阿南教会長、コメントありがとうございます。いつも立派なブログを拝見して勉強しています。
お父様のみ言をきちんと引用されながら、テーマについて話を展開されていく阿南教会長の誠実な姿勢は、
とても安心してブログを拝見出来ます。
今回の先祖解怨式についてのブログもきちんとみ言を引用されて、とてもわかりやすくとても勉強になります。
いつも自然に心に入る内容でした。だからこそ阿南教会長のブログは沢山の人に読まれていて、ランキングでは
常に上位にランクされていると思います。
したがってとても影響力のあるブログになっていると思います。
さてコメントの中で「議論が進みません」と書かれていますが、大丈夫です。
実は今回のコメントには、阿南教会長は気づいておられないでしょうが、私が議論してきたテーマと同じ問題があります。
まず最初に、国進様が「政府は天使長である」と言われたことは知っています。
さらに阿南教会長はコメントに「教会(教会長)の体制も天使長である」と直接聞いたと書いておられますが、
この(教会長)の部分は阿南教会長が付け加えて書いておられるのではないかと思っています。どうでしょうか?
実際は「教会の体制は天使長である」と言われたのではないでしょうか。
なぜなら国進様が「政府は天使長」と言われた「政府」の意味は「組織、体制」であり、それを「天使長」と言われていると
思うのです。
そうすると「教会」も「組織、体制」ですから「政府」と同じように「教会の体制も天使長である」と言われても違和感はありません。
しかし論理的な国進様が「教会長」は「体制」ではなく「人」であるのに「(教会長)の体制も天使長である」と言われるのかなと
違和感を持ちます。
それでこの(教会長)の部分は阿南教会長が付け加えられたのではないかと思った次第です。
このような操作をすることによって、元の言葉が持つ意味と違ってくる場合もあると知って意図的にされたのでしょうか。
コメントで教会長は「お父様と国進様のみ言から」考えて「教会長はアベルでは、天使長です」と言われていますが、少なくとも
国進様は「教会長という人間ではなくて、教会や政府という組織体制は天使長である」と言われているということをです。
では阿南教会長の「教会長は天使長です」という主張は何を根拠にしておられるのですか?と振り出しに戻るのです、
私は「個人の考え」を全否定するつもりはありません。何故ならば生活のすべてをみ言を探して語ることは不可能だと思います。
原理の基本から論理展開して「これはこうであろう」答えを探す事は間違いではないと思っていますし、そうしてきました。
間違いでない答えを出すために私たちは原理を正確に理解する必要があると思っています。
では阿南教会長が「教会長は天使長です」という結論にいたる原理的前提は「本然の世界はアダムとエバと天使長しかいなかった」
ということです。したがって「アダムとエバは神の息子である各家庭の夫婦であり、天使長は教会長を含む全ての聖職者」という
結論になられました。
私の原理的前提は「アダムとエバはやがて子女を産み増やして一大家族を造るはずでした。故にアダムとエバは真の父母様であり、
私達は子女であり兄弟です。従って教会長は天使長の役割をしている兄弟です。」という結論です。
私はずっと「教会長は天使長である」というのと「教会長は天使長的立場、あるいは天使長の役割」というのとでは大きな違いを
もたらす指摘してきました。
そして特に教会長や会長を批判する「道具」に使われる危険を感じました。
そして関西で実際に「王と王妃に、教会長は仕える僕だ。逆主管は堕落と同じ犯罪だ」と批判している人がいます。
特に「教会長は天使長である」というと、教会長は天使長以外の何者でもないと限定するわけですから、「天使長に主管されてはいけない」という警戒心を常に持ちながら教会長に接する緊張感から逃れられなくなるし、最悪の場合は「教会長は間違っている。堕落した天使長であり、絶対に主管されてはならない」という対立関係になる。「対立の思想」になる。と言ったのです。この場合神の子女の立場の誰かが教会長を交代した場合、神の子女から天使長になるという不思議なことが起こることになります。
阿南教会長は「教会長は天使長である」論を主張されています。
私は「教会長は天使長の立場に立つ、あるいは天使長の役割をする子女であり、兄弟である」と主張してきました。そうすると最悪でも「兄は教会長の役割を間違って理解している、原理講義も出来ないのでは教会長の役割を果たせない。では弟である私が兄に代わって教会長の役割を果たそう」という言い争いは起こりますが、天使長が子女を主管する、主管されるという堕落論的な争いではなく、教会長の役割は兄弟の誰が適任かという兄弟喧嘩だというのです。
「教会長は天使長である」と言われる時に、その結果がどうなるか考えて慎重に使われているでしょうか。
「教会長の立場、役割と」言われたほうがいいのではないでしょうかというのが私の考えです。
新しくお父様と国進様のみ言を示すことなく、阿南教会長が提示されたコメントで十分議論が出来ました。
私と阿南教会長の目指すのは同じ天一国です。これはその為に必要な建設的な議論だと思っています。
家庭連合ではあり得なかったことです。
自由なサンクチュアリ教会だからこそ出来るのです。しかし、責任も伴います。
皆さんも考えてください。原理を学ぶ必要性がひしひしとわかるでしょう。
ありがとうございました。
松本昌昭
お父様のみ言をきちんと引用されながら、テーマについて話を展開されていく阿南教会長の誠実な姿勢は、
とても安心してブログを拝見出来ます。
今回の先祖解怨式についてのブログもきちんとみ言を引用されて、とてもわかりやすくとても勉強になります。
いつも自然に心に入る内容でした。だからこそ阿南教会長のブログは沢山の人に読まれていて、ランキングでは
常に上位にランクされていると思います。
したがってとても影響力のあるブログになっていると思います。
さてコメントの中で「議論が進みません」と書かれていますが、大丈夫です。
実は今回のコメントには、阿南教会長は気づいておられないでしょうが、私が議論してきたテーマと同じ問題があります。
まず最初に、国進様が「政府は天使長である」と言われたことは知っています。
さらに阿南教会長はコメントに「教会(教会長)の体制も天使長である」と直接聞いたと書いておられますが、
この(教会長)の部分は阿南教会長が付け加えて書いておられるのではないかと思っています。どうでしょうか?
実際は「教会の体制は天使長である」と言われたのではないでしょうか。
なぜなら国進様が「政府は天使長」と言われた「政府」の意味は「組織、体制」であり、それを「天使長」と言われていると
思うのです。
そうすると「教会」も「組織、体制」ですから「政府」と同じように「教会の体制も天使長である」と言われても違和感はありません。
しかし論理的な国進様が「教会長」は「体制」ではなく「人」であるのに「(教会長)の体制も天使長である」と言われるのかなと
違和感を持ちます。
それでこの(教会長)の部分は阿南教会長が付け加えられたのではないかと思った次第です。
このような操作をすることによって、元の言葉が持つ意味と違ってくる場合もあると知って意図的にされたのでしょうか。
コメントで教会長は「お父様と国進様のみ言から」考えて「教会長はアベルでは、天使長です」と言われていますが、少なくとも
国進様は「教会長という人間ではなくて、教会や政府という組織体制は天使長である」と言われているということをです。
では阿南教会長の「教会長は天使長です」という主張は何を根拠にしておられるのですか?と振り出しに戻るのです、
私は「個人の考え」を全否定するつもりはありません。何故ならば生活のすべてをみ言を探して語ることは不可能だと思います。
原理の基本から論理展開して「これはこうであろう」答えを探す事は間違いではないと思っていますし、そうしてきました。
間違いでない答えを出すために私たちは原理を正確に理解する必要があると思っています。
では阿南教会長が「教会長は天使長です」という結論にいたる原理的前提は「本然の世界はアダムとエバと天使長しかいなかった」
ということです。したがって「アダムとエバは神の息子である各家庭の夫婦であり、天使長は教会長を含む全ての聖職者」という
結論になられました。
私の原理的前提は「アダムとエバはやがて子女を産み増やして一大家族を造るはずでした。故にアダムとエバは真の父母様であり、
私達は子女であり兄弟です。従って教会長は天使長の役割をしている兄弟です。」という結論です。
私はずっと「教会長は天使長である」というのと「教会長は天使長的立場、あるいは天使長の役割」というのとでは大きな違いを
もたらす指摘してきました。
そして特に教会長や会長を批判する「道具」に使われる危険を感じました。
そして関西で実際に「王と王妃に、教会長は仕える僕だ。逆主管は堕落と同じ犯罪だ」と批判している人がいます。
特に「教会長は天使長である」というと、教会長は天使長以外の何者でもないと限定するわけですから、「天使長に主管されてはいけない」という警戒心を常に持ちながら教会長に接する緊張感から逃れられなくなるし、最悪の場合は「教会長は間違っている。堕落した天使長であり、絶対に主管されてはならない」という対立関係になる。「対立の思想」になる。と言ったのです。この場合神の子女の立場の誰かが教会長を交代した場合、神の子女から天使長になるという不思議なことが起こることになります。
阿南教会長は「教会長は天使長である」論を主張されています。
私は「教会長は天使長の立場に立つ、あるいは天使長の役割をする子女であり、兄弟である」と主張してきました。そうすると最悪でも「兄は教会長の役割を間違って理解している、原理講義も出来ないのでは教会長の役割を果たせない。では弟である私が兄に代わって教会長の役割を果たそう」という言い争いは起こりますが、天使長が子女を主管する、主管されるという堕落論的な争いではなく、教会長の役割は兄弟の誰が適任かという兄弟喧嘩だというのです。
「教会長は天使長である」と言われる時に、その結果がどうなるか考えて慎重に使われているでしょうか。
「教会長の立場、役割と」言われたほうがいいのではないでしょうかというのが私の考えです。
新しくお父様と国進様のみ言を示すことなく、阿南教会長が提示されたコメントで十分議論が出来ました。
私と阿南教会長の目指すのは同じ天一国です。これはその為に必要な建設的な議論だと思っています。
家庭連合ではあり得なかったことです。
自由なサンクチュアリ教会だからこそ出来るのです。しかし、責任も伴います。
皆さんも考えてください。原理を学ぶ必要性がひしひしとわかるでしょう。
ありがとうございました。
松本昌昭
それでは、組織の責任者は、天使長はないでしょうか。
組織の責任者は、
イエス様が仰ったように
使えるために・・・。
天使長とりかい出来ます。