さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【縁起は無限に連鎖する】サルブツ通信再録

2020-06-15 10:02:36 | 仏教講座
お釈迦様が、
「人は死んだら、もう、生まれ変わることはない」
と、覚られたのは、この世界のすべての事象を存在させる「縁起」というシステムを発見されたからです。
「すべての事象は、その外部に原因を持つ」
ということになるわけですが、外部の原因(概ね複数)それぞれにも、また、原因が存在します。
外部の原因の原因にも、当然、原因が存在します。
原因のない原因は存在しえないので、この連鎖は、どこまでも続きます。
すなわち、無限に連鎖します。
この、「無限に連鎖する」ということが、大きなポイントです。


連鎖する「無限」の全貌は、人間には、決して知りえることができません。
どこまで頑張ったとしても、必ず人間の認識領域を凌駕するのが「無限」です。
つまり、事象を存在させるところの原因は、厳密には「不可知」なのです。
「すべての事象は、不可知である原因によって存在させられている」
ということになります。
これ、覚えておいてくださいね。


ここで、話題を変えますが、自分とは何でしょう?
難しい問題ですね。
はっきりとした答えは、なかなか出てこないと思います。
私も、わかりません。
そこで、ひとまず、普遍的な条件で仮定しましょう。
自分とは、皮膚に覆われて、外界とは区切られている範囲だということにします。
要するに、皮の内側、肉体ですかね。
「肉体は有限でも、精神は無限だ!」
だとか、
「自分のテリトリーも含めて自分だ!」
などと力説されても無視しましょう。
精神と不可分である肉体が自分であり、自分という領域であるとしましょう。
普通、毛を除けば、皮膚の外側にあるものが自分だとは思いませんよね?
パンツは自分ですか?
パンツを履いた自分ですね。
が、そこは深く追求しません。


自分を、そこに宿る精神なるもの含めて、この身体だと仮定すると、この世界には、自分と「自分でないもの」すなわち、内部である自分と「自分でない外部」が存在することになります。
そう仮定したところで、縁起という方程式を当て嵌めます。
「自分は、自分でないものを原因として存在している」
さらに、原因が無限に連鎖をすることを加えて考えると、
「自分は、自分でないすべてのものを原因として存在している」
と、いうことになります。
これが、縁起というシステム上の自分観、つまりは、仏教的自己存在観の出発点となります。


ここから先は、そのことを「どう表現するか」という、表現論や、「自分とは果たして本当に自分なのか」という仮定の再確認となっていくわけです。


「自分も、つまるところは、自分でないものなのではないだろうか?」
というところまで来ると、「他力」というものが、うっすらと姿を現し始めます。
が、まあ、そこには、今は触れないことにしまて、話しを戻します。


「自分は、自分でないすべてのものを原因として存在している」
と、言われてイメージが湧きますか?
できれば湧いていただきたいと思いますが、宗教っぽくないですよね。
それでいいのです。
だって、お釈迦様の仏教は、宗教ではなかったのですから。


信仰の対象を持たないお釈迦様の教えは、宗教ではありません。
お釈迦様を信仰の対象として、仏教を宗教化したのは、お釈迦様よりも後の人たちです。
誰だかは知りません。
お釈迦様の生前からそうだったのか?没後にそうなったのか?
それも知りません。
知りたくもありませんが。


私たち大乗仏教の徒という立場から言えば、仏教を、はっきりと宗教化した方々の代表は、龍樹菩薩であると言っても良いでしょう。
龍樹菩薩は、「自分は、自分でないすべてのものを原因として存在している」という命題を、
「私は空である」
と、表現しました。
要するに、「自分でないすべてのものが原因である」ということを、
「空」
という言葉で表現仕切ったということです。
しかし、まだ、宗教っぽくないですね。
哲学的な雰囲気は、かなり濃いようですが。
そして、龍樹菩薩は、
「空なる如来」
と、「空」=「如来」であると主張し、さらに、
「故に私は(空なる)如来に帰依する」
と、宣言したわけです。


お釈迦様ではない「空なる如来(仏)」への帰依。
自らの存在の原因を如来として崇敬する。
いやあ、宗教になりましたね。
お釈迦様を信仰の対象とするのではなく、お釈迦様が発見したシステムを信仰の対象としたわけです。
これ、画期的な出来事ですからね。


ちなみに、私は、空如来というお名前の仏様を存じ上げません。
いらっしゃったらごめんなさいですが、どなたか、御存じですか?
ま、そんなのどっちでもいいことですが、そんなことより、先に進みます。


「自分でないすべてのもの」は無限ですから、「(空なる)如来」は、「無限である」という性質を持っていなければなりません。
お分かりですか?
え?って言わないでね。
ここは、かっちりと理解しておいてください。


「名は体を表わす」という言葉がありますが、原則として、仏様は、その性質が、お名前となっておられます。
龍樹菩薩が帰依された仏様は、「無限」という性質を持っておられますね?
さあ、ここまで来れば、皆さま、すでにお気付きのことと思います。
「無限」というお名前の仏様、いらっしゃいますよね?
「無量寿(無限の命)」「無量光(無限の働き)」
そう!阿弥陀如来さまでございます。


本日は、ここまで。
阿弥陀さんのお話は、また、次回にでも。

見真塾サルブツ通信Vol.0003より


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