き従うのは難しいでしょう。神の思いはわたしたちの思いを超えています。
 罪人には神の御言葉が理解できません。聞き従うことができません。しかし神は、神の言葉によって罪に気づき、神へと立ち帰るように信仰を与え、救いの御業を推し進められます。信仰により、完全でなくとも、神の御心を理解し、神と共にあることを求めていくならば、冷たさに耐えることのできなかった神の言葉は溶け、流れる水となり、地を潤し、命を芽生えさせるのです。神の言葉は、平和をもたらし、命を育むのです。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。/それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。/そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。/それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ 55:10~11)

 明治、鎖国を終え、アメリカ・ヨーロッパの文明・文化が日本に入ってきた頃、和魂洋才という言葉が言われました。精神は日本古来の「大和魂」で、技術・テクノロジーは西洋の学問・知識を吸収してやっていく、という意味です。古くは和魂漢才と言われ、大和魂と中国伝来の学問とを合わせてやっていくという考えでした。日本には、精神は日本のもの、技術は必要なものを輸入して、という考えが昔からあるようです。しかし、精神は今まで通りで、技術さえ学べば、大丈夫なのではなのです。悔い改めて、丸ごと新しくされて、神と共に生きるのでなければ平和はなく、命も育まれないのです。形の上だけの信仰では、神の民も滅びます。神の許へと立ち帰るという意味で「悔い改める」ことが必要なのです。

 19~20節「主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。/どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。」
 申命記ではこう言われました。「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。」(申命記 4:7~8)
 神の言葉は命を育みます。神の裁きは民を神へと立ち帰らせます。神の許に命と平和があります。詩人は神の言葉を聞ける幸い、神と共に歩むことのできる幸いを思います。神を信じていても、生きる原理が罪の世の在り方になるならば、神は主ではなくなります。もし、神が主でなくなれば、それは神の民ではなくなってしまうということになります。

 詩人は今、再建された神殿へ思いを向け、希望を携えて帰還してくる同胞を思いながら、歴史を導かれる主の御前に立っています。そして罪人の愚かさ・頑なささえも用いて救いの御業をなされる、神の慈しみの大きさを感じています。詩人は今、神の御業がもたらす喜びに心震わせながら、すべての民に呼びかけます。
 「ハレルヤ 主を讃美せよ。」


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはあなたと共に歩めるようにと御言葉を語られます。どうかその思いを理解し、受け止めることができますように。自分に都合のいい言葉だけ聞こうとするのではなく、その時その時語られるあなたの言葉を全部受け止められますように。どうかあなたに包まれ、あなたに満たされて、命と平和の道を歩んでいけるようにお導きください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 6:41〜51

2021-01-24 16:41:43 | 聖書
2021年1月24日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:41〜51(新共同訳)


 イエスは言われました。「わたしが命のパンである。」(6:35)「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(6:33)

 人々はつぶやき始めます。「この人はヨセフの息子のイエスではないか。わたしたちは父も母も知っている。そのイエスが『わたしは天から降って来た』などとどうして言えるのか。」
 教会では「躓く」という言い方をすることがあります。信仰生活や教会生活を続けられなくなることを指して使われます。ユダヤ人たちはイエスに躓きました。イエスを信じることができませんでした。人々にはイエスが永遠の命を与える特別な人には思えませんでした。

 イエスは彼らを制して言われます。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
 知るということには色々なレベルがあります。顔や名前を知っているというレベルから性格や考えが分かるというレベルまで色々あります。イエスが救い主であると信じるレベルまで知るに至るには、父なる神の導きが必要です。この人を救おうという神の意志が必要です。そしてイエス キリストに導かれた人を、イエスは終わりの日に復活させると言われます。
 では救いは一切、神任せなのでしょうか。そうではありません。イエスは言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ 11:9, 10, 13)
 神はわたしたちの救いを願い、わたしたちの応答を求めて語りかけられます。その神の言葉を聞き流すのではなく、受け止め、理解して、救いを求めていく者に、神は聖霊の導きを与えてくださいます。
 イエスも言われます。「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたし(イエス)のもとに来る。」
 神の言葉を聞き、神の御前に身を低くして聞いた者は、イエス キリストへと導かれます。預言者の言葉も含めて、聖書の言葉は、イエスに出会うために語られているからです。(参照:ヨハネ 5:39)そしてイエス キリストに出会います。イエスに出会い、イエスを知っていく時、イエス キリストこそ活ける神の御言葉であることを知るでしょう。イエスこそ神のもとから来た者、すなわちイエスだけが父を見、父を知っていることを知るでしょう。イエス キリストに出会うことによって、わたしたちはわたしたちに命を与え、わたしたちを罪から救い出し、共に生きようとされる神を知り、その愛を知るのです。

 そしてイエスは言われます。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」
 命は信じることによって保たれていきます。売買をしたり、お金を預けるなどの社会生活はもちろんのこと、治療を受ける、介護を受ける、売っている食糧を買って日々食べることなど、生命の維持には信じて受けることが深く関わっています。
 そして永遠の命は、イエス キリストを信じ、神を信じることと深く関わっているのです。生きているのはわたし自身ですが、わたしの命はわたしの所有物ではありません。命を手放す時が来ます。その時、死に囚われた命から、死に勝利し復活されたキリストの命へと進み行く道が備えられているのです。それがキリストを信じるということです。

 永遠の命は、死に勝利し復活されたキリストの命に与ることによって受け取ります。それをわたしたちに示しているのが聖晩餐です。わたしたちの救い主であるイエスが、わたしたちにご自分の命を差し出しておられます。
 「取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ 26:26~28)聖晩餐の度に読むこのイエスの言葉を聞き続けて、わたしたちは聖晩餐に与っていきます。イエスを信じて、イエスが差し出される永遠の命に与っていくのです。
 だから聖晩餐は信じることへの招きなのです。信じていなくても、教会に来て聖晩餐に与るならば、誰でも永遠の命に与れるというのではありません。イエス キリストと出会い、イエス キリストが救い主であると信じて、感謝して受ける時に、わたしたちは神との間に信じるという命を支える特別な関係が与えられ、永遠の命に生き始めるのです。

 イエスは言われます。「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。」
 この世の命を生きるためにも食べ物が必要です。しかしその食べ物を食べても、永遠の命には至りません。永遠の命に生きるためには、命のパンであるイエス キリストが必要なのです。

 イエスは言われます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに救い主イエスを与え、信じることと永遠の命を与えてくださり感謝します。信仰生活、教会生活を通して、あなたと共に生きる永遠の命を味わい知ることができるように導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 147:1〜11

2021-01-22 00:16:28 | 聖書
2021年1月20日(水) 祈り会
聖書:詩編 147:1〜11(新共同訳)


 きょうは147篇です。最初と最後に「ハレルヤ」がある讃美の詩編です。
 この詩篇は3部構成で、1~6節、7~11節、12~20節の3つの部分からなります。3部とも最初に讃美をして、それからその理由を語るという構成になっています。きょうは1部と2部を読んでいきましょう。

 1節「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。」
 詩人は讃美することがうれしくて仕方ありません。歌を歌うのが好きな人は大勢います。カラオケが大好きな人も沢山います。けれど詩人は、もちろん歌うことも好きかもしれませんが、歌うことが好きなだけでなく、神さまが好きなのです。神さまのことを思うと、うれしくなってくるのです。
 その理由が2~3節。「主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。/打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」
 詩人はバビロン捕囚が終わり、エルサレムの神殿が再建されたのを見ています。バビロン捕囚が終わったのが紀元前538年、神殿が再建されたのは紀元前517年頃と考えられています。神殿再建の喜びがこの詩篇の元にあるのでしょう。
 ただ神殿が再建されたというだけでなく、国が滅ぼされて散り散りになった同胞が帰還してくるんです。罪によって破壊されたものが再建される。罪によって散り散りになった者たちが神の許に帰ってくる。神の許に帰ってきたときに、バラバラになってしまっていた者たちが再会する。まさしくバビロン捕囚の終わりは、罪が贖われた救いの現れた時でした。国が滅びるという裁きを経験し、心打ちくだかれた人々が癒され、神によってその傷を包んで頂いた時でした。

 神の救いに包まれ、喜びに満たされていた詩人は、時を貫く神の御業に思いを馳せます。4~6節「主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。/わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。/主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。」
 「主は星に数を定め」詩人は神の言葉を思い起こしていたことでしょう。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)これはイスラエルの父祖アブラハムに与えられた神の約束です。神は数え切れない星々の一つひとつを知っておられる。その名を知っておられます。同様に神の民の一人ひとりを知っていてくださいます。世界の果てに散らされようと、神は忘れることなく覚えていてくださいます。
 神の民の歩みは、神の導きにかかっています。その数も神の御心の内にあります。「わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。/主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。」預言者の言葉、神の声に耳を傾けない為政者たちを裁くため、国も滅ぼされました。そしてご自身の義をお立てになります。その英知の御業は数えきることができません。詩人は、畏れつつも、神の真実を思い、震えます。神の民である喜び、神と共に歩む幸いを詩人は感じているのです。

 続いて第2部。7節「感謝の献げ物をささげて主に歌え。/竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。」
 再び、神を讃美します。讃美も献げ物です。献げ物と同じ仲間が、祈り、讃美、信仰告白、献金です。聖書を構成する柱の一つが「命」です。しかもその命は、神と共に生きる命です。神は命をお造りになりました。しかし人が罪を犯したため、死に囚われてしまいました。そこで神は、救いの御業をなし、人を罪から、そして罪がもたらした死から、救い出し、永遠の命・神の国へと導かれます。
 命の特徴の一つが「循環」です。吸った息を吐く。食べた物が排泄される。血液が循環する。この循環が止まると死に至ります。さらに生きるためには、大切な人と心が通い合うことが大切です。この命を支える循環が神となされるのが信仰です。神が語りかけてくださる。導いてくださる。恵みを注いでくださる。その神に対して、応答する。祈る。讃美する。告白する。自らを献げるしるしとしての献金をする。これらを通して神さまとの霊の循環がなされ、神の命が育まれていきます。

 神の命へと思いが向いていくとき、神が創造された世界が感じられます。8~9節「主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせられる。/獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば/食べ物をお与えになる。」神の造られた世界には、神の慈しみが満ちています。この理解が、イエスの言葉に繋がっていきます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイ 6:26)救いの御業をなされる神を感じていくとき、神がその恵みが被造物すべてに注がれている世界が見えてきます。
 そして神の思い・御心への応答へと、思いが向かいます。10~11節「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。/主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。」
 主が喜ばれること、主が望まれることに思いが向いていきます。それは世が評価する「馬の勇ましさ」でも「人の足の速さ」でもありません。「主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人」なのです。
 この詩人の思いは「〜しなければならない」といった律法主義とは無縁のものです。詩人の思いいっぱいに神が見えています。神へと思いが向いています。詩人は神の御前に立っています。そして喜びに満たされて神と共に歩んでいます。

 スイスのジュネーブで宗教改革をしたカルヴァンは『ジュネーブ教会教理問答』を書きました。その問1で「人生の主な目的は何ですか」と問い、「神を知ることであります」と答えているのですが、おそらくカルヴァンは、この詩人のような信仰を思い描いていたのではないかと思います(参照:ジュネーヴ教会信仰問答, 新教出版社, 外山八郎 訳)。
 神を知るとき、神の愛を知ります。慈しみを知ります。真実を知ります。神を知るとき、神が造られた命の意味、わたしの目にあなたは価高く、貴い(イザヤ 43:4)と言われる言葉の意味が分かってきます。だからわたしが礼拝で願うことも「神と出会い、神を知る」ことなのです。

 どうか皆さんもこの詩人と同じように、主にある喜びに満たされて、神と共に歩まれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩編を通し、あなたの民があなたの救いに満たされ、喜びに満たされて、あなたを知ることができることをお示しくださり、感謝します。どうかわたしたちも、この罪世にあって、あなたと出会い、あなたを知り、あなたの命に満たされて歩むことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン