西源院の日日是好日

禅についての寺庭の雑感です 湯豆腐は11時ー15時の営業 水木定休 問合せは075-462-4742へお気軽に

『禅林句集』4.拈華微笑 ねんげみしょう

2022年07月26日 | 禅林句集

「拈」は「指先でつまむ」という意味です。この「華」は、金波羅華(こんぱらげ)という花であるとされています。(この花がどのような花だったかを調べてみましたが、わかりませんでした。)

「華を指先でつまんで微笑む」という意味の「拈華微笑」は、耳に心地よく響き、目にも優しい像を描いてくれることでしょう。この穏やかで美しい言葉は、『虚堂録』という中国南宋の虚堂智愚(きょどうちぐ)禅師(12-13世紀)の語録が出典とされていますが、もともとはお釈迦さまに由来します。

お釈迦さまは30代で悟りを得て、その後、教団を作って各地を回り、人の集まりで説法、お話をして教えを広めました。今から2500年ほど前の遠い昔です。仏教の教えは奥が深いので、もちろん、説法の言葉だけで伝えられるものでないはずです。お釈迦さまは、ご苦労があったとしてもものともせず熱心に人々に接して教えを説き続けたことでしょう。

お釈迦さまは80歳で入滅(にゅうめつ)、亡くなられたと伝えられていますが、晩年のある日、説法をする際に、このときはいつもと異なり、ただ黙って金波羅華の華一枝を差し出しました。それっきりです。説法なのに何もおっしゃらないので、皆、きょとんとしています。しかし、一番弟子の迦葉(かしょう)だけは違いました。一人、お釈迦さまの心をくみ取って、にっこり微笑んだのです。それがこの言葉の由来です。

仏教の教えは、言葉で言い尽くすことができない深いものだとされ、実際、そうでしょう。晩年のお釈迦さまは、自分の命がさほど長くないと感じ、大切な教えをどうしても後に続く人たちに伝えたかったはずです。勝手な解釈をすれば、お釈迦さまは、金波羅華一枝に、言葉では言い表すことができない教えを託したわけです。それを迦葉は、お釈迦さまの意図通り、はっきり理解してにっこり笑って応えた、という次第です。

「拈華微笑」のこの場面は、お釈迦さまの深い教えが弟子迦葉に、もっと言えば、次世代に受け継がられたまさにその瞬間で、さらに言えば、仏教が、これ以降今に続く2500年の長い歴史を持つに至った契機を表すと解釈できるでしょう。お釈迦さまはやがて亡くなりました。しかし、教えは迦葉に引き継がれ、さらに次世代へと絶えることがなく続いてIT時代の現代に伝授され、今なお信仰されているのは誰もが知るところです。何億人もの信者を持つ宗教の中で、仏教はかなり古い歴史を持ちます。(注)その長い歴史の第一歩を踏み出したのが「拈華微笑」というお釈迦さまと弟子迦葉の美しいやりとりだったと言えるでしょう。

臨済宗大本山の妙心寺には、「微笑会」という妙心寺の重要文化財・塔頭伽藍護持、顕彰等を目的とする会があります。(誰でも会員になることができます。)昭和45年設立で半世紀の歴史を刻みますが、「微笑会」の「微笑」は、この「拈華微笑」に由来していると伺いました。この命名は、お釈迦さまの教えが世代を超えて受け継がれたように信仰の機縁になる文化財を護持、顕彰するに実にふさわしい名称でありましょう。

 

参考文献等 

『訓註禅林句集(改訂版)』柴山全慶輯 書林其中堂 

『分類総覧禅語の味わい方』西部文浄著 淡交社

『岩波仏教辞典第2版』中村元他編集 岩波書店

妙心寺微笑会 https://www.myoshinji.or.jp/mishokai 

注・信者数が億単位の宗教は、他にキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教が思いあたるが、起源がはっきりしないヒンドゥー教を除けば、仏教が最も歴史が古いだろう。


『禅林句集』3.半合半開 はんごうはんかい

2022年07月25日 | 禅林句集

字句の通り、半分は合わさっているが半分は開いている、非常に中途半端な状態を表す言葉です。「中途半端」は、決して褒められたものでないし気分だって良いはずないでしょう。『禅林句集』には「解ったようで解らぬ。あちらか、こちらか」とあります。そんな妙な言葉が、なぜ、禅の言葉なのでしょう。

しかし、何についても100%完璧なことがあるのでしょうか。「私はよく知っている」と自分で思っても、本当に100%わかっているのでしょうか。そのようにとらえると、何か糸口が見えてきそうです。

突然ですが、「ダニング=クルーガー効果」を聞いたことがありませんか。(注1)アメリカの研究者デイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーによる研究で、2000年にはなんとイグ・ノーベル賞心理学賞を受賞しました。

この研究を元にしたグラフの曲線(注2)がとても興味深いのです。ものごとの理解、能力の程度について、人が主観的に抱く印象を横軸は能力の高さ、縦軸には主観的な自信の程度をとって曲線で表しています。人が何かものごとを習得しようとするとき、初心者、あまり能力の高くない人はちょっと取り組んだだけで、自信がゼロからいきなり急上昇して頂点に達するというのです。しかし、中級者、ある程度能力が付いた人は、一度ピークに達すると自分の能力不足に気がついて「自分は何もできない、何も知らない」と、急に自信をなくし、グラフの線はいきなり右下がりになってどん底に至る。まるで天国から地獄に落ちたかのような変化です。その後、地獄から這い出すように修練を積んでいくと、人はやがて自分の能力を客観的に見ることができるようになって自信を回復させ、グラフの線は緩やかに右肩上がりになります。

子どもの頃の勉強や習い事、あるいは専門的な仕事を始めた頃を振り返ると思い当たるかもしれません。初心者は易しい基礎的なことを多く学んで「よし、わかった!できた!」と自信を抱きます。できることが増えてくると「自分は完璧だ!」と全能感さえ持ちます。しかし、さらに勉強や練習、さまざまな仕事を続けると、少しずつ難しい課題に出くわし、わからないことやできないことが増えてきます。それまでの調子の良さはどこかに行って絶望的な気持ちになります。習い事でも仕事でも諦めたくなるのがこの時期です。しかし、めげずに努力して研鑽を積むと、少しずつ、再度自信を持ちはじめます。この自信は初心者が持つ全能感ではなく、あくまでも自分に不足している力と体得した力を客観的に正しく認識した上での本物の自信です。

真剣に勉強をした人は、「勉強はすればするほどわからなくなる」と言います。それは、初心者が言う「わからない」とは全く異なる「わからない」です。わかるところとわからないところを区別した上で未知の世界に挑み、奥深さを知った上で「わからない」と表現するからです。誰であっても、何であれ深く理解し、体得する過程で必ず感じることでしょう。私はこの状態こそが「半合半開」ではないかと思います。

現代社会は、何かとクリアカットに白黒をはっきりさせることを良しとしますが、それは初心者が陥る全能感や中級者が持つ絶望だったりしないかと思います。しかし、「半合半開」という言葉が教えてくれるのは、次なる修練の過程、自分のわかること、納得できること、わからないこと、納得できないことを認識しながら、絶えず研鑽を積んで高みを目指す長い歩みではないでしょうか。いみじくもダニング=クルーガー曲線のこの部分には、“Slope of Enlightenment”(啓蒙の坂)、“Plateau of Sustainability”(持続の台地)という名称が与えられています。私は、これは、仏教が、禅が遠い昔から教えてくれる「半合半開」にぴったりではないかと思うに至りました。

上記は単なる私の個人的な思いつきに過ぎません。しかし、難解な『碧巌録(へきがんろく)』の「半合半開」という奇妙とも言える言葉が、まさかイグ・ノーベル賞につながるとは、初めてこの言葉に出会ったときは思いもしませんでした。(だから、禅の言葉は面白い。)

 

参考文献等   出典 碧巌録第十八巻

『訓註禅林句集(改訂版)』柴山全慶輯 書林其中堂 

『分類総覧禅語の味わい方』西部文浄著 淡交社

(注1)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ダニンク=クルーガー効果

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%EF%BC%9D%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC%E5%8A%B9%E6%9E%9C

(注2)Wikimedia Commons File:Dunning–Kruger Effect 01.svg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dunning%E2%80%93Kruger_Effect_01.svg 

https://blog.with2.net/link/?id=2089266

クリックしていただけたら幸いです

 


『禅林句集』2.看看臘月尽 看よ看よ臘月尽く みよみよ ろうげつ つく

2022年07月20日 | 禅林句集

この言葉は、「うかうかしていると1年が、人生が尽きてしまう。気をつけろ。」という警告です!

中国語の「看」は、日本語の「見る」にあたる語です。中国語では、同じ文字を2つ重ねる言い方が好まれ、意味を強めたり、何らかのニュアンスを与えたりします。また、「看」には、日本語の「~してみる」にあたる意味もあります。ですから、「よく見なさい」か「看てごらん」なのかはともかく、英語の “Look!” のように、強く人の注意を引いているのは間違いないでしょう。「看」は、また、「みるみるうちに、すぐに」という意味もありますが(注)、ここではやはり「見る」という動詞の意味で取る方が、「うかうかするな」という切迫感、緊迫感が伝わりやすいように思います。

「臘月」は、陰暦12月のことです。禅の言葉は、掛け軸になってお茶会で床の間を飾ることが多いのですが、12月には、「看看臘月尽」を掛けることがあると聞きます。1年を振り返り、新しい年を迎える節目として身を引き締める機会になるのでしょう。

12月になれば、1年ももう終わりです。年齢を重ねれば重ねるほど、1年は早く過ぎます。ふと気がつけばもう12月という経験がある方も多いでしょう。しかし、たとえ12月がまだ先でも、この言葉を胸に毎日を大切に過ごしなさい、と解釈すれば12月にこだわる必要はありますまい。

なお、「臘月」の「臘」は、禅の修行道場等で行われる12月の「臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)」の「臘」です。修行道場では、12月1日からお釈迦さまが成道(じょうどう)した、つまり、完全に悟りを得たとされる8日早朝まで、修行僧は、横になって寝ることがありません。ひたすら座って座禅をする、とてつもなく厳しい修行をすると聞きます。お釈迦さまの成道にちなんでいるとは言え、1年の締めくくりの12月に、身体を深部から駆使し、身体のあり方を徹底的に体感させる厳しい修行をする事実から、禅には大切な言葉がどんなに数多くあっても、それらは決して身体から遊離した頭でっかちのものではなく、人間が持つ普遍的な身体性に立脚していることは想像に難くないでしょう。私はただ頭でっかちに想像するだけですが、禅の言葉は身体という裏付けがあるからこそ真実があり、長く語り継がれることになったのでないかと思います。

参考文献等  出典『虚堂録』巻第一

『訓註禅林句集(改訂版)』柴山全慶諞 書林其中堂 

『分類総覧禅語の味わい方』西部文浄著 淡交社

『岩波仏教辞典第2版』中村元他編集 岩波書店

『全訳漢辞海』戸川芳郎監修 三省堂

注・中学生の国語教科書に掲載されていた、中国・唐代の詩人杜甫(8世紀)の有名な詩「絶句」に「看」が「みるみるうちに」の意味で使われています。「江碧鳥愈白 山青花欲然 今春看又過 何日是帰年」

https://blog.with2.net/link/?id=2089266

クリックしていただけたら幸いです

 


『禅林句集』1.照顧脚下 脚下を照顧せよ  きゃっかをしょうこせよ

2022年07月03日 | 禅林句集

禅宗では、出家したばかりの若い僧侶は「雲水(うんすい)」と呼ばれ、「禅堂」と呼ばれる禅の修行場で集団生活を通して仏教、禅の修行をします。その禅堂の玄関によく掛かっているのが「照顧脚下」というこの言葉です。玄関では履き物を脱ぐので、「照顧脚下」は字句通り、「足下を見なさい」、「履き物をそろえなさい」という意味になります。

「照顧脚下」は、14世紀から15世紀の日本の禅僧孤峰覚明(こほうかくみょう)禅師、亡くなってから送られた名前諡(おくりな)三光国師(さんこうこくし)の言葉とされますが、西暦500年前後に達磨(だるま)大師という禅僧が、遠い西の国インドから中国に禅を伝えた古い歴史と、実は深い関係があります。

達磨大師が伝えた禅宗がさらに日本に入ってきたのは、その数百年後の13世紀、鎌倉時代でした。禅宗は、当時の新興仏教、鎌倉仏教の一つとして、日本で広く盛んになりました。そんな頃、ある僧が、三光国師に、達磨大師が遠いインドからはるばる禅を伝えた意味を尋ねました。この問いは「祖師西来意(そしせいらいい)」として、禅僧の間でしばしば課題になる深い内容です。しかし、三光国師は、「照顧脚下(足下を見なさい)」という、非常に身近な言葉で返しました。尋ねた僧はきっとびっくりしたことでしょう。

「求めるものは、インドや中国といった遠い所、達磨大師が生きた遠い昔でなく、今、ここ、私たちがいる足下にある。私たちは、今まさに、仏道、仏の教えの中にいる。」と、今の自分自身こそが答えだとおっしゃったわけですから。

三光国師の「照顧脚下」は、達磨大師という偉大な人物の遠い昔を、今の自分が生きる現実に直結させました。私には、そこに三光国師の偉大さがあるように思われてなりません。

仏道と言うと難しく聞こえますが、過去を現代につないで「今、ここ」を見つめ直した「照顧脚下」、「足下を見よ」は、仏道修行以外にも通じるように思われませんか。誰にだって自分の足下があり、しかしその足下は、過去と切り離されたものでは決してないでしょう。

ところで、この「照顧脚下」の出典は同国師による『徹心録』とされていますが、現存する『徹心録』はどうやら1冊しか存在しない貴重な書のようです。佐藤秀孝氏による下記研究論文によると、論文発表時の平成8年度には所在不明だったとありましたが、龍谷大学図書館の蔵書を検索すると、2017年に配架になり現在は存在することがわかります。しかし、素人には手の届かない書物のようで残念です。国師から「照顧脚下」と返答された僧が、その後どうしたかが、もし『徹心録』に記されているとしたら、知りたいではありませんか。

それにしても、これほど有名な言葉の出典が、仏教に関わる文献のデータベース「SAT大正新脩大藏經」にもなく(注)、国立国会図書館にも存在せず、一般には手の届かない大学図書館に唯一存在するとは大きな驚きでした。しかし、この事実は、禅が書の内にあるものでなく、今に生きて存在することを如実に表す好例かとも思います。

 

参考文献等

『訓註禅林句集(改訂版)』柴山全慶輯 書林其中堂 

『分類総覧禅語の味わい方』西部文浄著 淡交社

「孤峰覚明と瑩山紹瑾 -瑩山門下としての覚明の活動を踏まえて-佐藤 秀孝 」

               印度學佛教學研究44 巻 (1995-1996) 2 号

 データベース - 龍谷大学図書館

 注・データベース SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2018版 (SAT 2018)で「照顧脚下」を検索すると、『續傳燈録巻第29』「若借路須照顧脚下」の1例がヒットするが、三光国師の言の方が意味深いように思う。

https://blog.with2.net/link/?id=2089266

クリックしていただけたら幸いです

 

 

 


『禅林句集』0

2022年07月03日 | 禅林句集

禅宗寺院には『禅林句集』という書物がきっとある。掛け軸や色紙に書かれることが多い含蓄ある文言の集大成である。

禅宗には「公案(こうあん)」と呼ばれる問答による課題があるせいか、意味深い言葉が多く存在し、茶道の掛け軸に用いられたりもする。過去の偉大な禅僧の言が大半だが、生き方、暮らし方、ものの見方の真髄を表す詩文も含む。うんうん言いながらもついつい読み進めたくなる、素晴らしい文化遺産である。

禅宗では「和尚さま」と呼ばれる僧侶、最も位の高い「老師さま」と呼ばれる方々の中には解説の書物を書いておられる方もおみえである。法話などの形式で、インターネットなどで拝見、拝聴できるものも見つかる。しかし、私のような禅にゆかりがなかった人間にはちょっと難しいと感じる解説もけっこうある。禅の言葉の数々が元々から難しいだけでなく、解説の中にも専門用語が見られるせいで難しいと感じるような気がした。

何だかずいぶん魅力的なものが目の前にあるのに、もったいないと思った。

知る限り、禅宗の僧侶の皆さんはとてもお優しい。また、私のようなちっぽけな人間は一瞬でそれと見透かしてくださる。これが、実にありがたい。私は自分を立派に見せる必要もなく、へりくだる必要もなく、はしたなかろうと地のまま、ありのまま在る。

そんな気持ちで、私は、自分で『禅林句集』を読もうと思った。

手に取ったのは、『訓註禅林句集(改訂版)』柴山全慶輯(書林其中堂)である。(いくつか参考にした文献等は、その度に記した。)

お付き合いいただければ幸いである。

https://blog.with2.net/link/?id=2089266

クリックしていただけたら幸いです

 


自己紹介

2022年07月03日 | 自己紹介

禅宗寺院には禅に関する書や書物が身近にある。難解でわからないが、わからないなりに興味深い。静寂を見つけ、折りふし紐解く。

卑院は龍安寺の境内にある観光寺院ゆえ、庫裏は実のところ、静寂から遙かほど遠い。訪れるお客さまに湯豆腐、精進料理をお出ししているからだ。お客さま方には、庭に臨む広い書院の座布団にお座り願って小さな池に注ぐ水音と鹿威しの響きを耳にお召し上がりいただく。

「ここは、放っておいてくれるからいい」とおっしゃる方がみえる。

庭は、龍安寺石庭の枯山水とは全く趣を異にする、苔生す緑豊かな庭園である。春には桜が、雪柳が、藤が、夏は青もみじが夏に赤いもみじと共に、秋は言わずもがなの紅葉が彩りを添える。うっすら雪が積もる冬の日もある。繁忙期はざわつくが、閑散期の書院はそこはかとなく時を過ごしていただける広々とした空間である。向こうには龍安寺の鏡容池が見える。

龍安寺は大きな山を背負っている。雨が降れば山から幾筋ものせせらぎが音を立てる。西源院の池はその水を引いている。水は、とどまらない。さらさらと大きな鏡容池に流れ出る。そして、さらに水門から川へ、ついには海へと至る。

すべてが龍安寺の山に始まる長い時の流れである。

なかなか面白いと思う。

私は、この寺院とご縁ができた寺庭である。在家出身で、禅の修行も禅が何であるかも知らない。それでも、寺という空間を知り特有の書物を知り言葉を知り、雑感を述べたくなった。

1年に数回程度の更新になるだろうが、続けていけたらと思う。

https://blog.with2.net/link/?id=2089266