何も持たずに存在するということ。

おごらない日々 あいのある人生を。

日記 #104

2016-06-30 02:45:10 | 日記

少し前 ほんの小さな好意を差し出してみたら

とても美しい好意を お礼にと頂いた。

2014年の皆既月食の日に汲みあげた海水から 取った塩の結晶。

これを あげてもいいかなぁ と 思ってもらえたことがとても嬉しかった。





日記 #103

2016-06-23 03:32:21 | 日記



くちなし の 香りが好きだったと 言ったら

両親が 実家で咲いた くちなしを持って来てくれた。

う~ん スメール スゥイーツ !! とても好き。






両親と囲んだ 夕食のごちそうの数々のチラ見せ。

母作 私作 。



最近 また 悪天候女っぷりが甚だしく 困る。

遠方に出掛ける予定が 通行止めラッシュで 

足止め中 で 暇つぶし中。

ふ ~~~。

たのむよ。



日記 #102

2016-06-18 10:35:03 | 日記

疑心や 憶測に捕らわれた人生ほど

貧しく 不幸なものはない。

大抵、本人というのは その都合のよい思い込みを

疑心や 憶測だと気付いていないから

なお不幸で 気の毒でならない。

まるで キェルケゴールの 死に至る病 みたい。





日記 #101

2016-06-16 07:09:08 | 日記

最近 思うことは、 人(人間)と接することは自分と付き合うことで、草木と接することは他人と付き合う事
なのではないかという事です。

自分自身を含め、人間は常に、どうしても善悪の両方を同時に持ち合わせていて
それは、悪いことではなく人は高度な心がある生き物なので致し方無い。

例えば、家に人がやってくる。
私は、何も聞いていないのに、人は勝手に
aさんは、bさんの事を話す。
そして、別でbさんが aさんの事を話す。
そこで、話に相違がある。
さらに、両者と接点の在るcさんが別でやって来て、aさん、 bさん間のことを話すと
また相違点の数が増える。

不思議だなぁー と思う。
私は 自分自身が目の前で見聞きしたことしか事実として受け止めないので
ふんふんと言って聴く。聞くだけ。
間違っても、そこで自分が聴かされたことを人に伝えないし、こういう事には意見しない。
そして それを誰にも話さない。
相違の数が増えると平和じゃない。不和はあまり好きではありません。

でも これも当たり前のことなのかなぁと思います。
人間の心も感覚も人それぞれなので、それぞれの感じ方で物事を捉えて判断して事を納めながら
前に進んでいる。
どれが事実で、何が真実なのかは誰にも決められないし、決める必要なんて何もない。

自分だって 善悪2枚の鏡を持ち生きている。
他人も同じく善悪2枚持っているので、接することによってカードの組み合わせが変わる。
善×善 悪×悪 善×悪 悪×善。二人で4パターン。
物事はいつも 裏腹。
人が増えるとパターンがさらに倍増する。
おもしろい。
そして その根源には自分自身の心と感覚の判断が一番反映されている。
だから、他人と付き合う 交流することは 結果的に一番自分の内部を視、感じることになる。
ふうん。おもしろいな。

そこにくると、草木は心はあっても交流に裏がない。
そして これはまたさらに最近、何となく発見したことなのですが
(ざっとした 大まかな分析なので細かいツッコミはなし希望)
花と 野菜と 樹では どう接すれば上手に愛が伝えられるかが少しずつ違う。

花は、あなたがいないと生きていけない。
というような生き物なので 純粋に甲斐甲斐しく世話をされることに幸せを感じるようで
そういう愛し方がいいみたい。

野菜は少し違う 基本は自分で生きようとする。だけどあなたの助けが必要。という感じ。
なので生きやすい環境や補佐をそっと差し出すと喜ぶ。
だけど最終的には、実ったものは私の収穫になる。
ちょっと 裏心もあるといえばある。

樹は立派だと思う。
生きている木が、死ぬことは花や野菜と比べるとあまりない。
基本は自立をしていて 生を完結させている。
そこで 樹と交流をする。手入れという愛し方。実に豊か。
樹は、あなたがいると私の人生は喜びが増える ということをおしえてくれる。


なんで こんなくだらないことを誰に説明するわけでもなく長々と書いたのかというと
これは 自分の為に書いた。

もう死んだと思っていたミモザの樹から 小さい小さい若い芽が吹いているのを見つけた時に
私は 多分 生まれて初めて一番大きな感動をしたのだと思う。

先月の17日の朝の出来事だった。
今思っていることを 忘れないうちに忘れないように書いておこうと思った。