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私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

虹入り水晶と悟り

2024年09月03日 | 意識と悟りの構造

虹入り水晶とは、水晶内にクラック(ひび割れ)を持ち、そのクラック面が光を反射する際に虹色の輝きを放つ水晶のことです。

 

このように、見る角度や太陽の角度によっては、クラックだけで虹は見えません。

角度を変えると、クラックで光が干渉して虹が見えます。

そして、ある角度で光源である太陽をクラックに反射させると、虹は生じず光に満たされた状態が見えます。

この世界は、クラック面の虹の干渉と同じ構造です。

虹は掴めませんが、私たちの世界は電子の反発により物体を掴むことができ、実体があるように感じられます。

虹は太陽光の干渉の結果、人間が観察します。

電子、さらに、人間、人間の思考、人間の意識も、高次の干渉が存在するだけで、元は光源であることは同じです。

世界は光源から生じ光源に滅します。(原初の光源)

 

この世界内の物質である水晶は、「光源、虹、観察する人間」に、分かれていますが、「原初の光源」には、光源自身に、「干渉の結果生じる世界、純粋な観察」の両方を物理的性質として持っています。もうちょっと物理的な言葉で整理すると「対象を生じる性質」と「対象を観照する性質」です。

「対象を生じる性質」と「対象を観照する性質」、この物理的性質を持つ原初の光源自体が、あなたの意識の焦点の正体です。(人間の所有物として感じていますが、その感じも対象を生じる性質から生じ、観照しているだけです。)

 

意識の焦点(観照作用)は、時空を満たしかつ唯一として存在します。

それは、この世界の全ての人生を唯一の意識の焦点(観照作用)が「観ている構造」になります。

たった今、意識の焦点が、私の人生、あなたの人生、全ての人生を観ています。意識の焦点は、全知です。

この構造は、「全ての人は、同一人物」という構造を導きます。

 

たった今、目の前が観えているなら、それが原初の光源自身です。対象を生じ観ています。

人間の意識の焦点にピッタリ重なって世界全体を観ています。

 

人間の意識の焦点に重なっているだけで、「意識の焦点」ではなく、ただの「焦点」です。意識という質感は、「対象を生じる性質」から生じたものです。

 

ただの「焦点」、こうやって書くと、不快な人がいるかもしれません。でも、人間が想像するような、輝く永遠の命を持つ何者かが意思を持って観ているわけではありません。全ては、単なる物理現象でしかありません。

干渉が消え光源そのものに復帰すると、ただの「焦点」そのものをありのままに悟ります。悟りは、普遍的な物理現象です。

 

世界は光源から生じ、光源に滅する。干渉によって生じ、干渉によって滅する。

だからといって、「この世界は、虹のような幻影であり執着をなくせ」とは思いません。

苦しいことは苦しいし、嬉しいことは嬉しいです。

存在しているかぎり、不動の精神はあり得ません。

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合わせ鏡と悟り

2024年08月28日 | 意識と悟りの構造

合わせ鏡の間に入ったとき、結構必死に奥の方を覗こうとします。

でも、自分自身が邪魔で、あまり奥まで見えません。

「悟り」について考えるとき、合わせ鏡は参考になります。

合わせ鏡は、自分自身を消せば、無限に奥の方が見える。

(実際の合わせ鏡は有限です)

この「自分が邪魔で見えない」状態が悟りに似ていると思いました。

「自分が邪魔」で、「意識の焦点」が、何なのか悟れていない

自分自身を消せば、「意識の焦点」のみが顕わになり、この「意識の焦点」が実在だと悟ります。

人間が「意識の焦点」を存在させているのではなく、「意識の焦点」が、人間の存在を在らしめています。

人間を含めた世界全体を在らしめています。

合わせ鏡で無限に永遠に遠くの方を探すのではなく、今ここに在る、「意識の焦点」が無限で永遠です。

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人間と意識の顛倒夢想、戦争でお金儲けしたい人も読んでほしい記事

2024年06月07日 | 意識と悟りの構造

私が「意識」について書くとき、「リンゴを見ている自分の意識」など、意識の内容全体のことではありません。「リンゴを見ている自分の意識」を「意識している(自覚している)」ことそのものであり、その意識の焦点のことを「意識」としています。

自己意識全体ではなく、自己意識の焦点です。

認識全体ではなく、認識の焦点です。

気づきという、認知の焦点です。

意識の焦点として意識を定義したとき、明確にしたいことは次のことです。

人間が意識を存在させているのではなく、意識によって人間が存在させられている。

そもそも「意識」を「意識」と表現したり、「精神」「心」「真の自己」と名づけると、人間を中心にした表現になります。人間専用の表現です。

地球を宇宙の中心に置いて、太陽や惑星が回っていると考えた天動説の世界観と同じです。

「意識」というものを物理的に表現すると、【無[相即]無限の光】の物理的性質であり、存在するものを確かに存在させる観照作用になります。

(※【無[相即]無限の光】の物理的性質は、対象作用と観照作用で、ホログラムの物体光と参照光の関係に類似します。)

 

【無[相即]無限の光】は、最高次のホログラム、最高次の多義図形のようなものであり、存在可能な世界は全て存在させ(対象作用)、さらに自身の持つ観照作用によって存在するものを確かに存在させ確定します(在らしめる)。

人間専用の表現の「意識」ではなく、シンプルに「観照作用」です。

この観照作用によって、「リンゴを見ている自分の意識」も意識することが可能です。今、あなたが世界を認知していると確かに自覚することができているのは、照明作用によるものです。

「自己意識が確かに在る」と観えているのは観照作用の物理的効果です。

 

人間(脳)が観照作用(意識)を存在させているのではなく、【無[相即]無限の光】が人間を存在させ、それが持つ観照作用(意識)によって、「確かに人間が存在する」として確定します。観照作用が存在しなければ無です。この世が存在するためには原初の物理状態【無[相即]無限の光】に観照作用が必須です。

 

人間がいるから意識(観照作用)が存在するわけではありません。人間が消えても意識(観照作用)は存在します。

人間は、観照作用が認知の本質、原因、正体であることを悟ることが可能です。

人間という現象そのものを滅し、【無[相即]無限の光】に潜在化し、観照作用そのものだけに成ることで悟ります。(※悟るのは、【無[相即]無限の光】に潜在化し、再び顕在化したときの人間です。)

観照作用そのものの状態を純粋意識と名づけることもあります。それぐらい観照作用そのものと「人間の自己意識が見ている」という感覚は酷似しています。

 

不確定性原理とは、不確定性関係にある「位置と運動量」が位置の曖昧さが小さくなると運動量の曖昧さが大きくなり逆も然りの関係です。よく位置と運動量は同時に正確に決めることができないという説明を見ます。「一方は正確に決まるの?」という疑問を持ちますが、一方を曖昧さゼロで確定し正確に決めることは不可能です。曖昧さゼロで確定するともう一方が無限大になってしまいます。結局はどちらも絶対的な確定はしないでゆらいでいます。ミクロで私たちは確定せずぼやけている存在です。

ミクロな粒子を波として表わしたものを物質波と呼び、ある程度広がりを持つので、針のように一点に集中したものではありません。物質波には最小の広がりがあります。物質は、マクロで静止しているように見えても、ミクロではゆらいでいます。この世界では絶対に超えられないゆらぎです。

 

人間という現象は、この不確定性原理の超えられないゆらぎを[人間~世界全体]を滅することで超えることができます。これは「悟り」と呼ばれます。悟りは、神秘現象や宗教的なもの、奇跡などではなく、普遍的な物理現象です。

[人間~世界全体]を滅すると観照作用そのものだけの状態になります。それはつまり、【無[相即]無限の光】の状態、唯一・絶対・静止であり、さらにこの状態は、存在可能な世界を全て「今」認知している状態になります(※全ての存在可能な対象を含む原初の状態)。

これは、人間の意識による不確定性原理の超越です。

(※正確には人間を中心にした世界全体の観照作用(意識)による不確定性原理の超越です。)

 

不確定性原理では、位置の曖昧さがゼロになり正確に確定する(静止・不動)と、運動量の曖昧さがが無限大になります。運動量の曖昧さが無限大になるとは、可能な全ての運動量が重ね合わせで存在するということです。

 

この関係は人間の意識も同じです。(※正確には、人間の意識の焦点から時空全体を観ている意識(観照作用)であり、人間専属の意識(観照作用)ではありません。)

人間の認知(意識の焦点)が極限に至ると(最高次のメタ認知)、認知が静止・不動になり、「人間という現象~時空全体の可能性の全て(無限)」が重なり合って消滅し、【無[相即]無限の光】になります。

[人間~世界]という現象が消えても、それは死ではありません。【今[相即]永遠】に全てを観ているもの、つまり、観照作用そのものの物理状態に成るだけです。

(※これを「人間」が不生不滅の命に復帰するという表現にすると、人間中心的です。)

観照作用を「神」と解釈すると、神人合一のような表現ができますが、これも人間中心的です。人間という現象は生滅する領域の現象であって、観照作用ではあり得ません。人間という現象は従であり、観照作用が主(しゅ)です。人間の思考は、人間を中心に置いてしまうので主従関係が逆になってしまいます。(どちらの考え方も平等に価値がある構造ではあります。)

 

絶対温度の下限である絶対零度とは、原子の振動が小さくなりエネルギーが最低になった状態のことです。不確定性原理のため、原子の振動が完全に止まることはなく、零点運動をしています。人工的に有限回の操作で、絶対零度に移行することは不可能です。

しかし、人間の認知は、[人間~世界]を滅することによって、完全に静止(不動)にすることが可能です。単純に静止ではなく、【静止[相即]エネルギー無限大】です。エネルギーが最低であるとき相即不離でエネルギー無限大になります。それが、【無[相即]無限の光】の物理状態であり、無限の可能な世界を包含し、それを観照作用により認知するという物理的性質を持ちます。この観照の物理作用を人間は意識(意識の焦点)と呼んでいます。自分の意識としています。自分がいるから意識が存在すると思っています。実相は、意識が存在するから人間が存在します(在らしめられる)。

 

意識の正体を悟るということは、全ての人間の意識の正体を悟るということです。意識の正体である「観照作用」は、「唯一絶対静止」相即「全知」です。「観照作用(意識)」が「全ての人間」を観照する構造になる。「今」自分の意識の焦点(観照作用)だと思っているものが、「今」他者の意識の焦点も担っていることになります。

つまり、「全ての人間は、意識の焦点を介して同一人物」と捉えることができます。

厳密に意識とは、【無[相即]無限の光】の物理的性質の「観照作用」のことですが、分かりやすくすると、「人間という現象」の意識を有する観照者は1人ということです。

「今」目の前にいる他者も、過去に存在した他者も、未来に存在するであろう他者も、何の改変無く、ただ静寂に、何の判断もなく、「観照作用(意識)」がスキャンするように、認知します。

 

実相において自由意思は存在しないので、大きな時代の流れには逆らえないかもしれませんが、人権の停止や戦争は起きて欲しくないです。もし、戦争に行くように命じる立場や戦争によって金儲けできる立場であっても、戦争の最前線にいる人間の人生を生きているのは、「今」自分の意識だと思っている意識なんだと知って欲しいです。全ての人は同一人物という構造です。

 

同じ時間にいる人間は、全くの他人であり、その人生をその本人の意識の焦点から認知することはできないと思うかもしれませんが、観照作用は、時空を超越し全知です。時空を隅々まで満たし、相即不離で唯一として観ています。

 

意識の解明が、神秘や奇跡ではなく、物理や数学で求められ、「全ての人間は、意識の焦点を介して同一人物」ということが科学的に示唆され常識になりますように。

 

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「私は人間」という呪縛

2024年05月12日 | 意識と悟りの構造

  呪縛というインパクトのある言葉を使いたかっただけで、どちらかというと保護の方が適していると思います。「私は人間」という思考は、私という人間を含め、この世界を維持し保護していると思います。

 

「私は悟りました」

「私は解脱しました」

「私は再び生を受けることはありません」

「これぞ悟った人の姿だ」

「真の自己」

「人間はすでに仏性を内包している」

「人間と神の合一」

 

 これらの思考は、「人間感」が強いです。

 私も以前、「私は悟りました」と書いたことがあります。人間らしい思考だと思います。しかし、これは違うと思います。やはり、よく言われるように、「私は悟りました」と言ってはならない、言ってしまうと悟り(意識)の理解から離れてしまうと改めて思いました。

 

 意識の焦点から世界を観ている、気づいている、自覚しているという事態を真に実現しているのは、観照作用そのものです。

 無相即無限の光の物理的性質の1つです。

 観照作用を真の自己と呼称することはできません。

 「観照作用があなただ」「それがあなただ」と表現することは、真の理解から離れます。

 

 あなたのあなたという思考を取り去った(自身の自身という思考を取り去った)、唯一相即無限の焦点から観ているという物理的性質が在るだけです。

 「観る」そのものだけが在るだけです。

 

 人間という呪縛は強力です。

 皮膚の表面までが自分という思考、手の表面が物に触れるという境界、それはパウリの排他律の呪縛と表現すると面白いです。

 しかし、そういう関係性がそこに展開しているだけで皮膚表面までだけが観照作用(観るそのものの焦点:人間感覚なら意識の焦点)の及ぶ範囲ではありません。

 皮膚表面まで専用の観照作用ではなく、皮膚表面という境界は存在せず人間という現象を含め世界全体を1つの現象として観ています。世界の中の1個人の意識の焦点に観照作用の観る焦点が不可分に在り、そこから全てを観ます。

 人間が意識の焦点と思っているものは、人間専用ではなく、人間と世界の境界無く全体を一体に観ています。

 

 「私は悟りました」

 これだと依然として一個の人間が自分という思考に縛られていると思います。

 「自己消滅」も同じです。

 

 人間という現象とそれを取り巻く世界全体(時空全体)の消滅が絶対の境地であって、現象に境目はありません。

 

 皮膚表面の触覚という現象、自分の意思で行動しているという現象が一人の人間と錯覚させてる。

 日常感覚では、一人の人間として生きて問題はありません。

 意識、意識の焦点とは何か?と問うとき重要になると思います。

コメント (4)
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明け渡し、頓悟、漸悟と凸レンズの類似

2024年03月11日 | 意識と悟りの構造

読んでくれた方、ありがとうございます(o^―^o)

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