平和津梁の鐘

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島民を艦砲から救い、敗戦後惨殺された。

2020-08-16 23:04:24 | 50 沖縄戦の証言・住民

島民を艦砲から救い、敗戦後惨殺された。・証言1

久米島 仲村渠(なかんだかり)さん、

島民を艦砲射撃から救った仲村渠明勇さん一家が、敗戦後惨殺された証言。

具志川村(ぐしかわそん)字西銘出身の仲村渠(なかんだかり)明勇さんは、当時二十五歳。陸軍上等兵で現役を除隊していたが、防衛召集で海軍小禄飛行場守備隊に配属された。六月初め捕虜になって収容所へ入れられたものの、米軍の久米島攻略に際して“道案内”として同行し、住民に無抵抗を呼びかけていて、日本軍に襲われて妻子ともども斬殺されたのである。

六月二十六日に久米島へ上陸した彼は、妻のシゲさん(当時二十六歳)と一歳になったばかりの長男明広ちゃんに再会し、隠れ家を転々としながら米軍は一般住民には危害を加えないことを知らせていた。しかし日本軍が彼の動きをつかんで、スパイにまどわされるなと触れを出しているため、村の人びとは近づけず、八十五歳の老父もまた、ずっとはなれたところにいた。 明勇さんは七男二女の末っ子であった。彼の長兄は、十月十日の大空襲のために那覇市で爆死した。次兄は病弱で、老父とともに久米島で生活。三番目の兄は移住先の南洋諸島で現地召集され、ペリリュー島守備軍。四番目の兄は、大阪で召集されてフィリピンヘ。五番目と六番目の兄は、それぞれ軍属として中国大陸で従軍・・・。空襲で死んだ長兄の長男は台湾防衛軍に、長姉の長男も海軍、次姉の長男は陸軍で、長女は赤十字看護婦と、文字どおりの“ご奉公”の一族なのである。

七男の明勇さんは穏やかな性格ながらも、なかなかシンが強く、人一倍の親思いであった。彼は収容所で、米軍の久米島攻略が行なわれるのを知り、郷里の妻子や父親を思い、いたたまれずに“道案内”を引き受けたのだった。

小禄飛行場北側に米軍が上陸したのは六月四日早朝で、包囲された沖縄方面根拠地隊司令官、大田実少将が自決したのは六月十三日午前零時十分(『沖縄方面陸軍作戦』)だった。約五千人の守備隊は、文字どおり玉砕している。「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と大田司令官が海軍次官あての訣別電を打ったのが六日夜で、十二日午後六時に連絡は完全に杜絶した。

仲村渠明勇さんが捕虜になったのは、六月十二日前後だったろう。金武村屋嘉の捕虜収容所は六月上旬に完成、避難民の収容所とはちがい、ここは二重の鉄柵で囲まれ、きびしい警戒だった。収容後は、郷里の様子を気にかけて、結果的に久米島出身者の代表として、道案内に出かけた。この事情については、二人の証言者がある。

久米島の仲里村字阿嘉出身の比嘉良厚さんは当時二十一歳で、球部隊(独立混成第四十四旅団)に従軍して大腿部を盲貫銃創、収容所のベッドに寝ていた。六月二十三日ごろ、沖縄出身の米軍二世の通訳二人を伴って、仲村渠明勇さんが訪ねてきた。嘉手納の進駐軍野戦病院に収容されていた、やはり久米島出身の野村健さん(当時二十九歳)が、きっかけをつくったのだった。野村さんは胸から背中にかけて貫通銃創を負い、ベッドで重傷の身だった。ところが通訳の話では、近日中に久米島攻略に出動し、艦砲射撃を加えるという。野村さんは驚いて、久米島は無防備で、見張所はせいぜい機関銃が三丁くらいだから、艦砲射撃などせずとも無血上陸できると説き、住民をまきぞえにしないよう嘆願した。そして野村さんは、収容所で見かけた、仲村渠明勇さんの名前を出したのである。

米軍通訳からこのことを知らされ、明勇さんも大いにあわてた。収容所内の久米島出身者を訪ね歩いて、米軍の作戦行動を中止させる協力者をさがした。それにはまず、久米島の実情を正確に知らせることが必要だった。比嘉良厚さんは、出征前は勤労奉仕で、海軍見張所へ行ったこともある。母親は、炊事を手伝ったりしている。だから仲村渠明勇さんは、「彼にもぜひ事情を聞いてくれ」と、通訳を連れてきたらしい。

作戦部付の通訳は、このとき大型の久米島地図をひろげた。 通訳の説明によれば久米島の日本軍兵カが、白瀬川(仲里村と具志川村の境を通っている川)の上流より下流に、一万五千名より二万五千名集結し、字島尻より字銭田までの間に砲門が数門配置され東海に向けてあり、また字大原と北原には糧秣貯蔵が大量になされていて、これだけの装備をされているので三日三晩、軍艦三隻で艦砲と空襲で連続砲爆撃して上陸を敢行するとなっていた。仲村渠と比嘉氏は、事の重大さを痛感し、久米島の無防備を再三嘆願し、吾々の一命にかえても攻撃を中止させるべく通訳をして米軍に頼み続けた結果、君たち二人が遣案内に行くならば艦砲は中止するとの、通訳の話であった。

負傷している比嘉良厚さんは、通訳が出してくれたジープで、嘉手納野戦病院へ連れて行かれた。応急治療で、久米島攻略の艦船に乗れるようにするためである。しかし入院した比嘉さんは、それきり仲村渠明勇さんに会っていない。傷は数日間でよくなったものの、すでに仲村渠さんは、久米島に向けて出発していた。沖縄島の西方六十キロに、渡名喜島がある。面積3.2平方キロで、人口九百人ちょっとの渡名喜村に向けて、艦砲からまず一発を撃ちこんだのが六月二十四日で、無防備であることがわかって無血占領。その足で、久米島へ向かったのだった。

上陸後の久米島の動静をしるために、「吉浜智改日記」を引用。

〈六月二十六日〉午前八時、仲里村イーフの浜に、米軍無血上陸す。島民クモの子を散らした如く、奥山へ奥山へと四散す。この日をもって、農業会職員も各々、家族の退避所へ、分散した。為に、山の日本軍への飯米供出もできなくなった。責任者は両面の敵を警戒せねばならぬ危険に置かれた。

〈六月二十九日〉 字西銘出身、仲村渠明勇君、山中でうろたえている人々に対し、「米軍は良民に危害を加えないから、抵抗せずに、安心して山から下り、帰宅するように」と告げ廻る。明勇君の話によれば、「米軍は軍艦三隻で、艦砲射撃を予定していたが、捕虜になった私たちは、久米島の無防備を説明し、艦砲射撃を中止させた」由。

〈七月五日 鹿山兵曹長は、自分は山奥を転々として安逸をむさぼりながら、「斬込み」と称して、部下には五、六名を一組とし二、三丁の銃器を与え、残りは竹槍を持たせ、米軍の通過する路傍に待機させて狙撃を行わしめた。兵曹内田常雄氏の一隊五名は、小港坂の下で米軍戦車に発砲した為、直ちに発見され機関銃掃射を受けて戦死した。同兵曹と共に、村義勇隊員、字鳥島の青年仲宗根寿君も戦死し、隊員二名負傷す。

〈七月六日民衆が山から下りると、山に残るのは、軍人ということになるので、女をつれ廻ってうろたえている鹿山は、民衆に向い、「退山する者は、米軍に通ずる者として殺害すべし」と宣伝した。民衆之に怖(おぴ)えて、下山する者なし。

〈七月七日 米軍民政部は、宣撫班を組織し、各へ立入り、戸毎に人無き家を片っぱしからほじくり返した。

〈七月八日〉山の手のは、鹿山の脅迫におびえて下山せず、下のでは、「米兵、婦女子を辱しめる」という噂により、再び山へ退避し始めた。

〈七月九日〉「退山する者は殺害する」との鹿山の言で、下山を怖れていると、米軍から、「住民は一日も早く、帰宅して農耕すべし。左なくば、日本軍と見なし、山を掃討する」と布告が発せられた。民衆は山にも居れず、里にも居れずで、只路上を右往左往するばかり。鳴呼、信頼していた皇軍!今や完全に山賊化し、民衆の安住を妨害す。耕さねば、日一日と窮迫する食糧の現状をも知らず、自已の安逸をのみむさぼる鹿山兵曹長は、一体いつまで逃げ廻るのか。

〈七月十日〉午前八時、山田方面に銃声あり。タ刻に家族を、神仏を奉持して帰宅せしむ。自分は鹿山の動静を伺うために山に残る。

〈七月十四日〉 米兵、裸体のまま、民家を荒し廻る。民衆再び、山へ退避さわぎあり。

〈七月十五日〉米兵、空家を荒しし、家畜や鶏を殺生する者多し。上田森の陣地、一層強化さる。

〈七月十六日> 今も尚、米軍の暴行を怖れて、山から山へさまよう娘たちあり。

〈七月十七日〉米軍将校、軍医と通訳を伴い来訪す。家族驚き、老弱病体なる由を伝え面接を拒絶したが、強いての要請により、明日を約して帰した。

七月十八日〉米軍将校再び来る。「病気も治してやるから、是非、治安の維持、島の統治に当ってもらいたい」との切なる要望。私は「日本軍人として、明治・大正・昭和の三代に仕えておりながら、今おいそれと敵の軍門に降るということは良心が許さない」と拒絶する。

〈八月十五日> 日本無条件降伏す。午後二時、米軍は民衆の前にラジオを開放。ラジオの前には無数の村民が立ち塞がっていたが、日本降伏の放送に、民衆只呆然自失、声無く、此処彼処にすすり泣く声あり。

〈八月十八日〉米軍に久米島は無防備の島であることを説明して、艦砲攻撃の難を救った仲村渠明勇君が、上陸と共に住民「無抵抗でいるように」と伝えたというので、仲里村字銭田イーフ原にて惨殺された由。

仲村渠明勇さんは、米軍の上陸地点である通称イーフ原で、日本軍の追及を逃れて、妻子といっしょに過ごしていた。隠れ家に親子三人、昼間は息をひそめて、夜になったら行動を起こしていた。日本軍はすでに、彼のことを嗅ぎつけて、探索していた。だから危害が肉親に及ぶのを恐れて、実家や親類のところへは近づかないようにしていたのに、とうとう八月十八日夜、やってきた兵隊たちによって殺害された。

実家の父親は、隣家の上江洲智和氏と当山松氏を雇い、三人の死体収容にやった。右両名(ともに故人)によって確認されたことは、仲村渠明勇は左脇腹を斜め下へ二十センチ以下の切傷が大きく口を開けて焼死していた。また、勝手口から裏庭へ血痕が続き、屋敷囲いのためその家にはアダンが繁っていたが、勝手口より裏のアダンの行き止りのところに血の固りが散乱していたとの証言をしており、三人の死体は家の中にあったので殺害して家の中に運び入れて、石油をかけて住居共焼いたものと考えられます。

 

沖縄戦の証言についてhttps://blog.goo.ne.jp/ryukyu/e/0e13dbed9662d50b4ca388a3d7a08c64

 

証言1島民を艦砲から救い、敗戦後惨殺された。

 


命どぅ宝

2020-08-15 11:42:34 | 3 琉球黄金言葉

琉球黄金言葉(るーちゅーくがにくとぅば)・ことわざ・格言・名言など。。

 
命どぅ宝

琉歌
「戦世や済まち 弥勒世ややがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」 

読み
「いくさゆやしまち みるくゆややがて なじくなよしんか ぬちどぅたから」

意味
戦いの時代は終わった。 弥勒(平和)の時代がやがて来る。 嘆くなよおまえたち、命こそ宝なのだから。

命どぅ宝とは、命こそ宝物であり、この世で最も尊いものという意味。

古人が詠んだ琉歌ですが、作者は不明です。

琉球の哲人政治家蔡温の言葉に 
『何ものにも勝って命こそが大切である。他のすべてのものは失っても取り戻すことができるが、命だけは取り戻すことができない。何よりも命を大切にすべきである』と、どんな宝よりもすぐれているのものが命だと、説いています。

「鉄の暴風雨」と呼ばれた沖縄戦。
昼夜の別なく無数の爆弾、艦砲弾が容赦なく降り注ぎ大地を砕き丘を崩していった。草も木も火炎放射に焼き尽くされ、洞窟(がま)にこもれる住民、兵士、母を幼子を乙女らを焼き、ついに沖縄住民、敵味方の軍人合わせて二十万人以上の尊き命が奪われました。

『命どぅ宝』は そうした、多大な犠牲をはらった沖縄の人々の、肝心(ちむぐくる)からの叫びなのです。

 

思真鶴金o(^▽^)o

 


2020年、長崎平和祈念式典の首相あいさつ

2020-08-09 13:21:06 | 10 綸言・諛言・諫言

安倍首相あいさつ

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。

 本日ここに、被爆75周年の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。

 そして、今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。

 新型コロナウイルス感染症が世界を覆った今年、世界中の人々がこの試練に打ち勝つため、今まさに奮闘を続けています。

 75年前の今日、一木一草もない焦土と化したこの街が、市民の皆様のご努力によりこのように美しく復興を遂げたことに、私たちは改めて、乗り越えられない試練はないこと、そして、平和の尊さを強く感じる次第です。

 長崎と広島で起きた惨禍、それによってもたらされた人々の苦しみは、二度と繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた国際社会の努力を一歩一歩、着実に前に進めていくことは、我が国の変わらぬ使命です。

 現在のように、厳しい安全保障環境や、核軍縮をめぐる国家間の立場の隔たりがある中では、各国が相互の関与や対話を通じて不信感を取り除き、共通の基盤の形成に向けた努力を重ねることが必要です。

 特に本年は、被爆75年という節目の年であります。我が国は、非核三原則を堅持しつつ、立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促すことによって、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取り組みをリードしてまいります。

 本年、核兵器不拡散条約(NPT)が発効50周年を迎えました。同条約が国際的な核軍縮・不拡散体制を支える役割を果たし続けるためには、来たるべきNPT運用検討会議を有意義な成果を収めるものとすることが重要です。我が国は、結束した取り組みの継続を各国に働きかけ、核軍縮に関する「賢人会議」の議論の成果も活用しながら、引き続き、積極的に貢献してまいります。

 「核兵器のない世界」の実現に向けた確固たる歩みを支えるのは、世代や国境を越えて核兵器使用の惨禍やその非人道性を語り伝え、承継する取り組みです。我が国は、被爆者の方々と手を取り合って、被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります。

 被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め、原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、今後とも、総合的な援護施策を推進してまいります。

 結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ長崎市において、核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、長崎市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私のあいさつといたします。

 令和2年8月9日

 内閣総理大臣 安倍晋三