・ 【冬の海ですが光ってます】
海が輝いています、いつもは城ヶ崎海岸:ぼら納屋付近で寄せる波がくだけていまして、半島先端は荒波なのです
今日の海は穏やかなものです、何千年、何万年と海は広がっていまして、富戸の海岸には
様々な魚も見ることができます
(いつぞやのNHK特集で魚達がねむる港として富戸漁港が紹介されていました)
天候だけではありません、晴れていても見通しとなるとぼやけてしまうのです
・ 【晴れいても千葉の山は見えません】
晴れていても千葉の陸地まで視認できません、(曇っていても見える場合があります)
伊東には鎌倉時代の頼朝と日蓮に纏わるエピソードがたくさんあります
・ 【頼朝が伊豆に流されて恋をしました】
【源頼朝と2人の姫君 ~悲恋に散った八重姫・情熱の恋に生きた北条政子】抜粋です
「義朝の第三子・源頼朝(13歳)も東国に落ちのびる途中、父・義朝とはぐれて迷っているところを捕らえら
処刑を待つ身となります。ところが清盛の義母である池ノ禅尼が、先に亡くなった池ノ禅尼の息子の
面影を残す頼朝を哀れに思い清盛に命乞いをして頼朝は処刑を免れます。そして一命を助けられた
頼朝は、伊豆へ配流の身となるのです。伊豆での頼朝の生活はさほど自由を拘束されたものでは無かった。
伊豆での頼朝の監視役を預かっていたのは伊東の豪族・伊東祐親(すけちか)でした。
監視役とはいえ、源氏の嫡流である頼朝を祐親は礼をもって厚遇した、と言われています。
その祐親には4人の娘がいました。上の2人の姫はそれぞれ嫁ぎ三女四女は未だ親の許にいましたが
中でも三の姫(八重姫)は伊豆一の美女といわれた評判の姫でした。
父・祐親が大番(武士が一定期間在京し内裏や院の御所・市中を警備する京都大番役)として館を離れると
たちまち八重姫と頼朝は通じ合う仲となります。
伊東温泉の中央を流れる伊東大川(通称松川)の中流にある音無神社は、若き日の源頼朝と
八重姫が密かに恋を語りあった場所とされ、松川の対岸にある日暮八幡神社のひぐらしの森で、
頼朝は八重姫に逢うために日暮れを待ったと言われています。
さて、京都の大番役を終えて祐親が伊東に屋敷に戻ってみると、見知らぬ童子が庭で遊んでいる。
これは誰の子かと問い詰めれば八重姫と頼朝の間の子であるという。
「この少(すくな)き者をば松河の奥を尋ね、沈め石を付けて岩倉の瀧山蛛が淵に沈めよ」と命じます。
哀れ千鶴丸は平家に知られることを恐れた祖父の命で腰に重い石を巻きつけられて
伊東の松川の上流・稚児ヶ淵というところに沈められてしまいます。道中、千鶴丸を憐れに思った家人は
通る道端で鎌田神社の境内にあった橘の花が香り高く匂っていたのを見つけ、せめての慰めにと
小枝を2本折って千鶴丸の両方の手に握らせた、と言われています。
その後、千鶴丸の体からは石が取れ、川を下って富戸の海まで流れ着き、その亡骸は
富戸の海岸で釣りをしていた猟師の甚之右衛門に見つけられます。引き上げて見ればまだ幼い幼児であり、
しかも産衣は立派なものをまとっていて両方の手には橘のみずみずしい小枝を握っているではありませんか。
これは高貴な方の御子であると思った甚之右衛門は、そばにあった岩(現在、産衣岩【うぶぎいわ】という)に
亡骸を安置して乾かし、丁重に葬ったと言われています。又、そのとき千鶴丸の握っていた橘の木は
富戸の三島神社に奉納され根付いたとされています。
■富戸・宇根岬にある「産衣岩」
■富戸三島神社の橘の木
<富戸三島神社には 千鶴丸が若宮八幡・氏神として祀られている>」
本日の散歩はローソンを通り抜けて伊豆高原駅まで行ってきました、距離は約5kmで1時間半掛かりました
(ジローさんの所訪問しようとすると、桜並木の上り坂をさらに3,4km歩かねばなりません)
情けない事に、やはり最後は足がもつれます、本日城ヶ崎海岸は道路舗装工事です、灯台通りは舗装されていますが
40年もたつと道路の痛みが激しい、我家の前もやってくれると嬉しい限りです
(我家は少し引っ込んでますから、予算的には来年度以降だと思います)
散歩をして血管を柔らかくして、水を飲んで血をさらさらにして、薬を飲んで血管を広げるのが病気には良いそうです
海が輝いています、いつもは城ヶ崎海岸:ぼら納屋付近で寄せる波がくだけていまして、半島先端は荒波なのです
今日の海は穏やかなものです、何千年、何万年と海は広がっていまして、富戸の海岸には
様々な魚も見ることができます
(いつぞやのNHK特集で魚達がねむる港として富戸漁港が紹介されていました)
天候だけではありません、晴れていても見通しとなるとぼやけてしまうのです
・ 【晴れいても千葉の山は見えません】
晴れていても千葉の陸地まで視認できません、(曇っていても見える場合があります)
伊東には鎌倉時代の頼朝と日蓮に纏わるエピソードがたくさんあります
・ 【頼朝が伊豆に流されて恋をしました】
【源頼朝と2人の姫君 ~悲恋に散った八重姫・情熱の恋に生きた北条政子】抜粋です
「義朝の第三子・源頼朝(13歳)も東国に落ちのびる途中、父・義朝とはぐれて迷っているところを捕らえら
処刑を待つ身となります。ところが清盛の義母である池ノ禅尼が、先に亡くなった池ノ禅尼の息子の
面影を残す頼朝を哀れに思い清盛に命乞いをして頼朝は処刑を免れます。そして一命を助けられた
頼朝は、伊豆へ配流の身となるのです。伊豆での頼朝の生活はさほど自由を拘束されたものでは無かった。
伊豆での頼朝の監視役を預かっていたのは伊東の豪族・伊東祐親(すけちか)でした。
監視役とはいえ、源氏の嫡流である頼朝を祐親は礼をもって厚遇した、と言われています。
その祐親には4人の娘がいました。上の2人の姫はそれぞれ嫁ぎ三女四女は未だ親の許にいましたが
中でも三の姫(八重姫)は伊豆一の美女といわれた評判の姫でした。
父・祐親が大番(武士が一定期間在京し内裏や院の御所・市中を警備する京都大番役)として館を離れると
たちまち八重姫と頼朝は通じ合う仲となります。
伊東温泉の中央を流れる伊東大川(通称松川)の中流にある音無神社は、若き日の源頼朝と
八重姫が密かに恋を語りあった場所とされ、松川の対岸にある日暮八幡神社のひぐらしの森で、
頼朝は八重姫に逢うために日暮れを待ったと言われています。
さて、京都の大番役を終えて祐親が伊東に屋敷に戻ってみると、見知らぬ童子が庭で遊んでいる。
これは誰の子かと問い詰めれば八重姫と頼朝の間の子であるという。
「この少(すくな)き者をば松河の奥を尋ね、沈め石を付けて岩倉の瀧山蛛が淵に沈めよ」と命じます。
哀れ千鶴丸は平家に知られることを恐れた祖父の命で腰に重い石を巻きつけられて
伊東の松川の上流・稚児ヶ淵というところに沈められてしまいます。道中、千鶴丸を憐れに思った家人は
通る道端で鎌田神社の境内にあった橘の花が香り高く匂っていたのを見つけ、せめての慰めにと
小枝を2本折って千鶴丸の両方の手に握らせた、と言われています。
その後、千鶴丸の体からは石が取れ、川を下って富戸の海まで流れ着き、その亡骸は
富戸の海岸で釣りをしていた猟師の甚之右衛門に見つけられます。引き上げて見ればまだ幼い幼児であり、
しかも産衣は立派なものをまとっていて両方の手には橘のみずみずしい小枝を握っているではありませんか。
これは高貴な方の御子であると思った甚之右衛門は、そばにあった岩(現在、産衣岩【うぶぎいわ】という)に
亡骸を安置して乾かし、丁重に葬ったと言われています。又、そのとき千鶴丸の握っていた橘の木は
富戸の三島神社に奉納され根付いたとされています。
■富戸・宇根岬にある「産衣岩」
■富戸三島神社の橘の木
<富戸三島神社には 千鶴丸が若宮八幡・氏神として祀られている>」
本日の散歩はローソンを通り抜けて伊豆高原駅まで行ってきました、距離は約5kmで1時間半掛かりました
(ジローさんの所訪問しようとすると、桜並木の上り坂をさらに3,4km歩かねばなりません)
情けない事に、やはり最後は足がもつれます、本日城ヶ崎海岸は道路舗装工事です、灯台通りは舗装されていますが
40年もたつと道路の痛みが激しい、我家の前もやってくれると嬉しい限りです
(我家は少し引っ込んでますから、予算的には来年度以降だと思います)
散歩をして血管を柔らかくして、水を飲んで血をさらさらにして、薬を飲んで血管を広げるのが病気には良いそうです
これが本当の「冷えとり」の手引書 | |
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伊豆高原駅までとは立派。私は歩くのが苦手です。足が痛くなります。桜並木までとは欲張りでしょう。年末年始は城ヶ崎に滞在です。体力が余っていたらうちの畑も耕してください。
たかが土なのにそのへんからかき集めればよいと思います
隣家は200台のダンプを入れたといいます
(貧乏なので土は買えません)
畑の一歩は土作りからです