私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

読書20 『クオリアと人工意識 茂木健一郎』 その3

2020年12月12日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『クオリアと人工意識』

P250 人工知能の発展は、不思議な理路で、人間の最も根源的な不可思議、畏怖、「神」や「宇宙」といった概念に抵触するところがある。人工知能は、いわば、「裏口」から人間の宗教観を揺るがす。人工知能が私たちの精神性に与える影響を見極めるためには、脳の統合作用を担ってきた意識のメカニズムを真剣に検討する必要がある。
P291 「自己意識」の根源を理解したいという衝動は、ときに感情的な反応を引き起こしたり、何かを信じたいという気持ちにつながったり、場合によっては明白な事実を否認することに結びついたりする。
 しかし、ここで目指したいのは、ものごとをありのままに見ることと、綿密な理論の積み重ねによって、どのような結論に達するのかという検証である。
P357 「私」という存在は、その「意識の流れ」は、この宇宙の悠久の歴史の中で「私」という人間の誕生とともにたった一度だけ現れて、そして「私」という人間の死とともに消え、二度と繰り返さない。このような「自己意識に関する「セントラルドグマ」は果たして正しいのか?
「私」の「意識」の連続性という謎には、「時間」の流れの謎が関係している。そして、そこに、ベルクソンの論じた「純粋記憶」が重要なヒントとして浮上してくる。
果たして「私」の「意識」の本性とは何か?
いつかは、この究極の問いに対する答えも見えてくることだろう。
そのためには、私たちは、「人間」から離れてしまってはいけない。そして、人間は地球の生態系と密接につながっている。
(引用終わり)

「この世界には、たった一つの意識しかない。」

「全脳エミュレーション」「精神アップロード」で意識をコピーすることは、理論的基盤に致命的な欠陥がある。情報の内容で、私の自己意識が規定されるわけではない。私の自己意識、私のコピー人間の自己意識、もし私に一卵性の双子がいたとして、その人の自己意識、赤の他人の自己意識があったとする。脳の自己意識の距離は絶対的、独立して存在するかのように見える。
こで思考実験、双子の自己意識は、同じ世界に存在する平行世界の自分と見ることができる。今の私を規定する記憶状態とまったく違う人格状態になることはある。
茂木健一郎→→→→→田中健子、と情報の内容を変化させたとき、私の自己意識は連続している。同じ存在の自己意識と思うしかない。
私の脳の状態をコピーした私のコピー人間と、私の脳の意識との関係は、私の脳の意識と今世界中にいる、あるいはかつて世界中に存在した全ての縁もゆかりもないような人たちの脳の意識状態と同じであった。
つまり、私が私のコピー人間と同じ意識であると見なされるのであれば、私の脳と、世界中の縁もゆかりもない人たちの脳の意識状態も同じように同じと見なせる。
P236 すなわち、これまでの人生を生きてきた「私」という存在は、これまで生きてきた時々刻々のクオリアの鮮烈なる豊饒という事実において、「今、ここ」の「私」の「意識」の状態を超えているのではないか。
P362 昔、ある物理学者が、この世界の電子がみな同じなのは、実はこの宇宙には電子が一個しかないからだと言ったように、実はこの宇宙には意識は一つしかないのだ。(引用終わり)

私がこの解説を聞いたところによる理解は、全ての人に宿っている自己意識は、見分けがつかなくて、同一のものということです。

「この世界には、たった一つの意識しかない。」という考えは、既に『脳とクオリア』という本に書かれているようです。昔に、『クオリア入門』を途中まで読んで投げ出したことがあり、それ以来『クオリア』と名のつく本は敬遠していました(汗)。『脳とクオリア』読んでみます!

私も、死んだら無になるのか?ということはよく考えていました。
私の視点は死んで無になったあとも、世界中にいる他の人たちは朝目覚めて自分の視点を持つ。私の視点は、宇宙開闢から137億年のほんちょっとのことにすぎないのか?
江戸時代に生きていた人は、今は存在しない。今から200年後、確実に私は存在しない。
こんなに大事な大事な個々の「私の視点」が、殺されるという形で消されることがあっていいのか?戦争で消えることがあっていいのか?一回だけの人生で虐待されて育つことがあっていいのか?

「この世界には、たった一つの意識しかない。」

この構造の理解が、死んで無になる寂しい現実認識を変化させるかもしれません。死自体は、やはり怖いです。本能です。
私がブログでよくかくのは、「私」の「意識」は、生まれるものでもなく無になるものでもない、不生不滅の構造です。

「この世界には、たった一つの意識しかない。」

この構造の理解は、解脱という構造は不可能であって、勝手知った今の自分を生きるしかないと諦めることができました。
私がこの世なんていらないと思ったのは、「死にたい」ではなく、そもそもこの世なんて存在しないで欲しかった。このような意味です。


でも、私が思うのはもっと恐ろしいことです。全時空の「私」の「意識」がたった一つであるとき、忘れられない残忍な事件の当事者も自分ということです。人類の負の遺産を残された世界で生きていくのも、その「私」の「意識」です。

と、ここまでは良かったんです。なんとなく自分の思考に安住し納得していたんです。
でも、ふと振り出しに戻った気がしました。「意識のメカニズムの解明」「私とは何か」「人間とは何か」、意識意識意識意識意識と意識ばかり見ていたら、何かが違うという感じがしました。意識と名づけると間違うような気がする。これについては今度書きます。

おまけ:人工知能のイメージは、動きのないラーメンの汁です。人間の思考は、ラーメンの汁にカルマン渦を作りさらにそれをかき混ぜるイメージです。人工知能には思考に対する極性がないイメージです。無限から有限を取り出しているわけではないイメージ。分子レベルの存在のイメージです。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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