皆さんと一緒に考えましょう

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

死ねばいいのに」が止まらない 失禁の始末、汚れた衣類の洗濯、収入の減少…50代独身男性“介護”のリアル

2021-10-14 15:30:00 | 日記

下記は文春オンラインからの借用(コピー)です

 実家に母と同居しながら、気ままな独身生活がこの先も続くと信じていた科学ジャーナリストの松浦晋也氏。しかし、母親が認知症を患ったことで、それまでの生活は一変する。自身を認知症だと認められない母、進行する症状、崩壊する介護態勢……。感情よりも理屈で考えたくなる性格だと自認する松浦氏は、こうした事態をどのように乗り越えたのだろう。
 ここでは同氏の著書『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』(日経BP社)の一部を抜粋。「敗退、戦線再構築、また敗退の連続だった」と振り返る奮闘の日々を紹介する。
◆◆◆
「自分の母を介護します」と、Kさんが退職
 ショックな出来事が起きた。ここまで1年以上にわたってヘルパーを務めてくれたKさんが、2016年7月末でヘルパーを退職することになったのだ。Kさんのお母さんの認知症が進行してきたので、実家に戻って本格的に介護するとのこと。「これまで、仕事としてずいぶんとお年寄りの介護をしてきましたが、今度は自分の母親を介護する番なんですよ」と言う。
 Kさんは、主力となってくれた3人のヘルパーさんの中では、一番の話し好きだった。よく母に話しかけ、母もKさんとの会話を楽しんでいた。明るく屈託のない人で、Kさんが来てくれたおかげで、私はずいぶんと助けられた。
 Kさんは、若い時に、テレビアニメーション制作の現場で働いていた。その頃の思い出話も面白かった。テレビアニメ史上に残る傑作「アルプスの少女ハイジ」(1974年)では、作品制作の指揮を執る高畑勲氏を間近で見ていたという。「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968年)、「火垂るの墓」(1988年)、「かぐや姫の物語」(2013年)などの、あの高畑勲監督である。
「何が恐ろしいって、ハイジを作っていた頃一番怖かったのは、高畑さんがぼそっと言う『これ、全部作り直そう』というリテイクの一言でした。もうスタッフ全員が戦々恐々としていましたよ。“高畑さんっ、やめてっ。その一言だけは言わないで!”って」
 最後のヘルパー勤務の日、Kさんには花束を贈呈して労をねぎらった。
 連絡先を交換しておいたところ、数カ月後にメールが届いた。
「自分の母の介護は今までと勝手が違って苦労しています」ということだった。
 Kさんほどの経験豊富なベテランのヘルパーであっても、肉親の介護となると苦労するのだ。家族が主体となって老人の介護を行うことの難しさを、私は改めて実感した。
トラブル続出、全面崩壊へ
 Kさんがいなくなった穴は、なかなか埋まらなかった。何人かのヘルパーさんが交代で入ってくれるようになったが、いきなり知らない人が何人も家に入ることに、まず、母は拒否反応を示した。「あなた誰。どうしてここにいるの」から始まって、「あなたの作る御飯はまずい。こんなもの食べられない」まで─ヘルパーさんに怒りを向け、まるで3月にメマリー(編集部注:アルツハイマー型認知症の症状進行を抑制する薬)を服用し始める前に戻ったかのようだった。
その時点でできる限りの態勢を組み、「これで大丈夫」と思っても、認知症と老化の両方が進行していくので、いずれは破綻する。また次を組まなくてはいけない。母の場合、2015年の春に組んだ要介護1の介護態勢は2015年秋頃からほころびはじめた。それに対応すべく要介護3の認定を得て2016年3月に組んだ態勢は、同年8月頃から行き詰まり始めた。8月、9月と、母の状態は悪くなっていったのである。アルツハイマー病もさることながら、老化に伴う身体機能の低下が顕著だった。
 8月の初め、朝起きると母は左腕に大きな擦り傷を作っていた。もちろん何が起きたか、母は覚えていない。応接間の土壁を見ると、丁度母の肩の高さから弧状のこすり跡がついている。それで夜中にトイレに起きた時に転倒したと理解した。右脇腹が痛いといい、痛みはなかなか取れなかった。整形外科に連れて行こうとしても、「医者は嫌。絶対嫌」と突っぱねる。
 それでも痛みが続くので、引っ立てるようにして連れて行くと、今度は肋骨を1本、骨折していた。肋骨の骨折は痛みをこらえて、骨がくっつくのを待つしかない。整形外科では、母のアルツハイマー病の進行を実感することになった。1年前に肩脱臼で受診した時と比べると、明らかに医師との会話がちぐはぐになっていた。
 衰えを感じたことを挙げていけばきりがない。
 足が弱り、歩くのが遅くなった。
 一度座り込むと、なかなか立ち上がろうとしない。
 夏は暑いので、老犬を連れての散歩は、早朝、または夕方にしていたが、かつてはさっさと歩いていた道を、時々立ち止まっては壁に寄りかかり息を整えないと歩き通せなくなってきた。危険なので、それまで母が持っていた犬の引き綱を、私が持つようになった。毎週1回、金曜日のリハビリのデイサービスには相変わらず通っていたが、半日のトレーニングでは母の体力低下を押しとどめることはできないようだった。
洗濯機にリハビリパンツを入れ大惨事に
 失禁の量が増えて、朝起きると介護ベッドのシーツを汚していることが増えた。吸水量300ccのリハビリパンツを使っていたのだが、それでは足りなくなり、寝る前には600ccのリハビリパンツをはかせることにした。例によって「こんなにもこもこで感触の悪いもの、はきたくない」と主張する。ヘルパーさんたちと協力して、はいてもらうように持って行くのに大変苦労した。
 失禁は家にいるときだけではなく、デイサービスに行っている最中にも起きるようになった。リハビリパンツの吸水量を超えて尿が漏れてしまうのだ。このため、デイサービスに行く時に替えのズボンを持たせることになった。汚したズボンはビニール袋に入って戻ってくる。母が帰ってくると、まず汚れたズボンを洗濯するのが日課となった。
 8月の半ば、デイサービスからの帰宅後、母の荷物に入っていた失禁で汚れたズボンを洗おうとしてトラブルが発生した。ズボンの中に、使用済みのリハビリパンツが入ったままになっているのに気がつかず、そのまま洗濯機に放り込んで洗ってしまったのだ。リハビリパンツの尿を吸った吸水ポリマーが洗濯槽の中に飛び散り、ズボン、そして一緒に洗った洗濯物に付着し、大変なことになった。一度全部洗濯物を出して、洗濯槽を可能な限り掃除する。床一面に新聞紙を敷き詰めたのち、洗濯物を空中で叩いて吸水ポリマーの粒を落とす。
 ズボンの中にリハビリパンツが残っていたのは、明らかにデイサービス側のミスだ。だが、これは責められないぞ、と思った。玄関に求人ポスターが貼ったままの小規模多機能型居宅介護施設、なかなかKさんの代わりの人が定着しないヘルパーさん、そしてこのデイサービス側のミス─おそらくだが、全部人手不足が原因だ。
 現行の公的介護保険のサービスは、人手不足で維持できるかどうか難しくなっているらしい。が、たとえそうであったとしても、私は抜本的な制度改革を行う立場にはないし、その知恵もない。自分にできること、やらねばならないことは、母の介護だ。状況がどうであろうと、母を介護し、母の人生をサポートし、きれいに全うさせねばならない。人生が映像作品なら、納期が許す限りにおいてリテイクできる。が、現実は待ったなし。今、この瞬間にうまくできるか失敗するかだけなのだ。
「死ねばいいのに」が止まらない
 介護に割けるリソースは無限ではない。母の失禁の始末と汚れた衣類の洗濯、歩くのを嫌がる母をせっついての散歩、各種の通院の付き添い─やらねばならないことは増えていき、私にかかるストレスは、再度深刻になっていった。
 それに輪を掛けたのが、収入の減少だった。
 今、自分の預金口座の残高の推移を振り返ると、2016年後半から急速に残高が減っている。母にかかる手間が増えたことで、精神的にも時間的にも仕事ができなくなってきたのだ。
 通帳の額が減っていく恐怖は、体験者でないと理解できないだろう。減り方の曲線を未来に延長していけば、そこには確実な自分の破滅が見える。破滅から脱出したければ仕事をすればいいのだが、介護の重圧の前にそれもままならない。
 幻覚が出た2015年春とは、少々違う形ではあるが、再度、私は精神のバランスを失いつつあった。この頃から、何かと「死ねばいいのに」という独り言が出るようになった。一度は、雑踏の中を歩いている時に、なんの脈絡もなしにこのフレーズがポロッと口から出て来たりもした。前を歩いていた若い女性、あれは女子高生だったか─が、ビクッと体を震わせて、私を避けていったのが印象的だった。
 主語はない。
 が、明らかだ。
「母が死ねばいいのに」だ。母が死ねばこの重圧から自分は解放される。が、それを口に出すのはためらわれるので、主語なしの「死ねばいいのに」なのだ。これだけ自分で自分を分析できるのに、それでも口を突いて出る「死ねばいいのに」を止めることができなかった。

「なんで。痛い、このっ」介護ストレスで実母に手を上げた私が暴力を止めることができた“決定的な理由”とは
65歳以上の人口の割合が全人口の21%以上を占める「超高齢社会」に突入した日本。当然のことながら、介護を必要とする「要介護高齢者」の数も増加し、誰もが「介護」と無縁でいられない時代になったといっても過言ではない。
 そんな介護の厳しい現実について、赤裸々かつ哀愁を交えて描かれた一冊が科学ジャーナリストの松浦晋也氏による『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』(日経BP社)だ。論理的な世界で働き続けてきた筆者は、親の介護にどのように向き合ったのだろうか。同書の一部を抜粋し、紹介する。
◆◆◆
果てなき介護に疲れ、ついに母に手を上げた日
 衰える足腰、量が増える失禁、度重なるトイレでの排便の失敗─老衰とアルツハイマー病の両方の進行により、2016年の秋の母は弱り、ますます介護に手間がかかるようになっていった。10月に入ると、これらに加えて過食も再発した。
 いつも午後6時頃に夕食を出すようにしていたのだが、少しでも遅れると台所をあさり、買い置きの冷凍食品を散らかすのだ。「お腹が空いてお腹が空いて、いてもたってもいられない。御飯を作ってくれないあんたが悪い」─食欲は原始的かつ根源的な欲求ということなのだろう。何度言っても、懇願しても怒っても止まらなかった。
 自分が壊れる時は、必ず前兆がある。
 今回の場合、前兆は、「目の前であれこれやらかす母を殴ることができれば、さぞかし爽快な気分になるだろう」という想念となって現れた。理性では絶対にやってはならないことだと分かっている。背中も曲がり、脚もおぼつかず、転んだだけで骨折や脱臼する母を私が本気で殴ろうものなら、普通の怪我では済まない。殴ったことで母が死んでしまえば、それは殺人であり、即自分の破滅でもある。が、理性とは別のところで、脳内の空想は広がっていく。
 簡単だ。
 拳を握り、腕を振り上げ、振り下ろすだけだ。
 それだけでお前は、爽快な気分になることができる。
 なぜためらう。ここまでさんざんな目に遭わせてくれた生き物に、制裁の鉄槌を落とすだけではないか。握る、振りかざす、振りまわす─それだけで、お前は今感じている重苦しい重圧を振り払い、笑うことができるのだぞ。
 悪魔のささやきという言葉があるが、このような精神状態の場合、間違いなく悪魔とは自分だ。そのささやきは、ストレスで精神がきしむ音なのだ。
とうとう手が出てしまった
 10月23日土曜日、私は少し台所に立つのが遅れた。すると母は冷凍食品を台所一杯に散らかし、私の顔を見て「お腹が減って、お腹が減って」と訴えた。明日の日曜日も自分が夕食を作らねばならない。「明日は遅れないようにしよう」と思う私の脳裏で、別の声がはっきりと響いていた。「殴れ、明日もやらかしたら殴れ」。
 翌24日の夕刻、いつもの日課の買い物に出た私は、少し予定が遅れた。大急ぎで戻って来たのは午後6時過ぎ。5分と過ぎていなかったと記憶している。
 間に合ったかと思った私を迎えたのは、またも台所に散らかった冷凍食品と、母の「お腹が減って、お腹が減って」という訴えだった。
 気がつくと私は、母の頬を平手打ちしていた。
「なんで、なんで。痛い、このっ」
 母はひるまなかった。
「お母さんを殴るなんて、あんたなんてことするの」と両手の拳を握り、打ちかかってきた。弱った母の拳など痛くもなんともない。が、一度吹き出した暴力への衝動を、私は止めることはできなかった。拳をかいくぐり、また母の頬を打つ。「なんで、なんで。痛い、このっ」と叫ぶ母の拳を受け、また平手で頬を打つ。
 平手だったのは、「拳だともう引き返せなくなる」という無意識の自制が働いたからだろう。その時の自分の気持ちを思い出すと、「止めねば」という理性と「やったぜ」という開放感が拮抗して、奇妙に無感動な状態だった。現実感もなく、まるで夢の中の出来事のように、私と母はもみ合い、お互いを叩き合った。いや、叩き合うという形容は、母にとって不公正だろう。私は痛くないのに、母は痛かったのだから。自分を止めるに止められず、私は母の頬を打ち続けた。
 我に返ったのは、血が滴ったからだ。母が口の中を切ったのである。
 暴力がやむと母は座り込んでしまった。頬を押さえて「お母さんを叩くなんて、お母さんを叩くなんて」とつぶやき続ける。私は引き裂かれるような無感動のまま、どうすることもできずに母を見つめるしかなかった。
 そのうちに、母のぶつぶつの内容が変化した。
「あれ、なんで私、口の中切っているの。どうしたのかしら」─記憶できないということは、こういうことなのか! この瞬間、私の中に感情が戻って来て、背筋を戦慄が走り抜けた。洗面所に向かった母を置いて、私は自室に籠もった。なにを考える気力も湧かないまま、携帯電話を見ると、ドイツにいる妹からのLINEの連絡が入っている。
「今日コネクトした方が良ければ連絡ちょうだい。
 来週は秋休みになるので自宅にいません。再来週の11/6はいます」
 妹とは、毎日曜日の午後6時か7時頃に、スカイプをつないで、母に孫たちの顔を見せるという習慣をずっと続けていた。都合がつかない時は、柔軟に中止したり延期したりしているので、その連絡だ。
今日が日曜日で助かった─。すぐに私は返事した。
「今、少し話をしたい。スカイプスタンバイします」
妹に話すことで危機を脱する
 スカイプを通じて妹に、私が何をしてしまったかを話した。誰かに話さなくては自分が狂ってしまいそうでたまらないということもあったし、話すことで再発を防がねばならないという意志もあった。何をしても母の記憶には残らない。この状態で暴力が常習化し、エスカレートすることを私は恐れた。妹は事情をすぐに理解したようで「分かった。私からケアマネのTさんに連絡を入れる。もう限界だということだと思うから、ちゃんと対策しよう」と言ってくれた。
 翌日、すぐにTさんは連絡してきた。
「妹さんからメールが届いて、事情は理解しました。まずは松浦さん自身が少しお休みをとる必要があると思います。とりあえずお母様にはショートステイに2週間行ってもらいましょう。休養して時間を稼いで、その上でこれからのことを考えるといいと思います。必要なことは全部私のほうで手配しますから」
 そして付け加えた。「正直、私から見ても、ここしばらくの松浦さんは、もう限界だなと思っていました。よくここまでがんばられたと思います」
 よくがんばった─おそらくは暴力を振るってしまった家族に対して、どのような対応をすればいいかが、マニュアル化され、確立しているのだろう、と私は思った。が、たとえそうであっても、この言葉は心に沁みた。
 こうして急に、母をショートステイに送り出すことになったが、その前にいくつかやらねばならないことがあった。歯医者の定期検診に連れて行き、歯の掃除をしてもらった。妹に頼んで冬用下着を通販で送って貰い、試着させてサイズが合うかどうかを確認した。
 ショートステイに行く前日、内科医院に連れて行ってインフルエンザの予防接種をした。抗体が定着するまで数週間かかるから、冬の本格的流行に先立って、早めにやっておかねばならない。予防接種の同意書には、本人のサインが必要だった。「ここに自分の名前を書くんだよ」と言うと、母は「自分の名前が書けない」と当惑したような顔で言った。「ひらがなでもいいんだよ」というと、しばらく考えてから、やっと漢字で自分の名前を書いた。かつてのはつらつとした筆跡からは想像もつかない、弱々しいサインだった。
母がショートステイに出ると、家にいるのは老犬と私だけとなった。2週間の空白─実に2年4カ月振りに私が得た休息だった。
自宅での介護は限界、介護施設に母を託す選択
 ショートステイなどの施設を使って、家族と本人を引き離すというのは家庭内暴力が発生した際の基本的な対応なのだろう。11月、12月と、ケアマネTさんは、11日間のショートステイの後3日間の帰宅、また11日間のショートステイと3日間の帰宅というローテーションを組んだ。公的介護保険の補助が出るとはいえ、ショートステイには1日5000円程度の出費が伴う。収入が激減している私にはかなりきつい状況だ。ありがたいことに、共働きをしている妹が、緊急に送金してくれたので、収入的危機は回避できる見通しがついた。
 ケアマネTさんと話し合い、自宅で私が中心になって母を介護するのはもう限界であって、ここから先は施設のプロに母を託するべきであるということになった。
 私の気持ちはといえば、悔悟と安堵がぐるぐるに混ざったものだった。
「ここまでか、ここまでしかできなかったか、もう少しなんとかならなかったか」と、「これでやっと終わる」が入り交じってぐるぐると身の内を走り回り、母がショートステイに行っていても、あまり休息できたという実感はなかった。
 事実、まだ安堵できる状況ではなかった。老人介護施設には定員があり、昨今の老齢人口の増加によってどこも混雑していた。望んだからすぐに入居できるというものではないのだ。一言で老人介護施設といっても、その種類は非常に多い。大きくは、健常な老人の入居する施設と、認知症などで介護を必要とする老人向けの施設とに二分され、さらに公的施設と民間施設とに分かれる。これだけで区分が4つあることになるが、それぞれ規模や目的によってさらに細かい種類が存在する。大人数の施設、少人数の施設、生活していくことが目的の施設に、医学的な治療やリハビリテーションを目的とした施設などなど。
 母のように取りあえず目立った疾患はなく、老衰とアルツハイマー病により要介護3の認定を取得している場合には、「介護が必要な老人が、生活を営んでいくための施設」が、入居の対象ということになる。
入居先探しは長期戦を覚悟
 我々兄弟は、Tさんのすすめで、母を預ける先として、特別養護老人ホーム、グループホーム、民間の老人ホームを検討することにした。
 特別養護老人ホームというのは、要介護3以上の認定を受けた老人が入居できる公的な介護施設だ。生活の場としての施設なので、継続的医療行為が必要な場合は対象外となる。広域型と地域密着型とがあり、広域型はどこに住民票があっても入居可能。地域密着型は定員29名以下と小規模で、その地域の老人のみを受け入れる。公的施設だけあって、入居費用が比較的安価だ。施設の建設年次によって、設備の充実度合にかなりの差があり、ひとり一部屋の個室のところもあれば、病院の大部屋のようなところもある。やはり、安さは魅力で希望者が多く、入居まで1年以上自宅待機というケースもあるという。
 それに対してグループホームは、主に社会福祉法人やNPOなどの民間が主体となって運営する、地域密着型の介護施設だ。その地域に住む老人を受け入れ対象としている。規模は10名から20名程度で、少人数で家族的介護を行うことを特徴としている。施設は基本個室。こちらも公的な補助が入っており、入居費用が極端に高いということもない。ただし、こちらも人気は高く、入居前の待機が長くなる傾向がある。
 民間の老人ホームは言うまでもないだろう。全般に入居費用は高い。上を見れば切りがない世界だ。が、逆に言えば金次第でどんなサービスでも選択することができる。やはり高いということがネックになるのか、入居はさほど難しくはない。ここでも「地獄の沙汰も金次第」なのである。
 実際問題、民間の老人ホームは、我々兄弟の収入に比して入居費用が高過ぎ、とてもではないが利用はできなさそうだった。となると特別養護老人ホームか、グループホームだが、どちらもそう簡単に入居できそうな雰囲気ではなく、「これは長期戦となる」というのが、2016年の末の段階での見通しであった。
松浦 晋也



コメントを投稿