臼砲での死闘・証言1
宜野湾市 仲村さん
昭和19年6月、長崎県大村航空隊第21海軍航空曹として徴用されたが勤めていた工場長の許可をとり、最後の家族への面会に沖縄に帰省した。
ところが、戦局悪化のため再び長崎に帰ることができず、昭和20年1月に初年兵として球部隊(第32軍直轄部隊)へ入隊した。
入隊場所は浦添(うらそえ)国民学校であった。部隊は重砲部隊であるが、ほとんどは秘密砲で臼砲といって一発の弾丸を8人でかかえるほどのものをあつかう部隊である。部隊本部は浦添市の内間にあり、そこでしばらく教育を受けて、各分隊へ配属された。
昭和20年3月23日、敵の艦砲射撃がはじまり、島尻の港川から上陸するのとことで、内間から玉城(たまぐすく)村の船越に臼砲12門を運び、港川へ向けて設置した。ところが、一週間たっても上陸の気配はなく不思議に思っていたら、西原町棚原へ移動するよう命令が下った。あわてて引き返したが、島尻へ運んだ臼砲は12門中2門しか設置できなかった。場所は、棚原の通称、石城(いしぐしく)であった。
石城で一番悔しかったは、戦争がはじまったばかりであったのに小隊長が初年兵へ、地下足袋、手りゅう弾、帯剣を準備してすぐに出て来いと呼び出され、15キロの爆弾を背負って突撃に行くよう命令された。
どうせ死ぬとは覚悟していたが、戦友に「宜野湾の人たちに会ったら、仲村は爆弾を抱えて出て行った」と伝えてくれと頼んだ。
我如古(がねこ)のキビ畑や芋畑に分隊長の命令で、約100間おきに自分で蛸壺を掘り、そこで待機したが米軍の戦車は真栄原・嘉数方面に進行し、我如古や棚原の方へは地形が起伏しているのか進撃してこなかった。
この命令を下した小隊長の名前は古野といった。爆弾は15キロで、投げてもせいぜい3~4メートルで、戦車がよほど近づかないと効果はない。手りゅう弾式で信管を抜くと3、4秒で爆破するようになっていた。
キビの葉や芋づるを被って死の宣告を受けて待機していたが、とうとう戦車は姿を現さなかったので、夕暮れ近くに石城に引き返した。
幸いにもその日は命拾いしたが、古野小隊長には怒りを感じた。数ある初年兵の中からなぜ自分なのか、島尻から引き返して以来、いまだに一人の負傷兵もでていない時期だったので、ますます怒りを感じた。石城の戦いは、はっきり覚えていないが、1週間ぐらいは戦ったと思う。嘉数戦線では球部隊は後方隊であったが、石部隊(62師団)とは、連携がとれていたように思う。臼砲というのは、相当な威力があり、弾尾、弾体、弾頭といってネジ式で一括になっていた。日本軍の中でも優秀と言われており、嘉数戦線では臼砲が支援してくれるとのことで、石部隊は勝利を信じて喜んで闘っていた。
嘉数が突破されてからは、追われどうしであった。真玉橋(まだんばし)を渡って後ずさりし、戦闘は具志頭(ぐしかみ)が最後であった。部隊長の命令では「友軍でもよいから後方に下がるものは撃て」ということになっていた。死傷者は続出し、初年兵は分隊でも私一人になっていたので、15キロの爆弾を背負いどおしで一触即発、いつ死ぬのかわからなかった。しかも、風雨のために信管もさびついたが、分隊長からは「米軍が来たら、仲村すぐに肉薄するように」と命ぜられていた。2か月も背負いどおしの爆弾は、極めて危ない状態であったので「班長殿この爆弾は錆ついているから駄目じゃないですか」と反問すると「ダメでもよいから突っ込め」と怒鳴っていた。
そのような時期に、本土出身の新田上等兵と私は見張りを命じられた。後になって、これが私の生き延びる幸運のカギであったことを知った。
二人は具志頭の丘の間を縫って窪地に隠れ見張っていた。夜が白々と明けるころ、米軍戦車がくるのを発見したが、もうすく手前であり、分隊長に報告する余裕もなく、あっという間に火炎放射を吹きたて攻めてきた。私たちの部隊は、この地で全滅した。
その後は新田上等兵と真壁の新垣(あらかき)に逃げ、そこで偶然に同部隊の戦友である山入端(やまのは)さんに再開、他の部隊の本土出身の軍人ら5、6人と行動を共にすることになった。彼らの話では、国頭(くにがみ)では友軍が勝ち戦をしているとのことだったので、国頭突破の計画を企てた。ちょうど。6月15日前後であった。みな軽装で出発した。地形に詳しい私が先頭に立ったが、壕を出て間もなく銃撃されしばらく意識を失った。銃弾は肘近くを貫通しており、国頭突破は断念、山入端さんは残ってくれた。
その後、古年兵で島尻出身の人と行動を共にし、その人が米軍は殺さないはずだから私と一緒に捕虜になろうと言い、棒に三角巾をくくり付け、摩文仁の海岸から海に向かって歩き、そこで捕虜になった。6月26日であった。