私の記憶と感性 そして 下書きのない日記 №52

多可が50 去れども半世紀の人生で この三百六十五段の湯けむり漂う
町に来てからの記憶と感性です

★俳優を越えて締った 私は 萩原健一でした

2015-12-24 16:59:13 | 日記


私は 子供の頃からショウケン萩原健一の大ファンで16才で職人の見習いに入り18才で夜間のデザイン学校で商業デザインを学び
一方では 競輪選手に成り金を稼ぎ母に大きい家を建てて遣り楽な生活をさせて遣ると誓っていました
でも 私たち仲間と私の彼女は 荒み切った生い立ちと時代の流れに負けて行く方向に嵌まり16才から酒を浴び千葉の飲み屋街では
アイツ進吾は 喧嘩ばかりしやがって家の店は 出入り禁止だと言われる 店屋ばかりに成りました
私が飲み屋で飲んで居ると喧嘩を売りに来る 暴走族や愚連隊が居ましたからあの当時は 私一人に相手が4人5人何て普通でした
効した荒んだ生活をしている 内に私の事を何故か気に掛けて暮れていた
千葉大学の教員がオイ進吾 お前は 俳優に成らないか俳優座に入れ俺は 俳優座で顔が利くから演技の勉強をして今の荒んで遣り切れない
心と生活を見直せ お前の眼つきと豊かな表現力なら萩原健一見たいな俳優に成れるぞと言われて居た
私は ふざけんなでした・・・
私の生い立ちと活き方は 今までの作品の合い間に書いて来ましたが結局 職人を選び二十歳そこそこで職人達を使い塗装会社を創り
有限会社から42歳で株式会社にして大手ゼネコン建設会社の時下受けと成りました
33年間続けていた 職人業と経営者は 時代の流れに副えなかったのですが今 考え十代で時代の流れに乗れずに四十代で又 流され
私の彼女は 19才でうつ病とシンナ-(あんぱん)で自宅のマンションから身を投げてしまいました
私が酒と喧嘩で十代を過ごしたのは 彼女を暴走族やシンナ-から救い集ったのです 彼女は 17才の夏祭りの日に暴走族20数人に犯され
左足の付け根が複雑骨折をして一生足を引き摺る事に成り小学校6年生で母親を亡くし其れからのうつ病も酷くなりシンナ-と男に嵌って行きました
私は もう子供を産めない身体だから進吾と呟く17才から19才の梅雨時でした・・・


傷だらけの天使の頃です


傷だらけの天使で水谷豊がショウケンに兄貴~と呼ぶ言葉が流行りました
読み書きがまともに出来ない萩原健一と水谷豊が気ままに活き事件に巻き込まれ解決をして行く昭和と人情が堪らなかったです


前略 おふくろ様では 優しい板前の役で昭和の男を演じおふくろ役の田中絹代に頭の上がらないショウケンでした


一世風靡をして居たショウケンがブル-ライト横浜を歌った美しい石田あゆみと結婚をして渋い俳優を演じていた頃



★この作品は 2016年2月3日に成り観覧人数が一位に成りました 有り難う御座います

 s10683726@ybb.ne.jp
 

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