あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

村上春樹を読んだりして 堕ちた文学

2005-11-18 23:25:51 | Weblog

村上春樹や内田樹などに対する意見みたいなことを書いてきたのですが、実際の有名な文芸批評家はどんなことを書いているのか、たまたま機会があったのでちらっと読んでみた。ほんのちらっと。
そこで驚いたのはまず自分の書いていたような問題と同じような線が感じられたこと、いわば文学の社会性について言及するというような…。しかしさらに驚いたのは、自分の考えていたようなことはすでに問題になっておらず? もっと先にすべてが進んでいるという風な論調であることだった。な~んだそうなんだ…こういう偉い人たちが考えていないわけはないよな、と少しがっかりし、自分がまるでアホに思えた一瞬。
でももう一方、やはり自分がこのブログに書いてきたような問題がそのままそこにあるのをすぐに感じた。つまり、やはりこの人達も専門家であるということ、そして専門家であることを自覚している仕方もまた、専門家特有のものであるということだ。
自分の場合、昨年ぐらいからまた本を読み始めたが、わけあって長いことほとんど読むことを避けていたこと。また系統的に本を読むような習慣もなければその前にその手立てさえなかった自分からすれば、今まで村上春樹をだしにして書いてきたような文学の問題点はまさしく素人らしい見方というもので、勉強もしていないし、訓練されていないできの悪い頭から出た発想で、素朴といえば素朴、幼稚といえば幼稚な考えなのかもしれない。しかし、どうだろう、自分の考えが遅れていて幼稚であるとしても、一般読者はどうなのだろう。程度としては同じようなものではないだろうか? いや、問題意識という面では自分よりもっと素朴な人も多いはずだ。
で、何を言いたいのかというと、この批評家が語っているような進んだ?(サブカルチャー的)状況に今の文学があるがあるらしいということが、なんだかそうした気配は感じられていたとしても、あえてはっきり言われてみると実に「意外だ」と感じられた、ということがひとつある。つまり、社会性を問題にするにしても我々は漠然と平凡な日常を生きている感覚から考えるわけだが、それがそれぞれ個人でどんな個別な境遇の枠にはまった考えをしていて共通するところはあいまいだ(先生方のいうとおり)、しかし、文学的に深く系統的な知識がないという点では共通している、つまり無知な側はこの多様な社会においてもある程度ひとかたまりの無知さを共有しているということ。そしてこちら側からすると、専門家の先生のいうおそらく文学の正当的道筋から派生した?今の文学の方向性というものについてあたりまえに言われているようなことが、けっこう、意外に感じられるということです。そして文学に興味の無い人たちにとって見ればそんな、まさか? というぐらい恐ろしく意外で、とっぴおしもないものに感じるだろうということ。
そう、聞けば自分などは、なるほどそういうわけだったのかとは思いつつ、なぜかピンと来ない。なんでそういう方向性になって(決まって)しまったの? それで多くの作家達もおなじような意識を大なり小なり持ってそういう方向性に沿って書いているとしたらそれも意外だ。なんだか自分らの全く知らないところで勝手に決められた密約があって、だしぬかれていたような感じがある。なにしろ、文学というもののイメージは教わった限りでは模範的で見習うべき方向性を危ういなりとも持っているという意識は、相変わらず最も一般的なものだろうし、普通に生活していて毎日ニュースを見ているような感覚からすると、知らぬ間に一般道から随分違う道筋に行ってしまっている、あれれ?という感じなのだ。
それもどこにもはっきりしたあるいは親切なヒントがなく合図も見えなかった。きっと文学的な道筋から行くとそれなりの必然性があって今の文学があるのだろうが、それはそれの道で、一般庶民は全く知らない。おかしいぐらい何にも知らないのではないか。ムードだけは感じていたとしても、そういう考えにはっきり結びつくようなことはなかったはずだ。
こう考えると、先生方、作家達は、文学上でぎりぎりの戦いをして現在の思潮を築き上げてきたとしても、それはまったく我々無知人をおきざりにして独走しているということがいえるのではないか。
同じ社会に生きる人間として常に横に周りに意識しながら先生方はやっているつもりかもしれないが、先生方が語っているのは現代というようなものではなく、専門的に積み上げた知識や知恵の結果としてとらえれらた現代であり、我々無知人が生きて(意識されている)いる本当の現代ではない。
先生方は現代はひとつのイメージやひとつのかたまりとしてもはやとらえられない複雑な実体で、文学もだから社会的に主導するような価値観を提示できずバラバラにサブカルチャーとしてバラバラな道筋を取らざるを得ない。というような? ことをいっているが、我々無知人は今やおたくっぽく多様に個性化し細分化しているとしても、文学的無知人としては一様にそんな風な問題意識で今の文学が成り立っているなど思いもよらない。また、それぞれがばらばらであって孤独だと感じてもぼんやりとであり、どこかに偉い人達がいて、まともな導きの手が生きているはずだというふうな意識を漠然とであっても持っていることと思う。それは周りを見てみればあまりにもはっきり自明なことだ。
実はこういうだらしないのが本当の現在であって、サブカルチャーに隠れている深刻な問題意識が現代なのは知識人の側にいえるだけで、眺められている方にそんな意識はない。そしていつまでたってもまともにそんな意識に到達することはありえない。そして当然、すべての人をひっくるめて現在はこうだという判断は知識人の言い方だと一面的過ぎる。
だとすれば、知識人側の問題は独走していることにあるだけでなく、社会的にもう文学が価値観を主導できないなどといいながらも、文学の看板を高い位置からおとすという努力をしてから無知人に提示することをしないで、相変わらず文学の名のものとに自分達側だけの了解でその存在意義を保てるサブカル本を、何も知らない庶民に向けて文学だ、これが現在だといって節操もなく平気でばらまく、その点でも問題意識のなさである(例えば○○文学賞の類は、すべて我々からすると文化的権威そのものに見える)。
結局、文学だ現代だといいながら、主導し得ないといいながら、まさに自分らが提示した問題点に自らひっかかっている。つまり、そうやって無意識なところでむしろ社会を主導してしまっている。そこまでいわなくても若い人たちを中心に強く影響を与える根本的なきっかけになっているのではないか。庶民にとって訳のわからないそして過激なものを文学の名の下にどんどん送りつけて、わからない庶民にそうしたムードを作り出すことを意図せずやってしまっている。そしてその眺めをほらそうだろうと喜んでさえいるように見える。これが現代だ、といって。
これは我々庶民が先生方の考えが分からないのと同様のことが先生方を襲っている。庶民を知らないゆえに、知らないからこそできる行動で、いわば暴挙にも近い。めちゃくちゃということだ。庶民はバカでめちゃくちゃやっている、それは先生方も同様で、むしろお手本をきちんと提示できないので、めちゃくちゃに加担しているといっていい。文学の側から節操もなく放った光が乱反射して、世の中をいっそう複雑にしている。現状をいうならこれが現状で、どちらもひどいのは一緒だと思う。子供に火遊びの道具をくれてやるのが文学みたいになっている一面があり、そちらのほうが本来の提示したはずの内容よりも庶民を動かしていたりする。
自分は前から、ちらっと表に見える最近の文学の奇態ぶり、あまりにも無模範的な内容が気になってしかたなかったが、どれだけの深慮が文学の側にあるのかはかれなかったので何とも言えなかったが、今回その原因が少し分かった気がする。全く期待はずれで、できれば文学の内容に沿った現代の問題に現実的に引きずり込まれることを期待したが、この状態では自分は文学の内容に立ち入っていくのは意味なく、文学外のところで考えなければならないのは仕方ないと思う。いいわけでなく…。
専門家は必要、しかしつなぎ役は素人、そして文学はどちらかといえばつなぎ役の素人のやることであったはずではなかったのか。そのものの深い意味という道もあろうが、社会的にどんなかたちでも有為にはたらかなければ、文学といえないのではないだろうか。
専門の側に個別の側に文学があるなら、威容のある文学の名前を取れといいたい。そして個別には「深い特殊な穴につき関係者以外立ち入り危険」と但し書きの看板をたてることだ。そう、文学の側が今いちばん使命とすべきことは、(皮肉なことだが)まず文学は昔のように模範でなく、お手本でもないということを分かりやすく説明することではないか。
もちろん自分にはひとっからげ分かったつもりはないし、文学にも色々な様態が存在し、表に出ていないだけで尊敬に値する立派な方々も多数存在すると思う(村上春樹もまだ立派な方かもしれない)。でも文学が社会的に低落していることだけは確かで、それでなお文化的に上からふりかかろうという態度だけは変わっていない。そのことについて庶民に分かることばで反省的に言える人たちがいないのかと思う。ミイラ取りがミイラというのが今の文学の状況のような気がしてしょうがない。

途中、理路混乱してますが…気持ちを汲んで下さいな。


 


内田樹がいい

2005-11-14 20:14:10 | Weblog

内田樹は昨年末ごろ偶然にネット上でブログを目にしたところから興味を持ち、著書も何冊か読ませてもらった。長い間文学不信みたいな症状があってほとんど全く本は読まなかったのだが、内田樹はまさに目からうろこ、だった。といっても内田さんについて論じられるような頭は自分にはない。でも少しだけ内田樹について語ってみたい。

内田樹は本当に分かりやすい。というか難しいことを自分の言葉で分かりやすく噛み砕いて話してくれる。内田樹の文章を読んでいると哲学とか文学とかが何も特別なことでなくごく自然に感じられ考えられることとして浮き出てくる。この人の解釈は完全に自分のものになっているので、借りてきたようなことばがなく語りが生きて自在な感じがする。
しかも、この人のすごいのは聞く側の気持ちが分かっているかのように省略すべきは大胆にし、念を入れるところは丁寧におさらいまでしてくれる。隠したりちらつかせたりといういやらしさがなく、こうだよこうだよといってどんどん分解して内容を明らかにしてくれる。かゆいところを知っているのだ。要するに相手も見えているということなのだろう。また愛情があって惜しまず与えたい人なのだろう。
さらに気取らない日常的な会話のノリを持って、節回しの調子も良くぐいぐい進んでいく。すごいパワーがあるし、周りをぐるぐる見回しながら話しているように視野が狭くならない。まったく感心するのは、難解な事象を扱いながら常に日常と血を通わせていくことを自然に心得ていることで、なにげない平凡な時間にスッと悟りを入れてくるような手際の鮮やかさがある。
普通は学者でも作家でもこのように頭で考えることと日常を生きることが分かちがたく流通しているだろうかと思う。しかも、大学教授という肩書きだが、生徒には兄貴のように接し優しいながらもびしびしと締めて、いつでもことの核心に迫っていこうとする態度にぶれがない。
さらにすごいのは武道をやることである。それも半端でなく学業に対するのと同じ求道的な態度で行く。いや内田樹においては武道も学問もバランス上不可分でどちらもどちらのために無くてはかなわないものになっている。自分はこの身体技能?を深める道をとっていることが、内田樹の知を潤沢で生き生きとして、幅広く通じる、世間にも通じる風通しのよいものにしている大きな要因と思う。
頭で考えることはともすれば手足から離れ、そうした感覚の偏りが世間からも生活からも思考を離してしまう。自分もそんな風に感じる。内田樹はそういう意味でも達人だ。だから内田さんの書くことには生活の匂いもすれば、世間のうやむや、背丈の低さまで入っている。おやじギャクもいえば、おいおい泣いたりもする。映画の批評もし、漫画も読み、麻雀を楽しみ、料理が得意なのにカップラーメンも好物。こうしたことが身振りでない、作為がない。達人である一方どこか迂闊という愛嬌もある。
それらでしかしなしくずしになることはなく、礼節は保っている。中庸ということも知っている。先生方によく見られるおたく的偏狭さというものとは無縁だ。常に均衡を取っている。そして努力を惜しまない人だ。
内田樹は(能力の差は考えないことにしてもらって!)自分とは違うタイプの人間だと思う。だからもちろん何もかも賛成というわけはない。また最近ちょっと有名になりすぎてきたのが気になる。でも、自分がこれまで懐疑的に書いてきたようなことが内田樹においてはすべてほとんど問題にならないと思う。なにしろバランス感覚に優れた人だと思う。
内田樹は村上春樹のファンを自認しているし、ミーハーなところも(演出か?)多すぎる気がするが、どっちにむけても現在最も模範的な人物のひとり(あとは知らないが)だと自分は思う。この人だけは世間のほうにもしっかり向いているし、構えもできている。かといって後ろがおろそかになることもない。過去のタメをしっかり持って、軽やかに現在に着地している。そしておそらく覚悟ができている。ひょうきんでちょっとそわそわしていて、意外にがさつなところもあるのも魅力のうちで、実に姿がいいと思う。内田樹は都会人だが、キザな人種ではないのである。
こういう時代だからこそ最も必要とされている人が内田樹だと自分は思う。ただあまりに有名人になってしまうのは問題といえばそうかもしれない。
自分の学生時代に内田樹のような先生がいたら人生変わっていたかもと思わせる人である。

もし知らないようでしたら、「内田樹の研究室」というブログを読んでみることをお勧めします。
過去の記事の方がなお面白いかも。


村上春樹を読んで 最も根本的な問題

2005-11-14 19:31:38 | 村上春樹

村上春樹について何度も記しているが、別になんの恨みがあるわけではないし、おそらく自分の知らない部分で自分の想像を超える巨人のような人なのかもしれない。知識人の方々からすれば、自分の言うようなことはたわごとに過ぎず、一顧だにする価値も無い。だからほっとけ、馬鹿馬鹿しいで終わりなのだろう。そもそもがしっかり作品を読み込んでいないし、自分の思い込みや勝手な推論でどんどん押して行ってとんでもないところで訳も分からない勘違いを叫んでいる。やくざな野郎だ。そんな風にいわれるのかもしれない。
確かにこうして慣れない文章をつないでみると、どんどん線で繋がっていくようで、なんだか最初に感じていたのより厚みの無い表現になって、なにか大事なものをいっぱい取りこぼしている。そんな感じがぬぐい得ない。そもそも考えることも、書くこともタメがない、辛抱が足りない…。確かにそうかもしれない。
しかし、ないないずくしでいうなら、そういう自分の努力が足りないという前に時間がないのだ。我々しがない庶民にとってはこうして書く時間は限られた短いこま切れの時間であるのが普通で、じっくり考え出したら自分の頭の悪いせいもあるだろうが、相応のまとまった落ち着ける時間というものが必要で、同じく落ち着ける空間、その他干渉の無い条件が必要なのだ。これは自分にとってばかりでなく、多くの人たちにとっての普通の現実であろう。だからこの現実上においてじっくりを要求されても前回書いたことと同様、我々庶民には無理ということがある。怠慢という前に無理なのだ。集中できるだけの数時間を都合することがなかなかかなわない。たとえ何かはできても、それを持続することはまずほとんど無理だ。
ところがどうだろう、多くの難かしい文学がそうであるように、村上さんの作品だって、われわれに非現実的な「じっくり}を要求していないだろうか。それに対してじっくり対応できないのを分かりつつ、書き散らかさずにいられなくなって、どんどん書く。足りないのは分かっている、分かっていながらこれでいいのだというところははっきりある。なぜなら準備立ててじっくりできない。それが現実だから。都合できないのが現実なのだから。そして多くの人にとっても(考え方は全然違うだろうが)おそらくこんなものだ。
言い訳であると同時に言い訳ではない。この状態においてそそくさと頭を悩まし、そそくさと思っていること思いついたことを、そそくさと書き散らかす。そんなもんが・・・しかし、これが普通の状態なのだ。無理して準備立てて周到にやろうとすると、途中で挫折するに決まっている。
何を言いたいのか自分でも分からなくなってしまいそうだが、要するに才能があるないとかバカとか利巧とか言う前に、何かそもそも最初からずれていると思うのだ。ひどく、恐ろしいほどずれている。
作家の人たちはもともと才能があるところに長い時間切磋琢磨し勉強して、そして報われて作家という有名人になり、特別な身分になった。それで飯を食っている。だから仕事自体が考えること書くこと創造することになっている。それでそういう生活から集約されてできあがった念の入った作品を自分らは読む。しかし、遠い。あまりにも遠い、いや遠くなってしまったといえばいいのか。
つまり、作家先生の境遇というものがあまりに我々庶民的な境遇と違うので、作品として結晶したものが何を語ろうが、それは必然、作家の境遇が、状況における状態も含めて生み出したもので、むしろ純度が高ければそれだけ必然的に我々と疎遠の内実となって実るはずだ。積み上げの高さも考えの深さもテンポも全然我々のレベルでない、それが我々にまともに響くはずが無い。それが例えどんなに優れたもの?であろうとも、我々にとって、そしてだから当然今の社会にとっても、理解できないばかりでなく取り入れられない、使えない、つまりは無用のものともなってしまっている・・・のではないだろうか。おかしな話だが、それが事実ではないか。
昔はまだよかった、作家は今のようなステータスがなかっただろうし、情報は行き届かず、全般に不便な時代で、自然にも近く、考えも単純で知識の積み上げも浅かったろう。しかしその分地べたに近く、読む側にも親しかった。今ほど複雑で人工的でない社会にもきちんと作用する部分はあったかもしれない。
ところが今では、作家は顔の知れた有名人であり、名誉なきちんとした職業であり、身分以上の特権階級に近い。いくらすばらしい才能が努力を重ねたとしても、かえってそれゆえに固めてしまうところの、特別なわくにはまったところから、この下界に向けてしっかり響き渡るような創造がなし得ようがないはずである。
そこで、なぜか誰も取り上げない素朴といえば素朴な疑問。

なぜ作家の人は筆でだけ食うことを選ぶのか?
(これは特殊業であり、仕事が書くこと考えることなのだから、時間に不自由することはない。またほぼ孤独な単独の作業である。一方、様々な人々の間で忙しく判断し手足をはたらく一般業の感覚からはぐっと遠のく。対極にある現場のようなものだ。)
なぜマスコミに不用意に顔を出したりするのか?
なぜ名を伏せないのか?
(有名人であり特別な人としてどこにいってももてはやされるだけでなく、街中でも普通の行動は取れない。いつでも特別ルームのお偉いさんになってしまう。わざわざ普通の生活感覚を締め出しているようなものだ。お偉い有名人であるのはいい気分なのだろうが。)
なぜ、一部でも庶民と足並みを揃える必要を感じないのか?  
(一般社会の中で人並みの経験なくして、想像力で補えるものではない。視線を無理してでもその辺に置こうとする努力もなければ社会を理解することができず、よって文学的に世界など語ることはできっこない。)
そのように考える頭だけはないのか? 
その辺で痛む良心はないのか? 
(考えないとすると、相当にイカレていると思う。あっちの人みたいなものだ。
分かっていて甘んじるのはやはりずるい。ここを突かれないのをいいことにこの問題に向き合おうとしないのは、おかしい。深遠な問題の前にこういう卑近な問題に当たらないのは大いなる矛盾ではないか。)
作家の不誠実・・・。○○賞を取って有名になったところから間違いが始まる、と自分などは思ってしまう。
別にキミたちには簡単に分からないはずから不用意に読むのはよしなさい、我々は専門家だから、というお断りがあれば問題はない。また学者や大衆作家はそれでもいいと思う。でも、孤独に(スポンサー付だが)山を攻めて、はるかなる頂に立ったとして、それは立派かもしれないが、すでに下界は雲の下、霞んで見える遠景ということにならないだろうか? 文学の名を語るならその辺の厳しい自覚が必要なのではないだろうか。

同じような内容を前にも記したと思うが、この点についてはもうちょっと言わせてもらいたい気がする。


村上春樹を読んで その7

2005-11-12 21:34:30 | 村上春樹

村上春樹はインターネットを通じて読者と交流の場を作っているらしく、本にもなっていたので参考に少し読んでみた。

読者と交流の窓口を持つのは素晴らしい試みだと思う。だけど、読者の反応を嬉しいと言いながら、おもわせぶりなみたいなことばを時々漏らすだけで、泳がせておくような態度。読者の方は答えを知りたいが村上さんは自分にも分からないなどという。村上さんにもそれなりに思うところがあってやっているのだろうが、読者とは本人が考えるよりもっと弛緩した結びつきになっているのではないかと思う。
分からないが気になる、気にする、それで読者は何度も作品を読み、いろいろ考えているうちに成長していく。そんな部分はあるかもしれない。しかし、その前にそのムードでいいのだ、満足だというところに落ち着いて、その理由も無いところに居心地のよさを見出して、むしろ問うべきものを問わず地道な積み重ねをやめてフィーリングの麻薬にはまる。むしろ成長とは逆の方角を向いているのではないか。
それは読者の態度を見れば分かる。村上作品を読んで疑問を深めて胸をかきむしっているような場面に遭遇することは非常に少ない。多くはうっとりとしてふわふわした言葉を吐いて満足している。満足したようなつもりになっている。しかし、村上作品ができあがるにはそれこそ血のにじむような努力の積み上げがあったはずではないのか。
村上さんのこういう読者に対する態度を見ていると、そこにどんな深慮があるつもりかしらないが、こんなイージーな対応でいいのか。お前らは勉強が足りないでも、それは絶対に間違い勘違いだとでもはっきり言うべきときは言えばいい。とくになまくらに対してなまくらで返すような態度はなんだろうと思う。そしてここでも、作品世界同様なかなかスマートな姿を見せてくれるので、何かここにはとんでもない無理解や勘違いがあるのではないかと疑ってしまう。村上さんの作品に自分が感じるような片輪な反面がこういうところにはっきり露呈してしまっていて、それが悪い歯車をつないでいるように見える。村上さんの作品の魔力の正体はすべてとはいわないが、一部、実は村上さんの弱いところと若者の弱いところの融和的といえるぐらいの絶妙な結びつきによるものなのではないか。
そう、村上さんのファンという読者のどれだけが文学的な素養を持って対しているだろう。自分は最近興味を持ってあちこちのブログやその他の情報からファンの態度を見たり読んだりしてきたが、ほとんどがふわふわして印象的な感想に終始し、またそれで満足していると見えた。普通ではこういうことはありえないのだが、村上さんの独特の文体は理屈を跳ね除けてどうにでも自由に受け止めてかまわない、結論も求めないということなので、読者は自分に対しても無理解を認めることがなく、理由無しに自由勝手な思い込みのみで作品と付き合い続けることができる。普通ではありえないことである。
そしてその世界に酔い、認め、付き合いを持続してことを喜ぶ読者は、そこで自分などには知れない世界のある一面にしっかり触れて、つまり貴重な文学体験をしているのかもしれない、しかし、一方自分の感じているような村上作品によって決して触れられていないような世界の反面を持続的に反故にし、クールで小奇麗が好きなこだわりで閉じられたような人格を形作っていくことを躊躇しない。そんな気がする。最近の若者に見られる異常なキレイ好き、体面に対する異常なこだわり、さえないもの地道なものに対する異常な無関心、こういうものと通じる。頭はさえてかっこいいが、気に入らなければ切るのは躊躇しない。残酷なぐらいの無意識。こういうものとも通じている気がする。
自分はこういう方向へのあまりに無自覚な歩みを若者がしていくのが恐ろしく感じる。別に村上さんのせいというわけではないが、こちら側からはどこか妙に息が合って見えるのである。

なんか(つじつまが合いすぎて)変だな?


村上春樹を読んで その6

2005-11-12 16:14:04 | 村上春樹

村上春樹の小説にはシャツなどの衣類や身装具のカタカナ名の銘柄まで出して、身支度を整えるようなシーンがよく出てくる。

ひげを剃って洗いざらしのシャツを着て、ぐらいなら分かるが、自分には小奇麗なブランド物(高価というわけではない)の既製品を身につけて満足するような感覚はよく分からない。身だしなみに限らずこういう種類のこだわりが随所に見られるが、その辺も違和感があるところで、かりにも文学的といわれるような感性がそういうところに小さな喜びを見出していることを強調し、しかも繰り返し描写する必要を感じるものだろうか。

こんなのはどちらかといえばつまらないもの、取るに足らないもので、そういうことをささやかに喜ぶとしても、そんな自分を同時にちょっと惨めに感じる、という部分がなぜ少しも描かれないのかと思う。

身だしなみは大事といえば大事だ。自分にとっても相手にとっても。しかし、バリッとしたブランド物のシャツに身にまとったときの、気持ちのよさと裏腹に小奇麗にできあがりすぎているものを着せられているような居心地の悪さはどうだ。すべて目の見えないところからきていて、何かをあてにしている、それが手に取るように想像がつくものではないのだ。非常に複雑で長い工程を経て流通していることは分かるが、具体的には何も訳がわからない。そんなものが、手元にある。こんなに念入りにかっちりと作り上げられているのがなんだか自分の中身に親しまない。そんな感じがしないだろうか。クラフトマンシップというものもあるが、それは今では贅沢品となっていてやはり庶民には親しみがあるものじゃない。

何にしても他に依存していることは免れえない。しかし、こういう具合に念の入りすぎたものにまるで自然のもののように対し、自分のものとして身につけ悦に入る。こういう感覚は、本質的でないと思う。どこまでいっても気持ちよくないものではないか。自分が読みでは村上さんの作品ではこういう場面はささやかながら気持ちよいものとして描かれている。そして村上さんの好きな多くの読者はたしかにこういう場面をも気に入っているのだ。そこに喜びを見出している。

自分はまたこういう場面や道具立てを小粋と感じない。むしろキザったらしく、似非っぽく感じる。そこには未熟な若造か、どこかいい気な大人がいる感じがする。こういう感覚は自然と切れている。都会の人間には普通にこういう感覚があるのだろうか?・・・。


村上春樹を読んで考えたこと その5

2005-11-08 21:02:45 | 村上春樹

村上作品は何故か非常に人気があるのは確かみたいだが、そこに生産的といえるような触れ合いが果たしてあるのだろうか。
読者の多くは、説明できないがなんとなく心を惹かれる、ショックを受けた、魅力的だ、というような感想をもらしている。こういうことばがすべて深いところから?出ているのだとしても、同時にそれはゆるいところへ結びついていないか。ムード重視で、その場的で、あとくされもないかわりになんのステップにもならない、日本人に特有のあいまいで感覚的なところにうまく取り入っているのではないか。おそらく知識人には自分にも分からないよう難しい部分で評価されている。しかし、無知な人たちはまったく無防備にやられてしまう。それで何が悪いかということはよく分からない。

ただ、若い人に見られる、瞬間感覚的な、ムード重視でふわふわしたもの、こういう性向をむしろ助長し、腰砕けに加担しているのがこういう文学の働きのひとつだとすれば、あまり積極的な意味や地位を与えて賞賛するべきものではない。社会的に価値のありそうな位置に置くべきものではないのではないか。

とらえられるかられないかは別として、見るにはしっかり見る、判断するところははっきり判断し、反省的に進んでいく、これは生きていくうえですごく重要なことだと思う。しかし村上作品を読み進めるうちに、理由なんて要らない、分からなくてもいいものはいいという具合に、懐疑的であったり反省的であったりという態度を取りにくくなってくる。なにしろ心は奪われても? こちらからなにもはっきりさせることが不可能という気にさせられる。現実生活ではあらゆる場面ではっきりした判断や決断を迫られるのに、ここにあるのはフィーリングしかない。

このパターンに慣れてしまうと、謎解きをする気がしなくなる。謎は謎でいい。いいからいい。それで終わりだ。作者自体も自分でも分からないといっているのだから、なおさらだ。無意識と無意識が理性の届かないところで深い有機的な交流をして何か新しいものを生成している、素晴らしいことだ・・・。そう信じればいいのだろうか?
作家も作品も数あれば、様々なかたちがあって当然だし、どんなパターンだって視点を変えてみれば評価すべき点が出てくると思う。なにしろこの複雑多様化した社会なのだから。しかし、村上さんの作品の位置づけは特別なものとなっていて、及ぼす影響も一種の社会現象のように格段に大きいものとなっていると思う。でも、だれもこうした疑問を投げかけることがない。いや投げかけているのかもしれないが、自分には聞こえてこない。

自分は無知だし、相当にバカでもある。でも、無知なりにこのように考えることが根本的におかしいのだろうかと思ってしまうのである。
自分にはよく分からない。


村上春樹の小説の女性像

2005-11-08 18:27:44 | 村上春樹

また登場する女性について。

暗い過去の絵に描いたようないきさつがある。いかにもというような傷はある。頭脳的ともいえるような悩みがある。そしてAかBかどちらかという算数の問題みたいにはっきりとした問答を展開していく(肝心の意味が良く分からないところがあるが)。そして答えが○だとどんどん相手に接近していくとか、そんなふう。相手方もそれにきっちり反応していく。

それにしてもあまりにぬけめがなくスマートなのだ(あるいはユニーク)。暗さにじくじくしたところがなく頭の問題のようで妙に観念的に感じられる。おそらく女性との関係にしても抽出されたような象徴的な表現になっていて、自分のようにリアルかどうかを土台にして見るのは的外れなのかもしれないが、どちらにしても人物の陰影というのは、そんな取ってつけたようにスマートであったりくっきりしたものではないはずである。

つまらないような肉体上のささいな欠点を気にするとか、ちょっとしたことで意味も無く取り乱すとか、その場の弾みでちょっと隙が出るとか、過去のいきさつも話にするのはずかしいほどローカルであったり・・・また本当は、精神的に優れた女性なら初めから高い思念の問題だけで生きているようなきっぱりした体裁は無く、逆に当然意識されるはずの育ちの違いという深い溝を最初は感じて戸惑うのが当然だろう。他人であれば、また男と女であればなお、どのみち動揺が先にあるのが本質的で、そういうものを飛び越えてクールな男女関係を描いて、セックスまで行く。こういうのを読者はどうやって受け止めたらいいのか。

村上さんの描く女性を魅力的だとかセクシーだとかいう感覚は自分にはさっぱり理解できない。そしてこういう表現によってなにを表したいのだろう。なにを言いたいのだろう。神話がベースか何か分からないが自分にはなんの教訓も得られる気がしないし、ちっとも魅力的に感じられない。どういう意図があろうが血が通っていないのは死に体ではないか。吐息が感じられないような女性になんの魅力があろうか。

不幸で美人でキッパリとした女性ばかり前に出さないで、たまにはブスでうじうじして間延びしているが可愛いというような女性像を取り入れてもらいたいものだ。たまにでいいから。


村上春樹「海辺のカフカ」を読んで 根本的な疑問

2005-10-27 22:38:00 | 村上春樹

要するに頭の悪い組、ダサイ組は眼中におきたくないらしい。まあもともと文学も新しい新しいといって前世代から克服されて?一歩進んだ見地にあること、また、まだたどってない道を見つけること、そういうことが何より大事らしいみたいで、その辺で我先と競っているようなムードがあるように見える。だから頭も良くて才能もあって猛烈に勉強もしてぬかりなくまとめあげて、もう一歩踏み出すことができたら、賞賛の嵐みたいなそんな世界ではないか。

しかし見方によっては、こんなに贅沢な条件付の達成というものは、ある面、恵まれたものにしか得られないレベルであり、もし才能に恵まれていても、例えば時間がなければそれだけでもう得られないレベルということになる。難しいばかりでなく積み上げもなければかなうはずがなく、いくらまっとうな人間でも下手すると方向さえ定まらぬまま見送ってしまいそうな道筋である(運良く何かしらまともな指導にでもめぐり合わないと方向を見つけるのさえ困難と思う)。

そういうことを考えると、この人たちの高見とはブルジョアのそれとにていて、自分達の才能や努力の結果の達成ばかりではない幸運(優遇)を棚に上げて、お屋敷から下界を眺めている感じと余り変わらないような気がする。それで下界を軽視するなど自己矛盾もいいところではないか。自分達ばっか家庭教師付、虎の巻もばっちりで、それでつまらなく愛想のない教科書のみを相手にしてやる気もおきない仲間をバカめ!と見下すのは不公平というか、まったくおかしいとしか思えない。こうやってあらためて考えてみると、あきれるほど単純なことで拍子抜けするぐらいだ。実に明々白々なことではないか。

村上さんはおそらく今言ってきたような文壇のムードがいちばん嫌いなのかもしれない。他人の批評をさかなにして食っている批評家も嫌いだろう。にもかかわらず、結局この辺のところだけは意識をすり抜けているような気がする。村上さんのきっぱりとした物言いには少なからずこういう無能な?(というのは実は大きな大きな見誤りであると思う)人たちへの嫌悪や軽蔑で満ち溢れているような気がする。その片輪な見方がいつでも感じられるので読んでいて気持ちよくないのだ。

例えば小説中の女性を見れば、いつでも「いい女ばっか」ときている(自分にはあまり魅力的に見えないが)。なにしろ皆それほど取り柄をあたえていないようにしているつもりなのかもしれないが、それでもカッコよすぎるか、出来すぎなのだ。ナカタさんや星野さんですらぶざまでもダサクもない。自分の違和感はどうもその辺でいちばん大きいのかもしれない。自分からすればどこまでいっても「ぶざま」のほうが必然性があると感じられるし、その辺のカッコ悪さはなにも後ろ向きなものばかりではないと思っている。もちろん「ぶざま」をそのまま表現して楽しめるはずがない。若い読者もそんなものにはついていけないだろう。それにしてもどんな意図があるにせよ、サービスのし過ぎではないか、このシャレ者はどうにかならないのか!などと唾を吐きかけたくなることだってある。そして、このカッコいい連中、セックスがいつでもすんなり過ぎるのがいちばん分からない。肉体と精神ってそんなにいつも相性がいいのかって、よっぽどうっとりするような肉体の男女であるか、よっぽどどこかかぶれていないかでもなければ、あり得ない、と思ってしまう。こういう表現をさせる裏にあるのは村上さんの何なのだろうか? と不思議に思いながら、これはむしろ「特殊な部類に属する」と考えるのが自然と思うことにしている。

最新の思想をそのまま生きているような顔していたって(そんなわけないが)それが作家の短い人生の純粋で独自の生産であるはずがない、それに生産はさまざまな様態があるわけだし、前向きも後ろ向きも、学者も肉体労働者も、同じ人生、お屋敷人間が高級なわけがない。前向きに生きよという方向付けはもちろんいいに決まってし、そういうしるしや教育はなくてはならないと思う。でも、周りを見た場合、前向きであろうがなかろうがそれぞれが運命であり、かけがえのない人生であることは一緒で、そこに高級も低級もあるもんではないと思うのはおかしいだろうか(自分の中ではそれらの位相がしばしば逆転してくっきり見えるが…)。それで物語を語るのに意図的であろうとなかろうと、全体に対するある程度の公平で均質な感覚が現れていないのは、どんな場合でもおかしい、というかバランスが悪い、つまり器が小さいということにならないか。ひいき目も愛だろうが、もっと広く深い愛というのが偉業というものには満ち溢れているのではないか。隠そうとしても、あふれ出てしまうほどに・・・。


村上春樹「海辺のカフカ」を読んで その2(言い散らかし)

2005-10-25 00:39:26 | 村上春樹

以下思いついたままになるべく正直に記しますが、時間もないので順不同でまとまらず、くどくて繰り返す、繋がりも悪ければ、しめも悪い。要するに言い散らかしです。読むのは大変でしょうが、読んでもらえばおおよそ言いたいことは分かってもらえるかも、と思います。では…。

これほど騒がれているのだから(というのは理由になっていないかもしれないが)何か決定的にまともなものがあるはず、というあてをもって読んだが、それらしき十分な手ごたえのあるものが、ありそうでいて、どうしても自分には見つからなかった。

どこかの有名なブログで「村上春樹はすべての人々の心を個別にグリップする。村上春樹は神だ…」などという発言を読んで、おいおい俺らはグリップされてないぜ、神? ちょっと待ってくれという気持ちがある。

あちこちの箇所で謎めいたことばやひねった描写が出てきて、ことばのほうはかなり断定的で説教くさいと思える文句も多いが、自分にはどうもさっぱりしすぎていたり、逆に妙に理屈っぽく感じられていけない。現実的な関連性みたいなものに欠ける印象がぬぐい得ない箇所が目立つ。それに表現や描写のほうもそこで不自然に立ち止まって頭をひとひねりしないとスッとはいってこなかったり、おやっと思うほどマンガっぽい動作や背景に感じられてしまったりして、こちらの身でなぞらえるような自然な表現やはっとする描写に出会うことが少ない気がする。

また、構成が入り組んでいて作為的な感じ?がするのだが、この噛み合わせの悪さはどうやってもおさまりがつかない感じで、いたたまれないをずっと持続しながら読み進めなければならないのがつらい。それで謎解きをしてみようかと思うかというと、そこまで付き合う価値のあるような内容と感じられないのだ。怠慢なのかもしれないし、それでこんなことを書くのは矛盾していると思うのだが、自分は評論家ではないのでしろうととしての自然な感触でもって感想を述べているので…。大抵の読者はさしたる予備知識もなくこの本を読んで、不思議に思いながら頑張って読み進めていっても、そう細かい分析をするわけでもなく大まかな印象や気になった箇所などを思い起こしてみたりして、それぞれ自分なりにどこかに落ち着けるのだろうが、そのために研究的な態度で粘り強くまたこの作品に向かいあうということは余りないと思う。だから中途半端かもしれないが、この辺でちょっと考えてみるぐらいのレベルでものを言うことに意義を感じてしまうことについては悪くないと思っている。特に大衆的といえるぐらい多数の支持を得ているらしいのだから。

とはいっても自分の感触で言うのだから、当然年齢なり育ちなりの制約が出てくるわけで、特に若い人たちの受け止め方については前に書いたような想像をしてみるぐらいで、的を得たことをいうのは難しいと考える。

作品のストーリーの進行は並行的であったり入り組んでいたりでよく飲み込むことができないが、ふと思ったのは、それぞれに流れとして目に見えるようなはっきりした連絡はなさそうだが、全体としては世の中って見方によっては実はそんな風なもので、ここではものごとの脈絡、線的なつながりにあまり頓着せず、その点でルーズにした分、全体として普通の物語の進行では表現しきれない様々なパターンを寓話みたいに散りばめて、いわば現実世界を独特なかたちでなぞらえるようなひとつの作品世界を形作っている。そんな感じかとも思う。

ただそれをそうだと決めて了解してすんなり受け入れられればいいのだが、自分としてはこんなにルーズな人間なのにどうしてもこの不自然さをよしとして受け止められないのだ。どうしてもしっくりこない。理解できないこともあるが、それ以上にぐっとこない。心に強く訴えるものがなぜかない・・・。

それぞれいろいろな場面の表現についてはどうかというと、自分としては腑に落ちるという感触となかなかめぐり合えないのがつらかった。なぜ素直にすっと立ち上げるような表現をしないのだろう。ちょっとひねって難しくしてあるような、なぞなぞ問題のような表現の前に何度も立ち止まされる。あるいは突然専門的な知識でもなければ分かりっこないと突き放されるような言い回しに出会って、思わずなんだよいきなり! と投げ出したくなることがある。そして、自然の描き方なども生々しい感じを伝えず、いかにも都会の人の感覚触手で切り取られたような感じで、普段自然に感じているような実感を彷彿とさせてくれるような描写が少ない。

ごてごてとして重ったるい表現を嫌っているのかもしれないが、なんだかさっぱりしすぎてしまっている。無駄がないんじゃなくて人生の重みをずっしり背負っていないみたいな、箱庭的な人物を裏に想像してしまう。苦労をしていないわけはないが、多くがどちらかといえば人工社会の頭脳的な経験で、この理不尽で多様で汚い世の中の「あか」を擦り込まれた経験が不足しているような、そんな肌合いを全体に感じる。厳しい自然をじかに感じて暮らしたことのない経験を感じる。だからそう、体臭みたいなものがどうしても感じられない。

自分にが学が不足していてことばの意味すらしっかり飲み込めないからそういう感想になるのだといわれるかもしれないが。

それにしてもどんな風にしてこの物語を紡ぎ出しているのか? そこは興味深い。

相当な努力家で意志も強く、自分らの想像を超えた学というものがあるのだと思う。今時の若い人達に通じる都会的な感性やこだわりをもっていると思う。海外でも受けるのはそれなりに現代に通じる普遍性みたいなものもなぞっている部分があるからだと思う、違う土壌の人たちが翻訳の装置を通して見るとまた違った輝きを見せているのかもしれない。

 

「約束された場所で」や「アンダーグラウンド」などの仕事はすごく評価したい。前向きな苦労はしている。

手に余るものといつもつながっている感情の揺れがない。

強いのかもしれないが

臭くて、だらだらで、際限もなくて、整理もつかない、そういう諸相を抜かれた、このような世界は世界といえるだろうか。

芸術家はどこか異常だが、キレイ好きの異常かも。

色あせた…なんていっても、ちっとも色あせて感じられない文体。

顔を出さない、テレビに出ないのはいい。これは大事なことだと思う。

ナカタさんがいちばん、で次は僕か…。あとは星野さん?は若者受けしそうだが、受けそうだというだけで、あまりそれらしくない。トラックに乗る兄ちゃんはあんな風に発展しない。あくまでも運ちゃんの性格的だ 。

ジョニー・ウォーカーのやったこと、あの場面は凄かった。存在感があった。

女性が特に魅力ない。

セックスの場面など特に観念的な感じ?になっていつも現実味がまったくないが…。 どういうわけでああいう表現が出てくるのか全くわけがわからない。

自分の好悪でいえばそれまで。自分は古い人間なのかもしれない、しかし世の中は断ち切れない古いものの集積の上であるし、病んだ人間がほとんどではないか。そこをスルーして世界は描けないし、傷やくされのない熟成は温室のものではないか。

安西さんの絵やいつものイラスト、あのイメージはどういうつもりで使っているか知らないが、自分が作品や作者に感じる、あっさり感とときどき妙にシンクロしてしまうのはどういうわけか。

世界で売れているからってそれが偉業の証拠とは限らない。宮崎駿の「ハウル」だって偉業とされてしまうのだから、異国の人の受け止め方というのはどこかでおかしな変換がなられるのか、あんがいへんてこなものであったりするのだ。それに一定の層というものが対応しているだけではないか。

総合的に見て軽い寓話のような感触になってしまう

鈍く素朴で地味でさえず、もくもくと地面をみて歩くだけだが、じわっと下地となって社会を支えているようなそういう層の人達や、働き、また魅力、そういうものに対する愛情を感じない。きたないもの、半端なもの、どっちつかずで的を得ないもの、やたら単純なもの、半ば腐ったもの、ぐずぐずしたもの、…そういう諸相を村上文学はきちんととらえていない。

何かすっかりはっきりさばけすぎていて、よどんだりかすんだり、ただれたりしていない。文字でなぞっている部分があっても気持ちがそこには入っていない。しかし関係上にあるものはみんなこうした性質を備えていてそこからどうやっても自由になれないからうだうだ、くどくど、さばきも悪く、延々とさえない顔で続けるしかないのだ。年輪にはきっとこういう要素は入ってくるものだ。上昇や断絶、努力や均衡、前向きであるかさばけがいいか、傷ついて退いているか、そんないさぎよいものばっかというのは、関係性の現実味を欠いた現実感だと思う。自分がなにか決定的に足りないと思うのはそういう部分の切り落としをあまりにもさっぱりとしている(あるいは意識せずやっている)からだと思う。ぐずぐずとしたものはさっさと切ってしまえ、というのは潔いようだが、ぐずぐずを嫌悪しながら逃れられないのはなにも努力が足りないとは限らない、ぐずぐずにわざわざはまりたい人間はいない、意図せず知らぬ間にはまったのであり、多くの人にとって既に自由になれないところであり、それが怠惰や弱気やいい気などが原因とは限らない。人と人との不自由な関係性は目に見えにくいだけでそのようにぬきさしならない事情をもっているのが普通で。そういうものとぐずぐず、あるいは愚昧は近い関係にあり、だからけっしてあなどったり軽視できる性質のものではないと思う。こういうところを見ていないのか見えていないのか。

もううんざりだというような口調からすると、またあのきっぱりとした主人公を見るとこういうくすんで消耗していくような人生や人々などについてはほとんど関心がないのだろう。戦争や暴力などというが、また精神の孤独な苦難もあるが、こういう地味な困難を抱えた民衆のことは村上春樹クラスの作家がかりにも世界を語るなら抜きにできないはずだ。もっとほころびを、ただれを、腐れを、匂いを、もっとあかの溜まった表現をほしいところだ。さっぱり、すっきり、潔くというのは魅力だろうが、それでは世界は語れないし、重みも味も出てこない。だからマンガっぽく感じる。人生の重みというものを感じられない。

この要素が欠けているものはどんなに優れていようと文学の名に値しないと思うし、新しかろうが古かろうが、関係ない、滲み出てくるべきはずのものだ。

村上が人気があるのはこういうぐずぐずとして見栄えの悪い尻尾をひきずってないスマートさがあるからだろうか。だからファッショナブルな若者が好んで語るのか。それから都会的できれい好きのインテリに好かれる、それから人口的な空間の育ちの人間に受けるのか。 外国で受けるのは良く分からないが、外国でも一部の層に受けるのだろう。

現代は現代でも誰かが辺境で?畑で汗して野菜を作っているのに変わりはない。それを煮て食って排泄している器官もまた人間。自然。 人口社会はそういうものの上に成り立っているのは決して変わらない。

結果的に勝ち組に肩入れしているような…。負け組を見る暖かい目がない。それはもとから所属が勝ち組だからだ。挫折もあきらめも断絶も、村上さんの場合、勝ち組側の様態である。劣っているものにはもちろん、きっぱりせずぐずぐずした、ひきずられた、あるいは無意識のうちに時間の経過を見送った不用意だったそういう人生に目を向けていない。負け組に対する温かい目が無い。

きっかけを得るのは自力では大変だ、不可能とさえいえる。早いうちになにかしらつかまえるきっかけを得られた人はいい、求めても求めても得られず見送ったひとはどうなる。知の成果がまさか導き無しに誰にでも努力次第で得られるわけないし、そういう道筋に入ることさえ普通には難しく、迷っているうちに一般道を行くしかなくなる。きっかけさえない人のなんと多いことか。

まるっこく、鈍く、弱く、やさしいところがない女性ばかりで、いつもがっかりさせられる。

田舎の人間というものを知らない。 都会はいいが、田舎もないと都会もないのではないのか?

劣った人間、つまらない人間?いや実は純粋ともいえるのはこういう人たちで、その単純な力強さはある面では崇高なほどだ。実際地味に見えるが困難な仕事を着実になしとげていくのはこういう人達なのだ。驚くほど。

絵で言えば幻想的抽象画風でかっきりして中間色や濃淡の微妙がない感じ。背景も奥が深いようでいて狭い。ざれた肌合いや濁った色を極力嫌う感じの描き方。

「ありあわせ」を嫌いだとかいってもはじまらない。「ありあわせ」でもしのげてありがたいと思った経験が無いからこだわるのだろう。

しがらみを断ち切ることができないとはじまらないようだが、実際しがらみを断ち切れないところに生きるつらさがある。勇気がないといえばそうかもしれないが、しがらみから自由でない人は多いし、八方塞りがどこかに歴然としてある。他人の犠牲に成り立つ場合など。

世界を意識しているようでいて、若年層のしかも都会の人間しかその世界に対応していないような世界だ。内的なものはある面とても深いかもしれないが人生や社会がない。

それで子供っぽいというか、おじさん坊やみたいな感じがするわけだ

すごい才能なのだろうが、「世界的な作家」という評価に相応する貫禄がどこにあるのだろうか

星野くんのような運転手はほとんどいない。もっと単純で、どんなきっかけがあってもクラシックなど聞きはしない。違うだろ。ナカタさんも小奇麗過ぎるし、ささくれた田舎もんはいないんだなあ、といつも思う。

つまらないことでぐらぐらしない人間ばっかで、ある面バカにしっかりして断定調である。

コンプレックスを感じさせないと魅力がないと思うのだが。

そもそもが、相手がぶさいくだったら鼻も引っ掛けない、それではなにもはじまらないという世界である。

また、自分がモテることだけは信じて疑わないという、なぜかマジックが心にある。ここが迂闊だと意識することは無いのか?

いくら精神的にしのぎをけずる男女であってもブスに醜男だったら話にならない。すべてがそういう前提のない話だから人生がないわけだ。

ある種の差別意識を感じる。ぐずぐずして煮え切らないものへの嫌悪を感じる。

新しいはいいが、古いものを吸収していないで古いものから切れているだけでは、元も子もないという気がするが…。

こういうひとが世界的な作家であるのだろうか。

こういうのは才能があるとしても、どこまでいってもトッポイ男なのだという気がしてしまう。

悩みの出どこが深いだけでなく、すでに高尚なのだ、あるいはトッポイのだ。

田舎もんのひがみ・・・か?

不平不満ばかり、そして見下ろしたようなえらぶった言い回しまで出てしまったようで失礼。自分には本当は良く分からないところだらけで、見下ろした風なことは何もいえない(いえるわけがない)と思う。そういうつもりではない。

ある面ではものすごい人だと思うので、もう少し幅を広げてもらいたい。俗物と吐き捨てたい醜く劣った側にも人生があり、悩みがあり、出気の悪い人間だって一生懸命やっているし社会のためになっているし、そもそも自然の一環であるというような認識をもっとはっきり持ってもらいたい。その辺が欠落しているという自覚を持ってまわりを見直してもらいたい。自分が見えている部分では多くは語れないが、その辺だけは言えるような気がしている。そしてそういう大事なこと(ものすごく大事なことではないか!)を抜かしてあまりもっともらしく大きなことを語ってほしくない。まわりもあまりにもこの人を大きくイメージし過ぎのような気がする。

知識人は大体同じ側にいるので、おそらく自分の言うようなことに気がついている人が少ないはずだ。

知識人に対してはこういう正直で根源的なひとは強いだろう。考え方がおそらく借り物で無いから。でも、粗野で執拗な社会や厳しい生活環境などでもまれた経験は膨大な知識や鋭敏な感性だけでおぎなえるものではない。そして庶民にも通じる器の大きさ、それがないと大作家とはいえないと思う。

 

 


追記

2005-10-17 23:30:50 | 村上春樹
そうか。若者は最初はそういう読み方でも、悪くはないかもしれない。
文章の流れで下のように締めくくったが、全く外れていないにしても若者の受け止め方について自分の記したことは、ある一面について言えているだけかもしれない。