女の子になる方法、教えます!

性同一性障害になやむ若いMTF当事者に向けてのメッセージです

わたしにしかできないこと

2015-05-12 23:24:44 | 移行後の情景
 二年前にテレビを購入してからドラマにはまることが多く、今年の1~3月期には、 「デート~恋とはどんなものかしら~」にはまっていました。超合理主義者で結婚も契約と考える主人公藪下依子が谷口巧に恋におちる様子を見ながら、色恋を封印してきた自分が何かとても味気なく思えてきました。以前にも書いた気がしますが、私は性転換を成功させるために恋愛感情を持たないようにしてきました。けれども、もしかしたら、ただ恋愛から逃げてきただけかもしれない・・・、そういう思いを抱きました。移行して8年、少なくとも移行前に願っていたことはほぼすべて手に入れ、仕事も友人関係も順調、周りからの評価も実力以上にいただけているような状況で、ふと自分を見つめ直したときに、物足りなさを感じたのです。
 私は本当の恋をしていないんじゃないか。本当の恋をすれば、理性ではコントロールできないような感情に包まれれば、さらに自分を高めることができるのではないか。
(目的や理性<感情)
 ・・・そんな何となく満たされない感がここ数ヶ月ありました。

 最近、やっとその不全感を乗り越えることができました。連休前、「ソロモンの偽証」を映画館で見て、ほぼ全編おもしろかったのですが最後のシーン(現代ではなく当時の裁判後の最後の場面)にだけ納得がいかなくて、原作ではどうなっているのか知りたくて、連休中は原作を読みふけっていました。主人公藤野涼子は、いろんなしがらみを排して真実のために校内裁判を開きます。そのためには、教師の失点を利用したり、好きになれない子の言葉を信じたり、手段を選びません。さまざまな感情を克服して、真実にたどり着きます。その姿にふれ、やはり私はこっち側の人(目的や理性>感情)なんだとあらためて思いました。

 思い起こせば、私が過去いわゆる「恋」に落ちたときは、すべて「あの人に必要とされている」という実感があるときでした。その実感が、自分がまるで価値ある人間であるかのように錯覚させ、幸福感を味わっていた、自分の不全感を恋でごまかしていた、そういう意味では、いまだ本当の「恋」をしたことがないのかもしれません。
 けれども、今は、自分自身に自信があり、今の自分の弱点や限界もポジティブに捉えられ、不完全で向上しつづけている自分に満足しています。傲慢ないい方ですが素直な自分の気持ちとしては、自分は「社会や人類や不特定の多数に必要とされている」のであり、二十歳台までの自分の「恋」の定義でいえば、「人類すべてに恋をしている」という感じです。
 私がそんな変な人間になってしまったのは、幼少の頃からの自分なりの男性化をがんばったせいなんだと思います。運動や腕力などで「男らしさ」を示すことに極端な嫌悪感があった私は、抵抗のなかった「正義」や「論理」「博愛」を男らしさと自分の中で決め、男になろうとがんばってきました。藤野涼子には足下にも及びませんが、全校集会や生徒総会等で突然教師を糾弾したり、論争をふっかけたりしたことも何度もありました。ある時点でそれは自己満足と気づき、それ以後は責任を持てないことについては、自分の「正義」を振りかざすことはなくなりましたが。
けれども、そんな変な人間だからこそ、感情を克服して(勿論たくさんの支援と運を得てですが)在職トランスをやり遂げることができたし、今も幸せな人生を送っています。別に、無理してあふれる感情の波に乗らなくても、感情の波に乗って人生を謳歌している方の何十倍、何百倍も豊かな人生を生きています。
 私は私らしく、今目の前にある仕事上の課題に立ち向かい、今目の前にいる友人達の苦悩に寄り添うだけで十分いっぱいいっぱいです。それは孤独かもしれませんが、満たされた孤独です。私にしかできないことをやっていく、今の私ではできないけれど私が成長したら解決できるから成長する、その地道な作業を死ぬまで続けていけたら素敵だな、そうあらためて感じることができました。

 さて、約7年にわたって書き続けてきた本ブログですが、正直、ほぼ書きたいことについては書き尽くした感があります。また、初期の頃の内容については、今も同じ考えのものもあれば、今は違う考えになっている内容もあります。また、これから移行しようと考えている若い方へのアドバイスをもう少しコンパクトにまとめてみたいという気もあって、次回からは当分の間、入門編的に書いていこうと思っています。今まで書いた内容と重複する部分がたくさん出てくると思いますが、ご容赦ください。
 といっても、次回の更新は夏くらいかも・・・


※映画「ソロモンの偽証」の最後のシーンは、これから見ようとする方がいると思うのでくわしくは書きませんが、「クラスメイトの死」ということを、本気で受けとめきった時に、あのようなシーンになるのかが疑問です。大切な人の死(特にまだ死ななくてもいい若い方の死や自殺)は、家族や友人にとって、受けとめたり乗り越えたりしたと思っては、罪悪感がやってくる、そのくり返しだと思うのです。映画はそれ以外の部分ではとてもうまく描けていると思いましたが、最後のシーンでの子どもたちは、もう少し複雑な表情でもよかったのではないかと感じました。