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岩崎恭子 バルセロナ五輪14歳で金メダル、今も失われた2年間の記憶

2021-08-06 13:30:00 | 日記

下記の記事は日経ウーマンオンラインからの借用(コピー)です

オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。

岩崎恭子(いわさき・きょうこ)
1978年、静岡県生まれ。バルセロナ五輪選考会を兼ねた日本選手権残り1枠を姉と争い、出場権を獲得。当時のオリンピック記録を塗り替えるタイムで競泳史上最年少金メダリストに輝く。アトランタ五輪にも出場した。
「目標は決勝進出」だった14歳が手にした金メダル
―― 1992年のバルセロナ五輪で発した「今まで生きてきた中で一番幸せです」のフレーズは、27年たった今も多くの人の心にあります。
岩崎恭子さん(以下、敬称略) あのとき14歳になったばかりで、まさか私が金メダルを獲得するなんて夢にも考えていませんでしたし、そもそも私は決勝直前まで誰からも注目されず、期待もされていなかったと思います。実際バルセロナ五輪直前までは日本記録さえ破れていなかったし、世界のトップとは6秒近い差があり、平泳ぎ200mで6秒の差は決定的。私の目標は決勝進出でした。
 ですから予選で2位になり決勝進出を決めた時は「やったー!」ってガッツポーズ。日本代表の仲間たちも「恭子ちゃん、すごい」って喜んでくれたので、もう達成感がいっぱい。
 でもコーチから「もう1回泳ぐからね」と言われ「そっか」って。五輪の決勝戦がどんなにプレッシャーの掛かるものかあまり理解していなくて、試合直前におにぎりを5個も食べているんです。喉を通らないという友達の分も(笑)。
 状況をあまりのみ込めていないのがよかったのか、決勝当日は50mプールがなぜか小さく見えた。そして、ゴールしたらなんと私が1位。会場がすごく盛り上がっていて、体から湧き上がる喜びを表現しようと思い、とっさに出た言葉があのフレーズでした。
バルセロナ五輪決勝、ゴール寸前のすさまじい追い上げに日本中が熱狂した。だが、「今まで生きてきた中で一番幸せです」の名フレーズは、後に岩崎さんを苦しめる一因にもなった
バブルが弾けた後の日本の希望の光になった
―― 五輪のたびに名言が生まれますが、いつしか記憶の底に沈んでしまいます。でも、岩崎さんの言葉は今もなお、私たちの中に生き続けている。ご自身ではなぜだと思われますか。
岩崎 14歳の少女が人生を総括するような言葉を発したので、そのギャップに皆さん驚かれたんだと思います。現在41歳の私が、もし突然、中学生に「私の人生の中で……」と言われたら「は?」って思いますもん。ただ、まだ多くの人に覚えて頂いているのは、時代背景や環境などいろんな要素があると思います。
 バルセロナ五輪で金メダルをとったのは私と柔道の吉田秀彦さん、古賀稔彦さんの3人だけだったので注目度が高かった。最近でも、渡部香生子ちゃんや池江璃花子ちゃんなど若くして活躍する選手が台頭するたびに「岩崎2世」と称され、そしてあのフレーズがクローズアップされる。
 またオリンピック、元号が変わるなどアーカイブ的な特集のときは必ずと言っていいほどあの発言を取り上げて頂けるので、皆さんの記憶に刻まれることが多いんだと思います。
 平成から令和になるときも多くの取材を受け、ある記者の方に言われたことが印象的でした。それは、バブルが弾け、この先、日本はどうなるのかと目に見えない不安が漂っていたときに、未来ある中学生が金メダルをとり希望の光を与えてくれからこそ、あの言葉が今でも私たちの心に残っていると。うれしかったですねえ。
―― しかしその言葉はそれ以降、解離性健忘(非常に強いストレスにより過去を思い出せなくなる障害)になるほど、岩崎さんを苦しめました。
41歳、1児の母となった現在。金メダル後のつらい日々について話すとき、岩崎さんの目からは涙がこぼれそうになった
金メダリストになった途端に環境が激変
岩崎 そう、中3から高校1年までの記憶がほとんどないんです。
 金メダリストになった途端、環境が180度変わってしまいました。まず驚いたのが帰国時の空港。カメラマンが何十人もいて、私が歩くたびに追いかけてくる。バルセロナでは日本競泳陣の中でメダルをとったのは私だけだったから、取材陣が私一人に集中するのもすごく嫌だった。でもそれはまだ序の口。
 家から一歩出ると多くの人の視線にさらされ、学校の行き帰りには、見知らぬ人に何度も後を付けられました。家の電話は鳴りっぱなしになるし、かみそりの刃を送られてきたこともあります。それで学校の行き帰りは母が車で送り迎えをしてくれることになりました。
心に刺さった「14年しか生きていないのに何が分かる」の声
岩崎 知らない人に「14年しか生きていないのに何が分かる」とか「私なんて何年生きていてもいいことないよ」とか声を掛けられ、今だったら「幸せと感じるのは、何歳でもいいでしょ」と思うんですけど、まだ思春期になったばかりですから、ズサズサ心を切られましたね。また、高校は私の入学時から男女共学になったんですけど「岩崎が共学じゃないと行かないと駄々をこね、共学にさせた」とか、信じられない噂話がたびたび耳に届きました。
「中3から高校1年までの記憶がほとんどないんです。金メダリストになった途端、環境が180度変わってしまいました」
金メダルをとるんじゃなかったと思った日々
岩崎 多分、今ならネットでバッシングされるようなことが、その当時はインターネット環境も発達していなかったので、ダイレクトに届けられたんです。他人の容赦ない視線がガラスの破片のように私の体に突き刺さり、噂話が私の心をむしばんだ。「あんな言葉を言わなきゃよかった」と毎日思ったし、しまいには金メダルなんてとるんじゃなかったって。
―― 自分を守るため本能的に記憶を消したんですね。消さなければ生きていけなかった。
岩崎 後で考えても、何に悩んでいたのかよく覚えていないんです。忘れるくらい何もかも苦しい時期だった……。大学で心理学を専攻し、卒論を書くときに、その頃の自分を分析しようと試みたのですが、教授に止められました。「まだ早い。大学生の君は、当時の記憶に耐えられるほどまだ心ができていない」って。しばらくたって中学や高校時代の友人に「あの頃こうだった、ああだった」と言われ、かすかに記憶が戻るくらいですね。
 ただ、記憶がない時期は家族だけが私の支えでした。3姉妹の次女なんですけど、私が家で普通に過ごせたのは、父や母がどれだけ頑張って私を守ってくれたか、私が母になった今、よく分かります。
岩崎恭子 40歳でシングルマザーに。芽生えた自覚
米国で「13歳の私に戻ればいいんだ」と気づいた
―― バルセロナ五輪以降、解離性健忘(非常に強いストレスにより過去を思い出せなくなる障害)になりながら、高校2年生になって自分を取り戻せたのは、何かきっかけがあったのですか。
岩崎恭子さん(以下、敬称略) その後も水泳は続けていたんですけど、環境の変化について行けず、成績はがた落ち。代表から漏れ、ジュニアの選手として米国のサンタクララで合宿を行いました。13歳で代表に選ばれたとき、初めて海外で行った合宿の場所でした。
 あのときと同じ水の匂い、同じ風景が、無心で泳いでいた13歳のときを思い起こさせたんです。この2年間、私は何をしてきたんだろうと、心が揺さぶられました。そして思ったんです、13歳のときの私に戻ればいいんだって。
アトランタ五輪への道のりは、金メダルと同じ価値
 一緒に合宿に参加した稲田法子ちゃんの活躍にも刺激を受けました。彼女も私と同じようにバルセロナ五輪後は不調でしたが、ジュニアで再スタートを切り、サンタクララの大会で日本記録を樹立した。衝撃的でしたね。おかげで、私の心に巣くってた黒い滓(おり)のようなものがさっぱりと洗い流された気分になった。そして、もう他人の視線を気にしながら生きるのはやめようと決めました。
 すぐに、アトランタ五輪に目標を定めました。ただ、アトランタ五輪選考会まで後1年半しかなかった。自分ではこれ以上できないというほど練習しましたね。私にとってアトランタまでの道のりは、バルセロナの金と同等の価値があると思っています。自分の意志でオリンピックを目指し、がむしゃらに練習して切符を手にしましたから。
―― それでも、バルセロナ五輪の頃のような泳ぎは取り戻せませんでした。
「バルセロナで金」に自分の心が追いついた
岩崎 バルセロナまでは、自分のセンスというか、速く泳ぐためにほぼ無意識に体を動かしていたのですが、キックするときに足の指が開いてパラシュートのようになり、水をつかんでいたらしいんです。金をとった後、水泳関係者たちが私の泳ぎを分析していました。
 そういうデータを見せられると、そのように泳がなくちゃならないと思い込み、頭と体がバラバラに。データ通りに泳いでみても昔の感覚は戻ってきませんでした。今考えれば、13~14歳と16~17歳では女性の体は大きく変わっているのに、そんなことにも気が付かなかった。アトランタでは10位でした。
 ただ、アトランタでの成績は、競技者として胸の張れるものではなかったけど、その後の人生を生きるためにはすごく意味のある結果だったと思っています。自分の才能がすり減っていることに気が付きながらも、死力を尽くし、バルセロナの金にやっと自分の心が追いついた感じがして、納得できたんです。
―― でも、20歳での引退はあまりにも早いような気がしました。
18歳で迎えた2度目の五輪。「競技者として胸の張れる結果ではなかったけど、その後の人生を生きるためにはすごく意味のある結果だったと思っています」
「私はもう日の丸を背負う選手じゃない」と悟った日
岩崎 アトランタ五輪の翌年、パンパシフィック選手権のゲスト解説者としてテレビ局に呼ばれました。そのときに、アトランタの平泳ぎで一緒に出場した田中雅美ちゃんを懸命に応援している自分がいた。雅美ちゃんは同じ種目のライバル。競技者なら口に出さなくても悔しさが募るはずなのに、心の底から応援している自分にびっくりしたんです。そこで悟りましたね。私はもう日の丸を背負って泳ぐ選手じゃないって。
「私はもう日の丸を背負って泳ぐ選手じゃない」と悟って引退を決意したのはバルセロナ五輪の金から6年後。まだ20歳だった
「褒めて長所を伸ばす」米国で教わった指導法
 大学を卒業してすぐ、JOCのスポーツ指導者海外研修制度に合格し、米国・オレンジカウンティのスイミングスクールに派遣されました。午前中は語学学校に通い、午後は5~10歳の子どもたちと水泳教室。このとき、目から鱗の経験をしたんです。
 今でこそ、褒めて伸ばすという教育法は当たり前になりましたけど、当時は厳しく指導するのが定石。私も日本にいたときは子どもたちの悪いところを指摘し、それを直すやり方をしていた。私自身もそういう指導を受けて来ましたし。
 でも米国は真逆でした。できないことを指摘するよりも、できることを褒めて長所をどんどん伸ばす。できるできないより、楽しい環境を与えてその競技を好きにさせることが第一義でした。確かにコーチに厳しく指導され、嫌になって止められたら、もうそこですべてが終わっちゃいますから。私にとっては逆転の発想の指導法でしたね。
―― 日本に帰国してからは水泳コーチ、メディア出演などで忙しくされつつ、結婚、出産も経験しました。
娘と2人、人生の新たなステージが始まった
岩崎 昨年シングルマザーになりました。娘は今小学校3年生ですが、私が金メダリストだったことは話したことがないので、知っているのかどうか。ただ、友達のママからは「すごかったんだよ」と聞き「ふ~ん」と答えていたとか(笑)。私を尊敬する態度はみじんも見せませんね。まだ甘えたい盛りで。
 シングルマザーになり「娘を食べさせていかなきゃならない」と一時仕事をたくさんこなしていたのですが、毎日のように「もうお仕事辞めて」ってせがまれ、今はだいぶセーブしています。学校から帰ったとき、家に私がいないのが不安なんだと思います。幼いと思いつつも、子どもの成長具合はそれぞれ違うので、今は娘の希望に添おうかと。
 収入が少なければそれに見合った生活をすればいいし、最近、娘の将来を考え保険を見直すなど、生活の基盤固めをしています。
 これから先も、艱難(かんなん)辛苦はあると思いますが、10代の多感な頃に天国と地獄をいっぺんに経験したので、多少のことではへこたれなくなりましたね。
まだ甘えたい盛りで「ママが大好き」という小学校3年生の娘さんと岩崎さん
取材・文/吉井妙子 写真/洞澤佐智子



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