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定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

2006年ピースボート世界一周の旅20/ティリブリー(ロンドン)3

2008年05月20日 | 思い出の旅行
     ティリブリー/その3
 気がつくとミサを含めてセント・ポール大聖堂に3時間近く滞在していた。次にトラファルガー広場を目指して歩く。この広場のシンボル、ネルソン提督の像は修理中でシートで覆われていた。今回のロンドン観光はついていないようだ。
 トイレタイムのため三越に入るとピースボートのツアーバスが停まっており顔見知りのメンバーが買物をしていた。店内は高価なブランドモノばかり興味が無いのでピカデリーサーカスへ向かう。
 ピカデリー・サーカスの広場は世界各国からきた観光客で一杯だった。ここで祖母、母、3歳の娘の親子3代でピースボートに乗っている家族に出会う。幼い子供を抱えながらも世界一周したいと言う夢を実現させたパワーはすごい。あきらめないで夢の実現を優先する時代になったと思った。
 リージェント・ストリートをオックスフォード・サーカスまでウインドウ・ショッピングをする。インテリアショップ「Habitat」に入って商品を見たり、おもちゃ屋の「Hamleys」で音が出る絵本を買う。くたびれて店内には入らなかったが「ユニクロ」の店を見つけた。
 オックスフォード・サーカス駅から地下鉄でリバプール・ストリート駅に出て再開発で若者の街に生まれ変わった「Spitalfields Market」に向かったが改装中で見ることが出来なかった。ここでも不運が重なった。
 やむを得ずフェンチャーチ・ストリート駅まで戻り夕食をとることにする。ロンドン塔の近くのビルの2階に「wagamama」と言う日本食レストランを見つけ、入ることにした。モダンなインテリアにカウンターと日本の大衆食堂のような長いテーブルが10列程並んでいる。ウエイターは白人でコックは黒人、日本人の姿は見えない。客もほとんどイギリス人で日本人らしい客は家族連れが1組いただけだった。
 私は「わがままラーメン」、妻は「焼きそば」、デザートとしてブルーベリーシャーベット、そしてアサヒビールを注文する。


          ユニクロ



       レストラン/わがまま



        わがままラーメン
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2006年ピースボート世界一周の旅19/ティリブリー(ロンドン)2

2008年05月20日 | 思い出の旅行
 ティリブリー/その2
セント・ポール大聖堂は修理中で正面はシートで覆われている。チケット売場でトイレを聞く、外に出て右と言われ探したがそれらしいものは無い、セント・ポール大聖堂の地下から人が出てくるので入っていくとカフェ、ギフトショップとトイレがあった。このトイレも一般に開放しているようだ。
 セント・ポール大聖堂は604年に建造され、何回か再建を繰り返し中世には尖塔までの高さが150mにも及ぶゴシック建築を誇っていた。その後、宗教改革で荒廃し修復を図ったがロンドン大火の被害に遭い1710年に再建されその後、何十年にもわたり木彫、鍛造、モザイクを使って内装装飾が行われた。この大聖堂でネルソン提督やチャーチル元首相の葬儀やチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式が行われ、大英帝国のセレモニー会場でもある。
 巨大な内部空間は神々しく、イギリス独自の簡素な美しさをたたえていた。全体が十字架の形でそのクロスする部分に祭壇がありその上はドーム形の天井になっている。聖歌隊席の後陣に戦没者名簿があったが日本の靖国神社のような役割を果たしているのであろうか。
 地下聖堂にはネルソン提督等軍人、科学者、芸術家の墓や記念碑が納められている。出口を出ると先ほどのカフェやトイレがあった、見学を終えた観光客はここから地上にでることになる。カフェでサンドイッチ、サーモン、スパゲティー、サラダ、ビール2人分で3000円の昼食をとる。サンドイッチがおいしかった。
 元気が出たので高さ30mのささやきの回廊に登る、普段はロンドン市内を眺望できる53mの石の回廊、85mの金の回廊まで登ることができるが残念ながら天気が悪いのでささやきの回廊までしか登れなかった。それでも高さ30mから内部空間の大きさが実感できた。反対側のささやきが聞こえるのでこの名がついたが、我々には聞こえなかった。
 妻が司祭にカトリックでもミサに預かれるか聞いたら良いとの返事だったので12時30分のミサに出ることにした。司式は金髪の大柄な女性の司祭であった。言葉は分からなかったが進め方はカトリックとほぼ同じであった。日本では手を合わせて頭を下げる平和の挨拶では皆が近くの人と握手をする。司祭も会衆の所まで降りてきて握手をしていた。私も側にいたのでこの司祭と握手ができた。聖体拝領も受けられ人種、国籍は違うがキリスト者としての一体感を感じた。女性の司祭はカトリックでは認められていないし初めて体験であったが違和感は感じなかった。


      フリーペーパー・スタンド



      セントポール寺院の地下


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2006年ピースボート世界一周の旅18/ティリブリー(ロンドン)1

2008年05月08日 | 思い出の旅行
5月19日(金)ティリブリー(ロンドン)/自由行動 その1

 トパーズ号はビルバオ港を出航しビスケー湾を北上、18日3時から4時にかけてイギリスとフランスが遠くに見えフェリーが頻繁に往来しているドーバー海峡を抜け、テムズ川をさかのぼり4時30分ティルブリー港に着岸する。
 6時いつものように「ヨットクラブ」で朝食をすませてデッキから港をながめる。港はテムズ川沿いに造られた巨大なプールのようなドックでコンテナ船やフェリーが停泊している。テムズ川からは水門のある小さな水路を通って出入りするようだ。周囲はロマンチックな港の風情とはかけ離れた倉庫が並ぶ殺風景な場所であった。
 船内で200ドルをポンドに両替して下船。肌寒く今にも雨が降りそうな天候。構内は大型トラックが多く危険防止のため徒歩移動が禁止、その代わりに無料のシャトルバスが運行されている。シャトルバスはゲートまでのはずであったがロンドンに通じるティルブリータウン駅まで行ってくれた。ロンドンまでの往復切符(8.4ポンド)を買い7時59分発のロンドン、フェンチャーチ・ストリート駅行列車に乗る。新聞を読むサラリーマン風の客が多い、ロンドンへの通勤客が利用しているようだ。車内はモダンなデザインできれい、日本の特急列車並みであった。
 およそ40分でロンドンに到着、駅近くのロンドン塔へ行く。15年前は紅茶を飲ませる屋台しか無かったが観光案内、公衆トイレ、土産屋、レストラン等立派な観光施設があった。若い白人と黒人の青年2人が掃除をしていた公衆トイレは団体客が来ても対応できる大きさであり、掃除も行き届いていた。トイレットペーパーも完備した公衆トイレの出現は観光客の受け入れを積極的に考えていることの現れであるし治安の良さの現れでもある。
 タワーブリッジを眺めるとテムズ川の対岸にガラス張りのモダンなビルが目に入ってくる。ロンドン観光の魅力は過去の栄光だけではなく現代の発展するロンドンにもあると言うことであろう。
 ロンドン塔の開館まで時間があったので入るのはあきらめ観光案内所に入ってみる。処刑用の首切り斧と台等所蔵品の展示やロンドンやロンドン塔を紹介する映像が流されていた。
 歩いて大火記念塔に向かう、1666年9月1日出火し4日4晩燃え続けシティー・オブ・ロンドンを焼け尽くした有名なロンドン大火の記念碑である。塔の内部は資料館になっているが11時開館であったのでここも見ることができなかった。
 そのまま西に向かいセント・ポール大聖堂を目指す。激しくはないが雨が降ったりやんだりの天気、5月半ばを過ぎていると言うのに寒い。

      テムズ川を遡るピースボート


     フェリーが行き交うドーバー海峡



         港内の風景



    ツアー用のバスが待機する埠風景頭



       小さな駅/ティリブリー


         ロンドン塔



        タワーブリッジ



       トイレを掃除する若者



     トイレの掲示板/日本語表示に注意


ロンドン大火記念碑/燃えないロンドンへの契機となる
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2006年ピースボート世界一周の旅17/船内生活

2008年05月07日 | 思い出の旅行
 今回は1週間に1回程度あったフォーマルディナーを紹介します。普段はジーインズや半ズボンにTシャツ、足下はビーチサンダルと言う至ってラフな格好で船の中を歩き回っている乗客もこの日ばかりは持参したいっちょうらいを着込んで会場のレストラン「トパーズクラブ」に向かいます。レストラン「トパーズ」では乗客が多いので夕食はいつも前半と後半に分けて食べることになっています。席は順番にボーイが人数によって案内してくれます。二人の場合は空いていれば2人席へ、グループでもボーイに頼めば一緒の席を確保出来ます。知らない人との相席も良いもので、それがきっかけで友達になることができます。


       フォーマルディナー


      フォーマルディナーの前菜


    我々もこんな服装でディナーを楽しみました

 話は変わりますが、一人部屋で一人での参加の場合はいかに友達を作るかが長い船旅を楽しむコツです。四人部屋もありますが主催者の方でなるべく同じ年代の人を集めるとのことです。四人部屋で孤立したら楽しい船旅も苦痛になってしまいます。我々は夫婦で参加したので(1回だけ喧嘩状態になりましたが)他の乗客との人間関係にほとんど(妻が誤解され、嫌な気分になったたことはありました)悩む事なく大変楽しい旅になりました。

 フォーマルディナーは客の気分を変え、マンネリになった船旅に活気を与えてくれます。乗客もこのことを分かっていて旅先で買ったアオザイや小物を身につけ、普段の生活はなかなかできないおしゃれを楽しんでいます。

 我々夫婦はたまたま航海中に二人とも誕生日を迎えケーキとウェイターから「ハッピバースディー」の歌のプレゼントをもらいました。私は1週間程で誕生日だったので自分達だけで祝いましたが、妻は1ヶ月半以上たっていたので友達を招待し楽しい誕生祝いになりました。


ウエイターやウエイトレスが歌のプレゼントをしてくれました


誕生日に船で知り合った友人がプレゼント持参で参加してくれた


バースディケーキを前に/服装は変わらないですね!

 ピースボートでは何と運動会もあります。若い乗客がスタッフと一緒になって1週間以上も準備をし、乗客を5組に分けダンス、応援合戦、綱引き、騎馬戦、ボールリレー等様々な競技で競い合います。優勝チームは居酒屋「波平」で飲み放題とあって狭いデッキ(しかもプールやジャグジーがって余計狭くなっている)をものともせず張り切る若者と中年達、そして応援と見物の老人と熟年組も盛り上がりました。


      狭いデッキでの運動会風景


       運動会風景/ダンス合戦


         競技風景

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2006年ピースボート世界一周の旅16/ビルバオ(スペイン)

2008年05月06日 | 思い出の旅行
5月16日 ビルバオ ツアー「フランシスコ・ザビエルの故郷を訪ねて」
      ビルバオ~ハビエル城~パンプローナ~ロヨラ村~ビルバオ

 日の入りがどんどん遅くなり17日は9時58分だった、9時過ぎてもまだ明るいので時間感覚が狂ってくる。
 ビルバオ(スペイン)まではトリポリ港から地中海を横断しジブラルタル海峡を抜け大西洋に出てドーバー海峡を通りスペイン北部のビルバオ港に到着するまで5日間の長い航海だった。その間のんびり過ごし4月20日から5月10日まで11日間でアカバ、ポートサイド、ピレウス、カタニア、トリポリの5カ所寄港した疲れをとることができた。


        日の出風景

 ジブラルタル海峡とドーバー海峡では曇っていたがしっかり陸地と頻繁い往来するフェリーが見えた。
 バスク自治州の最大の都市ビルバオはヨットハーバーもある穏やかで美しい港町であった。今回のツアーは内陸部までの長距離移動となるためとフランシスコ・ザビエル生誕500周年にあたり混雑が予想されるとのことで7時45分にバスは出発した。
 高校の先生だった英語のガイドがつく、その英語を日本語にする通訳はピースボートのボランティア。ビルバオ市やバスク自治州の概要、歴史、フランシスコ・ザビエルやイグナシオ・ロヨラの生立ちや功績まで詳しく説明してくれる、年代がきちんと説明に入っているところはさすが先生だけのことはあると感心する。
 豪邸と思われる住宅や美しい街並を見ながらバスはビルバオの中心部を抜け、しばらく酪農地帯を走り高速道路に入る。なだやかな山々に牧草地が広がる景色は北上山地を思わせる。丘の上にある牧草に囲まれた薄茶の壁に赤茶の瓦屋根の農家は心慰めてくれる。


       教会が見える農村風景


         農村の風景

 青空とジェット雲を背景に熱気球が浮かんでいる。中央に教会がある小さな集落をいくつも目にする。
 VITORIAのドライブインでトイレタイムをとる、突如東洋人の団体が押し寄せてきたのでびっくりした様子。売店のサンドイッチの自動販売機が珍しい、缶ビール(330cc)1本1.2ユーロを買う。


      ドライブインのパン売場


  ドライブインのサンドイッチの自動販売機

 道路際にドルメンと見学している小学生の集団が見える、遠足だろうか。
 バスから放牧地、麦畑、森林、そこに点在する農家や集落の他に工場群と高層住宅群が時折見える。都市にも工場はあるが、この地域では農村地帯に立地する工場が目立つ。
 やがて、ごつごつした岩肌が露出した山々が見え、灰色の山肌、薄い緑の灌木に覆われた麓、濃い緑の牧草地や麦畑が広がっていく、今までとは違った風景だ。
 突然バスが停まる、ガイドの説明では警官のテロ対策の検問で、書類が揃っているので問題ないとの事、「バスク祖国と自由」と政府との完全停戦が成立したがテロの危険は無くなっていないと言うことか。
 遠くに立ちはだかるように連なるピレネー山脈が見えてくる、山を越えればフランスである。(翌年にドミニコ会の巡礼の旅でルルドを訪れる事になるとは想像していなかった。)
 バスはPAMPLONAを通過してフランシスコ・ザビエルの故郷JAVIERに向かう。高速道路を降りて、小さな集落を抜け山道を少し走ると生誕500周年の幟が立っている駐車場が見える。
 フランシスコ・ザビエルは小国ナバーラ王国で1506年に生まれた。19歳まで過ごしたこの城はスペインとフランスとの戦争でナバーラ王国がフランス側について戦って敗れたため、1516年住居部分を残し城は壊された。30年前に復元され内部は宣教博物館となっている。
 駐車場から並木道に出ると左手に小さなホテルやレストランが整備されている。これらの一郭を通り抜けると周囲が開け城が出現する。狭間があいているだけの石の塊のような城壁は国境警備のために建てられたことを物語っている。


     ザビエル城の近くにあったホテル
 
 シスターやスペイン人観光客に混ざって見学をする、内部は生誕500周年のためかきれいに整備され、フランシスコ・ザビエルの一生をジオラマで見せるなど展示も工夫されていた。日本関係の資料として掛軸3点だけだったのは日本への影響を考えると少し寂しかった。
 その中に日本人がザビエルのために贈ったものだろうか、ザビエルらしき人物像と「神より召し出されし人ありてその名をフランシスコと云う」の文字が書かれた掛軸があった。


        ザビエル城の全景


        トイレと小学生

 次にミングウェイの小説「日はまた昇る」で有名になった牛追い祭りが行われるPAMPLONAに戻る。この町はナバーラ王国の首都として栄えた歴史を持っており、サンチャゴ巡礼の拠点でもある。
 賑わう町の中心部でバスを降りレストランまで歩く、案内されたレストランは目立たない建物の2階にあり、あまり期待できない雰囲気であったが、オードブルからデザートまですばらしく美味しかった。パン、生ハムのオードブル、エビとサーモンを使ったサラダ、白身の魚のメイン、チーズケーキとアイスのデザートは味も盛りつけもこの旅行中で一番だったし、ちょっと酸っぱいハウスワインも飲み放題で同席の人とも話が弾み幸せな時間だった。
 地元の女性ガイドが市内を案内してくれる、まず、闘牛場に向かう、年間でたった8日間しか使わないとのこと、残念ながら外から外観を見るだけ。牛の入場口にこの町を有名にしてくれたヘミングウェイの銅像があった。
 趣のある古い建物が並ぶ路地に入るとシェスタのためか、人通りも少なく多くの店は閉まっていた。幸い昼寝をしない観光客のために土産屋だけは開いてた。皆、土産品を物色する。闘牛とかバスクに関わる人形、装飾品、絵はがき、指ぬき等店内所狭しと置いてある。日本人に似ていない中国人ぽい人形が気になった。


       パンプローナの街の風景


       パンプローナの裏町の風景


        パンプローナの土産屋


         土産屋の店内


      土産屋にあった日本人の人形

 ガイドが建物の壁にある小さな表示板を指差した。そこにホタテ貝マークと矢印があり、今通ってきたのはサンティヤゴ巡礼の道だったことを知る。次のサインがあった街角のベンチで大きなリュックを脇に置いて靴を脱いでベンチに座っている2人の巡礼者を見つけた。巡礼は7月頃から多くなるとのこと、平均1日30km歩くと言うから900kmの道程であれば最低でも30日はかかることになる。


街で見かけた巡礼者/ホタテ貝のマークは巡礼路を示す

 市役所前でガイドが路上のプレートを指してこの付近は言葉が通じない3種類の民族がそれぞれ壁で囲って生活していた、その3つ壁が隣接する所に今見える市役所が建てられたと説明してくれる。ヨーロッパのバスクを始め複雑な民族問題や国を統一する困難さが少し分かったような気がした。


         市役所と広場


    かっての街の状況を説明する現地ガイド

 ヘミングウェイの定宿やいつも休んでいたカフェがあるカスティーリョ広場に出る。カフェを覗くとアールヌボースタイルの重厚なインテリアであった。サラサーテ通りを歩いてバスに戻り、短い市内観光は終る。


     ヘミングウェイが滞在中に通ったバー

 バスはパンプローナから60km離れたこのツアーの最終目的地ロヨラ村に向けて出発する。バスの中でガイドからロヨラの説明がある。ロヨラは1491年貴族の家の12人兄弟の末っ子として生まれ、30歳頃軍役につきフランス軍との戦いで重傷を負い、その治療中に神に仕える決心をしてパリ大学に入学。大学でフランシスコ・ザビエルと出会い、6人の同志と共にイエズス会を結成し初代会長となった。フランシスコ・ザビエルが司祭になったのは15歳年上のヨロラとの出会いがあったからであるとのこと。
 ロヨラの生家と隣接して建てられているロヨラ礼拝堂は想像以上に大きく豪華な教会であった。石材は村人が向かいの山から切り出したとのこと。大変な労力をかけて建設されたことであろう、地域の人々のロヨラ教会にかけるの思いがいかに大きかったかわかる。
 生家は城の役割を果たさないように上部を壊しレンガ作りの住居に作り変えられており現在はその状態で博物館となっている。二階からは石材を切り出した山や農家が見える。
 見学後は2軒ある土産屋で土産を物色し売店でアイスクリームを買う。観光客の他、近所の人が散策に訪れていた、のどかな午後の一時であった。


         ロヨラ教会


        ロヨラ教会内部


        ロヨラ城からの眺め


     戦場で傷ついたロヨラを表現した像


        ロヨラ城下の模型

 18時30分、ロヨラ村を出発しビルバオに向けて出発する。


        ビルバオ港とトパーズ号
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2006年ピースボート世界一周の旅15/ブリッジ見学会

2008年05月05日 | 思い出の旅行
 今回は私たちの部屋の掃除を担当してくれたメイドとブリッジ見学会を紹介します。

 トパーズ号には1000名を超える乗客と船を動かす船員の他に食事を提供するコック、給仕、部屋の掃除をするメイド等が大勢乗っています。船長始め幹部クラスはギリシャ人、下級船員はインドネシア人、給仕やメイドはウクライナ人、インドネシア人、フィリピン人、中国人でした。
 我々の部屋を担当してくれたメイドの若いウクライナ人は契約を終えギリシャのピレウスで下船しました。良くしてくれたのでお土産を渡し、孫の写真を見せると自分の部屋に戻り子どもの写真を持って来て見せてくれました。「早く合いたい」と言っていました。


 仕事を終えピレウスで下船したウクライナのメイド


    見せてくれたメイドの子どもの写真
  長期の出稼ぎに出る母親の気持ちが伝わってくる



 ブリッジ見学会の参加者を募集していたので早速応募しました。船の往来が少なく、天候の良い安全な日を見計らっての見学会でした。操舵室や機器類は古い感じでした。勿論レーダーがあり目視と合わせて舵を取っていました。
 部屋の中に神社のお札とギリシャのイコンが並んで飾ってありました。安全を自然や人間を超えた存在に祈願する気持ちは日本人もギリシャ人も同じであることを知りました。


       ブリッジ説明会風景

       ブリッジ説明会風景


       ブリッジからの展望

        守護聖人のイコン


         神社のお札


       ギリシャ人航海長
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2006年ピースボート世界一周の旅12/ピレウス(ギリシャ)

2008年05月03日 | 思い出の旅行
5月6日 ピレウス~スニオン岬~アテネ市内

 5日の上陸説明会で6日はアテネ市内で10万人規模のデモが予定されているため車の乗入れ禁止となった、また地下鉄も10%程度しか運転されないとの説明があった。そのため、当初予定していた自由行動でアテネ市内へ行く計画をあきらめピレウス市内観光に変えることにした。
 6日の午前中にアテネ乗入れ禁止となったことに伴い新たなツアーのチラシが部屋に入っていた。パルテノン神殿を遠くからでも見れればと思い4コースのうち「スニオン岬とポセイドン神殿&夜のアテネ市内観光」に申し込んだ。
 集合時間まで2時間程時間があったのでピレウス市内観光をすることにした。11時に親子丼の昼食を食べ下船、トパーズ号は物資の搬入作業を見ながらゲートへ向かう。パスポートコントロールもセキュリティーチェックも無し。

        物資の積み込み作業風景

 海沿いの道を北に進み市場を目指す。街路樹の下で沈丁花や紫陽花に似た花が咲いている、道路にはゴミも無いし建物も走っている車もきれい、土産売りも寄ってこない、ここはポートサイドから船で1日半離れたヨーロッパなんだと実感する。


         船員の服を売る店


        コップブラシの花

 市場の途中にあったアギア・トリアダ大聖堂の中に入る。祭壇を飾っている沢山のイコンがギリシャ正教の教会であることを気づかせてくれる。天蓋の下に祭壇がありキリスト抱いたマリアのイコンが飾られている。カトリックに比べシンプルな祭壇である。黙想し、ろうそくを捧げる。
 教会の近くの市場を覗く。雑貨、衣類、金物、パン、穀物、菓子、オリーブオイル、魚、肉、野菜、果物を扱う店が密集し買物をする住民で賑わっていた。頭からしっぽの先に毛を少し残したヤギと思われる1頭分の肉がぶら下がっていたのは気味が悪かった。魚を飛び跳ねるように置いてあったのは鮮度をアピールする良いアイデアである。魚屋と肉屋が威勢の良いかけ声をかけながら売っていた。日本でも魚屋はかけ声をかけるが肉屋のかけ声は聞いた事はない。


         肉屋の店先


           魚屋

 コーヒーショップに入り、道路際のテーブルでコーヒーとカプチーノを飲む、コーヒーはトルココーヒーではなく普通のコーヒーで大変美味しかった。
 高い所からの景色を楽しもうと坂道を歩いて行くと窓を花で飾ったビルやたわわに実っているオレンジの街路樹に出くわした。アジアや中東では見られなかった景色だ。
 イコンショップのショーウインドウを見ていると店の人が中に入れと手招きする。金箔を出して見せ、手描きであることを強調したり、ここで制作しているので店で買うよりかなり安いと説明をしてくれる。イコンは欲しかったので値段を聞くと小さなサイズが40ユーロと(6000円)のことなので購入することにする。記念だからと言って裏に我々の名前と年月日を入れてくれる。店にいた店主の客が日本からの観光客だとわかると持っていたロシアのバラライカのような形の楽器「ブズキ」を弾いてくれた。最後にはサインまでしてくれる。


          イコン工房で

 14時20分ツアーの集合場所のゲートに戻る。「スニオン岬とポセイドン神殿&夜のアテネ市内観光」には150名の参加者があったとのこと。
 これらの参加者を乗せた6台のバスはスニオン岬を目指して出発。丘を登ると小さな港(ゼア港)が見える。港を過ぎるとオリンピック開催に合わせて開通したトラムが見え、ハンドボール、サッカー、テコンドー、ビーチボールのオリンピク会場として使われた近代的な建造物が見えてくる。
 バスは美しい海岸沿いを走る、地元の人はフランスのリビエラより美しいと思っているとのこと。小さいけれど良く整備されたビーチ、リゾートホテル、別荘が見えてくる。この辺の土地は高価で、有名人や金持ちが多いとのこと。
 山には木が少なく、灌木がまばらに生えている程度、岩も露出している、雨が少ない気候からも樹木が繁殖するには適していないようだ。木と言えば松やオリーブが目立つ。
 岬に沿って作られた道路は時間はかかるが美しい岬を堪能するには良い。日本であれば景観より効率を重視して橋を架けたりトネンルを掘って直線道路を作っただろう。
 スニオン岬のポセイドン神殿を展望できる最適な場所で見物し写真を撮る。大陽の光を吸い込んで透明感を増した濃いライトブルーの海が崖の下から広がっている、空の色は抜けるような薄いライトブルーである。そして赤茶色の岩とまばらな緑の岬の小高い丘の上に青い空と対峙しているポセイドン神殿の白い柱が見えた。


          海岸風景


       遠くポセイドン神殿を望む

 岬に到着し、頂上にあるパルテノン神殿と同じ頃建設されたポセイドン神殿を見物。神殿は重厚なドーリス式周柱廊様式の建築。周囲には神殿の残骸が散在し、かろうじて残っている16本の柱から当時の面影を想像する。
 地形から要塞として、また船舶の出入りを監視することが目的で作られたとの説明はここからの眺めから納得いく。東方からピレウスに向かう船や出て行く船はここから一目瞭然である。特にペルシャの侵入から防御するために欠かせない施設だったのであろう、また船員が船上から航海の無事を祈ったことであろう。
 レストランの裏が自動車レースのゴールとなっておりレース仕様の車がエンジン音を響かせてゴールしてくる。フォード、ポルシェ、ボルボ等に混ざってNISSAN車が2台ゴールするのが見えた。


        ポセイドン神殿


       ラリー/日産車

 バスは元来た道を引き返し、ピレウスの手前を曲がってアテネ市内に入る。デモ隊がまだ市内にいるため表通りの渋滞を避け裏道を通る。バスを降りブラーカ地区の「タベルナ」(居酒屋風レストラン)に向かう。途中で高い城壁と、その上に柱が小さく見える。これがアクロポリスとパルテノン神殿であった。ピラミッドとの出会いのようにあっけないものとなってしまった。貧弱に見えたのは城壁の量感の凄さがパルテノン神殿を小さいものにしてしまったようだ。近くでパルテノン神殿を感じてみたかった。デモと言う不測の事態が発生したのでやむを得ない、遠くからでも見れたので良かったと自分を納得させる。


    プラーカから見たパルテノン神殿

 観光客でごった返す、プラーカの中を通り「プラーカ」と言うタベルナで食事。前菜、サラダ、牛肉とライスの付け合わせのメイン、リンゴとオレンジのデザートにハウスワインがついた。美味しくはなかったがボリュームは充分であった。


       プラーカ風景


       ギリシャ料理

 パルテノン神殿との出会いに納得出来なかったのでアクロポリスの城壁の麓まで登る、パルテノン神殿は見えなかったが向かいにあるリカウ゛ィトスの丘のライトアップされた聖イオルゴス教会が見えた。
 夜のアテネ見物ではハドリアヌスの門、オリンピア・ゼウス神殿、首相官邸、大統領宮殿を車窓から眺め、第1回近代オリンピックの会場となったオリンピック競技場を見物する。
 9時40分乗船。


   ライトアップされたパルテノン神殿


     オリンピッック競技場

 ポートサイド(エジプト)~ピレウス(ギリシャ)~カタニア(イタリア)の順ですが間違ってカタニア編が先になっています。トリポリ(リビア)編の前に船内見学編を入れます。
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2006年ピースボート世界一周の旅13/カタニア(イタリア)

2008年04月29日 | 思い出の旅行
5月8日 イタリア/カタニア市内見物

 ピレウス港から8時間でカタニア港に入港、山頂に雪をいただいたエトナ山が迎えてくれる。


         カタニア港


          慰霊碑

 9時30分下船、とりあえず街の中心部ドォーモ広場に向かう。途中の路地に窓から洗濯物が下がっている風景が見られる、まるで映画のシーンのようだ。道路は曲がりくねっている上、歩道にも車道にも隙間無く駐車している車のため歩きにくいし、犬の糞にも気をつけなければならない。
 ドォーモ広場に到着、早速広場の一郭に建つゴシック様式の大聖堂の中に入る。入口に老女と中年の女の乞食が聖画をかざして物乞いをしている。乞食にとって最高の場所であろうが教会だけに入りにくい。
 身廊と側廊を持つ大きく立派な教会である。高い空間と高窓からの光り、天井に響く独特の音は厳かな気持ちを誘う。側廊には教会関係者の肖像と墓がある、右の側廊にガラスケースがあり、中に祭服を着て靴を履いた亡骸が安置されている。その棺の前には見事なオレンジ色のマーガレットと鮮やかなピンクのバラが供えられていた。思わず隣のカタニアの老婦人に「すばらしいですね!」と話しかけてしまった。その老婦人はイタリア語で応えたが私と同じように感じたのだろうと思った。復活節だからか正面の祭壇にもカサブランカとバラが一杯飾られていた。
 側廊の奥の左側に部屋があり、そこにエトナ山が噴火し溶岩流が街を襲った様子を描いた絵が掛けられていた。


           広場   

          大聖堂

    大聖堂内/エトナ火山噴火被害図

        大聖堂内/祭壇

 大聖堂を出てローマ劇場を目指したがウルシーノ城内博物館に来てしまった、地図がわかりにくい上、道路が曲がっていて方向感覚がなくなってしまったためだ。博物館に入ろうと思って入口を探したがわからず一周してしまう、裏口と思っていたところが入口だったのだ。まだ開館していないようなので博物館の前にある公園で一休みする。街路樹に混ざって植えられた巨大なサボテンが珍しい。緑色のトカゲが草むらに逃げ込むのが見えた。


         街中のマリア像

 11時になっても開館する様子が無いので目的地サン・ニコロ教会に行くことにする。かなり迷ったが何とか見つけ中に入る。中庭を囲んで回廊があるので修道院のようだ、若者が本を読んだり談笑している。建物の2階に上がると部屋を出入りする様子から修道院の建物を利用した大学の研究室と思われる、どうも大学の中に紛れ込んでしまったようだ。
 ようやく探しあてたサン・ニコロ教会はドーム部分の修理中であった。大きな教会であるがかなり痛んでいる、補修されない照明具が寂しげだった。巨大な教会を維持する大変さを感じた。
 ローマ劇場、ベッリーニ博物館を経由してドォーモ広場に到着、広場のバールでパンとカプチーノを注文し一息入れる。鳩が寄って来たのでパン屑をあげる、手に乗せた餌をたべる鳩とけっして近づかない鳩がいることから勇気のある鳩と臆病な鳩がいることがわかる。


        市場/レストランで

 エトネア通りを通ってベッリニー公園に行くことにする。街の中心であるこの通りには有名ブランド店や大型店舗があった。リナシェンテ百貨店で孫達へ土産としてTシャツ、田近さんと龍子さんへキャンドルを購入、派手な縞模様が入った磁器2個を買う。
 ベッリニー公園の小高い展望台に登ると大聖堂が見える、脇にグランドがあって子供達の遊ぶ姿が見える。展望台の土留めの壁はエトナ山が噴火した時のものと思われる溶岩をセメントで貼付けて作られていた。
 帰りも同じ道をウインドウショッピングしながら戻る。6時近かったのでミサがあるかも知れないと思いながら大聖堂に入ってみると左側廊奥の小さな祭壇の前に30人程座っていた。我々も後ろの席にすわると6時に鐘が鳴り入祭の歌が流れ司祭が入場してミサが始まった。言葉はわからなかったが司祭の挨拶から始まり、回心、聖書朗読、信仰宣言、パンと葡萄酒を供える祈り、平和の祈り、聖体拝領、閉祭の挨拶までの流れは分かった。平和の挨拶では前の人と握手をし、遠くの人とは会釈をした。30分の短いミサだったが久しぶりに清々しい気持ちになった。門の前の老女が差し出す器に50セント硬貨を入れた。
 大通りを歩いていると、ひざまずいて両手で器を差し出しているまだ若いジーンズ姿の物もらいにはびっくりさせられた。まるでパフォーマンスのような感じであった。
 露天の八百屋、骨董屋を覗きながら船に戻り夕食はヨットハウスでサラダとご飯を食べる。



        市場/チーズ売り


         市場/八百屋

         市場/香辛料

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2006年ピースボート世界一周の旅11/ポートサイド(エジプト)

2008年04月25日 | 思い出の旅行
5月4日(木)ポートサイド~カイロ/博物館、ピラミッド

 「ギザのピラミッドと博物館」のツアーに参加するため5時15分下船、桟橋の土産屋がもう商売を始めていた。ゲートでの厳しいセキュリティーチェックを受けバス乗場に向かう。バスは船と同じように集団で行動するコンボイ方式、そしてバスの前後には観光警官が乗ったパトカーが先導すると言う物々しい移動となる。
 私たちの乗ったバスは3台目で一番後ろの座席となる。ルクソールでの事件の教訓を生かし観光客の安全を守るための措置と思われる。この事件で観光客が大幅に減ってエジプトにとって観光収入がいかに大きいものであったか認識させられたのであろう。
 こぎれいなポートサイドの街を抜けスエズ運河沿いに南下するとやがて農村となる。小さな川辺の土手に穴をあけて巣にする鳥の姿、ヤシの木の林、子供の通学や小舟を漕ぐ漁師の姿、麦の刈り取り作業等のどかな風景が見える。土で出来た円錐形の塔が屋根の上に見える。小さな穴があけられ棒が突き出ている。ガイドに聞くと鳩小屋とのこと、そう言えばエジプトは鳩料理で有名であった。


           麦畑

 1時間程走ると船から眺めたスエズ大橋が見えてくる。そして、バスは進路を西に向けると農村が見えたり広大な砂漠だったり風景が変化する。その砂漠の中に100m以上ありそうな長い散水機が置かれていた、砂漠を農地化する実験農場のような印象を受けた。
 主要な道路なのか頻繁に検問所が設けてある。検問所の前の道路は10センチ程盛り上げてありスピードを強制的に落とすようになっている。そして警察官による検問がある。
我々のバスはスピードは落とすがフリーパスで通過していく。
 トリレタイムが無いのでバスのトイレを使う、使用後レバーを引くと水が流れ便器の底が二つに分かれ排水したが道路が瞬間みえた。垂れ流しトイレだったのだ。
 3時間程走行して9時30分頃ようやくカイロに入る。高架道路も立体交差もあり道路は整備されているが大変な混みよう。
 コンクリートの高層ビル、高層住宅に混ざりレンガ造りの古い建物も目立つ、ある一郭の建物が軒並み台風の被害を受けたように屋根の部分が破壊されていた、人は住んでいるようようだし一体何があったのだろうか。
 アパートの窓に洗濯物が並んでいる風景は日本の団地を思い起こさせる。崩れかかった日干しレンガの農家でも洗濯物が見えたが清潔な服を着せたいとする変わらない女性の心遣いが伝わってくる。


     カイロ市内の不思議な光景



        カイロ駅構内


 ほこりで白くなった列車が停まっているカイロ駅前を通り、カイロ博物館に到着。既にバスが数十台停まり観光客が大勢入口で並んでいる。行列に加わりセキュリティーチェックを受けてようやく中庭に入る。館内は撮影禁止のため、ここでカメラを預ける。


 カイロ博物館の前庭/パピルスとロータスが見える

 博物館の内部は天井が高く埃っぽい、むき出しの石像や古い木製のケースが雑然と置かれている。この館内に次から次に団体客がつめかけ大変な混雑ぶりであった。これらの団体を案内するガイドがそれぞれの言語で説明している。ここのガイドは声が大きくないと勤まらない。我々のガイドは日本語はいまいちであったが声量は合格であった。
 まずトイレに入ることからスタートする。入場者に比べ明らかにトイレは少ない。常にトイレのことを考えなければならない年齢になってしまった。
 複製されたロゼンタストーンの前でガイド曰く「この博物館には全て本物が展示されているが一つだけ例外がある、それはロゼンタストーンである」と悔しそうに言ってからヒエログリフが解読された経緯を説明する。
 次は2階に上がり、この博物館の目玉である、奇跡的に盗掘者の手から逃れることができたツターンカーメン王の墓から発掘された遺品を見学する。日本にも来た黄金のマスクと棺が有名であるがその他にもかなりの点数がある。もし古代エジプト王の遺品が盗掘を免れ半分でも残っていたら大変な点数になるであろう。
 超国宝級の遺物が黄金のマスクを除いて粗末な木製のケースに詰め込まれていることに驚かされる。ツターンカーメンが旅行用として使ったと思われる折り畳み式ベット、折り畳み椅子を様式化した儀式用椅子、敵対する民族をモチーフにした足代、ふんどしスタイルの下着等生前に使っていた道具は当時の生活を想像できて興味深かった。また、黄金のマスクの裏から鍛造と接合方法(ロウ付け、鋲留め)を見ることが出来たし棺に施された彫金を真近で見ることも出来た。
 建物も展示も説明も不十分であったがツタンカーメンコーナーで遺品が発見された状態の写真が掲示されていたことは良かった。大変な混みようで鑑賞する状況ではなかったが満足できた。
 次の昼食会場のレストランに向う。クルーズ船が停泊するナイル川を渡るととたんにみすぼらしい街並になる。コロンボやパレスチナ難民キャンプの街並に似ている。


      カイロ市内のナイル川

 ぼんやり外のにぎわいを見ているといきなりピラミッドが目に飛び込んで来た。迎える準備も整わない状況での出会いだった。ピラミドのすぐ近くがこんなににぎわっていようとは想像できなかった。建物の上から顔を出しているピラミッドは写真で見ていた砂漠の中のものとは違ってやけに親しみを感じた。
 ファラオの偉大さのシンボルであったピラミッドが観光の目玉となってよみがえった今はレストランやホテルや土産屋の背景として貢献していると言うことであろう。
 ピラミドが見えるレストランで昼食、内容は隣国ヨルダンで食べた料理と似た肉料理。
 巨大なクフ王のピラミッドが眼前に立ちはだかる小高い丘でバスを降りると待ち構えていたように土産屋が「ワンダラー」と言って寄ってくる。ピラミットとの出会いに失敗したので今度こそはしっかり向き合うつもりであったが出鼻をくじかれた。少しむっとなって無視するが無視されて悲しいそうな顔をしないのが救い、あきらめて次の客を探している。こうして一日どのくらい売れるのだろうか。   
 次から次に寄ってくる土産屋を無視し、日差しが厳しいことも、ほこりっぽいことも忘れてクフ王のピラミッドを夢中になって撮った。これでようやく長年の夢が実現したと言う思いであった。
 20分の自由時間で写真を撮ったり、プラミッドに登ってその大きさ、石の手触りを確かめる。ピラミッドからは建物が密集するカイロ市内が良く見える。
 バスで展望台に移動する。小高い展望台からはクフ王のピラミド、カフラー王のピラミッド、小振りのメンカウラー王のピラミドが一堂に見える。単純な幾何形態の力強さ、美しさを堪能した。気持ち良く鑑賞していても「山本山、ワンダラー」と物売りが押し寄せてくる。かたことの日本語を使い親切風に近寄ってきてアラブ風のかぶり物をかぶらせて金を要求する輩も混ざっている。


    ピラミッドからカイロ市内を展望



        クフのピラミッド



   クフとメンカウラーのピラミッド
 

     三大ピラミッドを一望に


        観光用ラクダ

 次にバスで移動してスフィンクスの見物に行く。ここでも土産屋が待ち構えている。チケットを買い、スフィンクス神殿を通って展望できる場所に出る。驚いたことのここでも土産品を並べて、あるいは手で持って「ワンダラー、ワンダラー」声をかけて売っている。おおぴらにやっているので遺跡の中で売ることが認められているのであろう。入場料が払えない土産屋は網の外に並べて売っている。由紀子は子連れの土産屋から1ドルでパピルスのしおりを同情買いする。
 肝心のスフィンクスは上半身は頭も鼻も破壊されヒゲも落とされたあわれな姿になっているし、下半身は風化が進み原型をとどめていない状態であった。下半身が砂で埋まっている状態で撮られた遣欧使節団の記念写真を思い出す。今は全貌を見ることが出来るが砂に埋まった状態で想像していたほうが良かったと思った。


       スフィンクス


     スフィンクスの土産売り

 スフィンクスもピラミッドも人間によって破壊された残骸でありここはその現場である。今それを見ているのである
 昼食を食べたレストランの近くで早めの夕食となる、メインは揚げたボラ、他にサラダ、ナンが出る。ボラはあっさりして美味しかった。


      夕食/ボラの揚げ物

 他のバスと合流しコンボイを組んでポートサイドに向け出発する。1時間程走ったところで右手に大きな工場が出現する、工業団地のようだ。更に走ると入口には勇ましいモニュメントが設置されている陸軍と空軍の基地が出現した。
 日が沈み暗くなった頃ようやくバスはゲート入口に到着。ここからゲートまで土産屋が手ぐすねをひいて待ち構えている。「ワンダラー、ワンダラー」の売り声を聞きながらゲートを通過し入船する。


         夜の埠頭



       ポートサイド港を出航

















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2006年ピースボート世界一周の旅10/スエズ運河

2008年04月25日 | 思い出の旅行
5月3日(水)スエズ運河

 5月1日の夜中アカバ港を出航したトパーズ号はアカバ湾を南下して再び紅海に戻り、シナイ半島に沿ってUターンしポートスエズを目指した。2日目の早朝にスエズ運河省から8時にパイロットが乗船する、トパーズ号はコンバイ(スエズ運河は14~5隻が1つの船団を組んで運行する仕組み、船団のことをコンバイと言う)の7番目になったと連絡が入ったとの艦内放送があった。甲板に出るとスエズ運河に入る瞬間を見ようと強い風が吹いているにも関わらず大勢の人が集まっていた。
 沖合に沢山の順番待ちの大型船舶が待機している光景は見事であった。船はゆっくり一団となってスエズ運河目指して進んで行く、左手はポートスエズの美しい街の風景が広がり、海辺にはヨットハーバーが見える。海の色もエメラルドグリーに変わっていく。この辺はリゾート地として開発が進んでいるとのこと。なるほど美しい風景である。


     スエズ運河の入口を入る船団


        ポートスエズの風景

 10時トパーズ号は6番目のコンテナ船に続いてスエズ運河に入る。左手のアフリカ側は緑濃く、近代的な街並が続くが右手シナイ半島側は何も無い砂漠である。
 アフリカ側の運河際には1km位の間隔で軍の監視台があり銃を持った兵隊が数人駐屯していた。戦車も渡れそうな渡河用のブイも見える、かなり厳重な監視体制である。シナイ半島側にも監視基地や監視台が見えたがアフリカ側に比べかなり手薄であった。
 中東戦争の名残かさびた鉄の残骸や破壊された戦車の砲台が見える。乗客は運河の風景をのんびり楽しんでいるが運河は経済的にも軍事的にもエジプトの生命線であることを知らされる。


        運河監視基地


       エジプト側の監視兵

 船は船団を組んで1800mの間隔を保ちながら7ノットの速度で進んで行く。前方はコンテナ船、後方は貨物船が続く。やがてビター湖に入る、ここには南下してきたコンボイが待機している。我々のコンボイはその右側を通過する。


       船室の窓からの眺め


  まるで陸を移動するように見える船団を見物 


  映画「アラビアのロレンス」を思い出すシーン


         ピター湖の船団

 湖を抜けると再び運河となりアフリカ側には農地が広がっている。やがて運河の中間地点、イズマリーに至る。モスクと教会が仲良く並んでい建っている。瀟洒な住宅も見える。交通の要所らしく、フェリー港が数カ所ありフェリーが行き来するのが見えた。また、両岸の橋桁が回転し中央でつながる珍しい回転橋もあった。
 部屋で休んでいると日本のODAで作られたスエズ運河橋「ムバラク平和大橋」が見られるとの船内放送があり早速デッキに出て見物する。
 橋の高さは横浜ベイブリッジより高く140mでクフ王のピラミッドと同じだそうだ。橋脚の形はオベリクスの形をモチーフにしたとのこと。橋に掲げられた日の丸はエジプト人にどのように映っているのか気になるところである。
 運河の終点近くで直進してポートサイドに行くコースとバイパスに入り直接地中海に抜けるコースに分かれる。ここでコンボイをくずし前のコンテナ船と後続の貨物船は分かれて行った。
 22時トパーズ号は夜のポートサイド港に着岸。


      デッキからのんびり見物する


   日本の援助で造られたスエズ運河大橋 

 
       なぜかフェリーが活躍?


         エジプト人のボート
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