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にっき。

なまけもののグダグダ日記。

初志、貫徹。

2013-12-03 01:33:53 | こころ
覚悟していたはずなのに。
結果、その道しか選べないのだとしても、それでも構わない。
自らそれを選び、進んで行こうと、想っていたはずなのに。

いまは、多分、そう出来ていない。

内面的にも、対外的にも、いまの状態は、一番良くないのだと思う。
技術や知識、上手さやずるさ、色々な面で技を身に付け、
仮に運よく一見そうは見えないよう振る舞えていたとしても、
自分自身、根っこのところでは、誤魔化せない。

既に無くなった一本の糸を、それでも有ると思い込ませ繋いできた糸を、
いまはもう、認識することが出来なくなっている。


それがどんなに理不尽で、生き辛い状況であろうと、
自分自身が「そうで在る」ことを認め、その場所から他者、社会と繋がろう、
そのために他人の2倍、3倍と努力が必要なのだとしても、
それをも含めて自分なのだと、
またそれこそが自分の個性、その場所だからこそ見える風景があるのだと、
意味、意義が在るのだと、信じ、受け入れ、向かい、歩いて行こう。

ずっと考え続けた末に辿り着いたことだったはずなのに。


外界からの刺激を必要以上に受け取ってしまう。
実感しすぎる。かと思えば、実感がなくなる。
実感がなくなるから、記憶も曖昧になる。
好きになったものから順に、拒絶し、遠ざけていく。
自分が嬉しがることを、喜ぶことを、望むことを、許さない。
自分は生きるものだと、思っていない。
生きるイメージが、湧かない。

だとしても。

だからこそ到達出来ることが、必ず、在るはず。

正直、いまは生きたいとはあまり思わないが、
悲しむ人が居るとわかるから、死ぬことは選ばない。
ならば、そのとき出来ることを、精一杯やるしかない。

得られなくても、与えたい。
理解されなくても、理解したい。
自分がどう、というのは、どっちかというと、どうでもいい。
自分を大切に想ってくれている人が安心するくらいに生きていければ
それでいい。
それよりも、自分自身の存在が、自分以外の誰かが前進するための、
何気ない、かけがえのないきっかけになってくれたら、
それこそがとても嬉しい。

初志貫徹。
淡い期待は、頭の隅っこに置いておけばいい。
いまこの場所に居ることには意味がある。
いま出来ることを、精一杯やること。
自分の道を、信じて進み続けること。
その行き着く先に、きっと、大切なものが在る。

感情と理性、そして意思。

2012-07-25 06:58:37 | こころ
たとえ感情を失ってしまったとしても。
事柄を認識し、思考で追って理屈で理解することは出来る。

よく「感情」と「理性」とが対で語られることが多いため見落としていたけれど、感情が苦手になってしまった人にも、「意思」を育むことは、許されているのかもしれない。

主体は自分でなくていい。
積極的でなくてもいい。
どんな世界であることを望むのか。
どんな世界でないことをを望むのか。
主観での望みは感情を誘起して拒絶反応を示すとしても、その事柄を判断して「どちらがいいか」は判断できる。

その判断は「意思」になる。
一度自分の意思を感じたならば、尊重し、行動として確定させる。

すべては影響し合い存在している。

どんな小さな判断も「意思」として具現化したなら、いつか巡って、心から「よかった」と思える状況になれるような気がする。

月明かり。

2008-11-12 01:21:43 | こころ
なんだか、どうにも、どうしようもなくなるときがたまにあって。
「人」の気配が、意識が感じられるものが、ものすごく苦手になって。
いくらガードしようとしても、どんどん、どんどん、流れ込んできて。
一人で勝手に他人の意識を増幅して、メーターを振り切ってしまう。


なかば逃げるように屋上に行くと、月が出ていた。


このあたりの気候では曇り空であることが多いためか、ただ空が晴れているだけで、どうしてか無性に嬉しくなってしまう。
この日は珍しく雲が少なく、とても綺麗に月が出ていた。

満月ではない月のなかには、踊るようにもちをつくうさぎがいて、
月明かりに照らされた周りの雲は、とても綺麗な陰影をあらわしている。


そのときなぜか、すごく優しいなぁって思った。


月は自らが輝くわけじゃないけれど、
こんなに、こんなに、綺麗に佇む。
その光はまたまわりのものへと、控えめにだけれど、届いている。


太陽である必要はない。
太陽の美しさを求めることもない。
月のように、ただ受け止めるという存在も、とても美しいじゃないか。


優しい月明かりに、励まされたような気がする。
控えめだけれど、強く、優しい、この美しい月が好きだ。

なんだか、よく、わからないや。

2008-06-22 02:14:18 | こころ
ちょっと、いま、よくわからなくなっている。
いったい、どうすることが、良いんだろう。


俺にはほぼ、プライベートがない。
毎日遅くまで働かなければならなくなるような、異常な職場であるから。
・・・
でもそれは、もしかしたら言い訳なのかもしれない。
プライベートを持つことが怖くて、
ただ仕事に、ミッションが与えられて、それを遂行しなければならないという、
ある意味、考えずに居られる場所に、
ただ依存していただけなのかもしれない。


そんな自分の生活ほぼすべての場所から、少しずつ、人が、心が、離れていっている。

もう少ししたら、同僚がここから去ってしまう。
仕事は面白いが、この給料では養っていけないのだと言う。
また他の同僚は、心がここから去ってしまいそうだ。
仕事は面白いが、自分の望むことを此処では経験出来ないのだろうと、転職を考えている。
この職場で一番付き合いの長い同僚は、もうどうせ変わらないだろうと諦めながら、此処で生き続けている。

自分に近い人が居なくなるのは、ものすごく寂しい。
自分に近い人が諦めながら居続けていることは、ものすごく辛い。

事実上の自分の『ホーム』から、人が、心が、離れていっている。


自分自身が既に限界を超えた状態であるにもかかわらず、
俺はみんなを、全部をひっくるめて、良い方向に持っていければ、なんて、
すごく甘いのかもしれないけれど、そう思ってしまう。

でも、それはきっと、傲慢というのかもしれない。


誤解のないように伝えることや、誤解のないように解釈することは、
とても難しい。
それを目の前で見ておきながら、じゃあどのように翻訳すれば誤解なく伝わるのか、それが見つからずに、行動としてなにも出来ていない自分が居る。

ただ、勝手に一人で、辛くなっているだけなんだよな。


俺は、俺が、精一杯で、目の前のことを一生懸命やってくるしかなかった。
でもいま、それだけでは解決しない問題が存在していて、それが要因となってホームのかたちが変わってきている。
いや、それだけじゃない。精一杯過ぎてる自分自身の姿を見て、心が離れていっているんじゃないかとも、言われたことがある。
・・いまだけじゃない。いままでもずっと、これは同じだったな。


俺は、俺を、精一杯生きることしか出来ない。
それは、どうあっても、変わることはない。

その精一杯が、他の人の気持ちを削いでしまうのであれば、精一杯過ぎないように、精一杯するしかないのだろう。

俺の力が及ばないところの話しであれば、ただ、ただ、力のないことを悔やみ、哀しむしかない。


俺は、傲慢なのかもしれないが、もう、みんなに幸せになって欲しい。
すごく、ものすごく寂しいけれど、
耐えられるかどうかもわからないけれど、
みんなが、それぞれ、笑顔になることが出来たのなら、
もうそれで何の問題もないんじゃないかな。




やっぱり、よく、わかんないや。

スイッチ。

2006-10-11 00:55:50 | こころ
はじめは、何も感じられなくなることが問題なんだと思っていた。
だから、どんなに些細な刺激でも感じ取れるよう、
自分自身のセンサーの感度を上げよう、感じ取れるようになろうとしてきた。

確かにそれは、ものすごく辛い状態なんだけれど、
問題はそこじゃないと、そこだけじゃないと、最近感じている。

自分が耐えられないほどに感じ取り過ぎてしまうことも、十分に危険な問題なんだな。

きっかけは、純粋にその刺激を受け入れられない、受け入れたくないために、何も感じ取れなくなったんだと思う。
でもいつからか、その刺激を受け取ってしまったら自分自身が耐えられなくなる、自己防衛のためにあえて感じ取らないようにしていた節がある。
ノイズを加え、純度を落とし、一所懸命刺激を薄くしながら、
また一方で感度を上げて、ひとつ残らず拾い上げよう、感じ取ろうとして生きてきたのかもしれない。

多分、いまの自分自身は素の刺激/感情を受け入れた途端に、センサーの針が振り切れてしまうだろう。

いつまでもそれでは駄目だと知りながら、迂闊に踏み込むことも出来ず、
ずっと、ずっと、その拒絶しながらも求めるという矛盾した状態で生きてきた。
それがいま、思いがけずスイッチを押してしまい、足を踏み出そうとしている。

自分にとってのこのスイッチとは、『望む』ことだった。

最初のきっかけが「自らが望むことを嫌悪する」というようなものだったので、いくら時間が経っても素直に望むことが出来なくて、「望み」の裏にいつでも「理由」が存在していた。
それは理屈の通った望みであり、他人に簡単に説明が出来るのだが、熱が、ない。
それがなくても本当のところは困らない、本当にどうしても叶えたいものでは、なかったんだな。
それがこのまえ、本当に純粋に、自分自身のためだけに、自然と、いつのまにか望んでいた。
久しぶりの感覚に、驚くと同時に、動揺した。

このスイッチ、かなりしんどいけど、ほんと大変だけど、不思議と後悔はしていない。
いままで延び延びにしてきたことを、「そろそろやんなさいよ」って、からだのほうがGOサインを出したんじゃないかとも思うのだ。
「生きる」ってことばのなかには、きっと「覚悟」ってことばが隠れているんだろう。

やっぱり、前に進むためには痛みを伴うものなのだろう。
今回のスイッチ、望んだことがもし叶わなくても、
この痛み、感覚を忘れないことこそが、大事なんだと思う。
今回に限り、結果(が伴えばそれに越したことはないのだが)よりも、過程が大事なんじゃないのかな。

いや、でも、しんどいな。

理解。

2006-10-04 00:09:26 | こころ
生まれてから今までに、どれくらいの人と出会ってきただろう。
そのなかで、どれだけ、解り、解ってもらうことが出来ただろう。

前に解りあえたときが何時だったのか忘れるほど、
もしかしたら一度だって解りあえたことなんてなかったかのかもしれないほどに、
ずっと、解り、解ってもらえることを、諦めていたように思う。


ただそこに居ることしかできなかったけれど。
それを証明する術など存在せず、
勘違いであったのかもしれないが、
解り、解ってもらえた瞬間が、あったと思う。

ことばが要らない。
安心感。
望んでも、いいんだ。
肯定。
絶えず緊張し、怯えて、諦めていた自分にとっては、
それはとても勇気の要ることであったにもかかわらず、
怖さよりも不思議と素直さが勝り、
それに浸るだけで、自然と涙が出てきた。


どういったかたちが良いのか、
どのようになるのかはわからないが、
このつながりは、決して、絶ちたくない。
どんなかたちであれ、つながっていたい。

いま、そう想っている。

剥き出しの心。

2006-08-26 00:51:24 | こころ
時々、俺の蓋は、開く。
全部が、入ってくる。


自分のなかの、一番真ん中のところ。
誰にも、自分にさえも触れさせないところがある。
あまりにも傷つきやすく、意識を向けるだけでも動揺してしまう。
きっと普段は必死になって
其処を見ないよう、
其処に触れさせないよう、
幾重にも壁を張り、
他へ誘導させ、
できるだけ、できるだけ、接触させないようにしているのだと思う。

そんな部分が、ふとしたきっかけで露になる。
心が、剥き出しになるのだ。

自分から敢えて挑む場合もあれば、
意図せずそうなってしまうときもある。

元気で、精神的体力があるときは、出来るだけ其処へ潜ろうと思っている。
其処にこそ、大切なもの、そのきっかけが眠っていると、
そう、確信をしているから。

意図せずなってしまう場合は、予想外の事象によることが多い。
普段は其処のまわりに「予測」という壁を張る。
考え得るすべての可能性を想定し、それらに対する準備、場合によってはその回答を予め用意しておくのだ。
ただまれに、この壁をすり抜けてくる、予測外の事象が起こることがある。
そんなときは、ものすごく動揺してしまう。

どちらにしても、剥き出しになった心はしばらくは落ち着かない。
すべてが入ってくる事実を受け入れながら、徐々に慣らし、誘導していくしかない。


先日、HSPという言葉を見かけた。
Highly Sensitive Person - とても敏感な人 という概念で、この本のなかで提唱されているものらしい。

ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。
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心理学者で自らもHSPであるという筆者が、その資質をプラス要素として捉えよう・・・といった内容らしい。(未読なので若干違うかもしれないが)

簡単なテストをしてみると、自分もどうやらHSPの資質があるようだ。
確かに、すべての壁がなくなり心が剥き出しになったとき、入ってくるものすべてに反応し、ただ其処に居ることだけでも耐えられなくなるだろう。
ただ自分がHSPなのかそうでないのか、HSPであることが負い目とはならない理由付け、そんなことには興味はなく、
今の俺が、より、良く生きられること。
そのためのヒントが得られないかと、いまこの本を読んでみようと思っている。


うつ、離人症、パニック障害、不安障害、精神疾患、などなど。
昔思っていた「偏見はもっていない」よりも、今の俺はずっと偏見はもっていない、と自分では思っている。
これらは世の中に数多くある中の事実のひとつに過ぎず、何ら人間的魅力を損なうものではない。むしろ俺は、これら事実の当事者となり、受け入れ、悩み、それでもなんとか前を向こうと、不器用でもあがき、もがいている人にこそ、掛け替えのない人間的な魅力を感じる。
事実に対峙したときに、どう、向き合うか。
事実から機械的に導き出される結果ではなく、そこに向かう、その人の意思。
そこにその人の本質的な魅力が表れるのだと思う。
自分もそんな人間になりたいと、そんな人間でありたいと想いながら、でもちょっと休憩もしながら、日々を生きている。

近頃は精神的な疾患を抱えていたり、そのために休職をしている人が増えているのだという。
日本の自殺する人の数も異常なのだという。
少なくとも、これらタブーとされてきたことについて、本当にきちんと、みんなが考えて行くことが、みんなが、これからをより良く生きて行くために欠かすことの出来ない要素なのだと確信している。


なんだか、最初に書こうと思っていたことと内容が違ってきているような気もするが、まあ、良しとしよう。
久々の更新でどうも上手に書けていないようだ。
とりあえず、こんな話を肩肘張らず、自然に話すことのできる相手が欲しいかな。
言葉にしてみること。他人に伝えてみること。
これは想像以上に効果があり、ヒント、けっかけを得ることが出来る
そこからきっと、笑顔が生まれる。

無風地帯。

2006-06-16 01:53:14 | こころ
多くの時間、自分自身を取り巻く感覚。
すべてが色褪せる。
何にも興味がわかない。
どうでも良い。
冷めた違和感。
強く受け取りすぎてしまう反動なのだとは思うのだが、
本当に絶えず、付きまとう。

ただ、たまに、この感覚が妙に心地よく感じられるときがある。
何にも影響されないこの感覚が、ありがたく感じられるときがある。

このとき、ブレずに、ただ芯のみを見つめられるような気がする。
目に見えない、骨格を感じることができるような気がする。

この感覚に意味があるというのなら、
きっと、その先へと進むため。

確信を持ち、覚悟を持って、この芯を見つめたい。
上辺だけではわからない、Exciteであろうその先へと、歩を進めたい。

上を向いて。

2006-04-27 01:36:02 | こころ
自分はいままでずっと、切り離す、生き方をしてきた。

どうしても、受け入れられなかったから。
望むことが、辛かったから。
「望むこと」を自分から切り離すことで、自分自身をそこに定着させた。

それはしだいに自分の身体に染み付いて行き、
頑張って切り離していたはずの状態が、
やがて当然の状態となり、
その必要のなくなったいまでも、「望むこと」は苦痛であり、苦手である。

望むこと。
満たされること。
実感すること。
それらすべてを無意識に避けようとする。

自分自身を、空っぽにしようと、する。


いまはもう、その必要はない。
できること、
できないこと、
わかること、
わからないこと、
少なくともその幅を、知ってきた。
これからも、そのつど、知っていけば良い。
無理をする必要は、ない。


後ろを見ることは、してこなかった。
横ばかりを見ていたかもしれないが、
大切なところでは、前を向いてきたように思う。

これからは、上も、見ていこうと思う。
大丈夫。


上を向いて、歩いていこう。