<文章>は「一つの標識」に過ぎない。
それを見て<行なう人>はその文章どおりに、その言葉どおりに得る。
登山路や観光地には「標識」がある。
たとえば標識に「こちらへ行けば海岸です。海です。
こちらへ行けば奇岩絶壁が見えます」と書いてあるとしよう。
これは<文章>で表現しておいたことにすぎない。
<文章>だけでは「海岸、海、奇岩絶壁」を見ることはできない。
その標識に従って行ってはじめて「海岸、海、奇岩絶壁」を見て楽しむ。
<箴言>を読むだけの人は「案内標識を見るだけの人」と同じだ。
読んで行ない、行なえないことは想像して考えてみなさい。
<聖書の御言葉>はすべて天国に導く案内標識に過ぎない。
読むだけにする人は標識だけを見る人と同じだ。
行なってはじめて得る。