心静かにみちてゆく

性と愛が一致している日々を探しつづける旅のお話

聖性器(仮)について考察

2020-10-22 13:30:55 | 日記

無事おすごしですか

 

すっかりクーラーがいらなくなり

そろそろ昨年からの検討課題

こたつを新調するべきか

ヒーターにするべきか

決断を下さないといけないな

という今日この頃

どうも性愛哲学者seiaiです

 

本日は人間の「性器」なんですが

神様は「性器」と「排泄器」と

男性の場合は共用

女性の場合はほぼ同位置

に作っています。

あきらかに「排泄器」としての利用頻度のほうが

高いにもかかわらず、世間では

「性器」とよばれます

 

これは人の意識が「性のうつわ」としての重要性が

高いから、と認識している。と考えます

 

あ、表題を「聖性器」としたのは

「性器」にすると何か違和感が。

下品な感じがします

ので性を聖としてみたのですが。あまりしっくりきていません

のでかっこ仮

良い案あればぜひコメントをおねがいします

 

さてさて

その「性器」ですが

「生殖器」でもないのです。「性」なんで。

で、ここからがニュアンスがむつかしいのですが

自身にとっては「性器」であっています

気持ちに関係なく、性的衝動がおこれば

動作を開始します

平たく言えば、状況は様々でも

ムラムラすると勃起するし濡れてしまうわけです

 

ですが、自分以外の器だとすると、

気持ちや心、精神や想いが入ってきます

相手への思いによって

最低限の接触にするか

愛しくてたまらなくなるか

ということ

 

口淫が良い例だと思います

・SEXはするけど・・舐めたくない

・舐めてはもらいたいが、自分はしたくない

・まあ、お付き合いで舐めてもいい

・全然舐めれる

・喜んで舐める

・舐めないと禁断症状が出る

と、相手によって全然変わってきます

 

この感覚や行動原理の違い

大きくまとめると

性に愛があるのかということ

これが性愛哲学の基本設計となっています

 

実際に美味しいわけないのです

でも気持ちが入ったら

その瞬間だけでも愛があれば

美味しくなる

 

「性器」はパートナーのものになると

「性愛器」となるわけです

 

一部のマニアのかたはのぞいてですよ!

 

ではでは

 

 

 



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