ろこめっとのこれでいいのかな?

社会問題と子ども関連にしぼって再開します!

未成年による殺人が目立つのは「社会的過保護」と「学力崇拝」のためである 2

2015年10月01日 12時00分31秒 | 子どもと接して思ったこと
過保護が子どもに与える影響も深刻だ。
我慢する経験が減ったためセルフコントロールができなくなる、危険を察知する力がつかない、身を守る意識と力がない、他にも様々な要素があるだろう。

例えば「知らない人=不審者」とするようなとんでもない考え方が蔓延している。
何の悪意もない人、善意ある人も全て不審者だ。
このような扱いを受けて周りの人は子どもやその親を助けるだろうか?
答えはNOだろう。
そんな扱いを受けてまで助ける義理もないし、私も仕事以外では助ける気はない。
公園で座ってるだけで不審者扱いされにらまれたり親が集まってきたこともあるからだ。
はっきり言って「誰が助けるか!」と思っている。

このように子どもが人と接することを遮断すれば当然コミュニケーションをとる機会は格段に減ることになる。
子どもは基本的に体験したことしか学ばないし成長しない。
キレることが増えたのはコミュニケーションや体験が減り自己抑制を経験し学び身に着けられなくなったからだと私は考える。
公園の例えを出したが、ケガをするからと遊具を取り去ったのも非常に愚かしい。
子どもは少し危険な体験をして危険とは何なのか、危険はどのように生まれるのか、危険を避けるにはどうしたらいいのかを学ぶ。
大人は子どもから大人に成長するための教科書を1つ取り上げたのである。

ここで確認しておきたいのだが私は体罰と虐待は100%否定である。
人間はコミュニケーションを取れる生き物であり、暴力で訴えなければならないのであればそれはただの能力不足のごまかしである。
学校でどうしようもない生徒がいたとしたら体罰ではなく懲戒を積極的に行えばいい。
なぜか懲戒を遠慮する傾向にあるためたまりにたまったものが暴力として爆発することが非常に多い。
家庭でも感情をぶつける怒りを子どもに向けるべきではない。
何が悪いのかしっかりと諭す叱りを行えば基本は事足りる。
叱りでやっていけないのは能力や知識不足なのである。

しかし怒る、虐待、体罰を行う人をばっさりダメな人と斬り捨てる気もない。
今の日本社会は親や教師に異常に冷酷だからである。
教師は人間である以上神や天使にはなれないものである。
むしろ神や天使になれという無茶な要求をプレッシャーでおかしくなっていることもあるだろう。

子どもが騒がしく落ち着かないのは当たり前である。
そのことに文句を言う人は自身が子どもの時に社会と大人に大目に見てもらったのに、自分は我慢できないと言う。
これではどちらが子どもかわからないような自己中心的っぷりである。

最近の傾向として最大の間違いは「ケンカをさせない」ということである。
もちろんなぐり合わせろというわけではない。
なぐり合う前までは経験しなければならないのだ。
ケンカとは意見のぶつかり合いと自己主張である。
すぐにケンカを止めてしまうと意見をぶつけ、自己主張し、最後に落としどころを作り、収めるという経験ができずまた学ぶこともできない。
つまり意見が合わなかったらいきなり命を奪うようなところまで瞬間移動のようにたどり着いてしまうのである。
ケンカの止めどころとは育児や教育、保育においてとても難しくとても大切なものである。
すぐに止める、というのは成長するチャンスを奪うということなのだ。

親が育児について学ぶ場がないのもおかしな話である。
おそらく物事を決めている世代が昭和に近所で助け合い、育児に参加しなかった男が多いからだろう。
子育てとは自分育てである。
自分を育てず半人前のまま大人になり決定権を持てばズレた答えが出るのもうなずける。

私はむしろ義務教育で育児と家庭についてしっかり教えるべきだと思っている。
大人になり家庭を持っても四角形の面積を求めたり分数の割り算はしないが、家事や育児をし家族と共同生活をするからである。
子どもをもって「よし! 今から育児について学びに行こう!」と気軽に行ける場がないのもおかしな話である。
少なくとも教材はお手軽に手に入る仕組みを作るべきだろうし、学ぼうとする意欲を持つべきである。

今の子どもは将来の自分を支える国の宝である。
財宝を投げ捨てる姿を想像してもらえればいかに愚かしいかわかってもらえるだろう。
子どもに冷たくしていると将来復讐されたり支えられないと言って姥捨て山のような状態にだってなりうるのだから。


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