Lunatics in the air

with maniac love of SHINJI TAKEDA
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初夜(の、前夜)

2006-05-03 | 舞台「エリザベート」
5月3日です。

いよいよです。とうとう来てしまいました。
2006年日生版エリザ初日当日。
真治版トート閣下の初お披露目の日です。

真治君にとっては、初ミュージカル。
生オーケストラの演奏に乗る真治の声・・・・・・
・・・当日だけど、やっぱりいまだにピンと来ません(笑)

歌うことや、歌う演技をすることの鍛錬を積んできた、
劇団四季や宝塚や、音楽学校出身の人々のド真ん中で、
オフィシャルな舞台で歌ったことすらない真治君が
準主役を演じる、ということ。
2月くらいまでは、もうただそのことが頭から離れず、
期待よりも不安がどうしても勝っていました。
ずっとミュージカルを見てきている目の肥えたお客さんに
歌う技術だけで判定されたらムカつくなぁ、とか、
そういうことまで考えたりして。

でも、今はちょっと違う。

今はもう、真治君のトートを人がどう感じるかも含めて
どう転んでもいいや!という気持ちがしてます。

何か失敗したとしても、それも笑える気がする。
どういうものが出てきても、面白がれるような、
なにやら不敵で大胆な気分。
ここのところのインタビューで見る、
真治君自身の語る心境に感化されたのかな。

実際、舞台の幕が開いたら、
やっぱり真治君の1つ1つの動きや歌を
勝手にハラハラして見守っちゃうんだろうけど。


真治君が激ワル超ワルなトートを演じる舞台の上。
それを上や下から、良いご身分で眺めている私たち。

欲しいものを得るためにトートがひっかき回す世界。
まるで、真治君という異分子によって掻き回される
ミュージカルの世界の舞台の上のようです。


真治君の作る波紋が舞台上に波及していく先に
まだ誰も見たことのない、新しいエリザベートがあるなら
出来ることなら、それが生まれる場所に立ち会いたい。
生まれる瞬間を見ていたい。
そんな果て無き野望を胸に、
日生劇場に何度か足を運ぼうと思っているのです。

それになんと言っても舞台が映画よりも素敵なところは
見に行くと、そこに本物の真治君が居ること!!
そして真治君と、その場の空気を共有出来ること!!

行けば真治君に逢えることがわかってるのって、
やっぱなんだかんだ言ってすげーうれしい~♪♪

FC会報に載ってたポスター撮りの時の写真を見ると、
実はあの青黒い髪って前のほうだけで、
後ろ半分は髪の毛白いんですよね。びっくり!!
てっきりベースが青黒で、そこに赤と白のメッシュが
入っているのかと思ったら、むしろ逆で。
白ベースの上に青黒。で、その中に赤チラリなんだよね。

完成した宣伝写真では大きめの黒い上着を羽織ってるけど、
会報に載ってる写真には上着がない。
この姿がなんとも言えずグッと来るお姿で(笑)
人間、誰だって『ツボ』ってものがありますが、
この格好は、ポスターの写真以上に『ツボ』直撃。

衣装は場面によってかなりの枚数着替えるらしいですが
このアミアミの服(?)も舞台でも着るのかな??
・・・着て欲しい(笑)



さて。

真治トートについて、勝手に想像出来るのはこれが最後。
せっかくなんで、読んだ資料などをネタに
あーだこーだ好き勝手にトートについて書いちゃおう。

というわけで、
ここから先は「エリザベート」のネタばれが含まれます。











ところで、今、私の手元には2冊の本があります。

まず、東宝版「エリザベート」のパンフレット。
2001年の梅田コマ劇場で上映した際のものです。
初演が2000年なので、その翌年の再演時のもの。

これが分厚くてカラーページが多くて重くて大きい!
(ミュージカルのパンフって、みんなこんななんですか?
 他を知らないので、これが普通なのか特別なのかは
 私にはさっぱりわからないのですが・・・。)

厚さ:9ミリ程度
横:25センチ程度
縦:36センチ程度

内容も盛りだくさんです。
出演者の挨拶は、扮装写真のとすっぴんので2箇所。
衣装のデザイン画や舞台写真もカラーでドドーンと。
駐日オーストリア大使からの挨拶も丸々1ページあり。

他の国々でのエリザベートの舞台写真もあって、
これが結構、お国柄というか、解釈が違ってて面白い。
本家のウィーン版は、写真見る限り1番オーソドックス。
王妃は王妃らしく、皇帝も皇帝そのもの。
死神は柔らかなウェーブのかかった長めの茶色い髪で、
パッと見、ちょっと「王子」テイスト。

(ちょっと脱線。
 国によっては「黒い王子」という曲名で彼が歌います。
 「帝王」というのは本家の死神にはない肩書きで、
 日本版のポジショニングはもしかすると特殊なのかも。
 まあ、”トート”なんて名前付けちゃうこと自体が
 ものすごく面白い翻案だった気がするのですが。)

オランダ版は、すごいです。
写真上でトートらしき仕草をしている人を見ると
なんと、赤いビロードのタキシードとベストを着ていて、
髪型は、オールバックで後ろに束ねた長髪なんですが、
なんと、黒い頭に絵の具で書いたような赤い縞々が入って、
まるで不気味なスイカのようです。
そして、もんのすごーく、顔が濃ゆい。
日本人のイメージからすると、この死神はちょっと・・・。
なんでエリザベートがこの死神を魅力的だと思えるのかが
写真を見る限りでは、さっぱりわかりません。

他に、スウェーデン版とハンガリー版の写真もあります。
それぞれちょっとずつ演出意図が違うようです。
白いスーツの死神もいるし、黒衣に黒髪の死神もいる・・・。

各国の「エリザベート」に異なる点は多々あるでしょうが、
死神の位置付けが多分国によって1番違うんじゃ?

エリザベートや他の登場人物は実在の人物ですが、
この役だけは架空の存在で、かつ、
この舞台の鍵になるキャラクター。
だから、死神をどう捉え、どう描くのかは、
この話の心臓部だと言えるような気がします。

「死」と「エリザベート」との関係をど捉えるか。
「エリザベート」にとって、「死」とは何だったのか。
「死」とは、何を意味するのか。

トートが全然違うものになれば、
その他が全く同じであっても、全然違う世界が生まれる。
どうも「トート」って、そういう役な気がする。
私がもしも演出家ならば「トート」だけは
他のどのキャスティングよりも絶対にこだわって選びたいし、
「この人!」とズバリ思えるキャスティングしか許せない。

うわー・・・なんか、そう考えると、
真治君ってよっぽど惚れられたんだなぁ・・・・・・


日本の東宝版エリザベートの舞台写真の中で、
ページを開けて、まず、目に飛び込んでくる写真に、
トートと皇太子ルドルフのキスシーンがあります。
って、こんな写真に目が行くのは私が間違ってますか?(笑)

パンフレットの他に今ここにある、もう1冊の本。
演出家の小池修一郎氏の書いた、小説版「エリザベート」。
この中で、ルドルフを翻弄し操っていく場面は
奇妙に緊迫感と躍動感、悲しみの漲る美しいシークエンスです。
下手をするとエリザベート本人とのやり取りよりも美しいかも。

なんだかんだ言いつつ、エリザベートは結局、結構いい年まで
生きてしまうのに比べ、あっさりトートの手に落ちる彼は
儚くて潔く、一途で愚かで、そして痛々しくも悲しい。
そんなルドルフとトートとの会話は、いつも張り詰めていて
どこにも逃げ場が無く、むせるような死の匂いがする。
本を読む限りは、そんな感じがしました。

トートはルドルフなんか本当はどうでもよくて、
エリザベートの子供だから奪っただけなんだけど。
でもだからこそ、愛する人本人ではないからこそ、
トートの残酷なところが思いっきり出せるのかも。
なんてことも思ったり。

いっそ見ている私たちの魂を斬り裂いて散らすくらいに
鋭く尖った、鋭利な刃物のような、死神が見てみたいな。
人を切り裂く時にこそ光り輝くような、残酷で美しい死神が。


誰かを自分のものにしたいって気持ちは
結局、究極的には、誰にも完全に満たすことは出来ない。
心が通じても、いつかはどちらかが先に死んでいくし、
身体をつなげても、つながった別の身体のままだから。

誰かをほしいと思った瞬間に、
終わらない輪が出来る。
グルグル回り続ける輪。終わらない運動。
その追いかける気持ちを「恋」と呼ぶのだとしたら、
エリザベートに恋をしたトートが思いを果たす瞬間は
結局、恋の終わりをも意味するんじゃないだろうか。
人間同士の恋の成就は、生活へと繋がっているけど
トートの恋の成就は、どこにもつながっていないのだから。

手に入れた瞬間に終わる恋。
人間はものとは違う。だから、好きな人間を所有しても
永遠に心を満たしてくれるなんてことはあり得ない。
冒頭、登場するトートは孤独に見える。
目覚めたエリザベートを懐かしげに眺める様子からも
結局はトートが何も手に入れていないことがわかる。

なんか、散々悪いことして欲しい人を手に入れちゃった後で
そういう空しくて救われない感触が最後に残ったら
ひどく切なくていいですよね。
最初から不可能な恋愛って、萌えるものがあります。

でも、もしも、真治君の演じるトートが
欲しいものをねだる駄々っ子のような存在であれば、
「やったー!」で終わったりするっていうのもいいかも♪
手に入れた後のことなど思わず、満足げに微笑んでたりとか。
うん、それもいい!!(><)


ああ、どんなトートが舞台で待ってるんだろう。
早く逢いたい!


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