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さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【阿弥陀如来を考える その4】サルブツ通信再録

2020-06-16 18:32:30 | 仏教講座
お約束通りに、今回は、阿弥陀さんに「救われる」とは、どういうことなのか?
それを考えてみたいと思います。
おそらく、一回では終わらないと思いますので、のんびりとお付き合いください。


とりあえず、私たちが阿弥陀さんに「救われる」とはどういうことなのか、思い付くことをならべてみましょう。
と、その前に、一つだけ前提条件を理解しておいてください。
それは、
「阿弥陀如来の救済は、すべての人間に平等に、かつ、無条件で与えられるものでなければならない」
ということです。
これは、非常に重要なポイントです。
詳しくは、いずれ説明するかもしれませんが、「平等かつ無条件」が親鸞聖人の真骨頂です。
この前提を忘れて考えると、茶番劇が始まります。


それでは、話を戻します。


阿弥陀さんの「救済」の内実として、まず第一に思い浮かぶのは、やはり、①「死んだらお浄土に往生して成仏できること」ですか?
一応、浄土教という立ち位置にいるわけですからね。
しかし、これ、すべての人間に「平等かつ無条件」に与えられますか?
結論だけ言えば、「与えられる」んですが、浄土真宗のお坊さんに「すべての人間が往生して成仏する」と言うと、
「そんなことはないだろ、念仏しなければ、浄土には行けないよ」
と、反対される場合の方が、むしろ多いです。
「念仏しなければ、往生できない」
これは、思い込みであり、刷り込みであり、商業主義であります。
つまり、念仏するセクトに信者を誘導するための、意図的な誤読による洗脳の結果なのです。
プレーンな脳味噌で論理的に考えれば、
「人は、死んだら、往生して成仏する」
という、普遍則が理解できるはずです。
まあ、「念仏」「往生」「成仏」については、そのうち考えましょう。


次に、これまでお話ししてきたように、阿弥陀さんは「私が存在する原因のすべてである」というところから考えると、
②「生まれてこられたこと」
③「生きていられること」
ということも、阿弥陀さんに救われている、ということだと言えそうです。
ちょっと、表現が陳腐かもしれませんが、
②「私は、阿弥陀様の働きによって、この世に生まれてくることができた」
③「私は、阿弥陀様の働きによって、今、生きていることができる」
と、まあ、この辺りが万人共通の阿弥陀如来の救済の内実でしょうかね?
人生に即して並べ替えると、②③①の順になるけれど。


整理すると、
「人(私)は、阿弥陀様の働きによって②生まれ、③生き、そして①成仏する」
つまり、私たちの人生そのものが、阿弥陀如来の救済の内にある、ということですね。
当然ですね。
私が存在する原因のすべてなのですから。
阿弥陀様に生かされて生きる私、ですね。


ここで、唐突ですが、話をお釈迦様に戻します。


お釈迦様の教えを簡潔にまとめると、
1 人間は死んだら生まれ変わることはない。
2 だから、ありもしない来世のことなどに惑わされずに、今生の苦しみから逃れることに専念しなさい。
3 そのためには、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きることだよ。
ということになります。
これだけです。


1を理解し、3によって、2の「今生の苦しみから逃れること」が達成されれば完成です。
宗教色は絶無ですね。
人生の指針とでも言えば良いのかな?


しかし、これ、言うのは簡単だけれど、達成するのは非常に難しいんですね。
誰も、お釈迦様の域には到達できない。
1を理解することすら難しい。
3で躓くので、2が見えない。
自分の力では、どうにもならないものだから、頼るべき縁を求めて、信仰対象としてのお釈迦様や、大乗仏教の無数の仏・菩薩が生み出されたのではないかと思います。
かくして、仏教は宗教となるわけですね。


「自分の力での123達成」をあきらめて、「仏の力を借りて123達成」を目指す、という方向に、仏教のベクトルが変わったのです。
しかし、お釈迦様の教え「123」は変わりません。
なので、「①②③」と「123」は密接に関わっています。
というか、ゴール設定の時間軸が違うだけ?
まあ、本日のところは投げっ放しにしておきますので、お考え下さい。

(見真塾サルブツ通信Vol.0007より)


【阿弥陀如来を考える その3】サルブツ通信再録

2020-06-16 10:44:34 | 仏教講座


阿弥陀さんの話が続きます。
しつこいですか?
当然です。
信仰の対象を知らずして、どうして信仰が語れるのでしょう?


「阿弥陀さん?知ってるよ。キンキラでパンチパーマの、チョロ髭生やしたおっさんでしょ。」
という程度の理解?から一歩も出ていないくせに、
「阿弥陀さんを信じて、おまかせするんです。」
とか言ってるやつ、多いですね。
詐欺師以下のクズですね。
阿弥陀さんのこと知らないのに、「歎異抄」読んで、
「親鸞聖人は弟子一人ももたずと仰ったんです。」
とか言って気触れてる人、多いですね。
他の表現が見つからないので言いますが、アホですね。


親鸞聖人がどんな表現をされたのか、なんてことは、どうでもいいんです。
我々の関心事は、親鸞聖人が何を表現されたかったのか、ということなのです。
親鸞聖人が、
「何をどのように信じたのか?」
それを明らかにするのが、真宗学の目的です。
そのための手掛かりが、親鸞聖人の御著書や経典類なのです。
ですから、「どのように」を考える前に、「何を」を掴んでおかなければなりません。


とはいうものの、「何を」の答は「阿弥陀如来」と決まっています。
そうですね。
それでは、阿弥陀さんは、海のものですか?山のものですか?


例文
「私は水を一息に飲んだ」
この場合、「何を」は水ですね。
ところが、水の代わりに砂だったらどうでしょう?
例文は、おかしな文だということになります。
仮に水だったとしても、それが沸騰水だったとしたら、どうなりますか?
大やけど、へたすれば死にますね。


「何を」をはっきりとさせることは、行為としても、思考としても、とても重要なのです。
だから、「どのように」を考える前に、目的である「何を」をはっきりと理解しなければなりません。
つまり、阿弥陀如来という仏様の性質を詳らかに理解しておかなければならないのです。


親鸞聖人が「わからない」と仰っているんだから、わからくていいんだ。
だとか、わからないことを考えるのは無駄なことだと、その大切なところを捨て置き、先に進もうとするなどは、まさに、愚の骨頂だと言わなければなりません。
出発から間違っているのだから、何も組み立つわけがありません。
このことは、肝に銘じておいてください。
学んだすべてが、使った時間が、無意味ということになります。


そんなわけですから、ごめんなさいね、阿弥陀様にこだわります。


「阿弥陀様が造物主だとして、何が悪い?」
というのが、前回の結論でしたが、そうでないと、阿弥陀さんが阿弥陀さんでなくなってしまいます。
阿弥陀様が、存在の原因である「縁起」という働きそのものであるならば、それは無限に連鎖する働きであり、すべての事象が阿弥陀様を原因として存在することになります。
つまり、「造物主」です。
「主」という言葉に人格を感じてしまうというのであれば、「造物システム」だと言っても構いません。


ところで、阿弥陀如来は、「すべての人間を救いたいと願い」「すべての人間を救うことができる」仏様です。
それが可能であるためには、すべての人間を包摂できる存在でなければなりません。
したがって、有限である人間に対して、阿弥陀如来は無限です。
無限であることによって、有限(すべての人間)をすっぽりと、外側から、逃すことなく、包み込むことが担保されるのです。
また、その無限の働きは、有限(すべての人間)の存在原因となる働き(縁起)です。
私たちが、それによって生みだされた、そんな無限です。
私たちを生み出し、育み、存在させている無限、そんな無限だからこそ、私たちを「救済」することができるのです。
生み、育てたから「救うことができる」と、言明することができるのです。


親は、子供を産み、育てますが、救うことはできません。
それは、親ではあっても、子供が生まれ育つ原因の、ほんのわずかな一部分でしかないからです。
阿弥陀様は、原因のすべてです。
だからこそ、救うことができるのです。


阿弥陀如来が「造物主」=「無限」でなければならない理由が、そこにあります。


「救済」「救う」「救われる」ということについては、いずれ、まとめて考えてみたいと思います。
いや、これを抜きにして「阿弥陀如来」は語れませんね。
次回か?


ちなみに、江戸時代後期(琢如上人時代ごろ)の東本願寺製の阿弥陀さんは、頬がこけ気味の小顔に、怪しげな目をしていて、チョロ髭の具合も絶妙で、良い感じにヤクザなおっさん風で、私は好きです。

(見真塾サルブツ通信Vol.0006より)

【阿弥陀如来を考える その2】サルブツ通信再録

2020-06-15 19:31:59 | 仏教講座
阿弥陀さまには、謎が多い。
まあ、それは確かです。
私にとっての一番の謎は、生きてる人間を幸せにしてくださるための阿弥陀さんが、何故、一般的には、冥府の主というか、死後の世界担当の仏様になってしまったのか?と、いうことです。
もしかすると、パクリ元の阿弥陀如来は、冥府の主だったりするのだろうか?
だとか、
もしかすると、阿弥陀さんに死後を担当していただくことによって、お釈迦様亡き後の輪廻問題に終止符を
打ったのではないか?
なんてことを考えたりもしております。


それはさておき、前回、
「阿弥陀如来とは、この世界のすべての事象の存在の原因である」
と、言いましたが、これ、表現を変えると、
「阿弥陀如来は造物主である」
と、言えなくもありません。
なので、私がこれを口にすると、
「それじゃあ、君は、阿弥陀如来とキリストの神が同じだと言うのかね?」
だとか、
「それじゃあ、キリスト教の神と同じになるじゃないか!」
と、御批判をいただくことが多いです。


ここで、問題は、そう批判する仏教の人たちが、根拠なく、良く知りもしないで、キリスト教を見下していそうなことです。
「仏教は理性的で優れた宗教だが、キリスト教は下劣で野蛮だ」
「仏教とキリスト教を同じところで語らないでくれないか、レベルが違うんだから」
なんて、無意味な優越感がダダ洩れしています。


そんな時には、静かに質問させていただきましょう。
「阿弥陀如来とキリスト教の神が同じだと、何かまずいことでもあるんですか?」と。
この質問に対する合理的回答は、これまで一度もいただいたことがありません。
だって、不味いことなど何もないんですから。
こんなところでジョン・ヒックなど持ち出すのは野暮ですから、持ち出しませんが、特に、浄土真宗の阿弥陀如来観による阿弥陀如来(まあ、親鸞聖人にとっての阿弥陀様と言ってもいいかも)は、キリスト教の神(ゴッド)と酷似しています。
だからこそ、その昔、イエズス会宣教師が真宗門徒を聞き取り調査して、
「一大事です!すでに日本には、プロテスタントが山ほどいます!」
という報告を、ローマにしているのです。


私も随分と実験させてもらいましたが、新約聖書中心のキリスト教と浄土真宗の教義は、翻訳を通すと区別がつかなくなります。
浄土真宗の教義を知らない宣教師が、翻訳を通してそれを聞いたとすれば、
「なに、それ、もうプロテスタントがいるんじゃん。」
と思ったとしても、何の不思議もないのです。


新約聖書の「神」と阿弥陀如来の働きと世界観は、酷似しています。
阿弥陀如来は「神」(これ、日本やヒンドゥーの神様とは、全く別物なので「」つけてます)である!と、言明しても差し支えないと思えるほど、同じです。
しかし、旧約聖書の「神」と阿弥陀如来は断絶しています。
まったくの別物で、共通項は皆無です。
と、いうことは、新約の「神」と旧約の「神」も、別物であり、接点は無い、はずなんです。
が、不思議なことに、新約の「神」と旧約の「神」は同一の「神」なんですよ。
この辺りが、キリスト教のジレンマというか、問題点になるのですが、我々の問題ではないので割愛します。


ところで、「神」と阿弥陀さまとの間には、非常に大きな違いもあります。
それは、「神」には「人格(神格)」があるっぽい、というところです。
阿弥陀さまは、非人格、完全に人格を解脱した存在ですからね。
つまりは、「働き」であり「システム」なわけです。
なのに!で、あるのに!
阿弥陀如来が擬人化されたりもしているものだから、つい、阿弥陀さまが人格をお持ちであるような錯覚に陥ってしまうというようなことが、まま、あるように思います。
迷惑ですね。
はい、迷惑でした。


そんなわけで、論理は屁理屈を許さない、というのが、本日の結論、ではありません。
本日の結論は、
「阿弥陀様が造物主だとして、何が悪い?」
でした。

(見真塾サルブツ通信Vol.0005より)

【阿弥陀如来を考える その1】サルブツ通信再録

2020-06-15 14:33:44 | 仏教講座
阿弥陀様について考えてみたいと思います。
これ、実は、考えると怒られます。


私は、偉い先生方に、
「結局、阿弥陀さんって、何なんですか?」
と、質問しまくって、随分と切れられました。
「言葉で説明できるようなことではないんだ!」
いや、説明してよ。
「頭で考えてわかるようなことではないんだ!」
頭以外で考えられる?ブルース・リーかよ。
「親鸞聖人だって、不可称、不可説、不可思議だと仰ってるんだから、君ごときにわかるわけがないだろ!」
わからないから聞いてるの。わかりたくないの?


東本願寺を代表するような先生方に詰め寄っては、盛大に叱られました。
懐かしく、微笑ましい思い出です。
別に、ほろ苦くはないですよ。


親鸞聖人だけを見ていると、わからないものなんですね。
わからなくても困らないのかもしれません。


だが、私は困った。
阿弥陀如来さまは、私の信仰対象です。
得体のしれないものを信仰できますか?


そう迫ったこともありました。
「君ねえ、信仰は理屈じゃないんだよ!」
と、叱られました。
行の無い真宗から、理屈を取ったら空っぽです。
「お前、頭大丈夫か?自分の言ってること、わかってるのか?」
と、思いました。
「せめて、なぜわからないのか、ということくらいは、わかりたくねぇか?」
と、切実に思い、そこに拘ることにしました。


繰り返しますが、これ、親鸞聖人だけを見ているとわかりません。
最終的には、わからなくても困らないし、わかる必要もないのですが、その理由もわかりません。
しかし、親鸞聖人から遡り、お釈迦様にたどり着いて、お釈迦様から、親鸞聖人へと、また戻ってくるとわかります。


前回までの話で、いくらかは理解していただけていると思います。
そういうことなんですよ。
そういうことなので、結論だけ言います。


阿弥陀如来とは、この世界のすべての事象の存在の原因である。
ちなみに、それは「無限」であるために、私たち人間の能力では、捕捉・認識できない。
と、まあ、こういうことです。


「この世界のすべての事象の存在の原因」が信仰の対象として、象徴化・擬人化され、その「無限」であるという特質に基き、「阿弥陀如来」と名付けられた、とも言えますね。


余談ですが、この「阿弥陀如来」というお名前は仏教のオリジナルではなく、よそにちょうど良い神様がいたので、名前だけパクってきたのだという説もあります。
どっちでもいいよね、そんなことは。


ほぼ前置きで終わりますが、本日はここまで。


卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍
また、ご質問いただきました。


Q 「そのものの外部」が成り立つなら「そのもの」も成り立つ訳で、つまりそれは「我」ではないかと思ったのですがご教授ください。
A 「我(アートマン)」は存在しませんが、「我(自self)」は仮定として存在します。


これ、素晴らしいご質問です。
何かと思わせぶりな私ですが、悩んでいただきたいポイントです。


「内部・外部」や「自・他」という区別は、本質的にはナンセンスな分別です。
しかし、私たちが、「我(自self)」だと認識できる肉体と精神をもって生まれてきてしまったこと、その「我(自self)」を「個」として、社会的存在であり続けなければならないこと、それが悲劇のはじまりです。
「そのもの」と「外部」は、実際には切り離し不可能です。
だから、「我(自self)」は仮定でしかないのです。
「一切のものは縁起によって生じる」と考えるのが仏教ですが、縁起によって生じたものが「単独の存在」になるわけではありません。
つながったままなのです。
だから、外部と切り離された「我(自self)」は仮定であり、妄想です。
そこに、「絶対他力」という発想が開かれるわけですが、悩ましいですね。

(見真塾サルブツ通信Vol.0004より)

【縁起は無限に連鎖する】サルブツ通信再録

2020-06-15 10:02:36 | 仏教講座
お釈迦様が、
「人は死んだら、もう、生まれ変わることはない」
と、覚られたのは、この世界のすべての事象を存在させる「縁起」というシステムを発見されたからです。
「すべての事象は、その外部に原因を持つ」
ということになるわけですが、外部の原因(概ね複数)それぞれにも、また、原因が存在します。
外部の原因の原因にも、当然、原因が存在します。
原因のない原因は存在しえないので、この連鎖は、どこまでも続きます。
すなわち、無限に連鎖します。
この、「無限に連鎖する」ということが、大きなポイントです。


連鎖する「無限」の全貌は、人間には、決して知りえることができません。
どこまで頑張ったとしても、必ず人間の認識領域を凌駕するのが「無限」です。
つまり、事象を存在させるところの原因は、厳密には「不可知」なのです。
「すべての事象は、不可知である原因によって存在させられている」
ということになります。
これ、覚えておいてくださいね。


ここで、話題を変えますが、自分とは何でしょう?
難しい問題ですね。
はっきりとした答えは、なかなか出てこないと思います。
私も、わかりません。
そこで、ひとまず、普遍的な条件で仮定しましょう。
自分とは、皮膚に覆われて、外界とは区切られている範囲だということにします。
要するに、皮の内側、肉体ですかね。
「肉体は有限でも、精神は無限だ!」
だとか、
「自分のテリトリーも含めて自分だ!」
などと力説されても無視しましょう。
精神と不可分である肉体が自分であり、自分という領域であるとしましょう。
普通、毛を除けば、皮膚の外側にあるものが自分だとは思いませんよね?
パンツは自分ですか?
パンツを履いた自分ですね。
が、そこは深く追求しません。


自分を、そこに宿る精神なるもの含めて、この身体だと仮定すると、この世界には、自分と「自分でないもの」すなわち、内部である自分と「自分でない外部」が存在することになります。
そう仮定したところで、縁起という方程式を当て嵌めます。
「自分は、自分でないものを原因として存在している」
さらに、原因が無限に連鎖をすることを加えて考えると、
「自分は、自分でないすべてのものを原因として存在している」
と、いうことになります。
これが、縁起というシステム上の自分観、つまりは、仏教的自己存在観の出発点となります。


ここから先は、そのことを「どう表現するか」という、表現論や、「自分とは果たして本当に自分なのか」という仮定の再確認となっていくわけです。


「自分も、つまるところは、自分でないものなのではないだろうか?」
というところまで来ると、「他力」というものが、うっすらと姿を現し始めます。
が、まあ、そこには、今は触れないことにしまて、話しを戻します。


「自分は、自分でないすべてのものを原因として存在している」
と、言われてイメージが湧きますか?
できれば湧いていただきたいと思いますが、宗教っぽくないですよね。
それでいいのです。
だって、お釈迦様の仏教は、宗教ではなかったのですから。


信仰の対象を持たないお釈迦様の教えは、宗教ではありません。
お釈迦様を信仰の対象として、仏教を宗教化したのは、お釈迦様よりも後の人たちです。
誰だかは知りません。
お釈迦様の生前からそうだったのか?没後にそうなったのか?
それも知りません。
知りたくもありませんが。


私たち大乗仏教の徒という立場から言えば、仏教を、はっきりと宗教化した方々の代表は、龍樹菩薩であると言っても良いでしょう。
龍樹菩薩は、「自分は、自分でないすべてのものを原因として存在している」という命題を、
「私は空である」
と、表現しました。
要するに、「自分でないすべてのものが原因である」ということを、
「空」
という言葉で表現仕切ったということです。
しかし、まだ、宗教っぽくないですね。
哲学的な雰囲気は、かなり濃いようですが。
そして、龍樹菩薩は、
「空なる如来」
と、「空」=「如来」であると主張し、さらに、
「故に私は(空なる)如来に帰依する」
と、宣言したわけです。


お釈迦様ではない「空なる如来(仏)」への帰依。
自らの存在の原因を如来として崇敬する。
いやあ、宗教になりましたね。
お釈迦様を信仰の対象とするのではなく、お釈迦様が発見したシステムを信仰の対象としたわけです。
これ、画期的な出来事ですからね。


ちなみに、私は、空如来というお名前の仏様を存じ上げません。
いらっしゃったらごめんなさいですが、どなたか、御存じですか?
ま、そんなのどっちでもいいことですが、そんなことより、先に進みます。


「自分でないすべてのもの」は無限ですから、「(空なる)如来」は、「無限である」という性質を持っていなければなりません。
お分かりですか?
え?って言わないでね。
ここは、かっちりと理解しておいてください。


「名は体を表わす」という言葉がありますが、原則として、仏様は、その性質が、お名前となっておられます。
龍樹菩薩が帰依された仏様は、「無限」という性質を持っておられますね?
さあ、ここまで来れば、皆さま、すでにお気付きのことと思います。
「無限」というお名前の仏様、いらっしゃいますよね?
「無量寿(無限の命)」「無量光(無限の働き)」
そう!阿弥陀如来さまでございます。


本日は、ここまで。
阿弥陀さんのお話は、また、次回にでも。

見真塾サルブツ通信Vol.0003より