下記は婦人公論オンラインからの借用(コピー)です
かつて、アナウンサーとして報道番組やバラエティ番組などで活躍した久保田智子さん。特別養子縁組制度を利用し、生後4日の女児を養子として迎えたことを2020年の12月に公表しました(構成=平林理恵 撮影=本社写真部)
「私がママだよ」と言えなくて
生まれたばかりのハナちゃん(仮名)がわが家にやってきたのは、2019年1月28日のこと。現在2歳3ヵ月ですが、言葉の数が増えて、会話が成り立つようになってきました。
TBSの報道局に記者として半年ほど前に復職し、娘を保育園に預けながら週5日間勤務しています。忙しくも充実していて、幸せを感じる毎日です。
実は、彼女を迎えた当初は、手放しに「私がママだよ」と言うことができませんでした。どんなに懸命にミルクをあげ、おむつを替え、泣くのをあやしても、自分で産んでいないということが劣等感になり、「母親として振る舞っていいのか」と不安を感じました。
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そして、「私がこの子の親である必然性」を探していたのです。でも、ともに過ごす日々の積み重ねは大きいですね。そこから得られるものは想像をはるかに超えていて、いつのまにかそんなモヤモヤは解消していました。
最初のとまどいは、十月十日お腹の中のわが子と一緒に過ごしていない私に、まだ母性が育っていなかったからかもしれません。でも今は、お腹を痛めても痛めなくても、そこから始まる子育ての日々に変わりはないんじゃないかって思えます。
20代の初め、不妊症と診断
「子どもを産むのは難しいでしょう」とお医者さんに言われたのは20代の初めの頃。不妊症という現実を突然つきつけられ、ショックでした。それまでは、夢は努力すれば叶うと教わってきたし、自分でもそう思ってきた。なのに、私には頑張ってもどうにもならないことがあるんだ、って。
両親に伝えると、平静を装っていたけれど悲しそうでした。母から、「よその子どもを見てお父さんが泣いていたわ」と聞かされた時は、つらくて返す言葉もありませんでしたね。両親は、娘は当たり前のように結婚して、当たり前のように孫ができると思っていたはず。それを叶えてあげられないことに、絶望感しかなくて……。
家族の中ではこの件についてはふれないでおこう、という空気が漂い、私自身も20代の頃は問題を直視しないようにしていました。友人と話す時も、子どもの話題になるのを避けていたように思います。
おつき合いした男性には、子どもができないということを言わないのはフェアじゃないと考え、伝えてきました。そのことを理由に離れていった人はいなかったけれど、常に私のほうが相手を好きになりすぎないように自制していたような気がします。
私は自分が不妊症であることを不幸だと思っていましたが、私とかかわったために相手まで自分の不幸に巻き込むことがつらかった。だから、私が《偏屈で結婚に興味のない人》を装えば、問題は私の中だけで終わる。それが一番いいんだと思っていました。
そのくせ、好きな人と一緒にいたい、幸せになりたいという気持ちもあって……。めんどくさい人間でしょう(笑)? いろいろとつきつめて考えずにはいられない性格なのです。
38歳で結婚。プロポーズの時に告げたら…
そんな私が夫と結婚したのは、38歳の時でした。つき合い始めたら一気にこれは結婚でしょう、という雰囲気に。でも、どういうテンションで、どんなタイミングで「実は私、子どもができないかも」と言おうかと頃合いを見計らっていたら、正式にプロポーズされました。
「今言わなきゃ」と思い、その場で伝えると、彼は「あ、そうなんだ。じゃ、2人で考えていこうよ」と。何事もポジティブに受け止める人ではあるのですが、あまりに軽やかなので、「この人ホントにわかったのかな」とちょっと疑いましたよ。(笑)
結婚を急いだ理由は、日本テレビの政治記者である彼のニューヨーク支局への転勤がすでに決まっていたからです。おかげでトトトーンといいテンポで結婚につき進むことができてよかった。夫が一足先に、私も1年後に退職して渡米しました。
特別養子縁組については、結婚当初から2人で話をしていました。私は、高校の保健体育の授業で制度について教わったことを記憶していましたし、さらに、入社直後に養子縁組をした若い夫婦を追ったドキュメンタリー番組を観て、自分のなかに養子縁組という選択肢が早いうちからあったのです。
一方夫にも、子どもがほしいという強い思いが。だから、私が産めないのなら養子縁組をしましょうというところまでは、日本にいる頃から確認し合っていました。そして、ニューヨークで暮らし始めてからは民間の斡旋団体のホームページなどを見てリサーチを重ね、18年に帰国するや、いくつかの団体の説明会に足を運び始めたのです。
実は、行動はしながらも、この時期の私の心はかなり揺れていました。うちのポジティブハズバンドは、「子どもはかわいい! ほしい!」という感じでしたが、私はちょっと立ち止まってしまった。
どうして養子縁組をしてまで子育てをしたいのか
私たちは、子どもを新生児のうちから育てたいと考えていたため、その可能性が高い特別養子縁組を希望しましたが、斡旋団体の担当者から、「どんな赤ちゃんが生まれてくるかわかりません。健康な子ばかりではないし、とても手のかかる子かもしれない。あなたは責任がとれますか? 愛してあげられますか?」という問いをつきつけられました。
それだけの覚悟を持ってくれないと困ります、ということなのでしょう。でも、まだつながりがなく、生まれてもいない、想像もできない子どもを「愛せるか?」と問われ、まじめに考えれば考えるほど不安になってしまったのです。
子どもを育てたいという気持ちは確かなものでしたが、一方で、夫婦2人だけで生きていくのも幸せじゃないかと問われれば、まったくその通りだと思う。ではなぜ、それでも私は子どもがほしいのか。どうして養子縁組をしてまで子育てをしたいのか。
この「どうしても子どもを育てたい」理由が、「子どもができない自分を克服するため」だったら、養子縁組はするべきではないのかもしれない。自分に問いかけてみたけれど、「克服するためではない」とは、はっきり言い切れなくて。やっぱり、産めない自分を認めたいという気持ちはゼロではありません。
でも、考えに考えた末、それでいいのではないか、と思うようになりました。私の心の中にはいろいろな気持ちがあって、子どもを育てたい理由は複合的。ただ、実親のもとで暮らすことができない子どもをサポートする制度によって、少なくともうちにくる子が幸せになるお手伝いはできるはずです。「どんな子でも大切に育てます」とお返事しました。
こんな迷いの時を経て、ご縁のあった斡旋団体を通して私たちはハナちゃんを迎えることができました。「どうして養子縁組をしてまで子育てをしたいのか」の明確な答えは今も見つかっていません。けれど、子育てをするなかで、この選択が間違っていなかったことだけは確かだと思っています。
自分の家が嫌いだったわたし
養子縁組をしてまで作りたい家庭像は、自分の育った家庭に根ざしているのですか? と聞かれることがありますが、全然そんなことはありません。私は自分の家が嫌いで、「家族っていいな」なんて思ったこともなかった。父はとても怖くて横柄な昭和のお父さんでした。何を頼んでも「ダメだ」の一点張り。子どもの頃は会話をした記憶がほとんどありません。
一方母は弱い人でした。理不尽な父を前に、私を守るすべはなく、「とにかく耐えなさい」と。また、私が何かに挑戦しようとすると、「できるわけない」と決めつけ、失敗したらどれだけ大変なことになるかを説くような人でした。
私は小学校の頃は勉強があまり得意ではありませんでしたが、中学に入ると英語に夢中になって。家でリーディングの練習をしている私に、母は「下手な発音ね」と言いました。そんなふうに否定され続け、自分の居場所はここにはないとずっと思っていたのです。
家族って本来、もっと温かいもののはずだ、と思うようになったのは、16歳でカリフォルニア州にホームステイをした時のホストファミリーが素敵なご夫婦だったから。2人は私を、ほめてほめて、ほめまくるのです。そして何をするにも「トモコはどう思う?」と意見を聞いてくれる。ご夫婦はいつも仲が良く、居心地が良かった。
そんなホームステイ先から自分の家に帰ってくるとこみあげてくる、「私の居場所はここではない」という思い。最初は、この思いが何に起因しているかがわかりませんでした。でも、その後毎年、そのご夫婦のところにホームステイさせていただくようになり、私は両親ともっと話をしたかったんだということに気づいたのです。大学生になる頃には、自分から話しかけることで少しずつ父との会話が増えていきました。
父も母も、親らしくあろうと一所懸命だった
さらに時を経て結婚後、ニューヨーク滞在中に通ったコロンビア大学の大学院でオーラルヒストリーを学んだことも、親子の関係修復に役立ちました。
オーラルヒストリーとは、歴史的な出来事の関係者が当時何を考えていたのかを直接聞き取って記録を残すという、歴史研究のための手法で、私は被爆者へのインタビューを研究テーマにしました。両親と歩み寄るためにその手法を利用し、それぞれの話を聞く時間をとってもらったのです。
父が自分の気持ちを伝えるのが下手なのは、愛情を十分に受けて育ってこなかったから。そして、母がネガティブなことばかり言うのは、母自身が親から肯定された経験がなかったから。
両親の育った背景にまで思いを巡らし、理解することができてからは、親子関係は良好です。父も母も、やり方がわからないのになんとか親らしくあろうと一所懸命だったんだろうな、モデルがなくてさぞ大変だったろうな、と今は思います。
自分の家族のことをお話ししたのは、血のつながりって何なのだろう、と思うからです。私は血のつながった両親のもとで育ったけれど、幸せな幼少期とは感じていませんでした。私の家族は、「血縁」でつながっていたとは思わない。私が大人になり、歩み寄って話をするようになり、「ああ、そういうことだったのね」と理解し合うことで、絆が強まっていったのです。もしも「血がつながっているのだから、わかり合えるはず」と血縁だけに頼っていたら、たぶん家族みんなが孤独なままだったでしょう。
今、血のつながりのないハナちゃんを通して、私は父や母が本来持っている人間的な優しさや愛情を感じています。昔は距離を感じていた両親が、特別養子縁組で養子を迎えることに賛成してくれ、こんなに仲良く過ごせていることが、本当にありがたいです。
夫と私とハナちゃんは、別々の人から生まれた3人が集まった3人家族。当たり前の家族ではないと意識することで、より強い絆を毎日少しずつ作っていけたらいい。
私たちにとって絆というのは、日々の一瞬一瞬が積み重なってできていくものです。2020年の4月には、初めて彼女のほうから「ママ」と呼んでくれました。自分は彼女にとってかけがえのない存在なんだとわかった今は、自信を持って「ママだよ」と言うことができます。
ハナちゃんがうちに来た日から毎日写真を撮り続けていて、一緒にお出かけした場所とその日のハナちゃんがそこにはちゃんと残されている。私は産んではいないけれども、生後4日から彼女を見ている。
お花見も、運動会も、動物園にも一緒に行きました。毎日一緒にいるという、この積み重ねに意味がないはずないですよね。いつかこの写真を、ハナちゃんに見せてあげようと思っています。
いつか「真実告知」をする時のために
アメリカにいた時はまったく感じなかったけれど、日本に帰国してから身に染みたのは、養子に対する社会の理解がまだ十分に進んでいないということです。アメリカではテレビドラマなどでも普通に出てくる親子の形なのですが、まだまだ日本では特別なことなのですね。
養子縁組をした当初は、積極的に周囲の方にお話しするようにしていたのですが、戸惑われることもたびたびありました。「すごいね」とか「偉いなあ」という反応もあった。相手に気を使わせるのが心苦しく、だんだん話さなくなっていったのですが、私たちはポジティブな選択をしたのに、隠す必要があるの? という気持ちも強くて。2020年末、世間に公表することを決意したのは、「養子はかわいそう」「養子を育てるのは大変」という既存の価値観や先入観が払拭され、もっと理解が広まってほしいという願いからです。
いずれ、娘には「真実告知」をする時が来ます。「真実告知」とは、彼女の出自と、私と夫とは血縁関係はないことを告げるプロセスで、どのタイミングでどんなふうに知らせるかに特に決まりはありませんが、私は早い段階から徐々に伝えていくつもりです。
彼女を産んでくれたお母さんは、自分で子どもを育てることができない状況でした。でも、産むことを決意し、彼女のことを第一に考えて手放す決断をされた。その方に対して、私は感謝しかありません。娘には、私がどれだけあなたを大切に思っているかとともに、あなたのことを心から思ってくれる人がもう一人いる、ということをきちんと伝えたいです。
そして、「わが家は特別養子縁組をして幸せだ」と、オープンに語ることも続けていこうと思っています。養子縁組が子どもを持ちたい方の選択肢のひとつとして多くの人に知っていただけるようになり、多様な家族のありかたが社会で認められるようになれば、必ず娘のためにもなると信じています。
出典=『婦人公論』2021年5月25日号
久保田智子
TBS報道局記者
1977年生まれ、広島県出身。東京外国語大学卒業後、2000年TBSに入社。アナウンサーとして『どうぶつ奇想天外!』『筑紫哲也 NEWS 23』『報道特集』などを担当する。17年、結婚を機に退社し、コロンビア大学大学院にて修士号を取得。20年にジョブリターン制度を利用し、報道記者としてTBSに復帰した
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