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定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

2006年ピースボート世界一周の旅9/アカバ(ヨルダン)2

2008年04月25日 | 思い出の旅行
 5月1日(月)アンマン→ペトラ遺跡→アカバ

 朝、ベランダに出ると風が冷たく南国とは思えない。朝晩と日中の温度差、日陰と日向の温度差は空気が乾いているせいか。部屋にいて扇風機が回っているだけで涼しく、クラーはいらない位だ。
 すぐ近くにモスクが見える。朝4時に起こされたのはこのモスクの拡声器から流れてくるコーランの読経のようだ。部屋の窓際にメッカの方向を示す印を見つけ改めてモスレムの信仰の篤さを実感させられる。
 8時30分、アンマンから3時間程の行程にあるペトラ遺跡に向かう。
 アンマンの郊外にはわずかな農耕地が張り付き、牧草地が続き、そして砂漠地帯が延々と広がる様子がわかる。砂漠にしか見えない所でも冬の雨期になれば雨が降り農地になるとのこと。乾燥に強いオリーブ栽培が盛んで国民は食用油はオリーブ油しか使わないと言う、
 ガイドの家ではパンにもオリーブ油を塗ってその上からジャムを塗って食べる、それだけではなく食前に少量飲む習慣もあると言う。オリーブの木があれば何とか生きていける、女の子が生まれたらオリーブの木を植えろ、そうすれば結婚するころには金になると言う教えがある、日本の桐の木を植える教えと同じだ。 
 行きに寄った土産屋でトイレ休憩をしていよいよペトラ遺跡に向かう。
 2時間程走ると眺めの良い峠にさしかかる、果てしなく広がっている砂漠に霧がかかっている様に見える、ガイドの説明では砂嵐で舞い上がった砂とのこと。やがて遠くにごつごつした岩の固まりが見える、その先にペトラ遺跡がある。
 ペトラの町に入り、くねくねした坂道を登っていくとホテルや土産屋が並ぶ通りに出る。我々は遺跡近くのホテルで昼食をとり遺跡見学に向かう。外は日差しが厳しい、これから4時間程、この酷暑の中を且つホコリっぽい所を歩かなければならないと思うと少々うんざりする。

          ペトラの街

 解説書によるとペトラは紀元前4世紀、アラビア半島の南から移動して来たナバタイ族によって支配され地中海とアラビア半島を結ぶ交易の要所として栄えた。紀元2世紀にはローマの属州となりビザンチン帝国時代に度重なる地震で建物が倒壊し荒廃していった。7世紀以降は歴史の表舞台から姿を消し忘れ去られ、19世紀にスイス人の探検家によって発見された。発掘作業が本格的に行われたのは近年になってからであると書かれている。ペトラ遺跡が観光地として有名になったのは何と言っても映画「インディー・ジョーンズ」のおかげであろう。
 我々が向かう遺跡はナバタイ人やローマ人の墓地であり劇場や神殿を持つ都市でもあった。入口付近は死者を葬る墳墓や壁龕が見られる、更に進むとかってかって用水路の入口であったシク(天然の峡谷)の入口がある。シクの左右の壁にナバタイ族とローマ人が築いた用水路が穿かれている。

 キリスト教徒のガイド/ローマ時代の水道の跡を示す

 奥に進むと岩壁は増々高くなりついに100mに達する、路幅は狭いところでは2mに満たない、このシクが1500m続く、まるで岩の割れ目に入り込んだ蟻のようである。
 ガイドから左側の壁に沿って歩くように指示が出る。何事かと思いながら言われる通り歩いていくと突然、眼前に巨大なエル・ハズネ(宝物殿)が姿を現す。感激のあまり「ウワッー」と歓声が上がる。ガイドはエル・ハズネとの最高の出会いを演出してくれたのだ。

       シクを通って行く *写真が横になっています!


  シクの隙間からエル・ハズネ遺跡が見える
  インディージョーンズでおなじみのシーン *写真が横になっています!

 エル・ハズネを作ったナバタイ族にとって重要だったのはギリシャ・コリント様式のファサードだったようだ。なぜなら内部は飾りっ気が無い質素なスペースと小さな部屋があるだけだったからだ。外と内部のこの違いは何だろうか。
 シクはここで終わり岩壁は左右に退き路が広がる。そして左手に岩を削って作られた5000人を収容できるギリシャ様式の劇場が姿を現す。建物は洪水で流され4本の柱しか残されていなが、ここがどれほど栄えていたか偲ぶことは充分出来る。

          ローマ劇場
       
 奥にはまだ遺跡があるが残念ながら我々は引き返す事にする。ペトラ遺跡はまだ発掘中で全容が見えていないと言う、これだけの規模の都市が岩山の中に築かれたことは驚きである。
 遺跡の中は常設の土産屋あり、道ばたにわずかな商品を並べる露天商あり、手に持って売り歩く移動土産屋がいる、更に馬車や馬が観光客を乗せ狭いシクを往来し、馭者の発する大声と馬のひずめの音は騒がしくゆっくり古代を味わていられない。特に狭いシクでは馬の糞の臭いが充満しハンカチを鼻にあてて這々の体でシクを抜ける始末であった。

       遺跡の中の土産屋


           墳墓群
 17時、日陰で一息入れてバスに乗り込む。途中、連綿と続く砂漠の中にベドウィン人のテントや空き家が目立つ集落が見えた。
 19時帰船、シャワーを浴び、荷物を片付け夕食をとる。
 今回の1泊2日の旅で遠い国のほとんど自分と関わりがないと思われていたパレスチナ問題がより身近かなものとなった。また、ベドウィン人の生活を遠くからながめながら、不毛としか思えない砂漠を牧草地に畑にかえ人間が住めるようにしてくれる水に無頓着だったことに気づいた。
 ペトラは遺跡のシクとエル・ハズミの組合せは一見の価値はあったがもう少し静かに落ち着いて味わえたらと思うのは贅沢だろうか。


 何処までも続く砂漠地帯を通ってアカバへ到着

href="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/e4/e771f8e646175b0de3a07213b91023f4.jpg">

 アカバを出航 街の灯りが旅情を感じさせる
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2006年ピースボート世界一周の旅8/アカバ(ヨルダン)1

2008年04月22日 | 思い出の旅行
4月30日(日)アカバ→アンマン、難民キャンプ
 
 6時に起きてラジオ体操と太極拳をこなす、船上は風もあって心地よい。トパーズ号は既にアカバ港に近づき、左手にはイスラエルの唯一の港街も見える。後ろからベトナムのダナン港で見た「シルバーシャドー号」が近づいてくる。
 9時15分「パレスチナ難民キャンプとペトラ遺跡」のツアーに参加する我々一行はピースボートから難民の子供達へのプレゼントを持って下船。バスの運転手から白いバラの花のプレゼントをもらい、バスに乗り込む、パレスチナ難民でカトリック教徒の通訳と警察官が我々を警備するため乗り込んで来た。


         アカバ港

   ピースボート(トパーズ号)と歓迎の楽団
 ヤシの木の街路樹が南国らしさを醸し出すアカバ市内を抜け片道2車線の高速道路に乗り350km先のアンマンを目指し北上する。やたらとTOYOTA、NISSAN、ISUZU、MITUBISHIのロゴをつけた日本製ピックアップトラックが目に付く。
 アカバを抜けると砂漠地帯に入る、見渡す限り山も平地も砂礫と岩、時々西部劇に出てくるような丸い草がぽつんぽつんと見える。ほんの少しまばらに草が生えている所に日干しレンガのマッチ箱のような小屋が建っているに気づく、羊を追う姿が見えたので家畜用か。こんな環境で家畜は育つのだろうか、水はどうするのだろうか。
 そんな砂漠地帯にもオリーブの木とほんの少しの緑が周囲を囲んでいるベドウィンの集落がある。彼らの適応力の高さに感心する。
 道路端にトラックの運転手が利用するのかミネラルウォーターを売っている小さい粗末な店や円筒形の湯沸かし器を置いた店がある、砂漠の中を走る運転手には水の補給が欠かせないのだろう。
 ベドウィン人がやっている外国人観光客相手の土産物屋でトイレタイムをとる。食堂もあり、スナックやアイスクリームも売っている。トイレも水洗で、土産はモザイク細工、木製品、ガラス、塩、化粧品、石鹸等の死海グッズ、陶器、金属製品、繊維製品等何でも揃っている、支払いもドルでOKだ。


      アンマンへの高速道路

        ドライブイン?

        土産屋 水パイプ

 同じベドウィン人でも目先の利く人と伝統的な生活に固執する人がいると言うことか。
そう言えばこのバスに乗っている警察官はベドウィン人である。
 更にバスを走らせ首都アンマンに到着、人口500万人の内、200万人が暮らす大都会である。中心部には立体交差の道路がありマックもケンッタキーフライドチキンもある。近代的なビルと住宅の間にモスクの高い塔がそびえモスリムの街であることに気づく。ここではトラックに変わり乗用車が増える、ベンツ、オペル、BMWも多いが日本車も健闘している。
 斜面に張り付いているように密集している住宅がある一方、樹木を巡らした大きな屋敷も目につく。砂漠の中にあるとは思えない、ベトウィンの集落とは違う世界が広がる。
 昼食はベドウィンの天幕の雰囲気を味わえるレストランでヨルダン料理を食べる。人気があるようで外国人観光客で一杯だった。
 1つのテーブルを8人で囲み、前菜として野菜、チーズ、ナン風の3種類のパン、メイン料理は牛肉のつくね、鶏肉、マトン、この上にクレープ状の薄いパンが載っている。この薄いパンで肉を包んで食べる。肉も付け合わせの焼きトマトもパンも美味しかった。  アンマンの北にあるバカアキャンプに向かう。車も人も多くなり、ごちゃごちゃした店が目につくようになってきた、コロンボの街のような雰囲気である。ガイドから既に難民キャンプに入ったと言われ、少し緊張する。キャンプの奥に入って行くに従い、店も人もみすぼらしくなっていく。店番が珍しそうに我々を見るが敵意は感じない。狭い路地の奥が見渡せる、日干しレンガの家とほこりっぽい土の道は中国トルファンのウィグル人の居住区のようだ。子供がサッカーをしていたり、ベールを被った母親と子供が買物でも行くのか歩いている。
 目的地についてバスから降りると受け入れ側の関係者やヨルダン政府の警備員が待ち構えている。ガイドから決してはぐれないように注意を受ける。公民館のような建物に入り、2階の集会室で開会式が開かれた後、パレスチナ人の案内でキャンプ内の視察をする。人と車で混雑する商店街や路地を30分程かけて一周する。自転車屋、家具屋、菓子屋、八百屋等の粗末な店で手持ぶたさの店番が我々を観察している。路地に入ると布団が干してあったり、テレビのアンテナがあったり、子供が顔を出したり、生活の臭いがする。狭いところに押し込められて生活している様子がわかる。
 公民館に戻り子供達と習字と折紙による交流、キャンプの大人達との意見交換の3コースに別れて交流が始まる。私たちは折紙での交流の様子を見たり、子供達に名前や絵をかいてもらって過ごす。
 交流会が終るとバス・ターミナルの近くの薄汚れたビルの2階の大広間に案内される。ここが交流イベントの会場のようだ、既に大勢の子供達とホームステイする家族も集まっている。やがて国家演奏(?全員起立したので)があり、双方の代表者の挨拶があり、いよいよ交流イベントの開幕である。日本側の沖縄の踊りから始まり盛り上がる、続いてよさこい、地元の踊りが披露された。我々もバスの中で練習した「故郷」を合唱し、最後は持参した祇園小倉太鼓で締める。
 子供達がデジカメに興味を持って自分を映せ、カメラを貸せとジェスチャーで要求する。中学生位の女子に貸してあげたら舞台のパフォーマンスを盛んに撮影していた。デジカメが気に入ったようだ。
 難民キャンプでの交流会とイベントが盛況のうちに終わり我々はアンマンのホテルへ移動する。
 ホテルの入口で金属探知機によるセキュリティーチェックを受け、ロビーに入ると1階から天井まで抜ける空間に圧倒される。
 夕食は1階のレストランでバイキング方式、酸っぱい数種類のパテ、チーズ、酢漬け、豆、白と味付けライス等のサラダ、メインは鶏、羊、牛肉、デザートは赤と白のゼリー、柔らかなかりんとうのような菓子等であった。久しぶりにビールを頼んで二人で乾杯する。1本350ccで6ドル、ちょっと高い、アルコールを飲まない国だからやむを得ないだろう。



        アンマン市内

        難民キャンプ

       キャンプ内の住宅

       子供との交流会で

     カメラを貸してあげた女の子

   日本側の出物/よさこいソーラン踊り

       ヨルダン側の出物

       ホテルのロビー

   ホテルから見たアンマン市内の夜景
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2006年ピースボート世界一周の旅7/コロンボ(スリランカ)1

2008年04月19日 | 思い出の旅行
 4月20日 コロンボ港入港(2日間滞在) 市内観光ツアー参加 キャラニア寺院 国立博物館    

 コロンボ港入港の前に朝食風景を紹介します。食事をする場所は2カ所あります。その内の1つが「ヨットクラブ」で朝はパン、ハム、コーヒー、ジュース、ヨーグルト等が提供されます。我々夫婦は朝食はヨットクラブで夕食はもう1つのレストラン「トパーズクラブ」でとりました。ヨットクラブは甲板の後部にあり海が見える気持ちのよいレストランでした。気候が良ければ外でとることもできます。私たちはここで至福の一時、船旅の醍醐味を味わいました。
     レストラン「ヨットクラブ」

    ヨーグルト、果物、ジュースコーナー

        パンコーナー

レストランの前はオープンデッキ、潮風に吹かれながらの朝食

4月16日の夜中、トパーズ号はシンガポール港を出航しマラッカ海峡を抜けベンガル湾を突っ切って4日目の4月20日朝8時にコロンボ港に入港した。
 甲板から港を望むと右手にパゴダに足をつけたようなの不思議な形の展望台が見える、中央には真新しい2棟の高層ビルが見える。岸壁では土産屋さんが店開きの準備をしている。
 2日間停泊するコロンボでは初日に市内観光ツアーに参加し、翌日は自由行動で市内を回った。
       コロンボ港の風景

 10時に車内に日本語表示が残っている日本製中古バスに乗り込む、カラシニコフを持った兵士が警備するゲートを抜けるとバスや乗用車に混ざってインド製三輪自動車、オートバイで溢れ、我先に走り回っている道路に出る。バスはそんな中をぐいぐい割り込んでいく、えらいところに来たと思わず身構えてしまう。
 車も人も溢れ活気があるが街全体が薄汚れている。洋服屋、自動車部品屋、建具屋と同じ業種が集中して軒を並べている、間口も奥行きもあまりない小さな店だが日本で言えばカッパ橋、秋葉原のような雰囲気。よく見ると売るだけではなく店の奥で作っていたり修理したりしている。繁華街の一郭で、なぜか生ゴミの山や、ゴミが詰められた廃墟があった。そんな中で南国らしい緑濃い街路樹や花が救いである。
 街の要所には機関銃が銃口を向けているし、銃を持った警部兵があちらこちらに立っている。政府とゲリラとの停戦が実現したとは言え何時、どんなきっかけで内戦が始まるか分からない状況にあることを知らされる。
 そんな喧噪の中を走り回りバスはキャラニア寺院に到着。バスを降りると寺に供える花売りが寄ってくる。
 境内の入口で履物を預け裸足になる。久しぶりの裸足で少し痛いけど気持ちがよい。
 白い半球状のバゴダと茶色の箱形の寺院が対照的であった。パゴダは無装飾だが寺院には控え目にレリーフが施されている。そのふくよかな表現はヒンズー教の神像と共通する。
 寺院の右手に巨大な菩提樹があり、色とりどりの花が供えられた石造りの供物台が周囲を囲んでいる。その中央に布で覆われた仏像が安置されている。スリランカの仏教徒は菩提樹の下には仏陀がいると信じている。行列をして仏像に水を供えている老若男女、座り込んでいるお年寄りの団体、様々な人々が様々なスタイルで参拝している。
 寺院の内にはガンダーラ仏を思わせる腰のくびれた金色輝く美しい仏像と半透明のレースで覆われた大きな涅槃仏が安置され、それぞれ花、食物、お金が供えられていた。皆熱心に拝んでおり信仰の篤さが伝わってきた。自己の救いを求める小乗仏教とのことであった。

      キャラニア寺院前の花屋

      菩提樹に参拝する信者

         寺院の仏

        寺とパゴダ

 海辺の旧国会議事堂前にある街の喧噪から隔離されたような高級ホテル「ガラダリホテル」でカレーの昼食をとる。若く端正な顔をしたボーイ達の服装はバリッとしており客である我々の方がみすぼらしい。
 バイキング方式で数種類のサラダと肉、魚、野菜の3種類のカレーに食後のデザートとコーヒーか紅茶が付く。カレーは外人向けかそれほど辛くなく日本人の口にあった。
 次にコロンボ国立博物館を見学する。入口のガジュマルの大木は枝から垂れ下がる木根が緞帳のようで見事。博物館はスリランカの文化財を収集するために植民地時代に建てられた英国様式の立派なもの、時には英国も植民地のために役立つことをしたと言うこと。展示物はガンダーラ美術の影響を受けたと思われる仏像から中国との交易品の陶磁器、金粒細工が見事な装身具、民具も並ぶ多彩で見応えがある。
 コロンボから30分くらいの所にある首都スリー・ジャヤワルダナプラの国会議事堂を遠くから見物する。英国支配時代の建物であった旧国会議事堂を捨てスリランカ建築の伝統様式を取り入れた新しい国会議事堂を建設したのは当然な事と思われるが重厚さに欠ける建物であった。
 コロンボ市内に戻り土産屋に入る。1階が宝石で2階に紅茶、布製品、皮製品、木製品等の工芸品が置かれている。100g190ルピーの紅茶を10個と絵はがきを買い、18時帰船、やはり清潔でクーラが効いている船の中は快適、シャワーを浴びて夕食。

          街中の風景

          ゴミの山

        ホテルのレストラン

  コロンボ国立博物館の庭にあったガジュマル

      コロンボ国立博物館内部

          土産屋
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2006年ピースボート世界一周の旅6/シンガポール

2008年04月18日 | 思い出の旅行
 4月15日 シンガポール寄港 シンガポール滞在/日本人墓地 血債の塔 博物館 マーライオン

 4月12日17時、トパーズ号はダナン港を出航して南シナ海を南下し、2日後の4月15日12時、沖合に沢山の貨物船が停泊しているシンガポール港に入港した。我々はツアーに参加せず日本人の足跡とシンガポールの繁栄ぶりを見ることにした。
 まず、港から地下鉄に乗って日本人墓地を目指した。最寄りの駅で降りて聞いも分からずタクシーに乗る。運転手の話ではタクシーの運転手でも知っている人は少ないとのこと。このタクシーに乗ってラッキーだったと言われる。
 墓地は閑静な住宅街にあり、入口には立派な日本語の看板が掛かっていた。
 門を入った左側にはアジア・太平洋戦争で亡くなった約1万人の軍人、軍属を悼む慰霊碑とチャンギ刑務所で処刑された戦犯の墓があった。右側にあるブーゲンビリヤの花のトンネルを進むと戦病死したひと際立派な寺内元帥の墓が、突き当たりにはロシアから帰国途中のインド洋上で病死した二葉亭四迷の記念碑があった。更に左側に進むと白い大きな花を咲かせているプルメリア・オブツサの大木と墓石に混じって杭のような石が並んでいる一郭がある。これが長崎や熊本等から連れてこられ、この地で亡くなった唐ゆきさんの墓標であった。元は木であったのが朽ち果てたので共済会(日本人会の前身でこの墓地の土地を提供した二木多賀治郎が発足させた。)が精霊菩提と文字を刻んだ石の墓標を建てたものである。敷きつめたように落ちた花が異国の地で亡くなった人々を慰めているようであった。
 次に地下鉄クラーク・クイ駅で降り、シンガポール川沿いにマーライオンがある公園に向かった。周辺には国会議事堂や最高裁判所があり高層ビルが林立している繁栄するシンガポールの象徴的な地域であった。
 途中、カベナ橋のたもとにあるアジア文明博物館に入る。シンガポールの歴史と国民のそれぞれの祖国を東南アジア、南アジア、西アジア、中国の4つの地域に分けて文物を展示しており多民族国家として生きる国の姿勢を強く感じた。
 観光客で混雑するマーライオンでお決まりの記念撮影して近くの戦争記念公園に行く。この公園に日本軍よって虐殺された5万人とも言われる中国人の霊を慰めるため、1967年にシンガポールと日本の協力で建てられた「日本占領時期死難人民記念碑」に参るためである。箸を4本束ねたような68mの高さのこの塔は一般には「血債の塔」と呼ばれシンガポール人は決して日本軍の虐殺の事実を忘れないと言う決意のシンボルである。花束が供えられていたことがそのことを物語っていた。
 残念ながらマーライオンから歩いて10分ほどで来られるのこの公園に日本人の姿が全く見えなかった。
 シンガポールは親切で清潔な街だった。地下鉄の自動券売機で手こずっているとインド系の夫婦が助けてくれた。道に迷っていれば中国系の家族連れがどこに行くのか聞いてくれた。ゴミ捨て禁止、ガム持ち込み禁止と厳しい規制がひかれた街ではゴミがほとんど見られなかった。多彩でおいしい料理や整った観光施設は我々観光客とって居心地が良かったし、多民族国家の良きサンプルとしてのシンガポールをかいま見たように感じた。
 また、100年以上前に、日本から遥か離れたこの地で貧しいがゆえに娼婦として働かなければならなかった日本人がいたことやシンガポールの国民は日本軍がこの国を占領し多くの中華系住民を虐殺したことを忘れていないことを知った旅でもあった。


  シンガポール港沖の風景/貨物船が待機している

        日本人墓地入口

         墓地の内部


        唐ゆきさんの墓地

    やっぱりマーライオン前で

        繁華街の裏通り 

        博物館の展示品 

 血債の塔/写真が横になってしまいました

血債の塔/現在でも献花が続いている、中国人が日本軍の虐殺行為を忘れてはいない証拠

       フードコート風景
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2006年ピースボート世界一周の旅5/ダナン(ベトナム)

2008年04月15日 | 思い出の旅行

ベトナム/ダナン港
ダナン港着岸/4月11日12時  ダナン港~フエ

4月11日(火) 「フエ子どもの家を訪問/1泊2日」に参加
 ラジオ体操と太極拳に参加してヨットクラブで朝食。
 船窓から海鳥や漁船が見え、やがて陸地が現れる。港にはいると停泊している「silver shadow号」と書かれた豪華客船が姿を現す。ダナン港を見物するために甲板に上がる、外は蒸し暑く、直射日光が厳しい。2隻のタグボートが海底の泥を巻き上げながら懸命にトパーズ号を横から押している。近くを吃水ぎりぎりに荷物を積んだ小さな船が走行している。軍艦らしい船はなかったが、山の頂きにレダーが2基見え、ダナンが軍港であることをうかがわせてくれる。遠くにダナンの街の高いビルや建設中の大きな橋も見える。
 トパーズ号は予定より1時間早く着岸、岸壁にはベトナム青年同盟の青年達が到着し歓迎の準備が始まる。アオザイを着て傘をかぶっている女性の姿が美しい。歓迎の踊りが終わり、厳しい日差しを避けてビーチパラソルの下に入って休んでいる様子が面白い。
 13時上陸、簡単な入国手続きを終え、バスで出発。ベトナムは初めてであり、建物、乗物、人々の服装、行動、町並み、商店等何でも興味深い。
 街中の住宅、あるいは住宅兼店舗は間口が狭く、奥行きがある、日本の町家の住宅のような建て方である。平屋や2階建てもあるが3階建て4階建てが見られる。それらはたいていテラスと飾り柱をつけた装飾過多のものである。農村地帯にある家は一間くらいしか部屋がないと思われる程小さい、他に小屋や日陰棚があるくらいである。開放政策で貧富の差が出てきているのではと思われた。
 飲食店も二極分化している、金持ちや観光客を相手にするような豪華な店舗と一方は庶民相手の日陰にプラスチックのテーブルと椅子を置いただけのものである。街では路上でテーブルと椅子だけで営業している。そんな庶民相手の店で大の男が1つのテーブルを囲んで何かやっている姿をよく見る。
 ダナンの街に入り、中華レストランで昼食をとる。ベトナムは中国に1千年も支配され中国文化の影響を受けている、その一つが食文化である。我々が入ったレストランは完全に中国風の建物で、料理も中国料理そのものであった。春巻きが出たこととテーブルが回転しなかったこと位がベトナム風と言えるかも知れない。その他に酢豚、鶏肉、魚、エビ、野菜料理が出たが味は完全に中華であった。もう一つ、ベトナム風のビールの飲み方か、生温いビールを体験した。
 100km北にある古都フエに向かってバスは出発、漁村や農村の風景を見ながら、耳はストリートチルドレンの施設「フエ子どもの家」を始めた小山道夫さんの話を聞きながらのバスの旅であった。
 5時フエに入り、世界文化遺産に指定された王宮の城壁の中にある「フエ子どもの家」に到着。門があり中庭を囲むようにコの字型に建つ2階建ての立派な名もの、左側の建物が小山さんが市から譲られた700坪ほどの土地に自費200万円を投じて建てた部分。後はODAとかJIICAの援助で現在の形になった。中庭の大きな木が厳しい日光を遮ってくれる。ベトナムでは木は生活に欠かせない存在である。
 2階にある教室に集まり、子ども達の歓迎の歌と踊りが披露される。男の子が隣に座って手を握ってきた。会話集を見ながらコミュニケーションを試みる。まず名前を聞くと、DATOと書いてくれる。年齢は小学校5~6年生位か、身体を接触させ、手を握って話さない、私は父親代わりか。我々は、昨日皆で考えた歌を披露する。
 交流会が終わり、寮と教室を見学する。公務員を辞めてベトナムに来た京都出身の税田さんが案内してくれる。寮は2段ベットで1室に8~10名収容されている。自分のスペースはこのベットとベットに付けられた机だけ、周りに時間割とか絵とか飾ってある。英語、日本語、絵画、パソコンを勉強できる部屋や図書室、保健室がある。十分とは言えないが勉強する環境は整っている。
 見学を終えて、フェ子どもの家が経営する授産施設「日本料理屋」に移動する。完成したばかりできれいな店だった。小山さんは「家庭料理を出す庶民的な店のつもりなのに市長始め偉い人が来る、高級料理店と間違っている」と言っていたが狭いけど高級な雰囲気があった、ましてフエの人にとってはなおさらである。子どもの家出身者と日本人スタッフ、ベトナム人スタッフが頑張っていた。沖縄出身の62歳の女性ボランティアもいた。
 イカの刺身、イカ飯、海苔巻き、マカロニサラダ、コロッケ、糠漬け、トマト、酢の物インゲンのごま和え、きんぴら大根、芋のにっころがし、魚の甘辛煮、牛筋煮込み、素麺おにぎりをバイキング方式で自分で皿にとり、フエのしっかり冷えている地ビール(生ビール)を飲む。最後にマンゴ、スイカ、バナナの盛り合わせが出る。
 バスでホテルに向かう。ホテルは8階建ての「HOA HONG」ホテル、7階の部屋は広く、ナショナル製のクーラーは音がうるさいし調整ができないしろもの。風呂もボイラータンクが小さいので一度に湯を使わないようにとの注意を受ける。子ども達のことを思えばクーラーが効いているだけ良しとしなければならない。


4月12日(水)ベトナム/フエ~ダナン港
 朝、6時前に起床し2階にある食堂で朝食、コンチネンタルに麺があるところがベトナムらしい。辛いがおいしい牛肉麺であった。
 食後、散歩に出たが、まず我々を見てシクロの運転手が声をかけてくる。店を覗くと店員がしつこく迫る。道路の向こう側にある公園に行こうとしたが自動車やバイクが途切れなく走ってくるので結局渡るのをあきらめ、ホテルに帰る。ホテルの入口には絵はがきや土産品を売るおばさん、おじさんが集まっている、近づくと買えとうるさい。
 バスで子どもの家に向かう。子どもの家で文房具等の贈呈式をやり、子ども達の案内で歩いて3分ほどのところにある「ドンバ市場」へ昼食の食材を買いに行く。野菜、果物、魚、肉、雑貨、焼物、衣類まで生活必需品が揃う大きな市場で活気に溢れ、見ていて楽しい。ダットが私の手を取ってどんどん市場の中を進む、写真を撮りたいけどそんなことはお構いなし。時折、かごに入った野菜を子どもに渡している、昼食用の材料であろうか。
 30分ほどの自由時間が与えられたので再度写真を撮りに中に入る。立て膝の姿勢で曲線の刃の包丁を器用に使って魚をおろすおばさん、店には鰹、イカ、エビの他見たことがない魚も並ぶ。この市場で商売をしている人も買い物に来る人もほとんど女性である。
 雑貨屋さんで団扇(2000ドン)と古着屋で短パン(10000ドン)とTシャツ(10000ドン)を買う。
 子どもの家に戻り、子ども達と一緒に野菜を切ったり、魚やエビをさばいたり、昼食の準備が始まる。参加者の女性達は楽しそう。練炭が4個燃やせる大きな七輪の上にアルミの大鍋をのせて調理が始まった。壁の上には神棚がありバナナが供えられていた。
 料理ができるまで子ども達との交流会が始まった。紙風船や剣玉で遊んだり、大縄跳びや綱引きをしたり、中には得意の毛筆で漢字を書いて見せている人もいる。子ども達はこのような交流に慣れている様子、こちらが交流してもらっているような印象であった。
 食事はプラスチックのテーブルに穴があいた洗面器のようなアルミの容器に入ったご飯と焼物の容器に入ったスープと皿に盛られた鰹が乗せられ、子どもが給仕をしてくれる。ご飯にスープをかけて魚を皆で分けて食べる。スープは味がなく魚の塩味で食べる。これが普通の食事であろう。ご飯は沢山あるので満腹にはなる。
 施設前で記念撮影をする時に、「皆さんにお知らせしたいことがあります、今日、誕生日を迎えられた方がいます、湯口さんです!」とピースボート・スタッフの藤間さんから紹介され思いがけず皆から祝福された。
 記念撮影をしてバスに乗り、お土産を生産販売する授産施設に寄る。刺し子や刺繍をあしらった小物入れ、Tシャツ、ランチャンマット等、値段は高いが品が良いデザインである。由紀子は入れ子になった小物入れと絵はがきを買う。店の入口にはお土産売りが買えと品物を突き出すが誰も買う人はいない。
 フエでの日程は終わり、ダナンに向かいバスは出発する。古都フェを抜け、田園風景が続く国道1号線を南下、日本のODAで作った長いトンネルを抜け、峠を越え、湖を右手に見ながらのバスの旅であった。
 予定より早くダナン港に到着、他のツアー客も到着してくる。ダナンの若者との大交流に参加した若者達がベトナムの若者と手を取り合ったり、抱き合ったり、泣いたりして別れを惜しんでいる。若者達は良い交流ができたのでああろう。この交流によってベトナムを見る目も、日本人を見る目も変わったのではないか。少なくとも私たちのベトナムを見る目は変わった。
 出国手続きを済ませ船に入る。なぜか自分の家に戻ってきた安堵感があった。部屋で荷物を片付け、シャワーを浴び、洗濯をする。
 甲板に登り出港式を見る。甲板はテープが飛び、音楽が流れ、手が振られ、涙を流し別れを惜しむ若者でいっぱいだった。トパーズ号はゆっくり岸壁を離れていく。
 61歳の誕生日だったので夕食に生ビールと缶ビールを飲む、世界一周の船の中で誕生日を迎えるとは1年前には想像もしていなかった。デザートを食べ終わった頃、誕生祝いのケーキが運ばれ、ウエイターが集まり「ハッピ・バースディー・ツウ・ユー」を歌ってくれ、歌が終わると周囲の客も拍手で祝ってくれた。昨日と今日は色々な体験をした一日だった。

 

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2006年ピースボート世界一周の旅4/東シナ海航行

2008年04月14日 | 思い出の旅行

 4月8日(土)
 6時過ぎに甲板に行くと既にラジオ体操が始まっており我々も加わった。続いて行われた太極拳にも加わることにした。航海が終わるまでには一通りできるようにしたいとのこと。皆熱心に取り組んでいる。
 久しぶりに天気が回復し日の出が見られた。朝食後妻は英会話説明会に参加、私は海が見えるソファーでゆっくり読書。
 昼食後は昼食で一緒になった人から勧められて2時から3時30分まで「アイヌ民族を語る」に出る。講師の思い込みが強く伝わって来ない。4時からはベトナム戦争を体験したベトナム女性の講演「私の生きたベトナム戦争」を聞く。場所が悪く、スライドが見えず聞き取りにくかったが体験の迫力が伝わって来た。「ベトコンの死体を見ることは日常的であったが、ベトコンに参加した自分の兄ではないかと思ってしまう」、「兄は村を守るために敷設した地雷で亡くなった」一市民として体験した戦争の悲惨さを伝えていた。
 和食の夕食後は世界の民族楽器を使った演奏(8時45分から9時15分 KOH -TAO LIVE)を聞く。不思議な音と容貌(インド人のような長い髪と服装)、普段はけっして聞きに行くことはない演奏会であった。
 夕方から波が出て船は揺れる。
 写真のデータを整理し、つけ忘れていた航海日記を1時過ぎまで書く。シャワーを浴びて1時30分就寝。


   

 美しい日の入りを見物               講演会風景
 
4月9日(日)
 起きたら6時30分であった。7時前に洗面を済ませデッキに向かう。ラジオ体操はあきらめていたら1時間の時差調整を忘れていた。15分ほどジョギングをして6時20分からのラジオ体操に参加する。かなり蒸し暑い。
 終了後、窓際の席でモーニングコーヒーを飲み休息する。7時になったのでそのまま朝食をとる。空いている席に2人座る。一人はピースボートのボランティアをした経験を持つ70歳くらいの方、野球が好きで野球をテーマにした自主プログラムを計画とのこと、長島に似ており、草野球のメンバーからも言われるとのこと。もう一人は飛鳥にも乗ったことがある方で富山から来たとのこと。4人で話が弾み気がついたら8時30分だった。
 部屋に戻ると掃除は終わっていた。トイレに入りしばし休息して10時からの昨日の続き「枯葉剤ってなあに?」を聞きに行く、前回は場所が悪くパワーポイントが見えなかったので早めに中央の席を確保した。枯葉剤の種類と使用した量、その影響でがん、四肢欠損等で苦しむ人々について、大変つらい内容であった。
 午後は3時10分からダナン上陸説明会、4時50分からはプショナルツアー「フエ子どもの家を訪問」の説明会に出席。部屋に帰りベトナムを舞台にした映画「天と地」を見る。美しい農村に住む農民一家が戦争に巻き込まれサイゴン政府とベトコンの両方から悲惨な目にあいながらも懸命に生きる女性の話。7時30分から夕食を食べ、8時45分から大道芸の世界チャンピオンになったキム・チャンヘンのトークを聞く。在日朝鮮人3世として京都の朝鮮人街に生まれ母親から一番になれと教えられ、一番になることがあたりまえで、なれなくて母親から折檻を受けても自分が悪いと思った、だから虐待とは思っていなかった、とのこと。中学校から日本人が多い学校に転校し、生徒だけではなく先生からも陰湿ないじめに遭う話は同じ日本人として悲しい。彼は自分のことを日本人とも、朝鮮人とも思っていない、強いて言えば関西人と言う。最後にヨーヨーのパフォーマンスを見せてくれた。その後、22時30分から「沖縄現代史を学ぶ」に出たが23時で眠気のためギブアップ。今日も時差1時間調整をする。

4月10日(月)
 朝のラジオ体操に参加する人が増え、デッキが満員状態。終了後ヨットクラブで朝食、日差しが強く感じる。食後、部屋に帰る、クーラーが効いた部屋は気持ちがよい。10時から「ベトナムの文化」講演会に参加。山岳地帯、沿岸地帯、デルタ地帯に人口8000万人で87%を占めるベト族から数百人しかいない少数民族まで54民族が暮らすと言う。ベトナムの神話では全て1つの祖先から別れたとされるが父系制あり母系制あり、一夫一婦制あり一夫多妻制あり、習慣、文化、住宅は多彩である。
 昼食後、部屋で休む、二人とも疲れのせいか寝てしまう。夕食前にダナンEコース参加者打合せに出席する。子どもの家での交流会で披露する演し物を歌「さくらさくら」、「上を向いて歩こう」等と決めた。夕食は焼魚/鰆、煮物/ごぼう、人参、鶏肉、吸物/しめじ、舞茸、餅、デザート/桜餅。
 夕食後、7階を散策し、「なつかしの歌」、「社交ダンス」、インターネットを覗く。
  

   

 船内のショップ/ 菓子、日用品等揃っている       ピースボートセンター/ 自主企画イベントを受け付けている

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2006年ピースボート世界一周船の旅3/神戸出航

2008年04月10日 | 思い出の旅行

始めに今回の世界一周のコースと日程を紹介します。

 

コース:横浜~神戸~ダナン(ベトナム)~シンガポール~コロンボ~アカバ(ヨルダン)~ポートサイド(エジプト)~ピレウス(ギリシャ)~カタニア(イタリア)~トリポリ(リビア)~ビルバオ(スペイン)~ティルブリー(イギリス)~ベルゲン(ノルウェー)~ダブリン(アイルランド)~ニューヨーク(アメリカ)~モンテゴベイ(ジャマイカ)~クリストバル(パナマ)~アカフトラ(エルサルバドル)~アカプルコ(メキシコ)~バンクーバー(カナダ)~スワード(アメリカ)~横浜

日程: 102日間(4月5日~7月15日)  

訪問国:18カ国   

寄港地:19寄港地   

航行距離:47000km



横浜から神戸へ

4月6日(木)
 瀬戸内海に入ったせいか揺れはだいぶおさまる。朝食はヨットクラブでとる。パンとチーズ、ハム、ヨーグルト、ジュース、牛乳、オレンジ、コーンフレークが出る。ヨットクラブは後方にあって外が望め気持ちが良い場所である。
 13時神戸港に到着、船から神戸の景色を堪能する。16時40分から神戸出航式、少し早めにデッキに行く。横浜では紙テープが天候が悪いため使えなかったがここでは歓声を上げながらテープを投げる姿が見られた。二人の司会が日本語と英語で式を進め横浜と同じように船から「行ってきます!」のコールに「行ってらっしゃい!」と見送る人たちが陸から応える。横浜と同じように感動的であった。
 夕食後、図書室で見つけた「スロー・ライフ」を読む。


   
 朝食は海風を受けていただく              若者達は自分達のスタイルで食べている


 

 出港式を終え、トパーズ号は神戸港を出航する


ベトナム/フエに向け東シナ海を南下
4月7日(金)
 朝6時15分に体操をするために甲板に出る。二人でラジオ体操をして軽くジョギングし、朝食をヨットクラブでとる。
 午前中は読書で過ごす。午後2時30分から避難訓練がある。全員救命衣を着けて事前に指示されている集合場所に集まる。5階の乗客は3グループに分かれ点呼を受ける。皆真剣に取り組んでいる。救命衣を着けることがないことを祈る。
 避難訓練のご褒美か、船長招待のウエルカム・パーティーが17時30分からあり、男はスーツにネクタイ、女性はドレスアップして参加、普段軽装なので見違える。和服のおばさんの姿も見える。入口では船長と記念撮影、会場には盛装したクルーが待ち受け、舞台ではバンド演奏、そしてシャンパンが振る舞われ華やかな雰囲気。船長の挨拶とクルーの紹介がある。その後はバンドの演奏と歌、舞台ではダンスが始まる。タンゴやワルツでは熟年が頑張っている。
 19時30分から場所を移してフォーマル・ディナー、前半組と交代する。ワインがワングラス付く。ビール2本追加注文、これは別料金。


   

 避難訓練の様子                    ウエルカム・パーティーでクルーの紹介


 4月8日(土)
 6時過ぎに甲板に行くと既にラジオ体操が始まっており我々も加わった。続いて行われた太極拳にも加わることにした。リーダーは航海が終わるまでには一通りできるようにしたいとのこと。皆熱心に取り組んでいる。
 久しぶりに天気が回復し日の出が見られた。朝食後妻は英会話説明会に参加、私は海が見えるソファーでゆっくり読書。
 昼食後は昼食で一緒になった人から勧められて2時から3時30分まで「アイヌ民族を語る」に出る。講師の思い込みが強く内容が伝わって来ない。4時からはベトナム戦争を体験したベトナム女性の講演「私の生きたベトナム戦争」を聞く。場所が悪く、スライドが見えず聞き取りにくかったが体験の迫力が伝わって来た。「ベトコンの死体を見ることは日常的であったが、ベトコンに参加した自分の兄ではないかと思ってしまう」、「兄は村を守るために敷設した地雷で亡くなった」一市民として体験した戦争の悲惨さを伝えていた。
 和食の夕食後は世界の民族楽器を使った演奏(8時45分から9時15分まで KOH -TAO LIVE)を聞く。不思議な音と容貌(インド人のような長い髪と服装)、普段はけっして聞きに行くことはない演奏会であった。
 夕方から波が出て船は揺れる。
 写真のデータを整理し、つけ忘れていた航海日記を1時過ぎまで書く。シャワーを浴びて1時30分就寝。


 

 ゆったり本を読んで過ごす

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2006年ピースボート世界一周の旅2/いよいよ出航

2008年04月10日 | 思い出の旅行

そして出航
 3月30日に職場の離任式、31日は退職者の辞令交付式がありこれで公務員生活に終止符が打たれた。ほっとする間もなく、退職に伴う諸手続き、長期に留守するのでその準備を慌ただしく済ませ4月3日に盛岡を発ち東京へ、市川の両親の墓に詣で、定年とピースボート乗船の報告をする。4日は午前中は池袋で友人と昼食、夕方は有楽町で友人夫婦と4人で壮行会をする。本当に行くんだとの実感が沸いてくる。横浜に出てピースボートが指定したホテルに宿泊。
 4月5日(水)朝食後、集合場所のロビーで旅行代理店のジャパングレイスの社員から書類一式を受取る。入船手続きの説明があって、バスに乗込み港湾ビルに向う。
 折り紙のような建物の1階に誘導され、荷物のX線検査を受けタラップから入船する。レセプションでクレジットカードのチェックと写真撮影後、船室に案内される、我々は5117号室。ベット、洋服タンスがそれぞれ1台と鏡付きチェストが1台、洗面台、トイレ、シャワーがあるバスルーム。そして丸窓と14インチのテレビ。整備されてはいるが古い感じは拭えない。バスルームは少し狭い。


    

  チェックイン風景                  私たちの客室(5117号室)

 先に送った段ボール5個とスーツケース大2個と持参したスーツケース1個の荷物整理をする。衣類は洋服ダンスと整理ダンスにしまい、インスタントみそ汁、ラーメン、梅干し等の食糧、雑貨、雨具・靴は段ボールに入れベットの下に収納する。本は丸窓の枠に収める。船内新聞とスケジュール表、カレンダー、船内案内は洋服タンスの扉に貼付ける。世界地図は畳まれている二段ベットの底に貼る。大きいスーツケースの一つは隙間に立てかけ、その上に小さなスーツケースを置いて小物や書類入れとする。もう一つのスーツケースは座って作業するパソコン台にした。
 11時40分から横浜出港式が8F右舷デッキで行われる。小雨で肌寒いあいにくの天気だったが大勢の人がいる。港湾ビルにはこれ又大勢の見送り人がいた。シャンパンが配られ司会の音頭で乾杯し、船はドラの音とともに岸壁をゆっくり離れた。船側からの「行ってきます!」のコールに応えて、陸側から「行ってらっしゃい!」のコール。いよいよ世界一周の旅が始まると言う実感がわいてくる。


   

 出航風景                       大勢の人に見送られて船はゆっくりと岸壁を離れる


 出港式が終わると昼食、食事はヨットクラブとトパーズダイニングの2カ所でとることができる。トパーズダイニングでは前半と後半に分け時間が指定される。おいしいと言うまではいかないが食べられる。
 2時から1時間ほどオリエンテーションがあり船内生活の注意事項の説明があった。その後も荷物整理をする。快適な空間ができそうだ。窓も外の明かりが入るだけとの事前説明であったがしっかり外の景色が見え、ほっとする。窓が高い位置にあるのが玉にきずではあるが金額で50万円の差があるがそれだけの価値はありそう。
 夕食はトパーズダイニングでとる。前菜から始まりスープ、メイン、デザート、コーヒーまでのコース料理である。海が荒れて揺れているせいか客が少ない。
 20時45分からピースボート主催のトークイベントに参加する。新旧2人の事務局長によるピースボートの歴史、珍事の紹介があった。会場が7階であったせいか、かなり揺れ、食後もあって少し気持ち悪くなる。
 第1日目が終わり、シャワーを浴びて寝る。


   

 かなり揺れているなかで開催されたトークイベント    夕食初体験



 出航(報告)が大幅に遅れたことをお詫びします!

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2006年ピースボート世界一周の旅1/乗船にあたって

2008年03月18日 | 思い出の旅行

  定年夫婦のピースボート乗船記

乗船にあたって
 37年にわたる公務員生活を終え、頑張った自分達へのご褒美として、また新たな人生のスタートをきる節目として2006年4月5日出航の第53回ピースボート世界一周の船旅に参加した。
 世界一周船の旅は私にとって片思いのように、かなえられないあきらめが含まれた長年の夢であった。30年代後半から40年代始めに向かえた私たちの青春時代は圧倒的な欧米文化の洪水の中にあった。欧米に恋い焦がれていた私はいつか日本を脱出して海外に行ってみたい、住んでみたいとの思いに取り憑かれていた。そして小田実の「1日1ドル世界貧乏旅行記」、ミッキー安川の「風来坊留学記」や兼高かおるの世界旅行のテレビ番組に心躍らせた。
 しかし,就職し家庭を持ち、日常に埋没して思いはいつしか萎んでいった。海外旅行が自由化され自由に海外に行けるようになった時は30歳を超えていた。時間とお金をやりくりして10回程アジア、ヨーロッパへ行くことができたが所詮1週間から10日間の名所旧跡を訪ねる忙しい旅であった。それでも飛行に乗り初めて異国の地に着いた時、どれだけ感動したか今でもよく覚えている。
 数年滞在して現地の人々との交流ができたら、あるいはゆっくり船で世界がまわれたらとの思いが常にあった。そんな時ピースボートの世界一周船の旅がスタートしたとの報道を見て夢が現実に近づいたように思えた。しかし、豪華客船に比べ大幅に安い船賃であったが100日間職場を休むことは不可能であったし安いとは言え4人の子供の教育費等考えると二人分の船賃を捻出することは到底無理であった。
 50歳台は仕事のこと子供のこと無我夢中で過ごし気がついたら定年が迫っていた。定年の前年の夏、旭川にいる息子に会いに行った時、忘れかけていた青春時代の夢をかなえるチャンスが巡ってきた。レンタカーの事務所で定年直後の4月5日に出航するピースボートのポスターを見た妻から船に乗ろうと言う思いがけない提案があったのだ。定年後は自分のやりたい仕事をする、勤めはしないと決めていたので当面時間はたっぷりあり、子供達も独り立ちしたし、船賃も何とかなりそうであったので思い切って乗船する決断をした。
 旅は準備、旅、思い出と3度楽しむものと言うが、日々の生活に追われながらも寄港地に関する勉強や持っていくものの準備は楽しく定年と言う不安をあまり感じないで済んだ。
 準備しながら定年後は子供や仕事中心から夫婦の思いを最優先させていこう、船の中でゆっくり自分達のこれまでの人生を総括し、定年後は何をなすべきか考えよう。そして船の旅をしっかり楽しんで寄港地ではなるべく多くのものを見て、地元の人との交流をしていこう。この体験を自分だけのものではなく子供達や友人や盛岡の人にも伝えよう。自分の目で見、感じた風景を写真を撮り、その思いを記録しよう、そして自分にとって夫婦にとって最高の旅にしようと決心した。

 長い報告になると思いますがピースボートに参加した気分になっていただければと思っています。

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シルクロードの旅(最終)

2008年02月16日 | 思い出の旅行

シルクロードの旅(最終)
11月3日 文化の日
   東京/国立博物館「中国国宝展」
   東京駅発  盛岡駅着

 ホテルからシャトルバスで成田経由で東京駅へ、手荷物を預け身軽になって予定していた中国国宝展を見に上野へ向かう。国立博物館は大変な混みよう。今日は祭日、しかも文化の日であったことを思い出す。うんざりしたが我慢して見物する。ゆっくり見ることはできなかったが西安の兵馬俑博物館の収蔵品もあって展示品をより身近かに感じる。文物を理解するためにはそれが生み出された風土も理解し体験することが必要なのだろう。

 今回の旅で中国文化の奥深さを知ったし、日本を知るため、自分を知るため中国文化は重要な手がかりを与えてくれた。日本は中国文明全て受け入れたのではない、受け入れなかったものを知ることが日本を知る大事なてがかりとなるのではないか、そのためにも中国へ行って見てくる必要があった。今回はほんの少し触れただけではあったが収穫の多い旅であったと思っている。
 静かな博物館の常設展示品を見ながら日本をそして自分を思った。

 東京駅に戻りビールと弁当を買って新幹線に乗り込む、夫婦で素晴らしい体験ができたことに感謝して乾杯する。これからは写真や記録を整理したり、疑問点を調べたり確認したりする旅行後の楽しみが待っている。

 次は2006年退職直後に乗った「ピースボート世界一周の旅」の報告を掲載します。ご期待下さい!

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