下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です
「引きこもり100万人時代」という言葉が注目を集める現代。引きこもりは決して他人事ではない。にもかかわらず、引きこもり問題の相談に乗ってくれる機関はいまだ十分に整理されていないのが現状だ。「どこもまともに取り合ってくれない……」と悩む保護者に残された道はどんなものなのか。
ここでは臼井美伸氏の著書『「大人の引きこもり」見えない息子と暮らした母親たち』より、会社を失踪・退職して以来、引きこもりになってしまった息子と暮らす毎日を引用し、紹介する。
◇◇◇
突然行方不明に
ある日突然、子どもの勤め先から実家に一本の電話があった。
「息子さんが、2日前から出社していません」
どういうことだろう?
寮に電話してみたが、いないという。
すぐに父親が寮に行ってみたが、何もわからない。息子は、忽然と姿を消してしまっていた。
警察に行っても、成人した息子の家出なので捜索はしてくれない。
「何か事件に巻き込まれたのでは」「思い詰めて変なことをしなければいいが」。夫婦ともに不安で眠れない日を過ごしていたところ、2週間後に突然、荷物が届いた。息子のカバンや背広などが入っていて、手紙はない。
ただ、荷物を出した場所が、実家から1時間ほどの市内であることがわかった。iStock.com
この記事の画像(5枚)
その日から、父親はその市内を歩き回って息子を捜した。ホテルというホテルを、片っ端から訪ね歩いた。
何十軒目かのホテルでようやく、受付の人に「この人なら泊ったことがある」と言われた。しかし、行方はわからなかった。
失踪から2カ月後…突然の電話
ようやく宗太さんから電話があったのは、いなくなってから2カ月後のことだ。あちこち泊まり歩いていたが、ついにお金が続かなくなったらしい。
雅子さんは「とにかく、帰って来なさい」と伝えるのが精いっぱいだった。
こうして宗太さんは、実家に帰ってきた。
雅子さんは宗太さんがやっと帰ってきたことに安堵した。しかし「何があったの」と聞いても、ほとんど何も答えない。
ようやくポツリポツリと発する言葉をたよりに推察すると、外回りの営業で、個人客が相手の仕事だった。飛び込みでいろんなところを訪ねて行き、初対面の人に話しかけなくてはいけない。迷惑がられることもしょっちゅうで、仕事をすることが苦痛に感じられるようになった。しかし成績を上げないと会社にはいられない。何とかやろうと頑張ってみたものの、結局逃げ出してしまったようだった。
昔気質の父親は、「お世話になった会社をそんなふうに勝手に辞めてはいけない」と言い聞かせ、宗太さんを連れて勤め先に謝りに行った。会社は、正式に辞めることになった。
それから、引きこもりが始まった。
腫れものに触るように過ごす日々
最初のころ宗太さんは、ときどき部屋から出てきて家族に姿を見せていた。家族と一緒に食事をすることはなかったが、雅子さんが食事を作って声をかけると、自分で部屋まで運んで食べていた。
それが、だんだん姿を見せなくなった。部屋の戸に内側から突っかい棒をして、開けられないようにしている。呼びかけても何の反応もない。
雅子さんは仕方なく、食事を宗太さんの部屋の前に置くようになった。「あの子のいいようにさせてあげよう」
宗太さんはいつの間にか食べて、食器を外に出している。入浴などは、家族が寝静まった深夜にしているらしい。一切、姿を見ることはなくなった。
「何度となく声をかけたのですが、何の反応もありませんでした。世の中にも親にも、絶望していたんだと思います」(雅子さん)。
我が子が引きこもりになるとは思いもしなかった
雅子さんも「引きこもり」という言葉は知っていたが、まさか自分の子どもがそうなるとは思ってもみなかった。
どう対応していいのかわからない。夫婦は頭を抱えた。iStock.com
下手に刺激して何かあってはいけないと、腫れものに触るような感じだった。
保健所や様々な機関に電話をかけたり、訪ねて行って相談した。しかし、どこもまともに取り合ってくれないと感じた。
昔から、父親と息子との関係はあまりよくなかった。以前叱られたときに何か言われたことが気に入らなかったのだろうと、雅子さんは感じている。
雅子さんも宗太さんと同じ一人っ子で、相談できるきょうだいがいない。年老いた母親以外に近い肉親と呼べるのは、遠くに住んでいるいとこの女性だけだった。息子は彼女を「おばさん」と呼んで、小さいころは慕っていた。
彼女に家に来てもらい、説得してもらったこともある。
「宗太君はどうしたいの?」と聞くと、「車を買ってもらいたい。それを使って職探しをしたい」と答えたという。
両親はそれを聞いて、すぐに中古車を買い与えた。しかし結局、宗太さんがそれに乗ることは一度もなかった。車は、また引き取ってもらうことになった。
近所の人や美容院のお客さんには、息子が引きこもって家にいることは言わず、「就職して一人暮らしをしている」と話していた。仲のいい友人にも、ずっと長いこと言えなかった。
そんなふうにして、1年ほどが過ぎていった。
家から出しましょう
きっかけは、父親が地元の新聞で見つけた記事だった。近くの地方都市にあるNPO団体「ひまわりの会」で、引きこもりの家庭のサポートをしているという。
父親は、さっそく会いに行ってきた。会長の村上友利さんとすっかり意気投合し、その場で入会。
それからは夫婦で月に1回、会合に参加するようになった。写真はイメージです iStock.com
そのうちに村上さんが、月に一度石田さんの家を訪問してくれるようになった。
宗太さんの部屋の前で声をかけるが、返事はない。あとでわかったことだが、声が聞こえないようにヘッドホンをつけて、大きなボリュームで音楽を聴いていたそうだ。
3回目の訪問のときは、2階にいる宗太さんがトイレに行く音が聞こえたので、村上さんはトイレから出てくる宗太さんを待ちぶせしてみた。
ついに、宗太さんが姿を見せた。「あ! びっくりした!」と声を上げ、村上さんを避けるように自分の部屋に逃げ込んでしまった。
そんなふうにして訪問サポートを続けているうちに、また1年が過ぎた。このままでは何も変わらない。
「宗太くんを家から出しましょう」。村上さんと父親は、相談の結果そう決めた。
本人には内緒で、センターから歩いて3分くらいのところにアパートを借りた。両親が家財道具一式を揃えた。これから寒い季節になるからと、こたつも入れた。
あとは本人を何としても説得し、決断させることだ。果たして出てきてくれるのだろうか。
平然とテレビを観ながら食事
いよいよ決行の日、村上さんは朝からやってきた。一日がかりで説得するつもりだった。宗太さんの部屋の前で、村上さんはこう声をかけた。
「ここを出て一人暮らしをしてみよう。今日、行こう」
父親も呼びかけたが、全く応答がない。
「宗太君、ドアを開けるよ」
金属バットの突っかい棒をうまく浮かせて、何とか部屋のドアを開けた。
そこには、平然とテレビを観ながら食事をしている宗太さんがいた。
村上さんたちの存在を全く無視していて、動揺した気配もない。髪は背中まで伸び、髭も、仙人のように伸びていた。
声を出すことなくゆっくりと腰を上げる
両親は正座して、「このままではどうにもならないよ」と説得を繰り返したが、宗太さんは一言も発することはない。黙々と、アジの干物に箸をつけている。
どのくらい時間が経っただろう。休憩タイムを挟んで、今度は村上さんが説得に入った。その間に、両親は宗太さんの身の回りのものを車に積んだ。
3時間が経ったころ、ようやく宗太さんは重い腰を上げた。長く伸びた髪をハサミで切り、髭を剃り始めたのだ。
宗太さんは、村上さんと父親に付き添われて出て行った。最後まで、ひと言も言葉を発することはなかった。iStock.com
このときのことを、宗太さんはのちにこう振り返っている。
「親と村上さんが強引に部屋に入ってきて、何が起こったのかわからない状態だった。話の内容はほとんど覚えていないけれど、どうやら僕に一人暮らしをさせようとしているのがわかった。しばらく無視を続けていたけれど、そのうちだんだん面倒くさくなって、このまま出て行ったほうがラクかと思うようになった。村上さんの『行こう』という言葉に反応して家を出た。結果的に僕にとっては、『強引に』というのと『訳もわからず』というのがよかった。もしあのサポート訪問がなかったら、10年くらい引きこもりをしていたと思う」
自殺でもしたらどうしよう……
こうして、1年2カ月の引きこもりは終わった。
雅子さんは、年老いた母と一緒に、涙を流しながら息子を見送った。久しぶりに見た息子がどんな顔をしていたのか、どんな言葉をかけたのか、今ではよく覚えていないという。
宗太さんの部屋には、ゴミが散乱して荒れ果てていた。雅子さんは掃除をしながら、「よくも1年2カ月もの長い間、この部屋で暮らしていたものだ」と、ただただ涙がこぼれた。息子がやっと外に出られたという安心感と、これから先の不安が入りまじった気持ちだった。
ただ、村上さんは信用できる人だと確信していた。「この選択が正しいものであるように」と、祈るような気持ちだった。
付き添って行った父親は、すぐには息子を置いて帰ることができなかった。「万一、自殺でもしたらどうしよう」と不安でたまらなかったのだ。センターに泊めてもらったり、近くのホテルに泊まったりして、数日息子の様子を見守った。
村上さんも、「結局ここでもカギをかけて、出てこなくなるのではないか」と心配だったが、翌日インターホンを鳴らすと、カギを開けて無言で迎えてくれたので、ホッとした。
3日後、センターが主催した「鍋の会」に、宗太さんが現れた。村上さんはホッと胸をなでおろした。父親も、大変な喜びようだった。
しかし宗太さんは、全くと言っていいほどしゃべらなかった。問いかけると、消え入りそうな小さな声で答えるのがやっとだった。
両親がいても知らん顔
アパートで一人暮らしをするようになってからは、歩いて3分のセンターに、「毎日通うこと」を約束させられていた。
宗太さんは、毎日決められた時間にきちんと顔を見せた。
両親はときどきアパートに行き、何か差し入れをしたり、声をかけたりしたが、会話は相変わらずなかった。
月1回、「親の会」が開かれるのだが、宗太さんは両親の姿に気がつくと帰ってしまうこともあった。または、そこにいても知らん顔で、呼びかけても反応はなかったという。
それでも徐々に「明るくなってきた」「こちらに心を開いてくれるようになった」と雅子さんは感じていた。iStock.com
宗太さんは会のサポートを受けながらボランティア活動に参加したり、パソコン修理の仕事をするための資格を取ったりした。
村上さんはそんな宗太さんを、優しい中にも厳しい言葉で辛抱強く見守った。妻の美智子さんは、母親のように温かく世話をした。
変わりはじめた両親への態度
「真面目で、言ったことをきちんとやってくれる。会計の仕事に興味があるということで、経理を担当してもらったのですが、彼に任せると間違いないと夫も太鼓判を押していました」(美智子さん)。
そのうち徐々に、宗太さんの両親に対しての態度も変わっていった。
祖母が入院したときには見舞いに来てくれたし、亡くなったときは葬式にも帰ってきた。用事がないときに自分から実家に戻ってくることはなかったが、会話もできるようになった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます