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平和巡礼に同行、小禄→糸満「魂魄の碑」までを祈りと共に歩く

2013年06月24日 | 日記

朝6時カトリック小禄教会に信者、一般市民が集まり始めます。


(写真提供 大城庸秀さん)

平和巡礼に出発する前の祈りの集いが行われました。
この日への特別の思いがおありなのでしょうか、アメリカ人の神父様が言われます。
「米軍基地があること、あるがゆえに起こるできごとをアメリカ人として
恥ずかしく思う」と。アメリカ人神父としてとてもとても辛い自省のメッセージです。


7時、教会出発です。総勢約100人、中に山伏姿の方がおられます。

この日のために山形県羽黒山からわざわざ沖縄へ来られました。


「いまの日本の歩もうとしている方向にとても危険を感じる、
戦争への道を再び歩くことは24万人余の御霊への裏切りであり、黙って座しているわけにはいかない(要旨)」と心のうちを話されたそうです。


歩き始めて一時間を過ぎ、豊見城市へ入ります

沖縄の夏の太陽が勢いを増します。みなさん完全防護の太陽対策ですが、
汗は噴出し、こぼれ落ちます。でも足取りは確かです。
鎮魂への祈り、不戦の誓いを御霊に届ける、強い思いは同じです。
クルマで先行する市民の方が氷の入ったビニール袋を皆さんに配ります。
暖かいお心、そして氷の冷たさの心地よいこと、首筋に袋をあてると一気に蘇ります。


カトリック中学の生徒たちと合流、ともに祈りを、平和の歌を。


いよいよ糸満へ、多くの遺族団の歩く姿とも出会います

地元糸満小学校の皆さんが吸水ポイントで冷たいお茶と共に待っててくれました。
ありがとう!みんな!おいしかったよ。


ひめゆりの塔に到着。ここで再び祈りの集いを
想像を絶する体験記が読み上げられます。その内容はまさに地獄絵図です。改めてここに記すことがためらわれます。ただ、ただ、うつむいて聴くしかできません。汗と一緒に多くの方は涙を拭われたでしょう。でも辛くても悲しくても耳を覆いたくても私たちはその「惨」から逃げてはいけない、人間の犯した罪としてともに背負わなければならない、読み続けられる手記を聴きながらそう思いました。


さあ、最終ゴール魂魄の碑へ。

魂魄の碑に続く約1キロの道、
そこはいまはのどかなトウモロコシ畑やお花畑ですが、68年前ここには
無念の、非業の死を遂げた方々のご遺体が地面をみえなくしていました。
捕虜として生き残った方はせめて亡骸を踏まないように爪先立ちで歩いたそうです。
そしてここ糸満には日本兵のつくった壕やがま(洞窟)が
260ヶ所余りあるといわれています。
そしてそこにはご遺骨が収集が困難ということで
まだ安らかな眠りに付かないままです。




68年前道端や畑に放置、散乱したお名前も出自も不明な人々を祀る魂魄の碑

この碑を小禄からの巡礼者達は取り囲みます。
特にカトリック中学校の若者たちに司教様が静かに語り、強く訴えられます。
「いまの日本がとても危険な方向に向かおうとしていること、
憲法が権力者たちにとって都合のよいように変えられようとしていること、
そして沖縄が決して自立していないこと、アメリカの占領下にあること、
日米両政府はこれからも不条理押し付け続けるであろうこと、
だからこそ、平和のために動いて欲しい、動くことをためらい、
恥ずかしく思うことはないと」



戦争の記憶を教えよう、伝えよう、若者たちへ


6月23日が何の日か知らない若者たちが多いという調査結果の中
戦争体験者はもう80才台後半に入りました。
この日あらためて思ったこと、それは学校での教育です。
教え続けるしかありません。それは教師だけでなくすべての大人たちの任務です。
良い学校へ入るための偏差値の高さより、
平和を思い、願う心の偏差値がうんと、うんと高い子供たちであってほしいのです。


空疎な美辞麗句でお茶を濁し、鎮魂の場をも濁した安部総理


平和記念公園には、どんな下心があるのか、
安部総理が外務大臣やら防衛大臣を引き連れてやってきました。
まさに安部一族ご一行様です。壊れたレコードのようにまたくりかえされる
「沖縄の心に寄り添う」という手垢の付いた美辞麗句、
そして「沖縄の振興に尽くす」というこれもまた手垢の付いた利益誘導言葉、
要は「金はやるから、我慢しろ、黙ってろ」と同じことを選挙目当てでいっただけ。
こんなリーダーを持ったことを心から無念に思います、心から恥ずかしいと思います。
そしてこんな人間を支持するヤマトの人間が60%以上もいる、
おりしも都議会選挙で自公が過半数を。
いま日本は戦争への危険水域に入ったことを一人一人が自覚しないと、
トウモロコシ畑の下や壕に眠るご遺骨に向ける顔がない、本当にそう思います。


そして安部総理、式典で小学校一年生の安里有生ちゃんの読んだ詩が
どれだけ多くの参列者の心を捉えたか、揺さぶったか、
さっさと東京にもどったあなたはご存じないでしょうね。
タイトルは「へいわってすてきだね」
「へいわつづいて」「かぞくがげんき」「おなかいっぱい」
せいいっぱいの平和を願う純な言葉に大きな拍手が巻き起こりましたよ。

このちびっ子の目をまっすぐに見て、安部総理、
きみたちに戦争はさせないよ、兵隊さんにはさせないよ、
とあなたはいえますか?

赤瓦ちょーびんさんと安里・泊を歩く その1尚徳王と安里八幡宮

2013年06月17日 | 日記
安里八幡宮の背景にはツインタワーが、いまの沖縄らしいシーンです。

6月2日、蔡温スクェアに集まった一行14名はまず安里八幡宮へ。
安里八幡宮は尚徳王(在位1462~1469)が建立しました。

一度で鳥を射落とせ給え!神よ。
納税を拒否した喜界島を制圧するためにこの地安里を通った尚徳王
1羽の鳥が空に舞っているのを見て、
あの鳥を一度で射落とせば征伐は成功する、
射落とせ給えと祈り矢を放つと見事に命中します。
さらに海上に漂う鐘を見つけ、
拾い上げようとしますが波に邪魔されて中々拾えません。
そこで再び願をかけるとやすやすと拾い上げることができ、
喜界島制圧をも成し遂げました。
この戦勝に感謝して創建されたのが安里八幡宮です。
弓に偉大なるパワーを与えたことから、
弓矢の神様八幡大菩薩を祀っています。
ちなみに琉球には八社ありますが、他の七つの神社は熊野権現です。

暴君尚徳を語るエピソード
この尚徳王の評価は実にさまざまです。暴君という声が大勢ですが、
それを伝える有名なエピソードにはことかかないようです。
その代表格をあげますと、
王様が久高島に行幸した帰途、与那嶺で休憩をとりお供や臣下に
ごくろう、酒や料理を振舞うのが通例なのに、尚徳は「わしは知らん」といい
長老金丸のとりなしでようやく酒食を与えたといいます。
因みにこの金丸は後の第二尚氏の初代の王様になる人物です。

一方、尚徳はマラッカや韓国との交易を積極的に行い、
独自の貨幣の鋳造など賢君の一面も持っています。

恋して、妻を捨て、政を捨て、そして~
久高島のノロに恋して首里に戻らなかった尚徳、その間クーデターが起こり
急ぎ変える途中で妻子の死を知り、最早これまでとあっさり海に身を投じたとか。
なにやら妙に人間臭い王様の感じがして、優等生的王様でないのがいいですね。
それに貨幣鋳造ができたということは、経済が上手く行っていたからこそ。
経済が上手く行っていたことは、庶民の暮らしも苦しくはなかったはず。
この意味でも「賢君」といえる気がしますね。

歴史書はいつも「勝者の記録」
こうした人物像や人物評価はいわゆる「正史」に書き残されたものです。
正史というのは、勝者の歴史です。英語で歴史をHISTORYといいますが、
まさにHIS(勝者)のSTORY(物語)なのですね。
当然勝者は自らの「権力奪取」を意味のあるものにしたい、正当化したい思いが
正史に書き連ねられていても不思議ではありません。
これは世界のどの国の「正史」にも言えることでしょう。

さあ、尚徳王は暴君だったのでしょうか?賢君だったのでしょうか?

☆琉球八社とは、
波の上宮、沖宮、識名宮、天久宮、末吉宮、普天間宮、金武宮 安里八幡宮