グランマの扉

女4代にぎやかな日々

50年ぶりの長崎   軍艦島   後半

2024-05-05 | 旅行
実は軍艦島、船が接岸する桟橋の波高50センチ以上になると上陸できません。
例え接岸しても波の状態によって安全にタラップが設置出来ないと、これも上陸不可。

この日は月に2~3回位しかないという最適な状態だったそうです。
何という幸運



先ず上陸して直ぐ、ガイドさんによる説明。

この島はもともと岩であって、1916年頃、海底炭鉱を発掘する人達の為に埋め立てや護岸工事によって出来た島だという事。
島全体を囲む岸壁、高層鉄筋の建物が立ち並ぶ外観が軍艦・土佐に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになった事。
当時は東京よりも近代化が進んでいた地域であった事。
しかしエネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移った事で1974年に炭鉱が閉山したのに従って無人島になってしまった事。
2015年に世界遺産に登録された事等々。

そして足元が悪いので、時間には余裕があるので移動中は写真を撮らないで欲しいという注意の後、いよいよ見学が始まりました。



まるで巨人がポンと積んだような感じ。






人が住んでいたとは思えない。
廃墟そのもの

















これは日本最古の7階建て鉄筋コンクリートの高層アパート。
内部には吹き抜けの廊下があり、地下には売店もあったそうです。
しかし以前ツアーの人達への説明中に一部が崩落。
夫が以前来た時にはもう少し奥まで入れたそうですが、やはり台風等でコンクリートの劣化が進んでいるので安全を期しているようです。


別角度













因みに見学が出来ない方にある建物群。






左側は端島小中学校。
1~4階が小学校、5階と7階が中学、6階は講堂・音楽室・図書館、7階は理科室などの特別室、1970年には体育館や給食設備も整い、給食を運ぶエレベーターもあったそうです。

隣接しているのは社宅です。
この10階には幼稚園・保育園があり、その屋上には滑り台があり、その降りた所は水が貯めらるようにもなっていたとか。
又、この建物は児童公園を囲むようにコの字型になっていました。

この辺りは子供達の歓声が溢れる地域だったのですね。



そして右端は病院。
隔離病棟もあったそうです。






さて、実際の見学に戻ります。

此方はいわゆる煉瓦の壁が。「映え」の写真







ですが、横からみるとこんな感じ







張りぼて風。



実はここ、単なる倉庫の壁が残ったもの。



ガイドさんが見て欲しいのはその横のこちら。







階段がわかりますか?



主力坑の第二堅坑に行き来する時使った階段なのだそうです。
過酷な作業の後、この階段を下りる鉱員達は炭塵で真っ黒。
階段の黒さは靴に着いた石炭の色なんですね。


鉱員達はこの階段を降り、先ずお風呂へ。
四角の窓があるのがお風呂。







お風呂は三つあり、二つ目までは海水で洗い、最後に真水のお風呂で体を清めたそうです。





トップの写真は桟橋の右手で、立ち入り禁止の貯炭場辺りのもの。
精選された石炭を運ぶベルトコンベアーの支柱がまるで神殿の柱のようでした。






念願の軍艦島を後にして、充実感に浸っていた時



なんだ、あれ???







モアイじゃありませんか?


実はこれ、誰が何のために建てたか不明なんだそうです。





長崎湾には日本を守る海上保安庁の船が停泊していました。






中国からの豪華客船も








この客船は昼から夕方までの入港だったのですが、そのおかげで新中華街は凄まじい人であふれていました。

その様子は明日。。。
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