いくつかの若い当事者のブログを拝見して、現実を変えようと一生懸命前に進んでいる姿に励まされています。私の移行は経済的基盤も、法律も、医療も、ちょうど整った時だったので自分の思い通りにできました。今の若い人が、何も未来の生活の保障もない中一生懸命性別を変えるために家族や学校に理解してもらおうとがんばっていることは、私より大変な壁があるのだと思います。幸運の中すべて終えた私が、個別の当事者にコメントするのも上から目線の説教のようでいやらしいので、上から目線で書ける自分のブログで勝手に助言します。
今、思うようにいかない当事者の方へ
親に理解してもらえない、学校では心情は理解してくれても実際の対応は変化しない。先の見えないつらさと戦っていることと思います。
それは、あなたのせいではない。相手の無理解のせいです。
けれども、一生懸命もがいて、その結果うまくいかなかったとしても、次のステップにつながることがあります。また、その時はうまくいかなくて悔しかった結果が、何年後かに「あの時うまくいかなかったからよかった」と思える時がくることがあります。
そのような私のうまくいかなかった時の話をいくつか紹介します。思い通りにいかない状況が実は後々のいい結果をだすこともあるということをイメージしてもらえたらと思います。
あきらめないで。希望を失わずに。
・高校選び
制服、髪型の校則がいやだった私。私の住む地域(関西某地域)では当時私服は私立の超難関校、それも男子高しかありませんでした。中3の夏頃、新聞か何かで紹介されていた関東圏の自由な校風の学校に惹かれ、そこでの生活を夢みます。母親も興味を持ち、どうしても行きたいのならと、母親が東京に行く用事があるついでにその学校を見学に行きました。ところが、授業が成立しないようなモラルのない学校で、見に来た母親に生徒から「ここはやめておいたほうがいい」とまで言われる始末。それでも校則がないことにあこがれましたが母親を説得するまでには至らず、地元の公立高校に進学しました。
けれども、ここでとってもすばらしい経験をたくさんできましたし、何よりここでの学びのおかげで、希望する大学に進むことができ、今の職につくことができています。私の当時の性格なら、もし関東で下宿していたら、「女の子」には早い時期になれたかもしれませんが、今の仕事には到底つけなかったでしょう。
・大学不登校時代
性別のことだけではありませんでしたが、人と会うのがいやになり学校に行けなかった時代。以前書いたかもしれませんが大学は卒業まで7年もかかりました。今の制度ではだめかもしれません。学校に行けなくなった時、2、3年生の頃は、学校をやめて夜の仕事につくほうがいいのか、少し悩みました。(当時は)大学の指導教官はじめ、いろんな人に違和感のことを相談しました。大学に女性で通うなどという選択肢はあの時代私にとってはありませんでしたから、(すでにその頃そういう生活を実践していた人はいたようですが、知りませんでしたし、できるなんて思いませんでした)男としてがんばって学校に通うか、やめて夜の仕事をするかしか選択はありませんでした。
新学期には、心機一転「がんばります」と言って次の週にはもう学校には姿を見せない。「4月と10月だけの男」と陰口をたたかれていたことも数年ありました。人間づきあいもなくなり、大学4年の時の年賀状は私宛には1枚もありませんでした。数年前離婚していた母親がそのころ再婚、同居していた兄も婚約相手の家によばれていってて、お正月はたった一人で家にいて、他の人宛の年賀状をより分けていました。
あの日が人生のどん底でした。(今私が死んでも誰も本気で悲しく思ってくれないだろう。けれど、死を選ぶ勇気もない私はどうしようもない。)
そう思っていました。
けれども、卒業するしか道はない。あの日の辛さが、今の私を支えてくれています。
20年前のたった一人のお正月が、あの日が、今の人生のスタートでした。
お正月明け大学に久しぶりに登校。心理学の研究室なのに、久しぶりに勇気を出して足を踏み入れた私に厳しい指導をする教官。授業に出始めると、過去迷惑をかけた友だちや後輩(グループ学習の欠席や約束を破ったり、共同で出すレポートの私分ができなかったことなど)から白い目でみられながらの学校。
歯を食いしばったというより、石垣を爪でのぼるような感じの数年間でした。
よく当事者仲間に話しますが、もし、今の時代なら絶対在学中に性別を変えていました。けれども、学校に行けなかった根本的な感覚(がんばることの調整がうまくできないとか、空想の世界に逃げるとか)を克服できなかったと思うので、卒業はできなかったと思います。誤解をおそれないで表現すると「性別違和感」という逃げ道がなかったから、自分の弱さを克服できたと思います。
・左遷?
就職で北海道へ。最初の赴任地は札幌近郊の都市でした。そこで十分な評価をもらえず、数年後まだ異動時期ではないのに異動を勧められます。その時、上司から提示されたのは、その都市内での異動でしたが、私はおもいきって地方での勤務を希望しました。今はそのような異動はふつうですが当時はほとんどありませんでした。ほとんどの人に反対されました。私は、当時「もし性別を変えるなら地方の方が変わりやすい」という変わった信念を持っていました。勿論異動してすぐ変わるというような腹は決まっていませんでしたが、結果的にはこの傍から見て左遷としかいいようのないような異動が、自分の性別移行にプラスにはたらきます。
異動先は「村」でした。村にはプライバシーはありません。ある意味、みんな家族です。勿論、きれいな部分ばかりではないですが、とってもよくしてもらいました。
移行しはじめた時には、ある上司(Aさん)からかなりひどいことを言われました。けれども、最後まで「性別の移行」と「仕事」の両立を認めなかったそのAさんも、私の見えないところで私を守ってくれていたことを後で知りました。
その他、左遷先の「村」は、村のために一生懸命やる人を温かく、そして本気で支えてくれた人達の集まりでした。ある時期から、事情を知らない地域の方々からの私への「髪切れ」コールがばったりなくなりました。その時は、「もう諦めた」と言われましたが、村の有力者の方がおさえてくれたようです。
・髪を切る
私は移行し始めた頃、パスできると思っていなかったので、ある時点では職場全体、すなわち村全体にカムしないといけない時がくると思っていました。結構髪を伸ばしてきた頃、それまで理由も聞かず許してくれていた上司(Bさん)が、理由を聞いてきました。それで事情を話したら、その上の上司(Aさん、上で触れた方)にその話が伝わって、電話先で激怒されました。最初に話したBさんは、私からの話を聞き、理解しようと自分で本を探して買って読んだりしてくれたほどの方だったのですが、やはり移行は難しいと言われ、髪を切るように言われます。それほどまで私のことを考えてくれたBさんからの言葉ならと、ひとまず髪を切ることになりました。(けれども、また伸ばしていくのですが)
それ以降は、密やかに手を打っていきます。カムはしないようにし、時を待ちました。その間に、私と初めて会う人に性別を間違えられることが多くなり、「もしかしたら埋没でいけるかも」と思い始めます。その頃、さらに上のほうの上司で理解を示してくれる方が表れ、状況が変わっていきます。埋没での移行を進めていくことができるようになりました。
もし、移行当初に職場が理解を示してくれていたら、私はカムしての在職トランスとなっていたでしょう。最初の数年間理解してくれなかったことで埋没が可能になりました。
・休職
村の勤務が長くなり、そろそろ転勤時期となりました。転勤を機に仕事上の性別を女性にできるようにと、治療も外見も準備してきましたがうまくいかず、2年間の休職を受け入れざるを得ませんでした。
けれども、この期間、ボランティアをさせていただいたり(2年目はほぼ毎日)、知人のお手伝いさせていただいたり、など、ノンカムでいろんなコミュニティに関わる機会がありました。ノンカムの友だちも初めてできました。
リード恐怖をかなり少なくすることができました。
・復帰先
休職後復帰したのは、私が希望していた(誰も希望しないような)地方の小さい職場ではなく、上の方の人の配慮の結果札幌の大きな職場でした。そして、今まで自分の経験したことのない業務でした。けれども、以前書いたように、今充実した毎日を送れていることは勿論、ここでの経験が今後の仕事への大きな財産、強みになりつつあります。もし、希望通り前回の職場と同じような地方の小さい職場に配属されていたら、充実はしたかもしれませんが、自分の仕事の幅がここまで広くなることはなかったです。
また、大きな職場は最初とても辛かったです。大部屋に60人くらいが一同に入っています。誰が味方か嫌われているか、陰でどんな噂をされているか、今でもまったく分かりません。そんな中で最初はとんがったり、個性を消したり試行錯誤でしたが、だいぶん自分のペースをだせるようになってきました。また、ちょうど同年代の女性の同僚がたくさんいて、それぞれ個性的なので「(性別にこだわらず)自分らしくでいい」というモデルになりました。「女性」としてふつうに仕事できるようになるには最適の規模でした。
あなたの一生懸命な行動は、あなたが感じている以上にまわりに波動を起こしています。
あなたのがんばりに、励まされている友だちが、必ずいます。
自信を持って。
未来に向かって今一番大事なことをおそろかにすることだけはしないでね。
今、思うようにいかない当事者の方へ
親に理解してもらえない、学校では心情は理解してくれても実際の対応は変化しない。先の見えないつらさと戦っていることと思います。
それは、あなたのせいではない。相手の無理解のせいです。
けれども、一生懸命もがいて、その結果うまくいかなかったとしても、次のステップにつながることがあります。また、その時はうまくいかなくて悔しかった結果が、何年後かに「あの時うまくいかなかったからよかった」と思える時がくることがあります。
そのような私のうまくいかなかった時の話をいくつか紹介します。思い通りにいかない状況が実は後々のいい結果をだすこともあるということをイメージしてもらえたらと思います。
あきらめないで。希望を失わずに。
・高校選び
制服、髪型の校則がいやだった私。私の住む地域(関西某地域)では当時私服は私立の超難関校、それも男子高しかありませんでした。中3の夏頃、新聞か何かで紹介されていた関東圏の自由な校風の学校に惹かれ、そこでの生活を夢みます。母親も興味を持ち、どうしても行きたいのならと、母親が東京に行く用事があるついでにその学校を見学に行きました。ところが、授業が成立しないようなモラルのない学校で、見に来た母親に生徒から「ここはやめておいたほうがいい」とまで言われる始末。それでも校則がないことにあこがれましたが母親を説得するまでには至らず、地元の公立高校に進学しました。
けれども、ここでとってもすばらしい経験をたくさんできましたし、何よりここでの学びのおかげで、希望する大学に進むことができ、今の職につくことができています。私の当時の性格なら、もし関東で下宿していたら、「女の子」には早い時期になれたかもしれませんが、今の仕事には到底つけなかったでしょう。
・大学不登校時代
性別のことだけではありませんでしたが、人と会うのがいやになり学校に行けなかった時代。以前書いたかもしれませんが大学は卒業まで7年もかかりました。今の制度ではだめかもしれません。学校に行けなくなった時、2、3年生の頃は、学校をやめて夜の仕事につくほうがいいのか、少し悩みました。(当時は)大学の指導教官はじめ、いろんな人に違和感のことを相談しました。大学に女性で通うなどという選択肢はあの時代私にとってはありませんでしたから、(すでにその頃そういう生活を実践していた人はいたようですが、知りませんでしたし、できるなんて思いませんでした)男としてがんばって学校に通うか、やめて夜の仕事をするかしか選択はありませんでした。
新学期には、心機一転「がんばります」と言って次の週にはもう学校には姿を見せない。「4月と10月だけの男」と陰口をたたかれていたことも数年ありました。人間づきあいもなくなり、大学4年の時の年賀状は私宛には1枚もありませんでした。数年前離婚していた母親がそのころ再婚、同居していた兄も婚約相手の家によばれていってて、お正月はたった一人で家にいて、他の人宛の年賀状をより分けていました。
あの日が人生のどん底でした。(今私が死んでも誰も本気で悲しく思ってくれないだろう。けれど、死を選ぶ勇気もない私はどうしようもない。)
そう思っていました。
けれども、卒業するしか道はない。あの日の辛さが、今の私を支えてくれています。
20年前のたった一人のお正月が、あの日が、今の人生のスタートでした。
お正月明け大学に久しぶりに登校。心理学の研究室なのに、久しぶりに勇気を出して足を踏み入れた私に厳しい指導をする教官。授業に出始めると、過去迷惑をかけた友だちや後輩(グループ学習の欠席や約束を破ったり、共同で出すレポートの私分ができなかったことなど)から白い目でみられながらの学校。
歯を食いしばったというより、石垣を爪でのぼるような感じの数年間でした。
よく当事者仲間に話しますが、もし、今の時代なら絶対在学中に性別を変えていました。けれども、学校に行けなかった根本的な感覚(がんばることの調整がうまくできないとか、空想の世界に逃げるとか)を克服できなかったと思うので、卒業はできなかったと思います。誤解をおそれないで表現すると「性別違和感」という逃げ道がなかったから、自分の弱さを克服できたと思います。
・左遷?
就職で北海道へ。最初の赴任地は札幌近郊の都市でした。そこで十分な評価をもらえず、数年後まだ異動時期ではないのに異動を勧められます。その時、上司から提示されたのは、その都市内での異動でしたが、私はおもいきって地方での勤務を希望しました。今はそのような異動はふつうですが当時はほとんどありませんでした。ほとんどの人に反対されました。私は、当時「もし性別を変えるなら地方の方が変わりやすい」という変わった信念を持っていました。勿論異動してすぐ変わるというような腹は決まっていませんでしたが、結果的にはこの傍から見て左遷としかいいようのないような異動が、自分の性別移行にプラスにはたらきます。
異動先は「村」でした。村にはプライバシーはありません。ある意味、みんな家族です。勿論、きれいな部分ばかりではないですが、とってもよくしてもらいました。
移行しはじめた時には、ある上司(Aさん)からかなりひどいことを言われました。けれども、最後まで「性別の移行」と「仕事」の両立を認めなかったそのAさんも、私の見えないところで私を守ってくれていたことを後で知りました。
その他、左遷先の「村」は、村のために一生懸命やる人を温かく、そして本気で支えてくれた人達の集まりでした。ある時期から、事情を知らない地域の方々からの私への「髪切れ」コールがばったりなくなりました。その時は、「もう諦めた」と言われましたが、村の有力者の方がおさえてくれたようです。
・髪を切る
私は移行し始めた頃、パスできると思っていなかったので、ある時点では職場全体、すなわち村全体にカムしないといけない時がくると思っていました。結構髪を伸ばしてきた頃、それまで理由も聞かず許してくれていた上司(Bさん)が、理由を聞いてきました。それで事情を話したら、その上の上司(Aさん、上で触れた方)にその話が伝わって、電話先で激怒されました。最初に話したBさんは、私からの話を聞き、理解しようと自分で本を探して買って読んだりしてくれたほどの方だったのですが、やはり移行は難しいと言われ、髪を切るように言われます。それほどまで私のことを考えてくれたBさんからの言葉ならと、ひとまず髪を切ることになりました。(けれども、また伸ばしていくのですが)
それ以降は、密やかに手を打っていきます。カムはしないようにし、時を待ちました。その間に、私と初めて会う人に性別を間違えられることが多くなり、「もしかしたら埋没でいけるかも」と思い始めます。その頃、さらに上のほうの上司で理解を示してくれる方が表れ、状況が変わっていきます。埋没での移行を進めていくことができるようになりました。
もし、移行当初に職場が理解を示してくれていたら、私はカムしての在職トランスとなっていたでしょう。最初の数年間理解してくれなかったことで埋没が可能になりました。
・休職
村の勤務が長くなり、そろそろ転勤時期となりました。転勤を機に仕事上の性別を女性にできるようにと、治療も外見も準備してきましたがうまくいかず、2年間の休職を受け入れざるを得ませんでした。
けれども、この期間、ボランティアをさせていただいたり(2年目はほぼ毎日)、知人のお手伝いさせていただいたり、など、ノンカムでいろんなコミュニティに関わる機会がありました。ノンカムの友だちも初めてできました。
リード恐怖をかなり少なくすることができました。
・復帰先
休職後復帰したのは、私が希望していた(誰も希望しないような)地方の小さい職場ではなく、上の方の人の配慮の結果札幌の大きな職場でした。そして、今まで自分の経験したことのない業務でした。けれども、以前書いたように、今充実した毎日を送れていることは勿論、ここでの経験が今後の仕事への大きな財産、強みになりつつあります。もし、希望通り前回の職場と同じような地方の小さい職場に配属されていたら、充実はしたかもしれませんが、自分の仕事の幅がここまで広くなることはなかったです。
また、大きな職場は最初とても辛かったです。大部屋に60人くらいが一同に入っています。誰が味方か嫌われているか、陰でどんな噂をされているか、今でもまったく分かりません。そんな中で最初はとんがったり、個性を消したり試行錯誤でしたが、だいぶん自分のペースをだせるようになってきました。また、ちょうど同年代の女性の同僚がたくさんいて、それぞれ個性的なので「(性別にこだわらず)自分らしくでいい」というモデルになりました。「女性」としてふつうに仕事できるようになるには最適の規模でした。
あなたの一生懸命な行動は、あなたが感じている以上にまわりに波動を起こしています。
あなたのがんばりに、励まされている友だちが、必ずいます。
自信を持って。
未来に向かって今一番大事なことをおそろかにすることだけはしないでね。