村上春樹や内田樹などに対する意見みたいなことを書いてきたのですが、実際の有名な文芸批評家はどんなことを書いているのか、たまたま機会があったのでちらっと読んでみた。ほんのちらっと。
そこで驚いたのはまず自分の書いていたような問題と同じような線が感じられたこと、いわば文学の社会性について言及するというような…。しかしさらに驚いたのは、自分の考えていたようなことはすでに問題になっておらず? もっと先にすべてが進んでいるという風な論調であることだった。な~んだそうなんだ…こういう偉い人たちが考えていないわけはないよな、と少しがっかりし、自分がまるでアホに思えた一瞬。
でももう一方、やはり自分がこのブログに書いてきたような問題がそのままそこにあるのをすぐに感じた。つまり、やはりこの人達も専門家であるということ、そして専門家であることを自覚している仕方もまた、専門家特有のものであるということだ。
自分の場合、昨年ぐらいからまた本を読み始めたが、わけあって長いことほとんど読むことを避けていたこと。また系統的に本を読むような習慣もなければその前にその手立てさえなかった自分からすれば、今まで村上春樹をだしにして書いてきたような文学の問題点はまさしく素人らしい見方というもので、勉強もしていないし、訓練されていないできの悪い頭から出た発想で、素朴といえば素朴、幼稚といえば幼稚な考えなのかもしれない。しかし、どうだろう、自分の考えが遅れていて幼稚であるとしても、一般読者はどうなのだろう。程度としては同じようなものではないだろうか? いや、問題意識という面では自分よりもっと素朴な人も多いはずだ。
で、何を言いたいのかというと、この批評家が語っているような進んだ?(サブカルチャー的)状況に今の文学があるがあるらしいということが、なんだかそうした気配は感じられていたとしても、あえてはっきり言われてみると実に「意外だ」と感じられた、ということがひとつある。つまり、社会性を問題にするにしても我々は漠然と平凡な日常を生きている感覚から考えるわけだが、それがそれぞれ個人でどんな個別な境遇の枠にはまった考えをしていて共通するところはあいまいだ(先生方のいうとおり)、しかし、文学的に深く系統的な知識がないという点では共通している、つまり無知な側はこの多様な社会においてもある程度ひとかたまりの無知さを共有しているということ。そしてこちら側からすると、専門家の先生のいうおそらく文学の正当的道筋から派生した?今の文学の方向性というものについてあたりまえに言われているようなことが、けっこう、意外に感じられるということです。そして文学に興味の無い人たちにとって見ればそんな、まさか? というぐらい恐ろしく意外で、とっぴおしもないものに感じるだろうということ。
そう、聞けば自分などは、なるほどそういうわけだったのかとは思いつつ、なぜかピンと来ない。なんでそういう方向性になって(決まって)しまったの? それで多くの作家達もおなじような意識を大なり小なり持ってそういう方向性に沿って書いているとしたらそれも意外だ。なんだか自分らの全く知らないところで勝手に決められた密約があって、だしぬかれていたような感じがある。なにしろ、文学というもののイメージは教わった限りでは模範的で見習うべき方向性を危ういなりとも持っているという意識は、相変わらず最も一般的なものだろうし、普通に生活していて毎日ニュースを見ているような感覚からすると、知らぬ間に一般道から随分違う道筋に行ってしまっている、あれれ?という感じなのだ。
それもどこにもはっきりしたあるいは親切なヒントがなく合図も見えなかった。きっと文学的な道筋から行くとそれなりの必然性があって今の文学があるのだろうが、それはそれの道で、一般庶民は全く知らない。おかしいぐらい何にも知らないのではないか。ムードだけは感じていたとしても、そういう考えにはっきり結びつくようなことはなかったはずだ。
こう考えると、先生方、作家達は、文学上でぎりぎりの戦いをして現在の思潮を築き上げてきたとしても、それはまったく我々無知人をおきざりにして独走しているということがいえるのではないか。
同じ社会に生きる人間として常に横に周りに意識しながら先生方はやっているつもりかもしれないが、先生方が語っているのは現代というようなものではなく、専門的に積み上げた知識や知恵の結果としてとらえれらた現代であり、我々無知人が生きて(意識されている)いる本当の現代ではない。
先生方は現代はひとつのイメージやひとつのかたまりとしてもはやとらえられない複雑な実体で、文学もだから社会的に主導するような価値観を提示できずバラバラにサブカルチャーとしてバラバラな道筋を取らざるを得ない。というような? ことをいっているが、我々無知人は今やおたくっぽく多様に個性化し細分化しているとしても、文学的無知人としては一様にそんな風な問題意識で今の文学が成り立っているなど思いもよらない。また、それぞれがばらばらであって孤独だと感じてもぼんやりとであり、どこかに偉い人達がいて、まともな導きの手が生きているはずだというふうな意識を漠然とであっても持っていることと思う。それは周りを見てみればあまりにもはっきり自明なことだ。
実はこういうだらしないのが本当の現在であって、サブカルチャーに隠れている深刻な問題意識が現代なのは知識人の側にいえるだけで、眺められている方にそんな意識はない。そしていつまでたってもまともにそんな意識に到達することはありえない。そして当然、すべての人をひっくるめて現在はこうだという判断は知識人の言い方だと一面的過ぎる。
だとすれば、知識人側の問題は独走していることにあるだけでなく、社会的にもう文学が価値観を主導できないなどといいながらも、文学の看板を高い位置からおとすという努力をしてから無知人に提示することをしないで、相変わらず文学の名のものとに自分達側だけの了解でその存在意義を保てるサブカル本を、何も知らない庶民に向けて文学だ、これが現在だといって節操もなく平気でばらまく、その点でも問題意識のなさである(例えば○○文学賞の類は、すべて我々からすると文化的権威そのものに見える)。
結局、文学だ現代だといいながら、主導し得ないといいながら、まさに自分らが提示した問題点に自らひっかかっている。つまり、そうやって無意識なところでむしろ社会を主導してしまっている。そこまでいわなくても若い人たちを中心に強く影響を与える根本的なきっかけになっているのではないか。庶民にとって訳のわからないそして過激なものを文学の名の下にどんどん送りつけて、わからない庶民にそうしたムードを作り出すことを意図せずやってしまっている。そしてその眺めをほらそうだろうと喜んでさえいるように見える。これが現代だ、といって。
これは我々庶民が先生方の考えが分からないのと同様のことが先生方を襲っている。庶民を知らないゆえに、知らないからこそできる行動で、いわば暴挙にも近い。めちゃくちゃということだ。庶民はバカでめちゃくちゃやっている、それは先生方も同様で、むしろお手本をきちんと提示できないので、めちゃくちゃに加担しているといっていい。文学の側から節操もなく放った光が乱反射して、世の中をいっそう複雑にしている。現状をいうならこれが現状で、どちらもひどいのは一緒だと思う。子供に火遊びの道具をくれてやるのが文学みたいになっている一面があり、そちらのほうが本来の提示したはずの内容よりも庶民を動かしていたりする。
自分は前から、ちらっと表に見える最近の文学の奇態ぶり、あまりにも無模範的な内容が気になってしかたなかったが、どれだけの深慮が文学の側にあるのかはかれなかったので何とも言えなかったが、今回その原因が少し分かった気がする。全く期待はずれで、できれば文学の内容に沿った現代の問題に現実的に引きずり込まれることを期待したが、この状態では自分は文学の内容に立ち入っていくのは意味なく、文学外のところで考えなければならないのは仕方ないと思う。いいわけでなく…。
専門家は必要、しかしつなぎ役は素人、そして文学はどちらかといえばつなぎ役の素人のやることであったはずではなかったのか。そのものの深い意味という道もあろうが、社会的にどんなかたちでも有為にはたらかなければ、文学といえないのではないだろうか。
専門の側に個別の側に文学があるなら、威容のある文学の名前を取れといいたい。そして個別には「深い特殊な穴につき関係者以外立ち入り危険」と但し書きの看板をたてることだ。そう、文学の側が今いちばん使命とすべきことは、(皮肉なことだが)まず文学は昔のように模範でなく、お手本でもないということを分かりやすく説明することではないか。
もちろん自分にはひとっからげ分かったつもりはないし、文学にも色々な様態が存在し、表に出ていないだけで尊敬に値する立派な方々も多数存在すると思う(村上春樹もまだ立派な方かもしれない)。でも文学が社会的に低落していることだけは確かで、それでなお文化的に上からふりかかろうという態度だけは変わっていない。そのことについて庶民に分かることばで反省的に言える人たちがいないのかと思う。ミイラ取りがミイラというのが今の文学の状況のような気がしてしょうがない。
途中、理路混乱してますが…気持ちを汲んで下さいな。