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日々感じたこと、思ったことの記録

○ 三島由紀夫の死について 

2005年02月03日 | ○ 昔の言いたい放題
 1970年11月25日。作家三島由紀夫が割腹自決の壮絶な死を遂げた。私はその事件を知った時、彼についてあまりよく知らなかったので、「バカなやつがいるものだ。」としか思わなかった。その当時、私は自殺を絶対的に否定していた。
 「どんな理由、どんな方法であろうとも自殺してはいけないのだ。自殺とは、忍耐力がなくこの社会悪、人間悪に耐えられないもののすることだ。社会競争に負けた弱者が、この社会から逃避するために自殺するのだ。悩めるものが最も簡単な解決法として死を選ぶのだ。オレは絶対に自殺なんかしない、どんなに苦しくても。与えられた人生を最大限活用するのだ。」
 私はこういう信念を持って、自殺した人を同情する以上に軽蔑してきた。彼、三島由紀夫の場合もそうだった。

 しかし、約1週間後、彼の小説の2・3を読み、彼についての幾多の資料を見たとき、私の信念はくずれざるを得なかった。自殺の理由が私の考えていたもの以外にもあったのだ。それは、美を追求するためであり、自己主張を極限に表現するためだ。
 そして、私の死に対する考えは180度転換した。私は死が美しいものだとは思わないが、その神秘性には多分に心が引かれるようになった。そして、死ぬ時をすでに決めた。人生において最も盛んな頃、つまり英雄になった時死ぬということだ。彼は死んだ時最高のものを見出したが、私は最高のものを見出した時死にたい。このように私の考えが変わった。

 「ものに入ってその微のあらはれて情感ずるや句となる。」(三冊子・服部土芳著)に見られる芭蕉の精神に則って、彼は自分が最も美しいと考えるもの、つまり死と自分とを一体化し、その本質を掴み取ろうとしたのだ。死が美しいかどうかはさておいて、この精神は文学者として、最高のものではないだろうか。

 また、憲法改正による軍隊の復活や、天皇制が最高だという彼の考え方には賛成できないが。自分の主張を最大限に表現するために死ぬという考えには賛成できる。相手に最も刺激を与える人間の行動は死なのだ。その死によって、自分の意見を主張したということは社会人としても偉大ではないか。ゆえに、私は、いや、私たちは彼の自殺を賞賛し、彼の偉大さを永久に忘れてはならないのだ。
他にも色々あるけれど、高校生の時から結構理屈っぽかったのだなと思う。三島由紀夫についてはすっかり忘れていた。当時は若かったし、影響を受けやすかったのであろう。懐かしいとともに、気恥ずかしい感じである。
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