他人の揉め事を両方から聞くと、どちらの言い分もわかる・・・と言う事がよくあります。
身近な例で言うと母と妹の毎日のように繰り返される小さい諍い。
お互いいい年齢になり、其々が自分の歴史の中で築いてきた自負心があるので、絶対折れない。
傍から見ると、何故に其処まで互いに自分の考えに自信があるのかと、ちょっと可笑しくなります。
でも自分自身を振り返れば矢張り同じ事。
つい先日少々娘と言い合い、「貴女ね、もう少し優しく話してくれてもいいんじゃない?」と言うと「これでもお母さんがお祖母ちゃんに話すより随分優しいつもりだけれど」と。
ひょえ~~ ですよ。
思い当たるので。
年々思い込みが強くなり、それを主張する母に対し、絶対自分の方が正しいと思っている私は頭から押さえつけようという節がある。
ところでつい先日Mちゃんが、ある講演で「全ての争いは『我は善なり』という思いから始まる」という話を聞いてきたそうです。
子供の喧嘩から、戦争に至るまで、根底にあるのは『我は善なり』
でも一方「私は間違っている」「私はどうしょうもない悪い人間だ」と思っていては、実際暮らしていけませんよね。
突き詰めていけば、「こんな自分はこの世に存在してはいけない」という所まで行っちゃう。
しかしながら私位の年になって来ると、矢張り時々は「我だけが善なのか」と冷静に考える時も必要ですね。
年齢的にも見かけ的にも「おばちゃん然」となり、道の真ん中を堂々と歩いていると、すれ違った人と肩がぶつかっても気にしなくなったり、道端の小さい草花にも気がつかない事も多くなっていくような気がします。
気をつけようっと。
身近な例で言うと母と妹の毎日のように繰り返される小さい諍い。
お互いいい年齢になり、其々が自分の歴史の中で築いてきた自負心があるので、絶対折れない。
傍から見ると、何故に其処まで互いに自分の考えに自信があるのかと、ちょっと可笑しくなります。
でも自分自身を振り返れば矢張り同じ事。
つい先日少々娘と言い合い、「貴女ね、もう少し優しく話してくれてもいいんじゃない?」と言うと「これでもお母さんがお祖母ちゃんに話すより随分優しいつもりだけれど」と。
ひょえ~~ ですよ。
思い当たるので。
年々思い込みが強くなり、それを主張する母に対し、絶対自分の方が正しいと思っている私は頭から押さえつけようという節がある。
ところでつい先日Mちゃんが、ある講演で「全ての争いは『我は善なり』という思いから始まる」という話を聞いてきたそうです。
子供の喧嘩から、戦争に至るまで、根底にあるのは『我は善なり』
でも一方「私は間違っている」「私はどうしょうもない悪い人間だ」と思っていては、実際暮らしていけませんよね。
突き詰めていけば、「こんな自分はこの世に存在してはいけない」という所まで行っちゃう。
しかしながら私位の年になって来ると、矢張り時々は「我だけが善なのか」と冷静に考える時も必要ですね。
年齢的にも見かけ的にも「おばちゃん然」となり、道の真ん中を堂々と歩いていると、すれ違った人と肩がぶつかっても気にしなくなったり、道端の小さい草花にも気がつかない事も多くなっていくような気がします。
気をつけようっと。
色んな事を経験したり見たり聞いたりしてきちゃってる年齢の私。
だからかな?
滅多な事には感動しなくなってきてる(オ~怖)
いっそ仙人になっちまえばいいじゃん~ですが・・・
そこまでの修行を積んでない(アハハ)
ちまちまとつまらない事を気にしたりしてね。
>全ての争いは『我は善なり』という思いから始まる
なる程ねぇ・・・(思い当たる節があるらしい・笑)
仙人になれそうもない私はきっと「我は善なり」と思ってるからなんだ。
私も道の真ん中を堂々と歩いてる。
人と肩がぶつかりそうになると「お前がどけや~」と
心の中でつぶやいてる(オ~怖)
だから尚、小さい事にも本気に感動する人が好きなのかもしれない。
小さいことに感動できないくせに小さいことに凹む。
仙人への道は遠いですなあ・・・