お盆だから、なのだろうが、生や死、亡き両親、友ダチ、ご先祖様、ワン猫うさぎ。アタミら、、先に旅立った方々の事ばかり、やけに浮かんできてしまうのだ。考えてしまうのだ。
当たり前のことだが、自分が幼い頃は、人の死なんかには無縁で、定例のお盆の時期の、父方の実家への訪問も、一体何のために行くのか、、その意味、目的すらわからずにいた。何しろまだ幼稚園〜小学校低学年、の頃だ。
いわゆる、本家、であるその家は、やたらと広く、縁側に座ると目の前には広い畑が広がり、土間のある台所の隅にある小さな戸を開けると家畜小屋に出ることができるのだ。そして、自宅の周辺は、見渡す限り田んぼ。田んぼしかない。商店と呼べるようなものは、ただの一軒もない。
ああ、、本当に、父の実家は、のどかな田舎だったのだねえ。
家の脇に、小さな小さな赤い鳥居があったのも覚えている。祠、というのかな。あれは、あの家の守り神様だったのだろう。
その祠の脇を抜けて家の後ろに行くと、ここは、もう、目の前の田んぼしか見えないため、あまり長居?はせず、そのままぐるっと一周して家の正面玄関に戻るのだ。戻る前に必ず家畜小屋に立ち寄る。やぎや豚、鶏などがいた。餌をあげて、なでたりもした。あの頃、家畜がなぜ飼われているのか、そのわけすらわからなくて、ただ単純に、かわいいな、とだけ思っていたが、あの家畜たちはいずれは、人間たちの口へと入る定めだったのだな。あ、、ヤギは、ミルクを取るためだったがね。豚や、鶏は、明らかに食用だっただろう。、、
あの頃、まだ祖父は元気だったし、さらには曾祖母も高齢でほぼ寝たきりではあったが生きていた。そして、祖父の、まだ若い後妻さんもいて、今現在姑と同居している私は、あの頃、あの家にいた長男の嫁さんは、さぞかし大変だったろうなとつくづく思うのである。
押しかける?分家の方々に、酒や料理を振る舞い、とにかく座る間もなく動き回っていた、。祖父の若い後妻さんは、ニコニコしながら接客に勤しみ、祖父の横で客に酒を振る舞っていた。本家の嫁、の大変さは、想像を絶するものだろう、、。などという事を考える事は幼い時分には全くない。父は分家の立場なので、手土産と、気持ちで包む御仏前を持参すれば、それでもう、お客様の立場。、、。お呼ばれされる側の気楽さよ。
夜も更け、大人たちの酒盛りもいよいよクライマックス?に突入し、歌や踊りまでも飛び出す頃、子らは子らで、外に出て花火を始める。浴衣に着替えている子らもいて、いつも洋服だった私は、内心とても羨ましかった。花火と浴衣は本当にベストマッチなのだ。
そして、その、子らにとり一大イベントある花火が終わる頃、大人の酒盛りもお開きとなる。父の実家から私の家までは車で三十分くらいだが、いつもタクシーで帰った。今なら全然思わないが、昔は実家から家までがものすごく遠く思えたものだ。帰り道のちょうど中間くらいのところで父の実家の江〇子村から、私の住む〇上市に変わる。周りの景色もそれを堺に変わるようで、不思議な気持ちになったものだ。○上市になると田んぼは極端に少なくなる、と言うかほとんどない。
江〇子村は、不思議な村だった。まず、名前からして面白い。なかなか読めない村名だと思う。更には、父の実家の地名が、これまたすごい。滑田と書いて、、なんと読むかわかりますか?。、、なめしだ、と読むのですよ。読めませんよね、、
なぜ、帰省できない今年に限り、このように、なき父の実家のことをあれこれ思い出すのか、、よくわからない。でも、、忘れたくない思い出だから、こうしていつまでも心に残っているのだろうね。
江○子村は、今はもう、○上市と合併して、村ではなくなってしまった。でも、あそこはやっぱり長閑な農村地帯で、江○子村滑田、という名前のほうがしっくりくるよ。
今年のお盆もおしまいだ。今年は両親のお墓参りには行かれなかったが、夢には母が何度か出てきたし、、まあ、そんなこんな、やはりいつもとは違う淋しいお盆だった。
送り盆か、、今日は。また戻っていくのだね、あちらの世界に。
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