西源院の日日是好日

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閑話休題1 多面的な「一つ」

2023年03月05日 | 閑話休題

わかってる人は鼻で嗤うであろう、あまりに当たり前すぎるだろうと私が想像することをあえて書いてみる。

禅林句集の言葉を解読しようとしたり、禅にまつわる書物を広げたりすると、禅の教えは、「萬法一如」のごとく、本当の真実は「一」という単純な言葉にならざるをえないのではないか、と疑いたくなってくる。

禅において悟りの境地を「○」の記号で象徴するのも、真実を「一」とするのに似た表象だろう。何であれ書き表せばわかったような気になるのが人の常だが、「○」はもちろん「一」にしても記号的だから、実は何のことかわからない。記号は常に誰か他者から意味を教えられなかったら理解し得ないものだからだ。

悟りに達した人は「一」や「○」のように言葉にならない理(ことわり)や境地を解するだろうが、これから悟りを求めようとする人、求めるまででなくても正直な気持ちで何か見いだしたいと願う人にこれらを伝えるには、やはり何とかして言葉に代えて伝えるほかない。禅林句集の数多くの言葉も歴史に伝わる高僧の言行録も、禅の真実を誰かに伝えようと知恵を絞り、手を変え品を変え、表現方法を変えてなした努力の賜物だろうと思う。

禅林句集など読み進めることで、主意は一つではあるまいか、と思い至った次第である。

もちろん、「一」「○」へのアプローチ方法は言葉だけにあるのでない。というか、言葉は最後の手段に過ぎないのが本当のところだろう。

私が感じるに、「修行」と呼ばれるものは、端から見ると身体を徹底的に重視するようにみえる。悟りに到達する方法が言葉そのものでないのが真実だからだろう。身体を用いるから言葉は用いないという意味ではない。同じ言葉を知るにも、紙面で知るのと何らかの行為の上で体感して知るのとで、持つ意味は異なろう。なおかつ、一言「修行」と言ってもさまざまなアプローチがあるものだろうし、もうそのあたりは、ど素人の傍観者には全く伺い知れない、想像つかない感覚、身体感覚による知だと思う。

突然で恐縮だが、スペイン語には「知る」という意味の語が2つある。Saber とconocer である。和訳すればともに「知る」だが、例えば、どこかの店や場所について知識としてだけ知っているときは saber を用いるが、行ったことがあるなど経験を伴って知っているとき、また、人を実際に知っているとき、 conocer は用いられる。この違いは、英語で I know of Tom. という表現にはトムには会ったことがない響きがあるが、I know him. と言うと彼に会って知っている、という意味になるのに似ている。¿Conoces Tokio? (あなたは東京を知っていますか?)は、東京に行った経験があって知っているか、という意味になる。

さて、本題に戻るが、禅における「知る」は、conocer に当たる「知る」ではないか。ところが、日本語では、多分、中国語でも、頭だけの知と体験的な知の区別をしないから、頭でっかちの理解に向かう間違いは起こらないか。「一」や「○」が象徴として用いられるのは、その誤解を避けるためではないか。言葉だけで知る saber ではいけないのだ。「修行」とは全てが個々人の体験であろう。言葉は重要であっても、いくら修行者の経験談を熱心に聞いたところで自分自身の体験にはならない。その認識の象徴が「一」「○」だったりするのではないか。

ここで少し気になるのは宋代の禅僧大慧宗杲禅師(1089-1163年)である。たまたま知っただけだが、大慧禅師は臨済録の版木を焼いたという。大変立派な禅僧だったのに、なぜ祖師臨済義玄の言行録を焼いたのか。

推論されるのは、いくら臨済録といえど所詮は言葉の集合体に過ぎないことだ。だから、そこから得た知は saber の域を出ず、conocer たり得ないからではないか。当時の宋では臨済宗が隆盛を極めた。何ごとでも盛んになれば同時に誤りも起こりがちになる。禅師は紙面の言葉である臨済録に修行僧たちが囚われすぎるのを防ごうとしたのではあるまいか。私の勝手な想像にすぎないが。

禅が言葉を超えた身体性に立脚した己の経験に依るとなると、「一」「○」に到達する方法は多岐に及ばざるをえまい。身体を通した経験は体感でしか得られないから一人ひとり異なってるに決まっている。禅の修行道場での生活は規則的で画一的、食べるもの、着るもの、やることなすことは、皆同じであろうにもかかわらず、「一」「○」に挑む方法が、各人の身体という個性に応じて多岐にわたる事実は、非常に対比的である。現代社会における個性について考える上で興味深くないかと思う。

参考文献等

「後世における大慧宗杲の評価」野口善敬 『論叢 第8号 2013年3月』

               花園大学国際禅学研究所


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『禅林句集』6.萬法一如 万法一如 ばんぽう いちにょ・まんぽう いちにょ

2023年03月03日 | 禅林句集

「萬法」とは万物、この世のありとあらゆるものを指します。世の中のものは何であれ、全く同じものは一つとして存在しません。空の月とそれを見る私たちは全く違う存在です。私とあなたも違う存在です。同じ製品を作る大量生産で検品が必要なのは、同じ材料で同じ方法で作っても違いが出るからです。このように、世界は異なるもので出来上がっているのに、禅では、どんなに違って見えるものでも根源まで辿れば同じ一つに行きつく、と教えます。それが「一如」だそうです。

すべての異なるものを指して「この世のすべての根源は一つである」とはとても不思議ですが、この不思議が「悟り」に至るそうです。

『分類総覧禅語の味わい方』には、「天地輿我同根萬物輿我一體(天地と我と同根、万物と我と一体)」(碧巌録)という言葉が「萬法一如」と同じ意味だとして南泉(なんせん)禅師(748-835年)の逸話が紹介されています。南泉禅師の門下には陸亘大夫(りくこうたいふ)という居士(こじ)、出家せず在家にいながら修行する人がいました。あるとき陸亘大夫は、万物と我は一体という「萬法一如」に相応する言葉の素晴らしさを禅師に語りました。悟りの境地に関することなので褒めてもらいたかったようすです。しかし、禅師は庭の牡丹の花を指し、「人はこの牡丹の花を『ああ、美しい』と、夢見心地で見ている」と言いました。禅師は、悟りの境地が何であるかを語るのは未熟であること、理屈を捨て去って美しい花を見て、ただただ無心に美しい、と眺めることに「萬物一如」という真実が輝く、と教えたのです。

私たちも、ときに自然の風景を見て「美しい」「素晴らしい」と感動します。そのとき心にあるのは、美しいとか素晴らしいと思う気持ちだけで、前日の嫌なことも良いことも、俗世間の話題も他人の噂話も、おいしいご馳走のこともお腹が空いていることも、他人と自分を比べてあれこれ羨んだり自慢げに思ったりする気持ちも一切ないはずです。また、無心に見つめる自分はその対象に相向かい合っていても決して対峙しているわけでないでしょう。対象と自分は物理的には別個の存在でありながら溶け合うかのように一体化する。ひょっとしたら感動することで無心になるのかもしれません。「萬法一如」はそんな状態かもしれません。

と、こんな風に頭でっかちに語るのは容易ですが、禅の言葉の実際は、自分の身体と内面の奥深くに関わるので、頭で、理屈で納得したところで本当のところは無意味かもしれません。

『分類総覧禅語の味わい方』には、また、「すべての存在は一切平等なのだ」と書いてあります。「平等」は、「差別がない、区別がない」という解釈ですが、日常の感覚と少し異なります。「あなたと私は平等だ」という言説は、平等意識さえ持っていればすんなり理解できるでしょう。しかし、私たちは通常、「空の太陽と自分」や「小さな虫一匹とそびえ立つ山」を「平等である」と言いません。天体である太陽と人間、生き物である小さい虫と自然の地形というように、ジャンルが異なるものを同列に並べて「平等である」、「区別がない」とは決して言いません。ところが、仏教、禅では、それらですら「一如」と言い切ります。一体どうしてか不思議ですが、前に書いた、美しい花という対象物とそれを見る自分は物理的に全く別の存在にもかかわらず「一如」にたり得るという考えに基づけば、平等であり区別がないということになります。しかし、それでも、すんなり飲み込めない。

お笑いになるかもしれませんが、私にとって最も単純な回答は物理化学的解釈です。世界の物質の全ては、あなたも私も、虫も山も、全てが陽子や中性子、電子で、量子でできていて、運動、熱量などのエネルギー法則に支配されている仕組みに変わりはない、というものです。これは、科学者が理論と実験を重ねて確立した事実、たとえ暫定的であっても事実と言って良いでしょう。一方、仏教や禅の教えは、悟りを求める修行者が全存在をかけて得たものです。両者はアプローチの仕方がまったく異なりますが、仏教、禅があらゆる存在を超越して真理の極限に到達したものなら、この「萬物一如」、9世紀に生きた禅僧臨済義玄(りんざいぎげん・?-867年)の言行録『臨済録』のこの言葉が20世紀・21世紀の最先端科学と一致して何ら不思議ない気がします。20世紀になって、正しく座禅をすると心持ちが変わるのは、その人の身体が脳波や血流などの変化が関わる、と科学が教えてくれました。同様に、「萬法一如」も、禅僧が悟りの境地で体感した科学かもしれません。

宇宙飛行士の中には、宇宙から地球を眺めて人生観が変わる人がいると聞いたことがあります。広大な宇宙に浮かぶ小さな一つの星地球のちっぽけな存在にすぎない人間を見出すからでしょうか。地面に寝転がって大空を見上げても同じかもしれません。大きくどこまでも広く深く遠い空は、あれこれ思い煩いがちなことがらを頭の外に出し、ものごとのとらえ方を変えてくれるかもしれません。禅宗は、総じて今を生きる人に何らかの生き方を体感させて教える宗教であるように思います。「萬法一如」もそんな教えを言語化した一つでしょう。しかし、言うは易し、体感するは難し。

 

 参考文献等 

『訓註禅林句集(改訂版)』柴山全慶諞 書林其中堂 

『分類総覧禅語の味わい方』西部文浄著 淡交社

『臨済録上巻』山田無文著 禅文化研究所