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リコの游サロン

文化、芸術、手芸など人生を豊かにする情報発信ブログを始めました。より良いブログに育てるためにコメントなどお寄せください。

インド仏跡のご縁

2023-03-20 | 奇貨譚

最近、リコの文芸サロンのフォロワーになってくださった、広島県福山市のお寺のZ住職さんがインドの仏跡サルナートのリコの文芸サロンに興味を持ってくださったので再掲します。


Z住職はインド僧の資格もお持ちだったこともあります。

サルナートで、一年間滞在されて瞑想をされたそうです。

   ★   ★   ★

信頼の絆

(初出2021年6月16日)

リコは2013年の2月にインドへ行きました。


タージ・マハル等の素晴らしい遺跡を見るためでもあります。
1番の目的は752年の東大寺の大佛の開眼供養の導師となられたインド人の菩提僊那師(704~760年)にお里帰りしていただこうと僊那師の写真を持ってお釈迦様の初転法輪地のサルナートを訪れました。

インドの仏跡サルナートは7世紀頃に最も栄えて数百の寺院が立ち千人を越える僧侶が修行をした。




隻眼で長い爪で合掌してみえる外国人風の僊那師に驚きましたが、東大寺大佛の開眼供養の導師が日本人ではなくインド人で青い眼とは驚きです。

奈良市の霊山寺の左手の丘にお墓が在ります。
インドに行く前に僊那師のお墓にお参りし、大仏開眼供養の導師を努めてくださったお礼を申し上げ、お写真を持ってお里帰りをしていただきますと申し上げました。


菩提僊那師は奈良、東大寺の大佛の開眼供養の導師でした。

サルナート遺跡の右の木の根本のレンガの隙間に僊那師の写真を納めました。

右手の方が仏塔のある方向です。


リコが日本から持っていった霊山寺パンフレットの写真を納めました。
友人が黄色の花を捧げてくれました。

富雄 霊山寺   涼風
○天平の仏教会の先徳の菩提僊那は天竺の僧

○大佛の開眼供養の大導師菩提僊那は碧眼の僧

○故郷に似し霊山寺を僊那師は終の住み処と遷化されたり

○二月には菩提僊那の故郷の印度へ参るみ影と共に


  ★  ★  ★
最近のネットから、


★北京で印鑑
リコの雅号に成っている「涼風」は8年前に北京に行った時に何気なく作った印鑑です。
人間国宝級の人の作品で、今改めて見ると良い判を作って良かったと思っています。
この印が短歌に使えるとは予想もしませんでした。







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キキさんの沖縄旅

2023-03-18 | 日々彩彩
フランスや米国のグランドゼロの旅や、3000m級の登山の写真をラインしてくれるキキさんが、
3月16日〜21日まで、息子さんの関東への転勤のお手伝いに初めての沖縄に行っています。
リコは1985年4月に新婚旅行で沖縄に行きました。
1972年に沖縄は本土復帰しました。

ソーキそば、



レストランも民芸調ですね。

用途が分からないの大きな壺





「いしがんとう」と読みます。魔除けです。

マジムンの説明です。

パイナップルに似た、アダン。

真ん中の白い橋のようなものは滑走路です。



引っ切り無しに民間機と自衛隊機が離陸します。
飛行機好きなリコにはうってつけな所です。また行きたいね。
40年も前に新婚旅行で行った沖縄は全く様変わりです。
昔の乙女の30代のリコです。



★短歌のスタイル


私の短歌は普段着、
水曜サロンの皆さんは訪問着、
サロンの主催者のポエットMさんは背広、

サロンは自分の歌風の幅を広げる良い勉強の場に成ります。

★毎日、このブログを拝見してます。
俳句ですが短歌の勉強に成ります。


取り合わせが絶妙です
白椿母に会はむと墓山へ
  栗田やすし

①母の好きな白椿を持ってお墓へ。
私だったら「母の好きな白椿を持って墓参り」のような内容の歌に成りますね。
②命日を言うのに多分、季語の春「白椿」の咲く頃。
色々に鑑賞できます。

椿と言えば、正岡子規の
契らばや君は赤われ白椿

大阪府貝塚市の水間寺に句碑が有ったように思います。
西国霊場観音巡りでお参りしますので楽しみです。







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え、淀君のお墓!

2023-03-16 | 日々彩彩
3月12日、新しいお参りを始めました。
今度は、集合場所が近いので30分も有れば行けます。

西国四十九薬師参りで大変に有能な南先達さんに勧められて今回のツアー全10回を始めます。

大阪市内の太融寺に
淀君のお墓が有りました。
えー、
あんなに好き勝手に豪奢を誇り、自由気まま生きた、あの姫が、ビルの谷間のお寺の片隅のお墓です。

1567年〜1615年、享年48


大阪市北区太融寺町、高いビルに囲まれています。




明治10年にここに移されました。

では、秀頼のお墓はどこ?

1980年に秀頼の頭蓋骨と確定された。





★京都府長岡京市の柳谷観音、楊谷寺。

独鈷水(おこうずい•眼病平癒の霊水)
弘法大師がこの地に来られた時、

811年、弘法大師が眼病平癒の霊水に成就された


志納金を500円納めてこのペットボトルをいただきます。
コンコンと湧いている泉の水を柄杓で汲みます。

私達は失念しましたが、
汲んだ水を観音様にお供えすると更に薬効が増すそうです。

アイボンのように蓋に水を入れて眼を洗います。

アイボンの使い方。


普通の蓋(青)よりも高さがあります。
五分目ほど水を入れて、朝晩。目を洗いましたら、なんか良い感じです。
けれど水が横からこぼれるので、手にテイシュペーバーを持ってします。

ところが不思議なことに、ご好意でアイボンの容器が手に入りました。

適材適所、カップに5mmほど水を入れて目を洗いましたが、水が溢れることなく、気持ちよく洗えました。




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荒汐部屋の宿舎

2023-03-14 | 短歌
3月13日にあけび歌会の発祥の地へ天王寺駅からJR阪和線に乗り、鳳駅下車、大阪府堺市の大鳥大社へ4月の吟行の下見に行きました。
なんと、大鳥大社にあの若隆景の所属してる、荒汐部屋の宿舎がありました。

昨年の春場所で優勝した若隆景の宿舎です。


私は以前に3回お参りしましたが、「千種の杜」と言われるほどに鬱蒼と樹々が茂っていましたが、先の台風で大木が倒れたり、半分に折れたりし、拝殿前の鳥居も倒れてしまいました。

この鳥居は東京の方が夢に出て来たので再建の寄付をさせて欲しい申し出られて、再建が叶いました。


平成29年10月15日にあけび全国大会の吟行でお参りした時は、鬱蒼と樹々が茂って、薄暗い感じがしましたが、今は青空がそこここに覗き、境内が明るく成りました。


この特別御朱印は権禰宜の万力康司さんが描かれた絵の特別御朱印です。




相撲好きの私もこの御朱印をいただきました。


境内の建物の土俵を見せていただきました。
写真は撮れません。
直径は50cm以上は有ろうかと言う程に太い鉄砲柱が2本建っていました。
土俵の真ん中には御幣が建っていました。

毎朝、近隣の住民が200人くらい見学に来るそうです。
11時に今日の取り組みが済んだ若いお相撲さんは「勝ちました」と嬉しそうにニッコリと笑いました。

ネットの記事です。

平成30年から大社で働いてみえる万力権禰宜さんからは1万5千坪の大鳥大社の広大な境内を整備する熱意が強く伝わりました。

この大鳥大社にあけび歌会の前身の「関西根岸短歌会」の歌碑が昭和43年に建てられました。

明治43年1月9日に花田比露思は安江不空らと歌会を開き、正岡子規の流れを汲む、同士が集まり、「関西根岸短歌会」を発足させました。


昭和43年に建立。

4月の吟行の資料のために歌碑の裏を読んでいるお二人。

与謝野晶子の歌碑。
田辺聖子の筆による、
和泉なるわがうぶすなの大鳥の宮居の杉の青きひとむら


境内を案内してくださる万力さん。

根上りの大楠。
「ねがあがる」と金運の御神木です。
傘に小判が乗っています。







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何を大切にするか

2023-03-12 | 短歌
今、私は写真や資料を断捨離してます。
令和2年11月5日の現代短歌新聞に掲載されている河野裕子さんに付いての記事が目に止まりました。

ご主人の永田和宏さんと裕子さん。ネットより

川本千栄さんの
「二千首作りなさい」
∶要約
1998年のはじめ頃、河野裕子の講演に彼女は行かれた。

河野の歌に対する意気込みは凄かった。
「一晩で百首は作ります。依頼があれば其の10倍でも作ります。」

講演後、会場の入口で長いこと裕子さんを待って、自分の歌を見てもらった。
「あなたねえ、短歌がしたいなら、まず2千首位お作りなさいな。そうすれば少し調べが整って来ます。
その時、河野が2千と言ったか、3千、5千と言ったか記憶にない。そんな数、何年かかるのかと思ったことは覚えている。
「その2千首はどうするのですか?」
「捨てます。習作だから」

貴女も結社にお入りなさいませ。そこには短歌を作る仲間がいるのですよ。仲間が居ることはとても良いことなのです。年をとってもずっと歌で繋がっているのですよ。

こうして川本さんは河野さんと同じ短歌結社「塔」に入られました。

もう一箇所、川本さんの記事で気になった所は、
仲間がいても家族がいても河野裕子は寂しい人なのだ。

私も裕子さんはあんなにご主人の永田和宏さん(歌人)に愛され、息子さん、娘さんにも大切に思われていたのに、裕子さんは寂しい人だと思いました。
それで、その寂しさを見てはいけないような気がして、私は裕子さんの講演会に行くことは無かったです。


私は短歌を始めて10年なので、せいぜい、1000首ぐらいしか詠んでません。
となると、まだ、習作だから全部捨てる詠草ですね。
でも、私は
「短歌の有る暮らし」で、楽しく詠草してます。

短歌仲間の「短歌のある暮し」のお仲間にも入れていただき、人々の喜怒哀楽を少しは解るようになりました。

裕子さんは「短歌の中の暮らし」で、山頂を目指す人(歌人)の暮らしですね。

それと、最近、気が付いたのですが、読んでいただく皆さんに感謝しなくてはと思っています。
そして、何を大切にして生きていくかは日々、心に問うことです。




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