日記

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5/27 久留米、青木繁旧居へ

2023年05月29日 | 旅行

5/27~28まで九州を旅行していました。メインは霧島連山の韓国岳登山ですが、前日は久留米の街を歩きました。

麦秋。久留米の手前で。麦畑を久しぶりに見た。

麦は稲の裏作として広く作られていたけれど、ある時から突然作らなくなった・・・と農村育ちの私は記憶している。麦の輸入が自由化されたときと重なるのかも。

着きました。夫は午前中仕事で、新八代駅前のホテルで合流予定。

一人旅です。この解放感~♪

駅前、バス乗り場のモニュメント。青木繁の「海の幸」の部分。

前日、久留米で行くところを調べるうちにこちらの生まれと知りました。

私は、この絵から連想して千葉県の人とばかり思っていた。お恥ずかしや。

坂本繁二郎も久留米の人。青木繁の小学校の同級生で、同じ画塾に通う仲間でもありました。この人は87歳まで長生きして文化勲章も貰っている。

旧居まで歩いて行くことにしました。近道してJRの線路沿いに。

暑い。

着きました。小さな家です。

無料です。見学者は私だけでした。

最近、立ち回り先が妙に世間とずれている私。

本人のサインはAWOKI・・・古い発音でしょうか。

木戸を通って庭に廻ります。

奥にレリーフがあります。

代表作「海の幸」。

木造二階建て。110.6平米。17歳で上京するまで住んでいたそうです。

昔の家。私が子供のころはどこの家もこんな感じ。懐かしい。

座り机も今はあまり見なくなりました。

ここで受け付けの方が来て、この建物を保存するに至った経緯を話してくれました。

建物は6回持ち主が変わり、最後は近くにあるムーンスターという会社の社宅だったそうですが、老朽化して取り壊し、駐車場にすることになったとのこと。

それを地元民が中心になって保存活動をし、一度解体して新しい部材も足して建て直して記念館として開館したそうです。

今も管理はボランティアの皆さんで、光熱費は市が負担しているとのこと。

複製画は地元ブリジストン美術館の許可をもらって、こちらも寄付で製作したそうで、市民が中心になった保存運動のお話に感動しました。

複製画はすべて実物大だそうで。

意外と小さいですが、絵の力で大きく感じさせるのでしょう。

大きな魚を背負って、前進する人の群像。体格は当時の平均的日本人のそれではなく、ギリシア彫刻を連想します。肉体への、人間への賛美。

見て心地よいのはなぜ?

多分そこにはよきものしか描かれていないから。

「わだつみのいろこの宮」

日本の神話を西洋画の技法で描くところが新しかったと思う。

青木繁の絵には、それまでの日本の絵にはなかった情念の解放があるのでしょうか。

描く人の気持ちに触発されて、鑑賞するこちらも豊かな気持ちになれる気がする。

こちらも神話を題材にしたそうです。

短い一生だったので絵はそう多くないそうですが、こちらは複製画がこの他にもたくさんあって、一度に見られるのはここだけ。見ると画業の流れも分かる仕組みになっています。

絵で身を起こすと17歳で勇躍上京し、東京美術学校で学んだ青木繁。

しっかりした顔つきをしています。

台所の土間から茶の間を見る。そこに絵があります。

長い絵のあるのは階段下の物入だった部分でしょうか。

美術館の空間で見るのとはまた違った趣き。

ここに住んでいた人が描いたのだと思うと親しみがわきます。

帰ります。受け付け、手洗いなどのある建物はあとから建てられたようです。

静かな住宅街の中の小さな記念館でした。

才能のある若い人が志半ばで倒れるのは痛ましい。その気持ちが保存運動の原点になっているのかなと思いました。

内縁の妻がいて子供もいたそうです。同じ絵の仲間で、一緒に写生旅行にも行く間柄。幸せな時間があってよかったなあと思いました。

それにしても結核です。滝廉太郎、樋口一葉、正岡子規、少し時代が下がるけれど立原道造、中原中也・・・みんなもう少し生きていて欲しかった。生きて、自分のしたいことを極めてほしかった。

いたずらに齢を重ねた私は、明治の青春にしばし思いを馳せたことでした。

すぐ近くにあります。最後はこの会社の社宅だったんですね。運動靴、スニーカーの老舗メーカーです。古い由緒ありげな建物も見えています。

この後、歩いて駅まで歩いて戻り、坂本繁二郎生家へ。近道もあったのに大回りして、そしてやっぱり暑かった。五月とは言え夏日。夏の徒歩の旅は苛酷でありました。


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