今、関西で教会長を批判する動きがあることを知りました。
それ自体に部外者の私がどちらかの肩を持つつもりはありません。
亨進二代王様も、家庭連合の「アベルに絶対服従」の悪弊を捨てて、とことん話し合いなさい。
ただし、殺し合わない程度にといわれています。
一つだけ私が提言したいのは、教会長と教会員の関係です。
今、関西では「教会長は天使長(僕)である。従って教会員(神様の子女)に侍らなければならない」と言って、
論争において、教会長と教会員が優位を主張する対立の関係になっています。
実はこの対立は「教会長は天使長である」論が必然的にもたらす結果であるということを知っていただきたいのです。
この「教会長は天使長である」論は本当に正しいのでしょうか。
私自身が教会長という立場に立たされていますので、我が身を振り返りながら真剣に考えてきました。
私はこの論を提案された方と1月8日ごろメールで意見交換しました。この方の動機は家庭連合の間違ったアベルカイン思想の
「アベルに絶対服従」を批判するために書かれたのです。
しかし、私はこの論は私たちにも適応される「両刃の剣」であると思いました。
そしてまだ私の考えが十分練られていない段階で意見を申し上げたため、未熟な考えに対して、1月9日のブログで一蹴されてしまいました。
しかし、重要な問題であるという認識を持っていましたので、その後もずっと考えを整理していました。
今回関西での出来事を知りまして、無用な対立を避けるために提案することにしました。
私の結論は「教会長も教会員も、どちらも同じ神様の子女であり、兄弟である。役割として教会長は天使長的役割をする」というものです。
まず「教会長は天使長である」論を提唱された方が1月7日か8日のブログで、この考えの原理的根拠を説明
されていますので要約して紹介します。
「本然の世界はアダムとエバ、天使長しかいなかった。私達に当てはめるとアダムとエバは神様の子女であり主人となる立場なので
私達教会員である。
天使長はアダムとエバを育て神様につなげる立場であるので教会長である。
したがって天使長がアダムとエバを主管することは堕落である。と同じように、教会長が教会員を主管することは堕落でありしてはならない。
僕として侍る立場だ」「そうであるのに家庭連合は、教会長はアベルだとか、神様に近いとか、真の父母様の代身とか言いながら、
堕落した天使が主管するのと同じように教会員を主管してきた」
「教会長は天使長である」から「教会長は指示命令をするのでなく、教会員のサポートに徹するべきである」
「協会組織は中央集権のピラミッド型でなく逆ピラミッド型である。一番下で会長、教会長が僕として組織を支えるのである」
という考えです。
私は違和感を感じて考えました。そして
「会長、教会長も教会員と同じ神様の子女であり、天使長ではない」と考えました。
なぜならばアダムとエバはやがて子女を産み増やして一家族世界をつくるはずでした。
つまり本然の世界にいたアダムとエバは、人間の先祖である真の父母様です。
まずアダムとエバは教会員ではありません。
そして私達は会長、教会長、教会員であれ、皆その真の父母様から生まれた子女なのです。
教会長は天使長ではなく子女なのです。教会員も同じ子女なのです。
提案された方は、最初の設定が間違っているのです。
これが違和感の正体でした。
では教会長の役割は何か。また教会員との関係はどうなるのか。
教会長の役割は「天からの情報や事情の伝達者」「地の事情、情報を天に伝える仲保者」「教育係」「協助者」などであり、
まさに天使長的役割です。なぜなら人間しかいない協会組織ですから、子女の誰かが天使長的役割をしなければならないのです。
では誰がするのでしょう、
まずは長男長女が弟や妹の世話を父母から言いつけられるでしょう。
その能力がなければ、優秀な弟や妹が兄、姉に代わって皆のお世話を言いつけられるでしょう。
それは天使長がいないので、兄、姉が天使長の役割をしているのです。
「教会長は天使長そのものではなく、天使長の役割をしている兄弟です」
したがって「教会長と教会員は同じ親を持つ兄弟です」「主人と僕の関係ではなく、兄と弟。姉と妹。の関係です」
「教会長は天使長ではなく同じ兄弟である。役割としては天使長的である」という考えと「教会長は天使長である」という考えでは、
驚くことに両者の関係に天地の差をもたらします。
まず「教会長は天使長である」と考えると両者の関係が「神様の子女対天使長」というどちらかと言えば対立関係になります。
なぜならば子女は天使長を主管する立場であると意識するところから、主観されないように警戒心をもって教会長に対するので、
アドバイスも心を開いて素直に聞けなくなるでしょう。
また会長との関係も同じです。会長がアドバイスをしても、それに従うことは天使長に主管されることになるので素直にきけないでしょう。
会長を避けるようになります。また会長を天使長とみるところからは、メンバーに会長を証してつなげることをしなくなると思います。
閉鎖的なグループになると思います。
しかし、現実はそこまで徹底せずに、そのグループはそこの教会長に従い、外部のアドバイスや干渉は拒否するという閉鎖的なグループになる
可能性が大きいと思います。
ここに発展が起こるでしょうか。
あまりにマイナス面ばかりの考えで大袈裟とも思いますが、しかし「教会長は天使長である」論は思想的にはそういう危険性を内包していると思います。
では両者が、即ち教会長と教会員の関係が「兄弟」だったらどうでしょう。
アドバイスに素直に従ったとしても天使長ではなく、兄、姉、あるいは信頼できる優秀な弟、妹ですから主管されて堕落したということにはなりません。
両者の関係に警戒心はなく、兄弟として信頼する心で発展するためにどうしたらいいのか。この課題はどう解決したらいいのかと、
積極的にアドバイスをもとめる関係になると思います。
活発な授受作用が展開して発展するでしょう。
確かに会長、教会長は天使長的役割をします。しかし、天使長ではありません。同じ兄弟です。
天使長とみるのか、兄弟とみるのか、些細なことのようですが、天地の差を結果にもたらします。
私がこの「教会長は天使長である」論を見過ごせないのは、このことに気がついたからです。
そして「教会長は天使長である」論に影響を受けている人が多いのに気がついたからです。
「子女対天使長」の対立関係で「私が主人だ。あなたは僕なので侍れ」と言い争うのでなく、兄である教会長を助ける弟や妹になるように。
また兄である教会長は弟や妹の声によく耳を傾け、実力が足りないときは、謙虚に優秀な弟や妹にお世話係を譲ることも考えないといけないと思います。
どうしたら天の願いを果たす事の出来る私達になれるのか。どうしたら発展するのか。
兄弟で知恵を絞って考えましょう。
、
それ自体に部外者の私がどちらかの肩を持つつもりはありません。
亨進二代王様も、家庭連合の「アベルに絶対服従」の悪弊を捨てて、とことん話し合いなさい。
ただし、殺し合わない程度にといわれています。
一つだけ私が提言したいのは、教会長と教会員の関係です。
今、関西では「教会長は天使長(僕)である。従って教会員(神様の子女)に侍らなければならない」と言って、
論争において、教会長と教会員が優位を主張する対立の関係になっています。
実はこの対立は「教会長は天使長である」論が必然的にもたらす結果であるということを知っていただきたいのです。
この「教会長は天使長である」論は本当に正しいのでしょうか。
私自身が教会長という立場に立たされていますので、我が身を振り返りながら真剣に考えてきました。
私はこの論を提案された方と1月8日ごろメールで意見交換しました。この方の動機は家庭連合の間違ったアベルカイン思想の
「アベルに絶対服従」を批判するために書かれたのです。
しかし、私はこの論は私たちにも適応される「両刃の剣」であると思いました。
そしてまだ私の考えが十分練られていない段階で意見を申し上げたため、未熟な考えに対して、1月9日のブログで一蹴されてしまいました。
しかし、重要な問題であるという認識を持っていましたので、その後もずっと考えを整理していました。
今回関西での出来事を知りまして、無用な対立を避けるために提案することにしました。
私の結論は「教会長も教会員も、どちらも同じ神様の子女であり、兄弟である。役割として教会長は天使長的役割をする」というものです。
まず「教会長は天使長である」論を提唱された方が1月7日か8日のブログで、この考えの原理的根拠を説明
されていますので要約して紹介します。
「本然の世界はアダムとエバ、天使長しかいなかった。私達に当てはめるとアダムとエバは神様の子女であり主人となる立場なので
私達教会員である。
天使長はアダムとエバを育て神様につなげる立場であるので教会長である。
したがって天使長がアダムとエバを主管することは堕落である。と同じように、教会長が教会員を主管することは堕落でありしてはならない。
僕として侍る立場だ」「そうであるのに家庭連合は、教会長はアベルだとか、神様に近いとか、真の父母様の代身とか言いながら、
堕落した天使が主管するのと同じように教会員を主管してきた」
「教会長は天使長である」から「教会長は指示命令をするのでなく、教会員のサポートに徹するべきである」
「協会組織は中央集権のピラミッド型でなく逆ピラミッド型である。一番下で会長、教会長が僕として組織を支えるのである」
という考えです。
私は違和感を感じて考えました。そして
「会長、教会長も教会員と同じ神様の子女であり、天使長ではない」と考えました。
なぜならばアダムとエバはやがて子女を産み増やして一家族世界をつくるはずでした。
つまり本然の世界にいたアダムとエバは、人間の先祖である真の父母様です。
まずアダムとエバは教会員ではありません。
そして私達は会長、教会長、教会員であれ、皆その真の父母様から生まれた子女なのです。
教会長は天使長ではなく子女なのです。教会員も同じ子女なのです。
提案された方は、最初の設定が間違っているのです。
これが違和感の正体でした。
では教会長の役割は何か。また教会員との関係はどうなるのか。
教会長の役割は「天からの情報や事情の伝達者」「地の事情、情報を天に伝える仲保者」「教育係」「協助者」などであり、
まさに天使長的役割です。なぜなら人間しかいない協会組織ですから、子女の誰かが天使長的役割をしなければならないのです。
では誰がするのでしょう、
まずは長男長女が弟や妹の世話を父母から言いつけられるでしょう。
その能力がなければ、優秀な弟や妹が兄、姉に代わって皆のお世話を言いつけられるでしょう。
それは天使長がいないので、兄、姉が天使長の役割をしているのです。
「教会長は天使長そのものではなく、天使長の役割をしている兄弟です」
したがって「教会長と教会員は同じ親を持つ兄弟です」「主人と僕の関係ではなく、兄と弟。姉と妹。の関係です」
「教会長は天使長ではなく同じ兄弟である。役割としては天使長的である」という考えと「教会長は天使長である」という考えでは、
驚くことに両者の関係に天地の差をもたらします。
まず「教会長は天使長である」と考えると両者の関係が「神様の子女対天使長」というどちらかと言えば対立関係になります。
なぜならば子女は天使長を主管する立場であると意識するところから、主観されないように警戒心をもって教会長に対するので、
アドバイスも心を開いて素直に聞けなくなるでしょう。
また会長との関係も同じです。会長がアドバイスをしても、それに従うことは天使長に主管されることになるので素直にきけないでしょう。
会長を避けるようになります。また会長を天使長とみるところからは、メンバーに会長を証してつなげることをしなくなると思います。
閉鎖的なグループになると思います。
しかし、現実はそこまで徹底せずに、そのグループはそこの教会長に従い、外部のアドバイスや干渉は拒否するという閉鎖的なグループになる
可能性が大きいと思います。
ここに発展が起こるでしょうか。
あまりにマイナス面ばかりの考えで大袈裟とも思いますが、しかし「教会長は天使長である」論は思想的にはそういう危険性を内包していると思います。
では両者が、即ち教会長と教会員の関係が「兄弟」だったらどうでしょう。
アドバイスに素直に従ったとしても天使長ではなく、兄、姉、あるいは信頼できる優秀な弟、妹ですから主管されて堕落したということにはなりません。
両者の関係に警戒心はなく、兄弟として信頼する心で発展するためにどうしたらいいのか。この課題はどう解決したらいいのかと、
積極的にアドバイスをもとめる関係になると思います。
活発な授受作用が展開して発展するでしょう。
確かに会長、教会長は天使長的役割をします。しかし、天使長ではありません。同じ兄弟です。
天使長とみるのか、兄弟とみるのか、些細なことのようですが、天地の差を結果にもたらします。
私がこの「教会長は天使長である」論を見過ごせないのは、このことに気がついたからです。
そして「教会長は天使長である」論に影響を受けている人が多いのに気がついたからです。
「子女対天使長」の対立関係で「私が主人だ。あなたは僕なので侍れ」と言い争うのでなく、兄である教会長を助ける弟や妹になるように。
また兄である教会長は弟や妹の声によく耳を傾け、実力が足りないときは、謙虚に優秀な弟や妹にお世話係を譲ることも考えないといけないと思います。
どうしたら天の願いを果たす事の出来る私達になれるのか。どうしたら発展するのか。
兄弟で知恵を絞って考えましょう。
、
連合から脱出したサンクチュアリの食口は自身の連合的信仰生活の習慣性を脱げないままに中心者に委ねて、対象の位置で盲目に従って行こうとする危険性を認識すべきです。先ず自分は氏族メシアであり氏族教会の教会長であるとの自覚が信仰生活の基本(原点)となってこそ、明確な方向性が見えてくるものです。その自覚が足りないままにH教会的な組織体に所属して、教会長の方向性に委ねてサンデー信仰(日曜礼拝での言葉)を重ねたとします。それは氏族メシアとしての発展途上に於いては間違いではないですが、教会員に明確な主体的天一国市民として氏族メシアの立場と方向性がなければ、たいへん危険な要素を含んでいると言えます。その組織体の教会長ご自身の方向性と思想が所属する組織の教会員に与える影響が大きいからです。教会長ご自身が二代王のみ言に完全一体化していれば問題はないですが、教会員自身の考えと方向性が知らず知らずに教会長の方向性と考えと同化して信じ込む連合からの習慣性があるからです。教会長は先ず自らの家庭を復帰して統一した家庭を復帰する活動を第一として、それを証でもって教会員に方向性を示すべき立場です。組織を大きくする前に、ご自身の家庭の家族を教育し伝道して勝利の証を教会員に示す責任がある立場です。その姿をみて教会員は模範として違和感なく従えるのであり、その基本的活動と方向性をベールの様なもので覆ったままでは、いくら組織は大きくなったとしても二代王のみ言に相対する食口にとっては、その教会長に安心して委ねる事が出来ない違和感となってしまいます。中心者に委ねる事自体が連合からの習慣性ですが、H教会も現実には二代王のみ言を聞かずに中心者にだけ委ねた教会員が多いようで、訓読家庭教会に対する意識、食口間の関係性を造る活動と取り組み、平和軍訓練やサバイバル訓練に対する意識等が低く、教会長の組織体制構築の方向性に同化する意識が先行しているように思えます。そのような違和感が今回のH教会の対立問題として表れてきていると見ています。
それで、私は真のお父様のみことばと国進様のみことばから、今の家庭連合の現状を分析し、批判し、提案の為に「教会長はアベルではなく、天使長です」との題で今年の1月3日と9日にその内容を書き、また4月30日にもそれに関して説明しました。それは家庭連合の体制に疑問をもっている方へお知らせし、その体制を崩壊させる目的を持っていました。
松本教会長のブログでは私個人の考えのように書いていますが、それは違います。
真のお父様のみことばからです。家庭教会摂理の時からそのことを言われておられます。
また、その原理的思想は三代王権の天一国憲法の根幹をなす、重要な点でありますので、もし松本教会長がそれを「対立の思想」と言われて、それに変わる思想を提示するならば、自分の考えではなく、みことばを提示してください。
そうでなければ、議論が進みません。
国進様のみことば 2012年7月27日 「自由社会」
さて、エデンの園には、神様とアダム、エバ、そして天使長がいました。皆さんよくご存知ですね。神様は様々な戒めをアダムとエバに与えました。完成するために戒めです。三大祝福を受けるための戒めです。
神はそこに僕として天使長を置きました。アダムとエバの教育係として僕として、祝福を受けるまで成長するためです。聖書と原理を学んで、何が起こったか、よく知っていますね。僕であるべき天使長が自己の位置を離れて、天使長ルーシェルからサタンになりました。その過程でエバを誘惑し、そしてサタンとなってエバとアダムを誘惑しました。その結果、アダムとエバは自由と責任をなくしました。神の祝福もなくしてしまいました。神様から離れてしまったのです。
では、天使長は誰を指しますか?天使長はアダム・エバに仕える霊として創られましたね。では現代、我々市民に仕える為に創られたものは何ですか?それは「政府」です。原理的観点からも明らかなように天使長は政府を象徴するということです。
以上
国進様は私が訪米したときの懇談会のときに、「教会(教会長)の体制も天使長である」と語られました。それを明確に記憶しています。
天一国は家庭を主人とする体制ですので他の組織はすべて、天使長の立場であるといえます。天一国憲法は政府、国家をそのように定義しますが、天一国を準備するための教会や本部もやはり、天使長の立場であるといえます。
その原理見解を「対立の思想」と決め付けることは天一国の理想を自ら否定することになり、三代王権の方向性と矛盾することになります。
大多数の声は小さいですが、声の大きな少数はその大多数の声をきくべきです。
声の大きさが正義ではありません。
対立の思想は、正反合です。
正反合は神様不在かつ愛不在ゆえと言うことに気がつくべきです。
相手が教会長だろうと誰だろうと
相手のあるがままの個を一方的に否定する様は、神様不在かつ愛不在です。
煽る者は、さぞかし完璧なのかもしれませんが、神不在かつ愛不在で相手を攻撃する点で悪意を感じます。
煽る者が愛を取り戻して、今置かれた場所でその高い能力を神様のために使われますように。祈り
ファミレスに気炎を上げたようです。
何人もの人が解決のために動いていたのに・・・
それが分からない愚か者だったようです。
そういう人も居てよいのが天一国でしょう。
天一国ができても1000年のちに悪人なお存在するのですから、
悪人でないこの人がいてもよいでしょう。
では、何が問題で対立したのかつらつらと考えました。
煽る者には理想がありました。その理想は亨進さまの理想に近いようですから、間違いはないでしょう。
しかし、煽る者は、その理想に合わせるために、邪魔な存在を排除しようとしました。
亨進様は、理想を私達に教えてくださっても、その理想で誰かを排除しろとは言われません。
要は、理想と現実との間には常にギャップがあるということです。
理想を追求して現実を否定すれば、愛とは逆の独裁になります。
金正恩が、自分の理想に合わない者を沢山粛正しているのは彼の正義ゆえですが、
それは現実の人間に対する愛が欠落しているからです。
教会長が天使長の立場が理想なら、
それを現実にするためには教会長を否定するのではなく、
教会長をサポートすることでしょう。
煽る者の気炎は消えず、夫婦のみになったことは残念です。
煽る者にとって、いつかこの経験がよい形で生きますように。祈り。
自分たちの納得のゆくように、となりに新しい協会をお建てになれば良いでしょう。
教会ありきの発言には飽き飽きです。」
Unknown (キン斗雲)さん、言い過ぎですよ。
私が谷本さんと直接お話ししても、集会のお話も、二代王様の話は出てこない・・・。
不満が出るのは当たり前です。
それを、上記のように批判するのは、間違っています。不満の声は不満の声として、
いやなら この教会を出ていけばよろしいでしょう。誰も傷つきません。
今回、江利川さんが来られても改善がされなかったので、博愛を出ることになった人がいます。それがキン斗雲さんの考えの結末です。
為O教会がよい例になったように、いやな教会にいる必要がありません。皆さんが新しく納得のいく教会を作れば良いでしょう。
Unknown (キン斗雲)さんの発言を改めないと、おこりますよ。