iwackeyの「水に流す日々」

30代編集者(3児の父)の毎日を水に流します。みんな流されろ!

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」について1票。

2009-07-10 | art & movie & music
下記、7月10日付の日記エントリで予告したとおり「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」について。このブログの数少ない読者は、すでに何度もご覧になっているハードコアなオタク様か、今後もけして観ない大人な方々であることが想定されるので、ネタバレご容赦。

クオリティは抜群。ラストもびっくり。涙をぬぐうカタルシスを味わう暇もないほどだった。公開されてだいぶ経つので上映後の会場に拍手はなかったが、客席からは「(あまりの情報量に&驚愕のラストに)いや…はは(苦笑)」みたいな反応。でも、個人的に新キャラの描かれ方とかアスカの扱いには違和感がぬぐえなかった。オレ、実は「アスカ萌え」だったんだな。誰萌えでもないと思ってたけど。14年目にして初めて明らかになるわが欲望。

ところで、涙を流すほどのカタルシスが味わえなかったのは、2次創作だからだろうか、歳をとったからだろうか、観たのが1週間働いて最も疲れが溜まっている金曜夜だったからだろうか。いや、やはり作品がパワーダウンしているからじゃないだろうか。質でも量でもなく構造のレベルで。「翼をください」は無理やり許容するとしても、「今日の日はさようなら」はないだろ、ふつー。どんだけチャイルディッシュだっつーの。

リアルワールドで歴史とか仏教とか一神教の複雑で多様な議論に耽溺し、ヘビーな双子の子育て(年内にはプラス1匹)とか体験しちゃってると、「破」を観ても「もっと薄汚れていて、ものすごく愛おしいものだよ、世界は」という、どす黒く冷めた感情がわき上がってくるのを、正直どうしても覆い隠せない。素晴らしいクオリティについても「デッサンは描きこめばいいってもんじゃない」と思ってしまう。「いじめられっ子の父親にいじめっ子が生まれてくるような不条理なんだよ、世界は(苦笑)」とか「利他行は、想像を絶する過酷なものであり無条件の喜びなんだよ(こんなペースで後半描けるのか?)」とか。

こうした冷笑というか失笑の原因は、「破」には「本当の意味での切迫感が足りない」という言い方なら分かってもらえるだろうか。まったくツマらなかった「序」も今にして思えばずいぶんと窮屈なストーリーだったが、ひるがえってテレビ版や直後の劇場版には「切迫感」があった。いや、だからといって「セカイ系」だから子育て中の親には共感できない、ということが言いたいのではない。オレだって世に出る直前の「セカイ系」的な苦悩は記憶に新しい。原作には破綻も多かったが「セカイ系」なりの切迫感が描かれていた。そこは評価しているし、共感もした。

ああ、だというのに新劇場版には「切迫感」が感じられない。シリアスになれ、と言いたいのではない。90年代には「セカイ系」が切実だったが、ゼロ年代には別の「切実さ」が必要とされている、と言いたいのだ。就職氷河期や9.11を経由し、世界不況を経験しつつあるゼロ年代に「序」や「破」ていどのドラマで納得できるのか。オレはできない。リアルな政治や世界史を論じずに世界を変えることなどできるのか。できないだろう。

もちろん「序」では日本国内各地が点描され「破」でも田園風景やスイカ畑、欧米の国際政治が補足され、テレビ版の不足を補った。しかし、そのていどの補強では足りないほど具体的なリアルポリティクス(「生政治」でもなんでもいいが)をゼロ年代の私たちは日々痛感しているのではないか。フィクションに求めすぎじゃないか、という指摘はあるかもしれない。でも、作画やCGにカネと人手をかける以上に、もっともっと世界観の構築にこそ力を注ぐべきではなかったか。それとも、アニメーターの世界認識は40~50代になっても深まらないということでよろしいか。少なくとも思わせぶりな用語法に振り回されるのはもうこりごりだ。もちろん、ソ連とか中国とか一時期の角川映画みたいに何万人もエキストラ動員したり、CG要員を投入すれば勝ち、で済む訳がない。

というわけで、群を抜いてクオリティが高い新作だから、じゅうぶんな満足感は味わえるけれど続き2本がとても心配、というのが正直なところだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする