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「余命1週間の母」を笑顔で見送った家族の結束

2021-04-01 15:30:00 | 日記

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

ハンバーグを食べコーヒーを飲んだ最期の日々
人はいつか老いて病んで死ぬ。その当たり前のことを私たちは家庭の日常から切り離し、親の老いによる病気や死を、病院に長い間任せきりにしてきた。
結果、いつの間にか死は「冷たくて怖いもの」になり、親が死ぬと受け止め方がわからず、喪失感に長く苦しむ人もいる。

守本早智子(62)は、余命1週間と告知された84歳の母親を、病院から自宅へ引き取った。料理上手で、食べることが大好きな母が、点滴だけの病院生活で元気を失っていたからだ。在宅医療に加え、終末期の人と家族に寄り添う看取り士の支援も受けながら過ごした、2カ月半を振り返る。
病院で「骨と皮」の母親を見て娘が固めた覚悟
奥のベッドで、84歳の玲子さんもコーヒーを飲みたいと手を上げている(写真:守本さん提供)
「コーヒー飲む人?」
三味線を製造販売する店舗奥のリビングで、守本早智子が職人や家族にそう尋ねた。手を挙げる職人たちの後方、和室8畳間の介護用ベッドで、84歳の実母・玉津玲子も黙って左手を挙げていた。
写真はそのほほ笑ましい場面を記録した1枚。2020年9月下旬ごろのものだ。
「母はいつも2、3口程度。それでも、みんなと一緒に飲みたがりましたね。私たち家族も自宅ではなく店舗で夕食をとり、焼肉でも鍋物でも、できるだけ母にも同じものを食べてもらいました」(早智子)
できれば家族が過ごすリビングに介護用ベッドを置き、終末期の人とだんらんを共有する。これは一般社団法人日本看取り士会が勧める、最後の時間の過ごし方でもある。母・玲子はそのベッドから家族などの会話に耳をすませ、夏には窓ガラス越しに花火を楽しんだ。
母親が余命1週間と告知されたのは同年8月初頭。約4年前にわかった病名は進行性核上性マヒ。脳内の神経細胞が減少し、嚥下や歩行障害が進行する難病だった。
「コロナ禍で面会禁止になって約半年ぶりに再会した母は、まるで骨格標本みたいでした。顔色は悪いし、目はよどみ、話すこともできなかった。誤嚥することが増えて食事を禁じられ、水の点滴だけでかろうじて命をつないでいたせいです。退院させることに迷いはありませんでした」(早智子)
面会禁止になる前は早智子が病院の夕食時に介助に通い、時間をかければ、かろうじて自力で食べられていたからだ。
「残り1週間の命なら、もう治療も薬もいらない。せめて私の料理を母に食べさせて、最期はこの腕で抱きしめて看取りたい」
早智子の思いに家族も賛成し、約2カ月半の在宅介護が始まった。
病院での水分のみの点滴からミキサー食に替えて1カ月も続けると、母親はみるみる元気を取り戻した。骨と皮だった顔に色つやが戻り、目には生気が宿り、プニョプニョとした手触りの肉が体に戻り始めた。すると、短い会話も交わせるまでに回復した。
食べることは生きること──早智子は母親の復調に痛感させられた。
食べたものを喉に詰まらせるのが嚥下障害。それを防ぐためにミキサーにかけ、ドロドロにしたのが「ミキサー食」だ。
食欲をそそる手料理の数々。左は再形成食の肉うどん、右はハンバーガー(写真:守本さん提供)
だが、見た目が悪く食欲をそそらない。そこで違う食材も混ぜて本物のハンバーグや焼肉のように形や色を整え、本物のソースやタレをかけて仕上げるのが「再形成食」。手間はミキサー食の2倍はかかると早智子は話す。
「焼肉なら、ひき肉と卵に、はんぺんとお麩の粉を加えてミキサーにかけ、肉1枚相当分の量を成型シートに流し込んでラップに包みます。レンジで一度蒸し固め、フライパンで軽く焦げ目をつけ、焼肉のタレをかけて完成。家族の夕食も焼肉にして、母は肉を焼く匂いを一緒に嗅ぎながら大満足でしたよ」
在宅介護の後半、早智子のレパートリーに再形成食が加わり、母親をいっそう喜ばせた。焼肉なのに、はんぺんとお麩の粉を加える理由は、口に入れたときのフワフワ感と、口溶けの良さを出すためだ。
在宅介護が1カ月半を過ぎた頃、早智子の予定が立て込み、母親に近くの病院に3日間短期入院してもらったことがある。その際、見た目の復調ぶりとは裏腹に、血液検査で心不全などの危険性を指摘された。
しかし早智子はブレなかった。
「在宅医の先生と同様に、その病院にも『治療も投薬も一切しません』とお伝えしました。今後も母には食べたいものだけを食べてもらいます。結果、寿命が仮に1週間短くなっても構いませんからって」
早逝した長男の介護経験を母親に生かす
その固い決意は、早逝した自身の長男への後悔ともつながっていた。
早智子は息子の良平を、2010年10月に弱冠20歳で亡くしている。良平は14歳で白血病を発症。一度は症状が消えたりしたが、その後も二度の白血病などを患った末だった。
1日でも長く生きてほしい。早智子は自分の思いが強すぎて、良平に辛い治療や投薬を強いてしまったのではないか。そんな後悔をずっと引きずっていた。
「良平の最後は自力で食べられない状況でした。でも、母は亡くなる当日の昼食まで食べられた。良平への後悔をふまえ、食べることが大好きだった母の価値観と生き様を見てきた私が、たとえ寿命を縮めても、大好きなものをできる限り食べて、母らしく生き切ってほしいと思ったんです」
母親の意思も確認済みだった。長男を在宅介護した経験もあり、痰の吸引やオムツ交換の手際は、一般的な看護師より数段上だったと、元看護師で看取り士の清水直美は話す。
「お母様が食べ物を喉につまらせた場面も見ました。早智子さんがすぐに抱き起こし、吸引機の管を入れやすい角度に背中を傾ける。するとご主人の泰夫さんか、長女の彩子(あやこ)さんが、吸引機の管を口腔内に的確にさし入れ、つまらせたものを瞬時に吸い取る。完璧な連携プレーにビックリしました」
でも、圧巻なのはその後なんですよと清水が続ける。
早智子さんが「お水飲める?」と確認し、母親がうなずくと、まずは水を少量飲ませる。母親が飲むと、「どうする? まだ食べたい? 」と再び聞き、母親がうなずくと、食事がすぐに再開された。母親の食べること、娘の食べさせることへのただならぬ執念を感じさせる光景だったという。
「病院の看護師なら誤嚥されるのが怖いから、食事は中止します。お母さんも喉につまらせると息ができず、苦しいですしね。でも、ご家族の愛が、母娘の揺るぎない信頼が、看護技術や経験をはるかに上回っているから、喉につまらせた直後でも食べさせられるんですよ。ご家族でここまでできるんだって、私はもう完全に圧倒されました」(清水)
約13年間、臨床の現場で働いていた元看護師の清水は、興奮気味にそう強調した。むしろ痰の吸引が家族には怖くてできないからと、在宅介護を諦める人たちも多いのに、だ。
看取り士の清水が、早智子らに看取りの練習を実施したのは同年9月下旬。早智子と夫の泰夫、長女の彩子、彩子の長男で小学2年生の奏人(かなと)が参加した。子どもも家族の1人として尊重するのが守本家方式。清水に看取りの作法についての説明を聞き、家族で交互にやってみた。
「まるで答え合わせみたいでした、良平さんをご家族で看取られたときの経験を踏まえて、『あのときも、こうしてあの子を抱きしめて、腕や脚をさすりながら、口々にありがとうって声がけもしたよね』って、皆さんが顔を見合わせながら、話されていました」(清水)
ひ孫も参加した大切な練習
母親の彩子さんに看取り練習中の奏人君(写真:守本さん提供)
極め付きは、彩子の頭を自分の小さな両膝にのせた小2の奏人。彼は、「ありがとう」「大丈夫だよ」と言いながら、母親の顔を小さな体で抱きしめた。すると奏人はふいに涙目になり、1階に一人降りて行った。
すぐに追いかけた彩子によると、ひーばぁ(玲子)だけじゃなく、母の彩子さえも死んでしまうんじゃないかと急に悲しくなったが、その場で泣いてはいけないと思ったという。彩子は半時間ほどかけて、息子に穏やかに話した。
「人も動物も生まれたら、必ず死ぬものなんだよ。ひーばぁもその旅立ちに向けて準備をしているの。だから、みんなでこうしてそばにいるんだよ。死ぬことは怖いことではないし、恐れるものでもない。奏人も初めて練習して悲しかったり、怖かったりしたかもしれないけど、大切な練習だからね」
奏人は納得したかのように、そっかぁとつぶやいた。この経験が後で生かされるとは、誰も考えもしなかった。
それから約1カ月後のある夜、昼食にクリームパン1個を完食した母親は、夕食前までよく眠っていた。早智子がふと血中酸素濃度計を見ると、数値が通常の90台後半から80、さらに70台へ急速に下がり始めた。
早智子は近所にいる長女の彩子を呼んできてほしいと夫に頼み、自身は在宅医と訪問看護師に連絡。早智子は介護ベッド上に急いで座り、その膝枕に母の頭をのせる態勢をとった。そして顔を近づけて呼吸を合わせる。看取りの作法だ。奏人にはひーばぁの右手を握って、と伝える。
「ひーばぁ、大好きだよ、ひーばぁ」
奏人は早智子の前に立ち、大人たちが先日やっていたとおりに声がけを始める。
「ひーばぁの舌ベロが、白くなってきたよ」
「唇が真っ白、お顔も真っ白になってきた」
「あっ、目を閉じたよ」
抱きしめている早智子には見えないだろうと思い、ひーばぁの刻一刻と変わる表情を伝えようと、小2の彼が懸命に言葉をくり出している。
「ありがとうー、あなたの娘でよかったよぉー!」
早智子も母親の体を抱きしめながら最後に声を張り上げた。
LINEのメッセージに残された言葉
守本早智子さんと玲子さんの遺影(写真:筆者撮影)
その後の通夜は、にぎやかで明るいものになった。
実は、早智子は息子の良平が亡くなる際、母がとった言動でどうしても許せないことがあり、以来ずっと心から消せずにひきずっていた。しかし、母を抱きしめながら「ありがとう」と言っている間に、その思いが全部きれいに消えるのを感じたという。
「母へのマイナスの感情も、一緒に看取ってくれるんですね」
早智子は通夜を終えた後、25歳下の看取り士の清水のLINEにそう送信した。
荒川 龍 : ルポライター 



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