記事は、goo blogサービス終了に伴い開設した 下記 「はてなブログ」 より御閲覧願います。
記事は、goo blogサービス終了に伴い開設した 下記 「はてなブログ」 より御閲覧願います。
4回目は、「トヤマバー」です。
富山県のアンテナショップ「日本橋とやま館」の中にあります。
天井から吊るされている杉玉が、酒蔵の雰囲気を出しています。
富山の銘酒の飲み比べ(3種×30ml)を17種類の中から選べます。
私は、上記画像の通り、純米大吟醸を2種と純米吟醸1種を選びましたが、意外にも純米吟醸が味と香りで純米大吟醸よりも勝っていました。
日本酒は、奥が深いですね。
バーの隣がアンテナショップになっているので 土産に ます寿司 と 地酒 を購入しました。
この記事を書く前に 夕食(5/29夕食)で 純米吟醸「黒部峡」を妻と二人で飲みましたが、二人共「美味い」と意見が一致しました。
残る 純米吟醸「満寿泉」と同じく 純米吟醸「立山」を飲むのが楽しみです。
goo blogサービス終了に伴い開設した 下記 「はてなブログ」 も宜しくお願い致します。
https://schnauzerkun.hatenablog.com/
3回目は、「日本橋クルーズ」です。
選んだコースは、上記パンフレットの「神田川コース90分コース」。
日本橋舟着場から乗船し、日本橋川、神田川、隅田川を巡り、日本橋舟着場に戻るコースです。
出航予定は、12:45。
ほぼ、満席でした。
添乗員さんの説明によると この黒くなっている部分は、1923年(大正12年)に発生した関東大震災に伴う火災の跡だそうです。現在の日本橋は、1911年(明治44年)に竣工したものですので 既に架け替えられてから100年以上経過しており、その歴史の長さを物語っています。
さて、定刻通り出発です。
川沿いの紫陽花が綺麗です。
常盤橋
常盤橋公園の渋沢栄一像
江戸時代、木橋だった常磐橋は明治になって一度撤去され、文明開化の時流のなかで1877年(明治10年)、洋式の石橋に改架されました。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災で大きな被害を受け、そのまま放置されていました。やがて復興の機運が高まり、公園が整備されて、1934年(昭和9年)には橋の修復工事が決定しました。この復興事業に尽力し 成功に導いたのが 渋沢栄一でした。
江戸城外堀の石垣
江戸城の外濠にあった常盤橋門跡
新幹線 山手線 中央線などが通る 新常磐橋。
SLの動輪をかたどったエンブレムに 右から 大正七年と書かれています。
カルガモの親子
石垣をよく見ると何やら文字が書かれている石があります。これらは江戸城築城に係る天下普請(てんかぶしん)により運ばれてきた石で、誰が工事を行ったかがわかるよう藩の印が彫られているのだそうです。
中央線と総武線を見上げます。
後楽橋。
太平洋戦争中にB29が投下した焼夷弾が貫通した跡だそうです。
総武線
総武線
丸ノ内線と総武線の交差地点
聖橋
総武線 神田橋橋梁
中央線 旧万世橋駅
万世橋
柳森神社
係留されている屋形船
総武線鉄橋
隅田川の船上より神田川を望みます。緑の橋が柳橋、奥の青い橋が浅草橋。2つの橋の間には、今でも船宿が立ち並び、屋形船と釣り船が係留されています。
両国橋
竪川水門テラス連絡橋
水難消防艇 はまかぜ
芭蕉庵史跡展望庭園
清洲橋
永代橋
首都高速江戸橋ジャンクション
かって渋沢栄一の邸宅があった場所に建てられた「日証館」。東株ビルディングとして1928年(昭和3年)建設されました。1943年(昭和18年)、全国の株式取引所の統合により日本証券取引所が発足したのに伴い、東株ビルディングは日証館に改称されました。 終戦後の1946年(昭和21年)6月、連合国軍最高司令官総司令部により取引所本館および市場館が接収されると、日証館にて株式の集団取引が行われるようになり、1949年(昭和24年)に東京証券取引所の発足により取引所取引が再開されるまで続きました。
先程 食事をした「たいめいけん」が川沿いに望めました。
我々が座った場所は1階の一番右の窓際でした。
日本橋舟着場に戻りました。
90分のクルージングでしたが あっと言う間に終わってしまいました。今回のクルーズは再確認、再発見の連続でした。新たに発見したものは、日本橋川を覆っている高速道路の一部(江戸橋出入口、呉服橋出入口)を撤去する工事が既に進行中であること、外堀近くに2027年に日本一の高さのトーチタワーが竣工すること、お茶の水分水路の吞口、吐口を再確認できたこと、隅田川、日本橋川の堤防に洪水の恐れがあるときにセンサーが働いて水門が閉じるようになっていることなどでした。添乗員さんが90分間休みなくしゃべり続けていたことには感服しました。
さらに日本橋川を覆う高速道路の地下化工事が既に始まっていて、高速道路の地下道開通が先行し、最後に高架の道路が完全に撤去されるのが2040年を予定していることも確認できました。15年後、日本橋に青空が戻ってきます。
goo blogサービス終了に伴い開設した 下記 「はてなブログ」 も宜しくお願い致します。
https://schnauzerkun.hatenablog.com/
2回目は、「日本橋」です。
江戸時代、日本橋は五街道の起点として江戸における交通・物流の要所でした。その名残で現在でも道路標識における東京までの距離計算の起点は、下記画像の日本国道路元標が設置されている日本橋(橋梁)となっています。
下記画像の道路元標は レプリカ( 複製)です。 実物は 日本橋(橋梁)の道路中央に設置されています。
その横に立つ東京市道路元標
「歌川広重」作の東海道五十三次に描かれている日本橋。
日本橋は五十三次の出発点であり、ここより京都までは124里半(約492km)です。鐘が七ツ(午前四時)を打つと木戸が開かれ、一日が始まります。朝焼けの空を背景に、日本橋の近くの肴市場から威勢のいい魚商が魚をかついでいきます。大名行列が橋を渡り、犬は遊んでいます。塀や甍の直線に日本橋の力強い曲線の構成が、街の活気をさらに強調しています。そして橋の中央から高く立つ毛槍が爽快な旅立ちを表わしています。
日本橋全景
日本橋魚河岸記念碑
天正8年(1590)徳川家康が江戸に入府した後、摂津国(現在の大阪)の漁師達が江戸に出て佃を造成しました。江戸近辺で漁業を営む許しを得て、徳川家にも魚介類を献上しました。漁師たちは、上納して余った魚介類を幕府の許しを得た上で一般にも売り始めました。これが日本橋魚河岸の起源です。
関東大震災の発生により、市場が焼失した為 築地への移転が決定し、ついに日本橋魚河岸300年の歴史は閉じられました。
現在跡地には石碑と、「龍宮城の住人である海の魚が、ことごとく日本橋に集まった」という意味を込めて、乙姫をイメージした像が置かれています。
乙姫をイメージした像
江戸時代の初期から関東大震災まで その約300年を通して 日本橋に魚河岸があった事を 今回初めて知りました。
その長い歴史から比べると築地や豊洲は全然歴史は浅いのですね。
goo blogサービス終了に伴い開設した 下記 「はてなブログ」 も宜しくお願い致します。
https://schnauzerkun.hatenablog.com/
5月27日(火)、妻と二人で日本橋周辺を散策してきました。
当日撮影した画像が かなりあるので 4回に分けての投稿となります。
1回目は、「レストランたいめいけん」。
我家からdoor to door で約1時間程の距離です。
店の最寄りの駅は、「銀座線 三越前」。
「銀座線 三越前」のB6出口から徒歩約5分です。
AM11:00開店のところ 5分前に到着しました。
店の雰囲気。
落ち着いたインテリアが好印象です。
「タンポポオムライス」の名前の由来は、故・伊丹十三監督が1985年に製作した映画「タンポポ」にちなんで名づけられたそうです。この映画の撮影が「たいめいけん」で行われたこと、そして伊丹監督自身がオムライスをこよなく愛していたことから、この店で「タンポポオムライス」がメニューに加わったとされています。
この状態で運ばれてきます。
オムレツにナイフで切込みをいれると半熟卵があふれだします。
仕上げは、ケチャップソースで。
名物料理「ボルシチ」
半熟卵とケチャップライスが絡み合い絶妙な美味しさでした。
名物料理の「ボルシチ」も美味かったです。
goo blogサービス終了に伴い開設した 下記 「はてなブログ」 も宜しくお願い致します。
https://schnauzerkun.hatenablog.com/
今日は、上野動物園(東京都恩賜上野動物園)に行ってきました。
お目当ては、パンダです。
近々 日本国内からパンダが居なくなる旨の報道があったので 居ても立っても居られず来てしまいました。
シャオシャオとレイレイは、上野動物園で生まれた双子のジャイアントパンダです。
2021年6月23日生。
オスがシャオシャオ、メスがレイレイです。
シャオシャオのエリアは、混んではいましたが 殆ど待たずに観る事が出来ました。(約10分待ち)
レイレイのエリアのほうは、1時間待ちとの事だったので観るのは断念しました。
ペンギン(南アフリカに生息するケープペンギン)
フラミンゴ(ベニイロフラミンゴ)
キリン
サイ(ヒガシクロサイ)
ゾウ(アジアゾウ)
動物園の観覧後は、何時もの王子神谷の店でランチと昼飲みです。
- 最後に -
今日は、久々の夏日となりましたが、木陰にいればそれほど苦にはなりませんでした。
パンダは、観れない(表に出てこない)事を覚悟して来園しましたが、良く動くパンダを間近で観る事ができました。
今やパンダは、日本人の間では ある意味「アイドル」ですので、今後も中国からの御厚意に期待しています。
goo blogサービス終了に伴い開設した 下記 「はてなブログ」 も宜しくお願い致します。
昨日、久々に定年前に所属していた会社の同期会がありました。(・・・といっても二人飲みですが。)
いつも通り、東京駅八重洲地下街で昼飲みです。
待ち合わせまで 少々時間があったので八重洲口周辺を散策してきました。
ここに来ると、昨年の同時期に御紹介したオランダ人航海士ヤン・ヨーステンを思い出します。
ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn)〈Lodensteijn〉。
「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」だそうです。
ヤン・ヨーステンは、オランダ南西部の都市デルフトのヨースト・ヤンシュ・ファン・ローデンステイン と バルベルティ・ピーテルス夫妻の間に生まれました。ヨーステンは「ヨーストの子」の意味。デルフトの有力者、ファン・ローデンステイン家の一族でした。
「八重洲」の地名は、彼に由来しています。
八重洲中央口から伸びる「八重洲通り」の中央分離帯に 日蘭修好380周年を記念し 両国の架け橋となった「ヤン・ヨーステン」の記念碑が置かれていました。
記念碑の左側がヤン・ヨーステン、右側が漂着したオランダ船リーフデ号です。
(上記画像碑文)
日蘭修好380周年記念
ヤン・ヨーステン記念碑
二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされています。羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、また天球儀は“時”の象徴でもあります。
左側の頭部がヤン・ヨーステン像、右側の帆船が日本漂着の際、彼が乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号です。中央上部には当時のオランダの国策会社東インド会社のマークが置かれています。中央下部の図柄は、古地図で方角を示すのに使われたもので太陽をモチーフにしています。四隅は波=海を図案化したもので、これも古地図にヒントを得ています。
(ヤン・ヨーステン)
(上記画像碑文)
ヤン・ヨーステン 1557頃~1623
1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号でウイリアム・アダムスらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。彼の江戸屋敷は現在の和田倉門~日比谷間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすかし)と呼ばれて、明治まで続いた。現在は中央区の八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。
ヤン・ヨーステン像:オランダ人 L.P.ブラート作
(オランダ船リーフデ号)
(上記画像碑文)
日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。1609年(慶長14年) 平戸にオランダ商館が設立され(後に長崎に移る)、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな礎になった。とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修好380周年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。
1980年4月20日 東京都中央区
(長崎県のハウステンボスで展示されているオランダの造船所で復元されたリーフデ号のレプリカ)
排水量 | 300トン |
---|---|
推進器 | 3本マスト |
乗組員 | 100人 |
その他 | 兵装:18砲門 |
八重洲中央口から徒歩5分程の距離でした。
八重洲地下街にある 居酒屋「やえす初藤」で昼飲み同期会です。
最終的に店を3件はしご酒です。
時間を忘れて よく飲み、よく語らいました。
昨日、隅田川周辺を散策してきました。
地下鉄 銀座線 浅草駅で下車し、吾妻橋(あづまばし)を渡ります。
東京スカイツリーが目の前に現れました。
その右隣(実際は、かなり距離が離れています。)は、アサヒビールの本社ビル。22階建ての「アサヒビールタワー」は、琥珀色のガラスと特徴ある頭頂部の白い外壁で、泡のあふれるビールジョッキをイメージしているそうです。
隣接する「スーパードライホール」の屋上に設置された「金色のオブジェ」は、フランスのフィリップ・スタルクというデザイナーが設計し、「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心」を表しているとの事。
フラムドール(フランス語で金の炎)という名前らしいです。
私には、「金のう〇こ」に見えますが・・・笑。
1989年(平成元年)にアサヒビール創業100周年を記念して本社ビルと同時に建てられ東京の新名所となりました。
東京スカイツリーがどんどん近づいてきます。
浅草通りをしばらく歩くとお目当ての店に到着。
「そば処 かみむら」。
海老天のタワー丼が有名な店です。
とりあえず生ビールを注文しました。
蕎麦屋ですので蕎麦も味わいたく注文。
勿論、タワー丼も頼みました。
生ビールのジョッキが小さく見えます。
タワー丼を頼むと もれなくタワー丼キーホルダーが付いてきます。(笑)
食後は、「そば処 かみむら」から徒歩5分程の距離にある 片岡屏風店内 の「屏風博物館」に行ってきました。
内部の様子。
様々な屏風が飾られています。
屏風を壁にかけて飾った例。
クラゲ柄の屏風。
土産に葛飾北斎の通称「赤富士」のミニ屏風を購入しました。
正式名称「凱風快晴」。
葛飾北斎の名所浮世絵揃物『富嶽三十六景』全46図中の1図です。
結構気に入っています。
屏風博物館の近くにある「牛嶋神社」
撫牛像が有名です。
自分の体の悪い部分をなで、牛の同じ部分をなでると治るといわれています。
ひなちゃん と ゆず君のお守りを購入しました。
少し歩いたところにある三囲神社(みめぐりじんじゃ)。
京都から江戸に進出した豪商・三井家が守り神として崇めたそうです。
目尻を下げた表情の狛狐たち。
三囲神社のすぐ近くを隅田川が流れています。
遊歩道沿いに菜の花が咲いていました。
墨田区役所近くから臨んだ東京スカイツリー。
- 最後に -
天気にも恵まれ絶好の散歩日和でした。
あと数日で3月。
春の訪れが待ち遠しいですね。
2/20(木)に東京国立近代美術館の常設展示(所蔵作品展)を鑑賞した帰りに桜田門(外桜田門)とその周辺を散策してきました。
2月初旬に「柘榴坂の仇討」について投稿した際、是非訪れてみたいと思っていました。
江戸城の築城当初は、江戸城の南側に位置するため、小田原街道(北条家の拠点だった小田原城)の起点となっており、小田原口と呼ばれていました。
3代将軍・徳川家光の治世である1636年(寛永13年)、延長14㎞の長大な外濠が完成し、江戸城の総構が誕生した際に、西の丸の南側入口として桜田門は建築されています。扉の釣金具には「寛文三年」の刻銘が入っており、よって現存の門は、1663年(寛文3年)の再建とみられます。(国の重要文化財。)
おそらく江戸の大半を焼いた「明暦の大火」(めいれきのたいか):明暦3年1月18日から20日(1657年3月2日から4日)により焼失したものと思われます。
ちなみにこの大火で焼失した江戸城天守閣は、再建する意見がありましたが、幕閣の重鎮であった保科正之が資金を市街の復興に充てるとする意見を主張し、これが採用されたため再建されることはありませんでした。そして現在に至るまで江戸城天守閣は復元も含めて再建されていません。
話を戻します。
桜田門の名前の由来は、このあたりの地名が桜田郷だったからだそうです。江戸城三の丸の入口である桔梗門(ききょうもん)も桜田門という名があるので、江戸時代には桔梗門を内桜田門、こちらを外桜田門と呼び分けていました。
現在、桜田門と通称されるのはこの外桜田門です。
他の門と同様に、外側に優美な高麗門(こうらいもん)、内側には強固な渡櫓門(わたりやぐらもん)を配した枡形門(ますがたもん)です。
左側の門が高麗門(こうらいもん)、右側の高い建物が渡櫓門(わたりやぐらもん)
外側(南側)から登城し、左に桜田濠、右に凱旋濠を眺めながら橋を渡ると、高麗門。
高麗門をくぐると枡形の空地があり、右折すると渡櫓門という構造です。(下記古図面参照)
桜田門の桝形は15間(約27m)×21間(約38m)あり、約320坪という広さは、現存している江戸城の城門のなかでは最も大規模な枡形構造です。(1間 ≒ 1.818182 m)
大正12年の関東大震災で破損し、その際に鉄網土蔵造りに改修されています。
高麗門に近づいて撮影。
江戸での井伊直弼の住まいであった彦根藩邸(上屋敷)は江戸城の桜田濠沿いに位置していました。現在は憲政記念館・国会前庭になっています。外桜田門への距離は約400〜500mと非常に近く、現在でも屋敷跡から外桜田門を見ることができます。直弼暗殺の現場(下記古地図の✖印)は、ほぼ中間地点です。
外桜田門の交差点角(米沢藩上杉家藩邸 上屋敷跡)には、現在 法務省の赤れんが棟が建っています。(下記画像参照)
その法務省の赤れんが棟の向かい側は、現在、警視庁本部庁舎(杵築藩 松平家上屋敷跡)が建っており、その目の前で、事件は起こりました。 安政7年3月3日(新暦:1860年3月24日)。
前述したように外桜田門は、非常に堅固な門ですが、門に入る前に襲われたのです。
襲撃したのは、水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名。
対する彦根藩の行列は総勢60名程。雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていました。そのため、素早く抜刀する事が難しい状況にあり、とっさの迎撃に出難く、それは襲撃側に有利な状況でした。また江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲った前例などはなく、彦根藩行列の警護意識は薄かったようです。
前述したように高麗門をくぐると枡形の空地があり、右折すると渡櫓門。それをくぐり抜けると左側のお堀の向こうに二重橋が見えてきます。
左が皇居正門。(江戸城の西の丸大手門が改称されたもの。)
-最後に-
桜田門が近づくにつれて脳裏に映画「柘榴坂の仇討」の各シーンが浮かんで 目頭が熱くなりました。
時勢を見据えて開国の決断をしたにもかかわらず暗殺された井伊直弼の無念が偲ばれます。
劇中での井伊直弼(中村吉右衛門)の言葉が頭をよぎりました。
― すべて天命。天がゆけというならそれもよし、生きろというならそれもよし。人の命というものは天の差配によってきめられているものよ。それについては世にもわからん。ゆえに、それがつきるまでは懸命に生きろというものよ。 ―