
★『けんちゃんのもみの木』の美谷島夫妻、『犠牲•わが息子 脳死の11日』の柳田邦男夫妻もお互いに「さよなら」の無い別れを体験された。
1985年8月12日の御巣鷹山への日本航空機墜落事故の犠牲者の9歳の健ちゃんの母親の邦子さんと柳田邦男さんの奥様の絵本作家の、いせひでこ先生が5年に及ぶやり取りを重ねて、2020年10月に『けんちゃんのもみの木』を発行された。
健ちゃんの遺体が発見された所に植えられた樅の木。
「さよなら」の無い別れに邦子さんは突然いなくなった健ちゃんを探しに行き心が迷子に成ったと言われた。
御巣鷹山事故から37年経ってやっと彼女は前を向いて歩き出した。

この絵本の飛行機雲の、絵を見て、邦子さんは健ちゃんの「サヨナラ」を聞いた。

『犠牲』わが息子•脳死の11日を
読み直しました。

柳田邦男氏の次男の洋二郎さん、25歳は1993年8月9日に自死を図り脳死状態に成った。
生前、心を病みながら何かのお役に立ちたいと、骨髄バンクのドナー登録をした。
脳死になり、柳田氏は息子の気持ちを汲み、8月20日に腎臓移植を決断した。
★先日の「丹念に一念に歩いて来たゆえかすかな誠が見えて来た」は八木重吉さんの詩です。


八木重吉さんといえば奥様の登美子さん(後に吉野秀雄さんの奥様になられました)にお会いした事があります。
2人のお子さんも結核で亡くなりました。
吉野登美子
『琴はしずかに』

30年以上前にリコの人生の師の紀野一義師(1922〜2014年)が鎌倉の材木座の光明寺の講演会のゲストに登美子さんを呼ばれました。
和服の小柄で慎ましい感じの方でした。
吉野秀雄
会津八一に私淑して、多くの随筆を残した。


吉野秀雄が八木重吉の妻だった登美子さんと再婚したときに詠んだ唄です。

★30年以上前に宮沢賢治の弟の清六さん(1904〜2001年)(当時70歳代だった)に紀野先生の講演会でお会いしました。
好々爺と云った感じの穏やかな老人でした。

この本の清六さんとは全く違っていたので小説とはこう言うものかと思いました。
新潟県は自殺者の方が多い県です。
完全半身麻痺に脳梗塞でなった時も希望は捨てずに居ました。励ましや労りより静かに見守ってと思いました。
答えの無い自問自答の時間も過ぎ、庭のバラたちを見たら来年も綺麗に咲かせたい。
20年過ぎます。
リコです。貴女はいつも庭のお世話や手のかかる食事を作って見えますからお元気とばかり思っていました。
大病をなさったのですね。
主人も軽い脳梗塞で今も、(今日、80歳に成り、持病が3つも有ります)
左半身がぎこちないと言っています(見た目は分かりませんが)
今回の絵本、吉野登美子さんの件でも見守る大切さを思いましたが、病人の周りの人も怖かつて心が平穏で無かったと思います。
リコが両親、姉、義理の両親を一人で看病してるときに亡くなりました。人を見送る使命がリコにはある様です。
まあ、リコさん
そうだったのですか。
お一人で。
確かにお見送りの使命がおありのようです。
ご立派です。
終末期になると、家族が交代でベッドサイドに座っていますが、何故かリコの番で一人で座っているとその人が亡くなります
危篤状態の主人の母親はパチと音がするように眼を開けたので、
のぞき込んだら瞳の奥から光が昇って来たので
「おばあちゃん、大丈夫よ」と言ったら、息が止まりました
午前4時でした。
直に看護婦の詰め所に行き「おばあちゃんの息が止まりました」と報告しました。
あれは体から魂がぬける瞬間だったと思います
「体から魂がぬける瞬間」に立ち会うとは、厳粛な経験をされましたね。
なお、かつて鎌倉、瑞泉寺にて開催された吉野秀雄師を「偲ぶ会」に、
私の短歌の師と幾たびか訪れたことを懐かしく思い出しました。
ご主人のお誕生日おめでとうございます。八十路とは言え「元気はつらつな」方とは、素敵ですね。
その、ご主人のお誕生日に寄せて詠まれた短歌とのことですが、「小波はあれど」、
「精神の若さで」との表現。
そこに、共に歩まれた歳月への感慨と、パートナーへの尊敬と、感謝の想いが滲んでいます。
誕生日を静かに祝う、ほのぼのとした情景も浮かぶ、温かく和やかな短歌と思います。
この短歌の静謐さに学ばせて頂きました。
リコさん、すごい体験をなさったのですね。
お義母さまはリコさんの声掛けに安心して逝かれたのですね。
本当に厳かな思いです。
分かち合って下さってありがとうございました。