印刷コンサルタント

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語りつがなくてはいけないこと。

2011-08-16 16:00:31 | 戦争体験について
東日本大震災(この名称で良いのか自信がなかったが、wikipediaによれば「日本政府は2011年4月1日の持ち回り閣議で、この地震による震災の名称を「東日本大震災」とすることを了解、発表した」とあり、現在進行中でもあるが、この名称を使わせていただくこととした。)以降、日本が完全に転換点にきていることは明らかになった。そして、震災復興と第二次世界大戦後の日本の復興が重ねあわされ、どう違い、どこが同じなのかが、メディアを中心に語られることが多くなった。

個人的なことではあるが、以前このブログで触れたように、親戚に独居老人がおり、一頃のように物資が枯渇(いわゆる買占めで)して困った時期は脱してまぁ、なんとか落ち着いて暮らしている。地震のことが心配で、行き来を始めた間柄であるが、筆者の幼少時期に、一つ屋根の下で暮らしていたこともあり、沢山の世話にもなっていたので、折にふれ、訪問するようにしている。
そんな中で、その叔母から、戦時中の学徒動員の話を聞くことが出来た。

昭和18年ごろ、女学校に行っていた叔母は、当時東京の三鷹にある工場に学徒として動員され、住んでいた東京の東の端の小岩から、三鷹まで電車(多分省線といっていた今の総武線)で、通って、なにやら部品を作っていたという。
調べて見ると、中島飛行機(戦闘機隼を作っていて、今の富士重工の前身)か日本無線の工場にいっていたらしい。
当然軍需工場だから米軍の爆撃対象であり、ある日空襲警報が鳴ったので、急いで防空壕に逃げ込もうとしたが、入りきれず、しかたなく敷地に突っ伏してやり過ごしたそうだ。ところが、その防空壕を爆弾が直撃して、中にいた動員学徒は全員死んでしまったという。

今、そのことを記録した石碑が立っているとのことだったので、ネットで検索したが全然引っかかる文書が見つからない。

そんなつらい経験をした老人だが、あるいはつらい経験をした老人だからか、一人でなんの文句も言わず、淡々と身奇麗にして暮らしている。

奇麗事をいうつもりはないが、こんな経験談でも、たとえばこのブログに記載して、残しておくことも、戦争未経験者として必要ではないかと思った次第である。